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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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19/25

19 / 最初の野営

 イトゥアンを出る朝、クリルは何度も振り返った。

 

 見送ってくれる誰かがいるわけではない。

 

 レナルドを出たときとは違って、別れを惜しんで手を振る人もいなければ、帰ってくるように言ってくれる家族もいない。それでも、街を囲む石壁が少しずつ遠ざかり、その向こうから帆柱の先だけが見えるようになると、数日前まで名前しか知らなかった場所が、もう自分の中では「行ったことのある場所」になっているのだと不思議に感じた。

 

 初めて見た海。

 

 人で埋まった市場。

 

 荷を浮かせる魔道具。

 

 消えたかもしれない岩礁。

 

 冒険者ギルド。

 

 海蝕洞。そして、掌に灯した小さな光。

 

 数日しかいなかったのに、思い返せるものは多かった。


 「また来るだろ」

 

 前を歩いていたロビが、三度目に振り返ったクリルへ言った。

 

 クリルは少し考えてから頷いた。

 

 そのときには、今より少し遠くまで旅をして成長した自分になっているのだろうか。

 

 そんなことを考えながら正面へ向き直る。

 

 イトゥアンから内陸へ伸びる街道は、レナルドへ続く森道とは比べものにならないほど広かった。二台の荷馬車がすれ違ってもまだ余裕があり、朝から商人や農夫、冒険者などが絶えず行き交っている。

 

 ロビの所属する商隊も、その流れの一つになっていた。

 

 複数の馬車が間隔を保って進み、御者や商人がそれぞれの持ち場についている。護衛は前後と側面へ散り、アンティルも今日は考古学者ではなく、商隊から雇われた護衛として周囲へ目を配っていた。

 

 ロビの馬車を引くオルンは、街を出てから機嫌がいい。

 

 長く滞在するより、道を歩いている方が性に合うのかもしれない。

 

 クリルが首筋を撫でると、雌馬は耳を後ろへ傾けながら鼻を鳴らした。


 「そいつ、お前には甘いんだよな」

 

 御者台からロビがぼやく。

 

 クリルは少し得意そうにオルンの首をもう一度撫でた。


 「餌やるのは俺だってのに」

 

 今度は聞こえなかったことにした。

 

 その少し後ろを、カレンが歩いている。商隊へ加わってからまだ数日しか経っていないのに、今日はすでに荷の配置や休憩時間について別の商人へ確認していた。

 

 昨日までなら、細長い武器の包みが目についたかもしれない。

 

 今は違う。

 

 海蝕洞で巨大な岩を押し動かした姿を知っている。だからといって、クリルがカレンを見る目を変えることはなかった。

 

 少なくとも、変えないようにしていた。

 

 本人があの力について何も話していない以上、今はそれでいい。

 

 ただ、以前なら何となく見過ごしていた歩き方や姿勢が、少し気になるようになった。

 

 長く歩いても疲れを見せない。

 

 荷馬車の脇を歩くときにも、車輪との距離がいつもほとんど同じだ。

 

 向こうから人が来れば、ぶつかるより前に自然と進路を空けている。

 

 それを見ていると、海蝕洞で示した力だけが突然現れたものではない気がした。


 「クリルさん?」

 

 見すぎたらしい。

 

 カレンと目が合った。

 

 クリルは何でもないと首を横へ振る。


 「そうですか?」

 

 少し疑われた。

 

 今度は前を向いた。

 

     ◇

 

 街を出て一刻ほど歩くと、建物の数は急に減った。畑と草地が広がり、その向こうには低い丘が続いている。

 

 海の匂いも少しずつ薄くなった。

 

 ここから先は、初めて歩く道ばかりになる。それだけでクリルの足取りは少し軽かった。

 

 昼前の休憩で、アンティルが地図を広げた。


 「現在地はここだ」

 

 紙の上を指す。

 

 イトゥアンから西へ伸びる太い線。

 

 そこからさらに幾つもの道が枝分かれし、町や集落へつながっている。

 

 レナルドの周囲だけを描いた地図とは規模が違った。


 「今日中にここまで進む」

 

 アンティルの指が、小さな印のある場所で止まる。


 「野営地ですか?」

 

 カレンが尋ねる。


 「商隊がよく使う場所らしい。水場が近く、街道から少し外れてる」

 

 クリルは地図へ顔を近づけた。

 

 キルガスはまだ現れていない。

 

 この地図が大陸東部だけを描いたものだからだ。

 

 大図書院まで、自分がどれほど歩くことになるのか、まだ全体像すら掴めない。


 「地図は道を見るだけのものじゃない」

 

 アンティルが言った。

 

 クリルは顔を上げる。


 「水場、集落、標高、橋。何日分の食料がいるか、どこで補給するか、雨ならどの道を避けるか。旅は目的地だけ分かってもできない」

 

 《旅人》の光のことを言われているような気がして、クリルは少し耳を伏せた。


 「お前のファルナを悪く言ってるんじゃない」

 

 また顔に出たらしい。


 「むしろ逆だ。お前のファルナは希少な能力だ。それを最大限に活かすにはお前自身が他の情報を持つ必要がある」

 

 それなら納得できる。

 

 クリルは地図をもう一度見る。

 

 アンティルが一本の細い川を指した。


 「ここを越えた辺りから湿った岩場が増える。銀鈴花があるとすれば、その先だ」

 

 耳が僅かに動いた。

 

 アンティルは気づいたかもしれない。

 

 けれど、彼は何も言わなかった。

 

     ◇

 

 午後に入ってから、街道は丘陵地へ変わった。道そのものは整備されているが、両脇には露出した岩が増え、ところどころ小さな沢が斜面から流れ落ちている。

 

 銀鈴花の採取条件に近い。

 

 クリルは歩きながら何度も斜面を見るようになった。


 「探してるのか?」

 

 ロビに言われ、頷く。


 「まだ早いぞ。依頼の指定地はもうちょい先だ」

 

 分かってはいる。

 

 それでも、銀色の花がないか探してしまう。

 

 そんなクリルを見ていたアンティルが、休憩中に近くへ来た。


 「暇なら身体強化の続きをやるか」

 

 クリルの顔が一瞬で変わった。


 「暇じゃなくてもやりそうだけどな」

 

 図星だった。

 

 商隊が休んでいる場所から少し離れた草地へ移る。広く、地面も平らだった。


 「昨日やったのは、右腕へ魔力を留めるところまでだ。今日は脚」

 

 クリルは両脚を見る。


 「先に言う。走るな」

 

 顔を上げる。


 「絶対に走るな」

 

 二回言われた。

 

 クリルは頷いた。


 「まず右脚だけ。膝から下へ、ごく少量」

 

 言われた通り集中する。

 

 光魔法を使うときは、身体の中から外へ向かって魔力を出す。

 

 身体強化では逆だ。外へ逃がさず、自分の内側へ沿わせる。

 

 昨日は腕で一度成功している。

 

 今度は脚。太腿から膝、脛、足首、足裏。

 

 普段から地面の感覚を拾っている場所だからか、腕より分かりやすかった。

 

 魔力を足先へ流す。

 

 思ったほど難しくない。


 「止めろ」

 

 アンティルに言われ、そこで留めた。

 

 右脚が軽い。


 正確には、軽いように感じる。


 「一歩だけ前へ」

 

 クリルは右足を出した。

 

 いつもより少し遠くへ着いた。

 

 それだけだった。

 

 クリルは目を輝かせる。


 「今のでいい」

 

 もう一歩。


 「勝手に増やすな」

 

 いたずらを叱られた子どものようにぴたっと止まる。


 「適性はあるな」

 

 それを聞いてクリルの耳が立った。


 「魔力を脚へ回すまでが速い。身体のどこへ流れてるかも分かってる。普通は最初、腕か脚全体へぼんやり広がって終わる」

 

 珍しくアンティルが褒めた。

 

 それだけで、もう少しやりたくなる。


 「ただし、お前はここからが危ない」

 

 やはり続きがあった。


 「もともと身体能力が高い。今の動きを基準に、ほんの少し上乗せするだけで十分だ。倍にしようとか考えるな」

 

 クリルはそんなことは考えていないという顔をした。


 「考えたな」

 

 耳が少し伏せた。


 「次。強化したまま、その場で軽く跳べ」

 

 それなら簡単だ。

 

 膝を曲げる。

 

 いつもなら、このくらいの力でこのくらい上がる。

 

 身体が覚えている。

 

 地面を蹴った。

 

 予想より高かった。

 

 クリルの目が見開く。

 

 身体が浮く。

 

 着地はできた。

 

 ただし、思っていた位置より半歩前へ出た。


 「だから言っただろ」

 

 アンティルの声が聞こえる。

 

 クリルは自分の足を見る。

 

 怖くはなかった。むしろ面白い。

 

 もう少しだけ魔力を増やしたら。


 「やめろ」

 

 まだ何もしていない、と訴えるようにじっとアンティルを見る。


 「顔に書いてある」

 

 不本意だった。


 「今日はそこまで」

 

 クリルは露骨に肩を落とした。


 「制御できたら続きをやる」

 

 それでも足りない。

 

 少しだけなら。さっきよりほんの少しだけ。

 

 走らなければいい、そう思った。

 

 商隊へ戻るため、数歩離れた道へ向かう。その途中で、小さな窪みがあった。普段なら軽く跳び越える程度の幅だ。

 

 クリルは反射的に地面を蹴った。

 

 右脚には、まだ強化の魔力が残っていた。

 

 想像したより遥かに強く地面が離れた。

 

 クリルの身体が前へ飛ぶ。一瞬で窪みを越える。着地するはずだった場所も越える。

 

 その先に木があった。

 

 見えている。

 

 避けようとする。普段なら身体を捻れば十分間に合う距離だった。

 

 だが、速度が違う。

 

 踏み込もうとした足まで強化されている。

 

 修正のつもりで蹴った一歩が、さらに身体を横へ運んだ。

 

 クリルの目の前で幹が大きくなる。

 

 咄嗟に両腕を前へ出した。

 

 そして、鈍い音が草地へ響いた。

 

     ◇


 「……だから言っただろ」

 

 アンティルの声が、さっきよりずっと近くから聞こえた。

 

 クリルは木の根元へ座り込み、鼻の辺りを押さえていた。

 

 幸い、正面から顔をぶつけたわけではない。

 

 腕と肩で受けた。

 

 それでも痛い。


 「おい、大丈夫か!」

 

 ロビが走ってくる。

 

 その後ろからカレンも来た。

 

 何が起きたのか理解したロビは、心配そうな顔をしたあと、必死に何かを堪える顔になった。

 

 クリルはそれを見逃さなかった。


 「……笑ってねえぞ」

 

 目が笑っている。

 

 クリルは睨んだ。


 「本当に笑ってねえって」

 

 肩が震えている。

 

 カレンまで口元を手で隠した。


 「……すみません」

 

 謝っているのに、少し笑っている。

 

 クリルはますます不機嫌になった。


 「怪我は?」

 

 アンティルが腕を確認する。

 

 擦り傷が少し。骨や関節には問題なさそうだった。


 「これで分かっただろ」

 

 クリルは渋々頷く。


 「身体強化そのものはできてる。むしろ入り方はいい。問題は、お前の身体が強化された状態の動きを知らないことだ」

 

 アンティルは立ち上がり、さっきクリルが跳んだ場所を見る。


 「普段のお前は、自分が地面をどれだけ蹴れば、どこまで移動するかをほとんど無意識に把握してる。それが強みだ。そこへ魔法を足した瞬間、その感覚が全部ずれる」

 

 その説明なら、よく分かった。

 

 避けられると思った。方向を変えられると思った。

 

 どちらも、普段の身体なら正しかった。

 

 だけど、魔法で強くなった身体では違った。


 「だから、まずは強くすることは考えるな。今までの感覚を壊さない強さを探せ」

 

 クリルは自分の脚を見る。

 

 身体強化は使えない魔法ではない。むしろ簡単に魔力を流せた。

 

 だから危ない。

 

 できることと、使えることは違う。

 

 海蝕洞の《旅人》と少し似ている。

 

 光が見えるから、安全に歩けるわけではない。

 

 身体を強くできるから、上手く戦えるわけでもない。


 「分かったか?」

 

 クリルは今度こそ真面目に頷いた。


 「よし」

 

 アンティルが少し安心したところで、クリルは立ち上がり、木の幹についた自分の手形を見た。

 

 ロビがまた笑いそうになる。

 

 クリルは先に睨んだ。


 「何も言ってねえって」

 

 言わなくたって顔を見ればわかる。

 

     ◇

 

 その日の夕方、商隊は予定していた野営地へ到着した。

 

 街道から少し離れた草地で、近くには細い川が流れている。古い焚火跡や荷馬車の轍が残っているところを見ると、本当に多くの商隊が使う場所らしい。

 

 到着すると、全員が自然に動き始めた。

 

 馬を外す者。水を汲む者。荷を確認する者。焚火の準備をする者。

 

 レナルドの狩りで野営をすることはあったが、これほど大人数で旅の夜を作る光景は初めてだった。

 

 クリルも言われる前に薪を集め始める。乾いた枝を選び、折れ方で中まで湿っていないか確かめる。

 

 森で覚えたことなら、商隊でも役に立った。


 「そういうのは早いな」

 

 ロビが感心する。

 

 クリルは当然だという顔をした。


 「木にぶつかるのも早かったけどな」

 

 すぐ薪を一本投げつけた。


 「危ねえ!」

 

 食事は大鍋だった。乾燥肉と豆、野菜を煮込み、最後に保存用の香辛料を少し加える。レナルドの食卓とは味が違ったが、歩いたあとの温かい食事はそれだけでおいしい。

 

 夜が深くなるにつれ、街道を通る人影も減った。

 

 代わりに虫の声が増える。

 

 クリルは椀を両手で持ちながら空を見上げた。

 

 イトゥアンでは建物と街灯が多すぎて気づかなかったが、ここでは星がよく見えた。

 

 レナルドから見ていたものと同じ夜空。なのに、知らない場所で見るだけで少し違って見える。


 「野営は初めてですか?」

 

 カレンが隣へ座った。

 

 クリルは首を横へ振り、狩りのときにはしたことがあると身振りで伝える。


 「商隊では?」

 

 今度は頷く。


 「私もです」

 

 それは意外な返答だった。

 

 クリルが不思議そうに見る。


 「こういう商隊では、ですけど」

 

 カレンは少し言葉を足した。

 

 それ以上は話さない。

 

 クリルも尋ねない。

 

 二人の間には、以前ほど気まずくない沈黙があった。

 

     ◇

 

 翌朝、銀鈴花を見つけたのは、音がきっかけだった。

 

 商隊が小さな沢沿いを進んでいたとき、クリルの耳がぴくりと動いた。

 

 風の音に混じり、ごく小さな高い音がする。金属を打った音ほど硬くはない。けれど葉擦れとも違う。

 

 ちりん、と。

 

 もう一度。

 

 クリルは足を止めた。


 「どうした?」

 

 ロビが振り返る。

 

 クリルは沢の上流を指した。


 「何かいるのか?」

 

 首を横へ振る。

 

 耳を指し、それから沢を指す。

 

 アンティルが理解した。


 「音か」

 

 こくりと頷く。

 

 街道から少し外れ、湿った岩場へ近づく。

 

 そこに銀色の花が咲いていた。岩の割れ目から伸びた細い茎の先に、小さな釣鐘のような花がいくつも下がっている。

 

 風が吹く。花が揺れる。

 

 ちりん、と本当に鳴った。

 

 クリルはその場で動けなくなった。

 

 想像していたより、ずっと小さな音だった。

 

 近づかなければ気づかない。

 

 けれど確かに、銀色の花が声を持っている。


 「銀鈴花だ」

 

 アンティルが言った。

 

 依頼書と一緒に写した特徴と照らし合わせる。

 

 葉の形。花の付け根の白い線。

 

 間違いない、とクリルはしゃがみ込んだ。依頼で必要な数を確認する。

 

 一つの群生地から採りすぎてはいけない。根も残す。茎の途中から切る。

 

 短剣を抜こうとして、一度止めた。父から受け継いだものを薬草採取に使うのは少し違う気がして、荷物から小さな採取用の刃物を出す。

 

 一株、二株、必要な数だけ選び、丁寧に切る。

 

 花を傷めないよう布へ包んだ。

 

 その間も、風が吹くたび銀鈴花が鳴っている。

 

 失った声を呼び戻す。頭から追い出そうとしても、言葉の方が戻ってきた。


 「……使ってみるか?」

 

 アンティルの声がした。

 

 クリルは顔を上げた。

 

 心臓が一度だけ強く鳴った。


 「薬としてなら、処理すれば飲める」

 

 クリルは銀鈴花を見る。


 「ただし」

 

 その一言で、大体分かった。


 「お前の声を奪ったものには効かない」

 

 クリルは動かなかった。

 

 アンティルは曖昧に濁さなかった。


 「これは薬草だ。痛みをやわらげ、熱を下げる。喉を傷めた人間なら声が戻ることもある。だから『失った声を呼び戻す』なんて伝承ができた」

 

 風が吹く。

 

 小さな花がまた鳴る。


 「でも、お前の喉は傷んでいない。悪魔に奪われた声は、奪い返す以外に戻す方法はない」

 

 そんなことは知っていた。最初から。

 

 本気でこれだけで戻るとは思っていなかった。

 

 アンティルにも言われていた。ギルドの職員だって、ただの伝承だと言った。

 

 だから、何も期待していないはずだった。

 

 クリルは銀鈴花を一つ指先でそっと触った。

 

 また小さな音がする。

 

 それを聞いてから、アンティルへ笑ってみせた。

 

 分かっていた。そんな顔をした。


 「そうか」

 

 アンティルも、それ以上は言わなかった。

 

 採取を続ける。必要数を数える。傷んだものを除く。依頼分を包む。

 

 やることは何も変わらなかった。

 

 カレンやロビが近くへ来た頃には、クリルはもう普段と同じ顔をしていた。


 「見つかったんですね」

 

 カレンが銀色の花を見る。

 

 クリルは笑って頷いた。


 「本当に音するんだな」

 

 ロビが花へ顔を近づける。

 

 クリルは少し場所を空けた。

 

 風が吹く。

 

 銀鈴花が鳴る。

 

 ロビが素直に感心した。


 「こりゃ声を戻すって言われるのも分かる気がするな」

 

 クリルは何も書かなかった。

 

 ただ、包んだ花を落とさないよう、いつもより丁寧に鞄へしまった。

 

     ◇

 

 その夜、商隊が焚火を囲み始めたあと、クリルは少し離れた場所に座って旅日記を開いた。

 

 まず、その日に見たことを書く。

 

 イトゥアンを出た。街道は広かった。最初の野営をした。身体強化を試した。木にぶつかった。

 

 そこまで書いて、少し止まる。

 

 最後の一文は消したかった。でも、残すことにした。

 

 見たことと、起きたことを残すのが記録なら、自分に格好の悪いことだけ消すのは違う気がした。

 

 その下へ、『身体強化はできた。でも、強くしすぎると自分の動きが分からなくなる。』と書く。

 

 もう少し考え、『できることと、使えることは違う。』と足した。

 

 海蝕洞の《旅人》についても同じだった。

 

 光が見える。それだけでは足りない。

 

 魔法が使える。それだけでも足りない。

 

 自分で考えて使わなければならない。

 

 悪くない言葉だと思った。

 

 次に銀鈴花について書く。

 

 銀色。湿った岩場。風が吹くと小さな音がする。解熱。感染症。喉の病。

 

 依頼に必要な数も採れた。

 

 そこで筆が止まった。

 

 これは誰かへ報告する記録ではない。

 

 自分の日記だ。だから、事実だけを書く必要はない。

 

 しばらく迷ったあと、クリルは一行だけ加えた。

 

 『少しだけ、期待していた。』

 

 書いた文字をじっと見る。

 

 ほんの少し。

 

 本当に少しだけ。そう思っていた。

 

 もし銀鈴花を口にして、突然声が戻ったら。

 

 そんなことを想像した。

 

 最初に誰の名前を呼ぶのかまで考えていた。

 

 馬鹿だったとは思わない。

 

 期待しただけだ。

 

 声がなくても生きられる。

 

 黒布もある。手もある。表情でも伝わる。

 

 それでも、声が戻るかもしれないと言われれば、少し期待してしまう。

 

 そのくらいは、いいと思った。

 

 クリルは日記を閉じた。

 

 焚火の方からロビの笑い声が聞こえる。

 

 誰かが食事を焦がしたらしい。

 

 アンティルの低い声と、カレンの笑う声も混ざっている。

 

 声がある。

 

 自分にはない。

 

 胸の奥に小さな痛みが残った。

 

 けれど、それだけだった。

 

 クリルは立ち上がり、旅日記を荷物へ戻す。それから焚火の方へ歩いていった。

 

 途中、暗くなった足元へ意識を向ける。

 

 掌の上に、小さな白い光が灯った。昨日よりも安定していた。

 

 足元を照らすには、それで十分だった。

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