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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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18/27

18 / 銀鈴花

 海蝕洞から戻った日の夕方、クリルは宿の裏庭で自分の手のひらを見つめていた。


 何度見ても、普通の手だった。


 指が五本あって、森を歩くうちについた小さな傷がいくつか残り、短剣を握る場所は薄いはずの皮が硬くなっている。海蝕洞へ入ったせいで爪の間にはまだ細かな砂が残っていたが、それ以外に変わったところは何もない。


 その手のひらの少し上へ、小さな光が灯った。


 白く、弱く、頼りない光だった。昼間なら見落としてしまいそうなほど淡いのに、夕暮れが近づいた裏庭では指先と手首をぼんやり照らす程度には明るい。


 クリルの耳が嬉しそうに立つ。


 少し集中が途切れた途端、光は消えた。

 

 もう一度。今度は最初より早い。

 

 掌の上に光が生まれ、数呼吸だけ留まってから消える。


「帰ってきて早々、それか」

 

 背後から聞こえた声に、クリルは振り返った。

 

 アンティルが裏口の脇に立っている。片手には何冊かの記録簿を抱え、外套の裾にはどこかで付けてきた埃がついていた。朝から調べていた岩礁の件から、つい先ほど戻ったところらしい。

 

 クリルはすぐ彼のところへ近づき、もう一度手のひらを開いた。


 「見えてる」

 

 わざわざ目の前でやらなくてもいい、とでも言いたげな声だったが、クリルは構わず集中した。

 

 一度目は失敗した。

 

 二度目で、小さな光が灯る。

 

 アンティルの目が僅かに細くなった。


 「いつできるようになった」

 

 これは説明が必要だった。

 

 クリルは黒布を出し、海蝕洞の暗闇で魔法灯を見ながら試したこと、手のひらへ小さな光を作れたことを書いて見せた。

 

 アンティルは最後まで読むと、呆れたように息を吐いた。


 「救助中に練習する奴があるか」

 

 クリルは少しだけ顔を逸らした。


 「結果的に役に立ったからいい、という顔をするな」

 

 まったくその通りだったので、耳だけ少し横へ倒れた。

 

 アンティルは持っていた記録簿を窓際の台へ置き、クリルの手を取った。


 「もう一度」

 

 促され、クリルは掌へ意識を向ける。

 

 イメージするのはただの光。熱くない。燃えない。ただ周囲を照らす、小さな光。

 

 魔力が指先へ集まり、淡く、白い灯りになる。


「……白か。白い灯りをイメージしてるわけではないだろう?」


 質問の意図がわからず、曖昧に頷いた。


「魔力にも性質が色として現れることがある。今は気にしなくていいが……なるほど」

 

 アンティルはクリルの手ではなく、手首から腕の方を見ていた。

 

 光が消える。

 

 クリルは首を傾げた。


 「お前は光と身体強化の系統には向いているかもしれない」

 

 身体強化。

 

 聞いたことはある。

 

 自分の力や速度を一時的に高める術だという程度の知識しか知らなかった。

 

 クリルが興味を示したのが分かったらしく、アンティルは近くの木箱へ腰を下ろした。


 「魔法を分類する方法はいくつもあるが、使った魔力をどこへ置くかという分け方もある。火や風を飛ばすなら、魔力は身体の外へ出ていく。放った分だけ失うから、当然消費も大きい」

 

 アンティルは人差し指を立てる。

 

 その先に黒い靄のような魔力が僅かに現れ、空中へ溶けた。


 「だが身体強化は違う。魔力を外へ捨てず、自分の中へ巡らせて留める。筋力を補助したり、反応を速めたり、身体を硬くしたりするわけだが、魔力の大部分が身体の中にあるから、同じ時間使うなら外へ放つ魔法よりずっと消費が少ない」


  クリルは自分の腕を見る。


 「獣人は魔力が少ない傾向にある。お前も多い方じゃない。だから火を何発も飛ばすような戦い方は向いていないが、身体強化なら話は違う。少ない魔力でも使い方次第で十分実用的になる」

 

 それは思っていた以上に魅力的な話だった。

 

 クリルはもともと、自分の身体を動かして戦うことが得意だ。

 

 短剣を握り、相手の間合いへ入り、避け、一撃を入れる。そこへ魔法を足せるなら、これまでの戦い方そのものを捨てる必要がない。むしろ今の自分へ、そのまま何かを一つ足せる。

 

 アンティルはクリルの表情を見て、少し嫌な予感がしたような顔をした。


 「先に言っておくが、強化すればいいってわけではない」

 

 クリルの耳が止まった。


 「身体が普段より速く動くということは、自分が知っている動きと実際の動きがずれるということでもある。足へ魔力を入れすぎれば、思ったより遠くへ跳ぶ。腕へ入れすぎれば、短剣を振った後に身体が流れる。お前は元々、自分の身体をかなり繊細に使って戦う。その長所を魔法で壊したら意味がない」

 

 先ほどまで膨らんでいた期待へ、少し冷たい水をかけられた気分だった。

 

 それでも、やってみたい気持ちは消えない。

 

 クリルは自分の腕を指し、それからアンティルを見る。


 「少しだけだぞ」

 

 許可が出た。

 

 クリルはすぐ姿勢を正した。


 「まず動かすな。強化もしなくていい。魔力を身体の外へ出さず、右腕の中だけへ留めろ」

 

 言われた通りにする。

 

 石を動かす練習では、魔力を身体の外へ押し出そうとしていた。灯りでも、手の上へ形を作った。

 

 今度は逆だった。

 

 外へ出さない。

 

 右肩から腕、手首、指先まで、自分の内側だけを意識する。

 

 最初は何も分からなかった。

 

 目を閉じる。

 

 森を走るとき、自分の足がどこへ置かれているかなど一々見ない。枝を避けるときにも、身体がどの角度で傾いているのかを言葉で考えたりしない。

 

 それでも分かる。身体のどこへ力が入っていて、どちらへ重心が移ろうとしているのか。

 

 その感覚の中へ、もう一つ別の流れを探す。

 

 細く、温かくも冷たくもない。けれど確かに、自分の中に何かがある。

 

 それを右腕へ集める。


 「そこで止めろ」

 

 アンティルの声が入る。

 

 クリルは動かさない。

 

 魔力が外へ漏れないよう、そのまま腕の中へ保つ。


 「……思ったより早いな」

 

 目を開ける。

 

 見た目には何も変わらない。

 

 それでも右腕だけ、普段より輪郭がはっきりしているような妙な感覚があった。


 「お前は自分の身体の位置を把握するのが上手い。それがそのまま身体強化にも活かせるんだろう」

 

 クリルは右手を握ろうとした。


 「動かすなと言った」

 

 寸前で止める。


 「今日は留められれば十分だ。強化はその後」

 

 残念そうな顔をすると、アンティルは露骨に警戒した。


 「勝手に試すなよ」

 

 クリルはすぐ頷いた。

 

 アンティルは数秒その顔を見ていた。


 「今の頷き、信用できないな」

 

 心外だった。

 

 クリルの耳が横へ開く。


 「覚えておけ。身体強化はお前に向いている。だからこそ失敗したときの代償も大きい」

 

 その言葉だけは、少し真面目に聞いた。

 

 アンティルはさらに、腰へ差している短剣を指した。


 「同じ考え方を武器にも使える」

 

 クリルの視線が下がる。


 「武器強化だ。身体の中へ留める代わりに、触れている武器へ魔力を通して留める。刃を折れにくくしたり、切断力を上げたり、場合によっては魔法的な防御を抜きやすくしたりする」

 

 今度は迷わず、クリルの目が輝いた。


 「お前、本当に分かりやすいな」

 

 アンティルは呆れながら続ける。


 「これも魔力を遠くへ放つわけじゃないから、消費は比較的少ない。魔力の少ない剣士や獣人でも使う者はいる。ただし武器によって魔力の通しやすさが違うし、下手に流せば刃の方を傷める」

 

 クリルは父から受け継いだ短剣へ手を置いた。

 

 アンティルはそれを見たが、今日は抜かせなかった。


 「それはまだやめとけ。借り物の練習用で覚えてからだ」

 

 クリルは少し不満そうだったが、素直に手を離した。

 

 短剣が何でできているのか、クリルは知らない。

 

 サリフが使っていた。

 

 今のところ、それだけで十分だった。

 

     ◇

 

 宿へ戻ると、ロビが食堂の一角で夕食を待っていた。


 「やっと帰ってきたか。アンティル、お前の弟子、今日冒険者になったぞ」


 「聞いた」


 「海蝕洞で子供も見つけた」


 「それも聞いた」


 「魔法まで使った」


 「それはさっき見た」


 「反応薄いな」


 「呆れてるだけだ」

 

 ロビは笑った。

 

 クリルは反論するように眉を寄せたものの、実際並べられると少し詰め込みすぎた気もする。

 

 その卓にはカレンもいた。昼の救助から戻ったあと一度宿へ帰り、それからロビの仕入れを手伝っていたらしい。

 

 彼女は普段と変わらない顔で食事を待っていた。

 

 ただ、クリルが席についたとき、一瞬だけ目が合った。

 

 海蝕洞で巨大な岩を持ち上げたことについて、まだ何も話していない。

 

 クリルも尋ねていない。

 

 それで今はよかった。


 「港の方は何か分かったのか?」

 

 ロビがアンティルへ尋ねる。


 「岩礁については、記録が一致しない」

 

 クリルの耳が動く。


 「古い航路図の一部には小岩礁らしい印がある。ただ、新しい記録にはない。問題は、いつ消えたのかを誰も正確に言えないことだ」



 「ただ削れたんじゃねえの?」


 「その可能性もある」

 

 アンティルは簡単に認めた。


 「だからまだ異変とは決めない。古い図が間違っている可能性もある。漁師の記憶違いもある」

 

 クリルは頷いた。

 

 見たこと。聞いたこと。考えたこと。全部を一緒にしない。

 

 昨日、旅日記へ書いたのもそのためだった。


 「ただ、レナルドの集落や道の件がある。記録だけは持っていく」

 

 アンティルは足元の鞄を軽く叩いた。


 「消えた集落で拾った青い石と、ここまでの調査記録も大図書院へ持っていくつもりだ」

 

 大図書院。その言葉を聞くだけで、クリルの中に少し先の旅が戻ってくる。

 

 イトゥアンへ着いてから見るものが多すぎて忘れそうになっていたが、ここは目的地ではない。

 

 旅の途中だ。


 「ちょうどその話なんだけどな」

 

 ロビが卓の上へ一枚の紙を置いた。


 「商隊の出発日、ほぼ決まったぞ」

 

 クリルはすぐ紙へ身を乗り出した。


 「二日後。朝にはイトゥアンを出る。キルガスまで一直線じゃないが、途中の取引先を回りながら内陸へ進む」

 

 クリルは指で二日を確認するように示す。


 「そう。だから明日、準備できるものは全部やっとけ」

 

 そのとき、カレンがロビの紙の横へもう一枚置いた。


 「それなら、昨日クリルさんが見ていた依頼も受けられるかもしれません」

 

 ギルドの掲示板にあった、キルガス行きの公文書運搬。

 

 クリルの耳が立った。


 「今日の午後に正式募集へ変わっていました」


 「見てきたのか?」


 「市場へ行く途中で」


 「仕事熱心だな」


 「行き先が同じなら、確認しておいて損はありませんから」

 

 カレンはそう言いながら紙へ条件を書き出していた。

 

 ロビから商売を教わる一方で、自分なりに旅の仕事も調べているらしい。


 「公文書をキルガスのギルド本部へ届ける。期限は余裕あり。Eランクでも受注可能ですが、長距離なので単独は禁止。同行する商隊が確認できれば条件を満たします」

 

 

 クリルはロビを見る。


 「うちの商隊長に聞けば問題ないと思うぞ。どうせキルガス方面まで行くんだ」

 

 クリルはすぐ頷いた。

 

 正式に受けられるなら、受けたい。

 

 初めて自分で報酬を得られる仕事になる。


 「もう一つあります」

 

 カレンが言った。


 「同じ方向へ行く冒険者向けに、薬草採取依頼が出ています。運搬と同時に受けても構わないそうです」

 

 クリルは紙を見る。

 

 薬草なら分かる。

 

 森で使うものとは種類が違うかもしれないが、探し方や傷めずに採る方法なら経験がある。


 「名前は《銀鈴花》です」

 

 知らない。クリルは首を傾げた。


 「俺は知っている」

 

 アンティルが言う。


 「湿った岩場に生える。名前の通り銀色の花だ。群生地が少ないから、行商人向けの採取依頼にはちょうどいい」

 

 ロビも思い出したらしい。


 「ああ、鈴みたいな音がするやつか?」


 「風が強ければな」

 

 クリルは少し興味を持った。

 

 音のする花。それだけでも見てみたい。


 「薬にするんですよね?」

 

 カレンが尋ねる。


 「熱や感染症に使う」

 

 アンティルの返事に、ロビが何気なく続けた。


 「喉にもいいって聞いたことあるぞ。声が出なくなった奴に飲ませるとか」

 

 クリルの指が止まった。

 

 本当に一瞬だった。

 

 誰にも気づかれなかったかもしれない。


 「民間伝承だ」

 

 アンティルがすぐ訂正する。


 「銀色の釣鐘みたいな花が風に鳴るから、昔から『失った声を呼び戻す』なんて言われてる。薬効としては喉の病にも使われるから、そこから話が膨らんだんだろう」

 

 失った声を呼び戻す。

 

 クリルは自分の喉へ手を伸ばしかけ、途中で止めた。

 

 ただの昔話。アンティルはそう言った。

 

 自分の声は、風邪や喉の病で出なくなったわけではない。

 

 もっと別のものに奪われた。

 

 だから関係ない。

 

 分かっている。


 「クリル?」

 

 ロビに呼ばれ、顔を上げる。


 「受けるか?」

 

 クリルはすぐ頷いた。

 

 公文書も銀鈴花も、進む道は同じだ。

 

 薬草を見たい。

 

 仕事としても自分に合っている。それだけで十分な理由だった。

 

 そう思うことにした。


      ◇

 

 翌朝、クリルは再び冒険者ギルドを訪れた。

 

 昨日は登録のために並んだ受付へ、今日は冒険者として依頼を受けるために並ぶ。

 

 その違いが少し嬉しかった。

 

 依頼書は二枚。一つは、イトゥアン支部から央都キルガスのギルド本部へ届ける封印済みの公文書。もう一つは、街道から少し外れた湿地帯や岩場で《銀鈴花》を規定数採取する仕事だった。

 

 昨日と同じ受付の女性が、クリルのカードを確認する。


 「商隊への同行は確認できています。公文書は防水袋に入れてお渡しします。封印を開けた場合は依頼失敗になりますので注意してください」

 

 クリルは真面目に頷いた。


 「銀鈴花は、花だけではなく根を残した状態で茎の途中から採取してください。採り尽くさないよう、一つの群生地から取れる数にも制限があります」

 

 採取方法まで決まっているらしい。

 

 森で薬草を集めるときにも、翌年また生えるよう根を残すものはある。

 

 その点は理解できた。

 

 受付の女性が、参考用に押し花を一つ取り出した。

 

 銀色の細い茎。その先に、小さな釣鐘を逆さにしたような花がついている。

 

 乾燥しているため音はしない。


 「これが《銀鈴花》です。似た植物がありますので、葉の形も覚えておいてください」

 

 クリルは身を寄せて観察した。

 

 細長い葉。花の付け根に、薄く白い筋がある。

 

 手帳へ簡単な絵と特徴を書き写す。


 「民間では、声を取り戻す花とも呼ばれますよ」

 

 受付の女性が何気なく言った。

 

 クリルの筆先が止まる。


 「まあ、本当に声が戻るわけではありませんけど。喉を痛めた歌い手なんかが使うので、そういう話になったんでしょうね」

 

 クリルは顔を上げ、いつも通り笑って頷いた。

 

 それだけだった。

 

 受付の女性も特に気にせず、残りの注意事項を説明していく。何か意図があってその話をしたわけではないのだろう。

 

 隣にいたカレンが一度だけクリルを見た。

 

 何も言わない。

 

 クリルも何も書かなかった。

 

 説明を聞き終えると、公文書の入った袋を受け取った。

 

 思っていたより軽い。

 

 これをキルガスまで運べば、初めて自分の仕事で報酬をもらえる。

 

 その事実は純粋に嬉しかった。

 

 腰袋の奥へ冒険者カードを戻し、その上から公文書を入れた鞄の留め具をもう一度確かめる。


 「何回確認するんです?」

 

 カレンに尋ねられ、クリルは少し恥ずかしくなって手を離した。


 「大事なものですから、いいと思いますけどね」

 

 笑われた。

 

 昨日より少しだけ、その笑い方が自然に見えた。


      ◇

 

 ギルドを出たあと、クリルは一人で市場へ寄った。

 

 旅に必要なものを確認し、心もとなくなってきた乾燥果物を少しだけ買う。

 

 貝殻の店の前も通った。

 

 レナルドで約束した土産を思い出したが、やはり買わなかった。

 

 自分で見つける。それはまだ変わっていない。

 

 宿へ戻る途中、薬草を扱う店の前で足が止まった。

 

 店先には乾燥させた草や花が束になって吊られている。

 

 その中に、見覚えのある銀色があった。

 

 《銀鈴花》。

 

 乾燥品らしく、ギルドで見た押し花とよく似ている。

 

 クリルは少し離れたところから眺めた。

 

 買おうとは思わない。依頼で採るのだから、急ぐ理由もない。

 

 ただ、しばらく見ていた。

 

 失った声を呼び戻す花。

 

 そんなものが本当にあるなら、と考える。

 

 声が戻ったら最初に何を言うだろう。

 

 ミーリャ。ジグ。ロビ。アンティル。

 

 名前を呼べる。

 

 遠くにいる誰かへ、振り向いてもらうために声を出せる。

 

 森の中で危険を見つけたとき、布を出さなくても伝えられる。

 

 考え始めると、意外なほどたくさんあった。

 

 クリルは自分の喉へ指を触れた。

 

 すぐに手を下ろす。

 

 昔話だ。

 

 喉の薬だ。

 

 自分の声が失われた理由とは違う。

 

 分かっている。

 

 それでも、店先から離れるまでに少し時間がかかった。

 

     ◇

 

 夕方、宿へ戻るとアンティルが裏庭にいた。

 

 昨日使ったのと同じ木箱へ腰を掛け、何かの金属片を調べている。

 

 クリルに気づくと、その手を止めた。


 「依頼は受けたか」

 

 クリルは頷き、公文書の入った鞄を軽く叩いた。


 「銀鈴花も?」

 

 もう一度頷く。

 

 アンティルはそれだけ聞くと、話題を変えた。


 「昨日の続き、少しやるか」

 

 クリルの耳がすぐ立った。


 「光だけだ」

 

 少し下がる。


 「身体強化はまだ駄目だ」

 

 さらに下がる。


 「そんなに分かりやすく落胆するな」

 

 アンティルは呆れながら、手のひらを上へ向けるよう指示した。


 「光は放出する魔法だから身体強化とは逆に見えるが、お前の場合、形を単純に保つのが得意らしい。大きくしようとするな。必要な明るさだけ作れ」

 

 クリルは集中する。

 

 小さな光が灯る。


 「そのまま」

 

 維持する。

 

 昨日より長い。

 

 光は弱いが揺れない。


 「いい」

 

 短い一言だった。

 

 それだけで少し嬉しかった。


 「魔力が少ないと、大きな魔法を使えないと考える奴が多い。でも実際には違う。必要な場所へ、必要な量だけ使えばいい」

 

 アンティルはクリルの光を見ながら言う。


 「身体強化も同じだ。お前の場合、元からある速さを倍にする必要はない。足を踏み出す一瞬だけ補助するとか、着地するときだけ身体を支えるとか、そういう使い方の方が合う」

 

 クリルは真剣に聞いた。


 「短剣も同じ。全部を強くする必要はない。刃へ必要な瞬間だけ魔力を通す。そういう使い方なら、お前の少ない魔力でも長く戦える」

 

 腰の短剣へ視線を落とす。

 

 今すぐ試したい。

 

 その気持ちは顔に出ていたらしい。


 「だから勝手にやるな」

 

 先回りされた。

 

 クリルは不満そうに頷いた。

 

 アンティルはそれを見て、どうにも信用していない顔をした。

 

 陽が沈み始め、手のひらの光が昼間よりはっきり見える。

 

 明日でイトゥアンにいる最後の日になる。

 

 その次の朝には、また知らない道へ出る。

 

 クリルは光を消し、宿の向こうに見える街の屋根へ目を向けた。

 

 海を見た。

 

 冒険者になった。

 

 魔法も一つ使えるようになった。

 

 同行者も一人増えた。

 

 そして、初めて自分で受けた仕事が鞄の中に入っている。

 

 旅立ったときより、持っているものが少しずつ増えている。

 

 その中に、まだ誰にも言っていない小さな期待も一つだけ混ざった。

 

 街道のどこかに咲いているという、銀色の花。

 

 風に揺れると、鈴のような音がするらしい。

 

 クリルはその音をまだ知らない。

 

 けれど今は、ほんの少しだけ。

 

 本当に声を呼び戻してくれる花だったらいいのに、と考えていた。

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