17 / 海蝕洞
子供が戻ってこない。
その一言を聞いた瞬間、クリルの頭から、ついさっきまで眺めていた依頼書も、腰袋へ入れたばかりの冒険者カードも消えていた。
ギルドへ駆け込んできた男は漁師らしく、日に焼けた顔から汗と海水を一緒に滴らせていた。息を整える暇さえ惜しいのか、受付まで歩く途中にも何度も後ろを振り返っている。
「息子なんだ。朝、海蝕洞の辺りへ行って、それっきり戻ってこない。いつもなら昼前には帰る。だが、もう……潮が上がり始めてる」
受付の職員たちの空気が変わった。
レオンもすぐ男の前へ出る。
「年は?」
「九つだ」
「一人か?」
「最初は近所の子と一緒だった。でも、他の子は先に帰ってきてる。あいつだけ、もっと奥まで貝を探しに行ったらしい」
「最後に見た場所は分かるか」
「入口から二つ目の大穴の辺りまでは一緒だったって。そこから先は……」
男は唇を噛んだ。
レオンはすぐ受付の奥へ指示を飛ばし、潮位を確認させた。
「海蝕洞って何だ?」
ロビが小声で尋ねる。
「崖の下にある洞窟のことですよ」
答えたのはカレンだった。
「干潮の間だけ歩いて入れる場所があるとか……。でも潮が上がると、低い通路から順番に水が入ると聞きました」
その説明を聞きながら、クリルは漁師の男を見ていた。
レナルドで迷子になった子を探したときとは、場所も状況も違う。
けれど、誰かが戻らないという事実だけは同じだった。
胸の奥で何かが微かに動く。
まだ光は見えない。
クリルはレオンへ近づいた。
「どうした」
洞窟の方角を指し、自分の胸元を指したあと、行くという意味で前へ手を出す。
レオンの眉が寄った。
「お前は今登録したばかりだぞ」
分かっている。
それでもクリルは退かなかった。
今度は黒布を取り出した。
〈《旅人》の力で探せるかもしれない〉
レオンが文字を読む。
横から漁師の男も覗き込んだ。
「探せるのか?」
期待がそのまま声になっていた。
クリルはすぐには頷かなかった。
黒布へもう一文書く。
〈分からない。でも前は迷子を見つけた〉
できると言い切ることはできない。
一度成功しただけだ。
それでも、試すことはできる。
レオンは数秒考えたあと、カレンを見る。
「保証人だったな」
「はい」
「同行できるか?」
カレンはその言葉で海蝕洞の危険度と、そして自分が戦力としてあてにされていることをすぐに理解した。
「行きます」
返事に迷いはなかった。
「なら二人とも俺についてこい。ただし、お前たちは依頼を受けたわけじゃない。これは救助への臨時協力だ。俺の指示を無視して勝手に先行するな」
クリルは強く頷いた。
「なあ、俺も行くって言ったら?」
ロビが珍しく神妙な顔付きで尋ねる。
「足手まといだ」
「即答かよ」
それでもロビは抗議しなかった。
冒険者ではない自分がついて行く方が危険だと分かっているのだろう。
「クリル」
呼ばれて振り返る。
「無茶するなよ」
心配そうな顔をされたので、クリルは大丈夫だと笑って片手を上げた。
「なら、いい」
それ以上、ロビは何も言わなかった。
◇
海蝕洞は、昨日クリルが海を眺めていた港とは反対側にあった。
イトゥアンの外縁を海沿いに進むと、石造りの岸壁が途切れ、代わりに黒っぽい岩肌が海へ落ち込んでいる。その崖の下へ降りる細い道があり、進んだ先には波で穿たれた大きな穴が幾つも口を開けていた。
昨日まで海は、どこまでも広がる美しいものだった。
今見る海は少し違った。
同じ水が崖へぶつかり、岩を削り、洞窟の奥まで入り込もうとしている。
波が岩へ当たるたび、腹に響くような低い音がした。
入口近くには港の者が数人集まっていた。
漁師の男が息子の服装を説明する。
濃い青の上着に、茶色い半ズボン。赤い紐を巻いた小さな籠を持っているという。
「洞窟の中は?」
レオンが尋ねる。
「途中までは子供でも行ける。奥へ行くと枝分かれが多い。慣れてない奴は……戻って来れない」
「水は」
「今なら入口は平気だ。でも奥の低いところは、もう入り始めてるかもしれん」
レオンは空と海を一度見比べた。
「時間をかけて全部探す余裕はないな」
クリルも洞窟を見る。
ここにいる。
そう思う。
名前も知らない子供だ。
顔さえ、漁師から見せてもらった簡単な似顔絵でしか知らない。
それでも、見つけたい。
無事に連れて帰りたい。
強く、そう思った。
胸の奥でファルナが微かに震えた、そう感じた。
視界の端に淡い光が生まれる。
地面へ落ちた細い光は洞窟の入口へ向かい、その暗闇の中まで伸びていった。
クリルの耳が立つ。
レオンがそれに気づく。
「出たのか?」
クリルは頷き、光の進む方角を指差した。
「行けるんだな?」
もう一度頷く。
レオンが前へ出た。
「俺が先頭だ。道が分かれるときは指示しろ」
その指示に従い、三人は海蝕洞へ入った。
◇
外の光が届いたのは最初だけだった。
数十歩も進むと洞窟は大きく曲がり、昼間だというのに薄暗くなった。
岩の壁は常に濡れている。
天井から落ちた雫が地面へ当たり、その音が奥から返ってくる。足元にも小さな水溜まりが点々とあり、その下の岩は海藻か何だかで滑りやすくなっていた。
クリルは自然に歩き方を変えた。
足裏全体を一度に置かず、滑らない場所を確かめながら体重を移す。森の岩場とは違うが、不安定な足場を選ぶ感覚そのものは似ている。
レオンが振り返った。
「問題ないか?」
クリルは頷いた。
後ろのカレンも平気そうだった。
少し進むと最初の分岐へ出た。
右は広い。
左は狭く、天井も低い。
《旅人》の光は迷わず左へ伸びていた。
クリルがそちらを示す。
レオンは入口を確認したあと、腰の灯りを掲げた。
「……こっちか」
三人は狭い方へ入った。
光は確かに進むべき方向を示している。
けれど数十歩先で、その光は膝ほどの深さまで溜まった海水の中へまっすぐ伸びていた。
クリルは足を止めた。
「どうした」
レオンが尋ねる。
クリルは光の先と水を交互に指す。
「こっちなんだな?」
迷いながらも頷く。
レオンは水へ手を入れ、流れを確かめた。
「今は渡れる。ただし帰りは分からんな」
光は水を避けてくれない。
やはり同じだった。
《旅人》の力が示すのは、たどり着くための方向でしかない。
危険かどうかは、自分たちが判断しなければならない。
「行く。ただし、帰りにここを使えるとは思うな」
レオンの判断は早かった。
水へ入る。
クリルも続く。
体の芯に入り込むような冷たさだった。
昨日、岸壁の上から見ていた海が靴の中へ入り込み、一歩ごとに足首へまとわりついた。
数十歩で再び乾いた岩場へ上がった。
後ろを振り返ると、さっきより水面が高くなっているように見える。
時間があるようで、ない。
クリルは無意識に歩調を速めた。
「急ぐな」
レオンにすぐ止められる。
「覚えておけ、余裕がない状況でこそ落ち着くことが、これからのお前には必要になる」
それは正しいのかもしれない。
クリルは一度息を吐き、歩む速度を戻した。
◇
さらに奥へ進むと、光が届かなくなった。
レオンが持つ小さな魔法灯だけが周囲を照らしている。
三人分の影が濡れた壁に長く伸び、歩くたび形を変えた。
クリルはその灯りを何度も見ていた。
魔力を通せば一定時間光る、一般的な携帯用の魔道具らしい。
自分には同じものがない。
もし一人で暗い場所へ入ることになったら。
そう考えたとき、アンティルの言葉が蘇った。
詠唱は魔法そのものではない。
魔力を望む形へ安定させるための補助。
火を出すより、光の方が簡単だと教えられたこともある。
熱もなく、余計な力もいらない。
ただ明るくするだけなら、形を複雑に考える必要が少ない。
試してみたい。
こんな状況でそう思うことに少し罪悪感があったが、必要でもあった。
クリルは歩きながら片手を開いた。
魔力を動かす。
石を動かす練習をしたときの感覚を思い出す。
身体の中にある、ごく僅かな流れ。
手のひらへ集める。
明るいもの。
熱くない。
燃えない。
ただ、そこに光がある。
イメージする。
何も起きなかった。
クリルの眉が寄る。
「何してるんです?」
後ろからカレンに尋ねられた。
クリルは手のひらを見せ、もう一度魔力を集める。
「魔法?」
少し気まずそうにクリルは頷く。
「歩きながらできるんですか?」
言われてみれば難しいことをしているのかもしれない。
けれど立ち止まって練習している時間はない。
クリルはもう一度集中した。
光よ。
昨日見た海面の反射は複雑すぎる。
焚火も熱がある。
もっと単純なもの。
朝、窓の隙間から部屋へ差し込んでいた光を思い出す。
白く。
小さく。
掌の上だけでいい。
余裕がない状況だからこそ心を落ち着かせようと深く息を吐いた。
そして、何かが指先で弾けた。
クリルは足を止めかけた。
掌の少し上に、米粒ほどの淡い光が浮かんでいる。
か弱い。
レオンの魔法灯とは比べものにならない。
それでも確かに光っていた。
「この状況で……できたんですね」
カレンが微笑む。
クリルは何度も頷いた。
次の瞬間には光が消えた。
それでも気にならない。
もう一度やればいい。
今度は一回目より早かった。
小さな光が手元に灯る。
ほんの数歩先までしか照らせないが、足元を見るには十分だった。
「器用なことをしてるな」
前を歩くレオンが振り返る。
クリルは少し得意そうに胸を張った。
「たいした度胸だがな、浮かれるな。まだ子供は見つかってないぞ」
一瞬で姿勢が戻った。
カレンが小さく笑った。
◇
光の道はさらに奥へ続いていた。
何度目かの分岐を曲がったところで、クリルの耳が動いた。
波の音とは違う。
水滴とも違う。
何かが擦れる音。
クリルは片手を上げた。
レオンとカレンが止まる。
もう一度聞く。
遠く、小さい。
けれど確かに何かがいる。
クリルは前方を指差した。
「聞こえるのか?」
力強く頷く。
三人は足音を抑えて進んだ。
途中から地面が大きく下り、その先に少し広い空洞があった。
《旅人》の光は、その空洞の奥で途切れている。
クリルはその暗闇を覚えたての魔法で照らした。
岩陰に何かが動いた。
青い布に、その横に赤い紐。
それは籠だった。
クリルは一気に斜面を下った。
「待て!」
レオンの声が追ってくる。
それでも足は止めなかった。
岩の間へ滑り込む。
そこに子供がいた。
膝を抱え、濡れた身体を震わせている。
片方の足首が不自然に腫れていた。
クリルの姿を見た途端、少年の顔が崩れた。
「……誰?」
声をかけられない。
けれど今は、名前を説明する必要もない。
クリルは少年の前にしゃがみ、安心させるように笑った。
そして両手で、自分たちが迎えに来たのだと示す。
「助けに来てくれたの?」
大きく頷く。
少年の目から一気に涙が溢れた。
少し遅れてレオンとカレンも降りてくる。
レオンが足を確認した。
「捻っただけだと思うが、歩かせない方がいい」
「ごめんなさい、俺、滑って……戻ろうと思ったけど、暗くなって……」
「もういい。よくここで待ってたな」
レオンは少年を落ち着かせながら、自分たちが来た道を振り返った。
その顔が少し険しくなる。
「時間がかかったな」
クリルも耳を澄ませる。
来たときより、波の音が近い。
あの水が溜まっていた通路。
戻れるだろうか。
《旅人》の光は、少年を見つけた時点で消えていた。
目的は達した。
今度は自分たちで帰らなければならない。
レオンが少年を背負った。
「戻るぞ。急ぐが、焦るなよ」
三人は来た道を引き返した。
◇
予想していた通り、最初の問題は水だった。
行きには膝までだった通路が、帰りには腰近くまで沈んでいる。
波が入るたび水面が大きく揺れ、岩壁へ当たって白い泡を立てた。
「まだ渡れる」
レオンは少年を背負ったまま水へ入った。
クリルが続き、最後にカレンが入る。
行きより流れが強い。
クリルの身体は軽く、流されやすいが、流れに対して真っ直ぐ踏ん張らず斜めへ力を逃がしながら進んだ。
途中で大きな波が来た。
水面が一気に上がる。
少年が声を上げた。
レオンの身体が僅かに揺れた。
クリルはその瞬間、岩壁から張り出した細い出っ張りへ手を掛け、もう片方の手で少年の足を支えた。
流れが抜けるまで数秒。
それだけで済んだ。
「助かった」
レオンが短く言う。
クリルはすぐ手を離した。
今は返事をしている時間も惜しい。
全員が向こう岸へ上がる。
その直後だった。
洞窟の奥から、低い音が響いた。
地面が微かに震える。
クリルの耳が伏せる。
「壁際へ!」
レオンが叫んだ。
三人がそれぞれ身を寄せた直後、天井の一部から岩が落ちた。
乾いた音ではない。
濡れた岩同士が鈍くぶつかり、狭い洞窟の中で何度も反響する。
クリルは咄嗟に頭を庇いながら前へ跳んだ。
背後で巨大な岩が落ちる。
砕けた石の破片が足元まで飛んできた。
数秒後、音が止まる。
クリルは顔を上げた。
レオンがいない。少年も。
代わりに、さっきまで何もなかった通路へ大きな岩が落ち、洞窟をほとんど塞いでいる。
「レオンさん!」
カレンが叫ぶ。
岩の向こうからすぐ声が返った。
「こっちは無事だ! 子供もいる!」
クリルは息を吐いた。
それだけで身体から少し力が抜ける。
「そっちは?」
カレンがクリルを見る。怪我はない。
「二人とも無事です!」
しかし安心している場合ではなかった。
岩は通路の大半を塞いでいる。
わずかな隙間からレオンの魔法灯が見えるものの、人が通れる幅ではない。
レオンと少年は洞窟の奥側に取り残されてしまった。
「レオンさん、そちらから出口へ行けますか?」
「分からん! この先の横穴を探すしかない。ただ、ここにはもう長くいられん!」
海水の音がさっきより大きくなっている。
クリルは周囲を見る。
別の道。
洞窟の奥にはまだ進む余地がありそうだった。
ただ、外へ通じるかは分からない。
《旅人》の力なら。
そう思って目を閉じる。
外へ出たい。
いや、違う。もっと具体的な条件を思い浮かべる。
レオンと子供を無事に外へ連れていく道を示せと、強く願う。
淡い光が再び現れた。
クリルは目を開く。
光は別の通路へは向かわなかった。
目の前の岩とは真逆、そのまま真っ直ぐ辿ってきた道へ続いている。
クリルは一瞬、動けなかった。
まただ。
道は示す。
でも、通れるとは言っていない。
クリルは拳を握る。
洞窟から脱出する道はわかる。
けれど目の前の大岩は、自分の力ではどうにもならない。
短剣で削れる大きさではない。
魔法も、今できるのは小さな灯りだけ。
カレンが隣にしゃがみ、岩の隙間を覗いた。
「何か……わかりましたか?」
クリルは首を横へ振った。
カレンも岩へ手を当てる。
押すが、当然動かない。
「レオンさん! 少し待ってください!」
「無理するな! お前たちは出口を目指せ!」
その声の後ろで、少年が泣いている。
波の音も近い。
満潮になればこの先の通路も海に沈むだろう。
状況は絶望的だった。
クリルは光を見る。
入口の方向へ真っ直ぐ続いている。
正解を教えてくれるわけではない。
ただ、行きたい場所は向こうだと示しているだけだ。
ならば、あとは自分で考えるしかない。
岩の上下を見る。
横に小さな隙間がある。
下にも僅かな空間。
全部を動かす必要はない。
人一人が通れるだけ開けばいい。
クリルは周囲へ目を走らせ、落ちた細長い岩を見つけた。
それを持ち上げ、大岩の下へ差し込もうとする。
カレンが意図を察した。
「梃子にするんですね」
二人で差し込む。
ありったけの力で押すと、細長い岩が軋んだ。
大岩は僅かに揺れたようにも見えたが、それだけだった。
クリルがさらに力を掛けようとしたところで、カレンが止めた。
「……折れます、別の方法を考えましょう」
確かに、支点にしている岩へひびが入り始めている。
クリルは唇を噛んだ。
別のものを探す時間があるだろうか。
そのとき、大きな波の音がした。
洞窟の奥から海水が流れ込み、足元を薄く濡らしていく。
岩の向こう側から少年の声が聞こえた。
「ごめんなさい、おとうさん……」
その時、カレンの表情が変わった。
クリルは彼女を見る。
昨日から何度も見た、穏やかな商人見習いの顔ではなかった。
それは何かを決めた人間の顔だった。
「クリルさん」
静かな声で呼ばれる。
クリルはカレンへ向き直る。
「少し離れていてください」
意味が分からず、耳が傾く。
「お願いします」
今度は少し強かった。
クリルは数歩下がった。
カレンは大岩の前へ立つ。
両手を岩へ当てた。
一度、目を閉じる。
その横顔は、これから何か大きなことをする人には見えなかった。
そうではなく、したくないことをしなければならないときの顔に見えた。
次の瞬間、カレンの足元で石が鳴った。
大岩が動く。
クリルは目を見開いた。
僅かにではない。
人が何人集まっても簡単には動きそうにない岩が、カレンの腕に押されてゆっくりと持ち上がった。
彼女の足が地面へ沈む。
それでも止まらない。
岩がさらに傾く。
向こう側からレオンの驚いた声が聞こえた。
「お前……!」
「急いで!」
カレンが叫ぶ。
人一人が通れる隙間が開いた。
レオンが少年を先に押し出す。
クリルはすぐ駆け寄り、狭い隙間から少年の腕を掴んだ。
乱暴なことは承知の上で力いっぱい引く。
少年がこちら側へ抜けた。
そしてレオンも。
彼が通り抜けた瞬間、カレンは力を抜いた。
巨大な岩が地面へ落ちた。
洞窟全体が揺れたような音がした。
その場に、一瞬だけ沈黙が落ちる。
クリルはカレンを見た。
細い腕。
昨日見たときと何も変わらない。
けれど今、その腕で動かした岩は、どう考えても人族の女性一人が押せるものではなかった。
ギルドでの一幕を思い出す。
能力査定による特例。
そして、カードを見せたくなさそうにしていたカレン。
いくつかのことが頭の中でつながりかける。
カレンがクリルを見る。
その表情には何とも表現のできない複雑な感情が見え隠れしていた。
さっきギルドで彼女のランクを知られたときより、ずっと硬い顔をしていた。
何を言われるのか待っている。
そんな表情に見えた。
クリルは口を開くことができない。
黒布を出せば、いくらでも質問を書ける。
今のは何だったのか。
どうしてそんな力があるのか。
ファルナの能力なのか。
特例で高ランクになった理由と関係があるのか。
全部、気になる。
けれどクリルは黒布へ手を伸ばさなかった。
代わりに、少年を抱えていた腕を一度上げ、カレンへ笑った。
ひとまず、助かった。
今はそれでいい。
カレンはしばらくクリルを見つめたあと、僅かに目を伏せた。
「……行きましょう。まだ出たわけではありません」
クリルは頷いた。
レオンも何か言いたそうだったが、それどころではないことを思い出したらしい。
「話はあとだ。急ぐぞ」
少年を再び背負う。
三人は出口へ向かった。
◇
洞窟を出たとき、外の光は眩しいほどだった。
子供の父親が真っ先に駆け寄ってくる。
「いた!」
レオンの背中から降ろされた少年を抱き締め、そのまま膝をついた。
少年は泣きながら何度も謝っている。
父親は叱るどころか、頭や背中を何度も撫でていた。
周囲にいた者たちからも安堵の声が上がる。
クリルは少し離れたところでその光景を見ていた。
胸の奥にあった緊張が、ようやくほどけていく。
《旅人》の光はもうない。
今回も、子供のところまでは連れていってくれた。
けれど、水を避けてはくれなかった。
崩れた岩をどかしてもくれなかった。
帰り道を安全にしてくれたわけでもない。
それでも役に立たなかったとは思わない。
あの洞窟を一つずつ探していたら、間に合わなかった可能性がある。
光だけでは救えなかった。
けれど、光がなければ救えなかったかもしれない。
その違いを、クリルは覚えておこうと思った。
手のひらを見る。
魔力を集める。
一度だけ集中すると、さっき洞窟で出したものよりさらに小さな光が指先に灯った。
すぐに消えた。
それでもクリルは笑った。
今日一日で、できることが二つ増えた気がした。
冒険者になった。
小さな灯りの魔法も使えた。
ただ、よく分からないことも一つ増えてしまった。
それはカレンのことだった。
少し離れた岩場に立ち、海の方を見ている。
今までと同じ金髪の若い女性なのに、洞窟へ入る前とは少し違って見えた。
クリルは彼女のところへ歩いていった。
足音に気づき、カレンが振り返る。
「……聞きたいこと、あるっていう顔ですよね」
クリルは少し考えた。
そして頷いた。
カレンの表情が僅かに強張る。
それでもクリルは黒布を出さなかった。
代わりに、今は聞かないというように首を横へ振った。
カレンは意味が分からなかったらしく、少しだけ眉を寄せる。
クリルは彼女を指差し、それから口元を示した。
話したくなったら。
続いて自分の耳を指す。
そのときは聞く。
簡単な身振りだった。
けれど、カレンには伝わったらしい。
しばらく何も言わなかった。
「……クリルさんって、ちょっと変わってますね」
クリルは心外そうに眉を寄せた。
カレンが小さく笑う。
今度の笑顔は、昨日までの整ったものより少しだけ崩れていた。
「ありがとうございます」
何についての礼なのかは尋ねなかった。
少し離れたところから、レオンが二人を呼ぶ。
ギルドへ戻って報告をするらしい。
クリルは歩き出した。
その途中で腰袋へ触れる。
冒険者カードはちゃんと入っていた。
登録して最初にしたことは、依頼書を一枚も受け取らないまま始まった救助だった。
だからこれは、まだクリルの最初の仕事ではない。
それでも、冒険者になった日に誰かを見つけて連れ帰れたことを、悪くない始まりだと思った。




