27 / 守人の使命
翌朝、牛人の里には前日とは違う音が混じっていた。
家々の戸が開く音や、鍛冶場から響く金属音、朝の飼葉を待つ家畜の鳴き声は変わらない。その一方で、里の外周を歩く者の足音が増え、普段なら放牧地へ向かうはずの家畜が柵の内側へ残されている。昨日、林でシェグが歩みを止めたこと、その先で動物の死骸と妙な穴の開いた木が見つかったことは、夜のうちに里のほとんどへ伝わっていたらしい。
ただ、誰もが怯えて家へ閉じ籠もっているわけではなかった。いつもの暮らしを続けながら、その周囲へ少しだけ警戒を足している。それが、クリルには印象的だった。
客舎を出ると、広場では昨日見た灰褐色のシェグが朝の荷積みを受けていた。六本の太い脚を折り畳み、腹を地面すれすれまで下げているため、牛人たちは背の木枠へ容易に荷を載せることができる。麻袋を左右へ振り分け、その間へ短い樽を差し込むと、最後に太い革帯を腹側へ回して締めた。
荷を載せ終えた牛人が首の付け根を二度叩く。シェグは前脚、中央の脚、後脚という順に立ち上がったものの、そのまま歩き出そうとはせず、大きな耳をゆっくり一度だけ動かした。
「昨日と同じ顔してるな」
後ろからロビが言った。不意に声をかけられてクリルは我に返った。
「初めて見た日にそんな気に入ると思わなかったぞ」
気に入ったというほどではない。ただ、この生物は見ていて面白い。
その違いをどう身振りで伝えるか少し考えているうちに、ロビは勝手に納得したらしく、「はいはい」と片手を振った。
「お前、動物見てるとき分かりやすいんだよ。オルンのときもそうだけどな」
そう言われてしまえば反論しにくい。たしかにオルンと接しているときは心が穏やかになる。
広場の反対側では、カレンが商隊の荷札を確認していた。イトゥアンで加わった頃は、何かを手伝おうとするたび一度ロビへ確認していたのに、今では自分で荷を見て、分からないところだけを尋ねている。商人見習いとしてはまだ学ぶことが多いようだが、覚えは早かった。
「こちらの二箱も今日のうちに積み替えるんですか?」
「いや、それはこのままでいい。湖の手前まで開ける予定ないからな」
「分かりました。では、濡れて困る方だけ確認しておきます」
カレンはそう答えると、荷札の端へ何かを書き込んだ。
強い力を持っていることを知ったあとでも、こうして帳面を持って働いている姿の方が、クリルにはずっとカレンらしく見えるようになっていた。
広場を眺めていると、その向こうからガラドが歩いてくるのが見えた。昨日と同じ長槍を持っている。ただし今日は革鎧の上から細い縄を斜めに掛け、その先へ小さな袋を幾つも結びつけていた。何かを探しに行く装備なのだろうか。
「起きてたか」
近づいてきたガラドは、クリルを見るなりそう言った。クリルは軽く手を挙げ、朝の挨拶をする。
「ベルカに聞いた。森に詳しいんだってな」
自分で肯定するのも恥ずかしく思われ、曖昧に頷いた。
「少し付き合うか?」
その言葉の意味はすぐには理解できなかった。クリルが首を傾げると、ガラドは里の外側を指した。
「昨日の場所までは行かない。外周を一通り見て回るだけだ」
どうやら見回りに誘われているようだ。もちろん同行すると返事をしようとする前に、すでに耳が先に動いていた。
「その様子なら聞くまでもなかったな」
ガラドが笑った。
◇
里の外周を歩くと、昨日とは違うものがいくつも見えた。
外から来たクリルには、家々と畑と放牧地の境目くらいにしか見えていなかった場所に、牛人たちは細かな区切りを設けていた。腰ほどの高さの石を一定間隔で埋め、その間へ低い杭を打つ。ところどころには縄を巻いた木札が下がり、そこへ小さな印が刻まれている。
ガラドはそれらを一つずつ確認していった。杭が傾いていないか。縄が切れていないか。地面に新しい跡がないか。はたまた石の周囲へ土が盛り上がっていないか。物々しい装備に身を包みながらも、彼が見ているのは遠くの敵ではなく、足元の小さな変化ばかりだった。
クリルには、その感覚がよく分かった。森で獲物を追うときも、最初から動物そのものを見つけるわけではない。先に見つけるのは足跡であり、折れた草であり、木の幹へ残った毛や泥であり、いつも我が物顔で鳴いている鳥たちが急に静かになる瞬間だった。
ガラドが何かを見つけしゃがみこんだ。クリルも見逃すまいと隣へ腰を落とす。
「これは……昨日はなかったな」
指された地面に小さな穴がある。それは指二本ほどの幅しかない。穴の縁は乾いておらず、まだ崩れた土が柔らかい。
クリルは鼻を近づける。昨日嗅いだ、焦げた金属のような臭いはしない。代わりに土の湿った匂いと、小さな動物の臭いがした。
周囲を見渡して細かな痕跡を探す。草の間には細かな足跡があり、短い爪、尾を引きずった跡も加われば、これは普通の穴居性の小動物だろうと推測できる。
クリルは穴を指し、自分の鼻を示したあと、問題ないというように手を振った。
「普通の獣か?」
自信をもって頷く。ガラドは視線を地面に落とした。
「俺にはそこまで分からんな」
それは少し意外な言葉だった。クリルがぽかんとした顔を上げると、ガラドは苦笑した。
「守人だから何でも分かると思ったか?」
少しだけ、と言いたげな顔でクリルは見返した。
「俺らが知ってるのは、この辺で普段何が起きるかってことだ。何の足跡かまで全部当てられるわけじゃない」
それから、クリルが見ていた跡を指す。
「だから、お前みたいなのが一人いると助かる」
どうやら褒められているらしい。そのことに気づいて、クリルは少しだけ胸を張った。
「すぐ調子に乗るな……そういうところがベルカに似ている」
すぐに釘を刺された。ガラドは立ち上がり、また歩き始める。
道の先では牛人の女性が柵へ手を当て、短い詠唱を唱えていた。手にした細い杖の先から淡い光が流れ、昨夜の雨で緩んだ土が少しずつ締まっていく。地面そのものを大きく動かすような術ではなく、柵の根元を固める程度の小さな魔法だった。
クリルはその魔法に見入って足を止めた。
「気に……なるか?」
ガラドが変な間を挟みながら聞いた。
「うちじゃよく使う。柵が倒れたら家畜が出るからな」
それだけだった。魔法の説明を長くするわけでもない。女性も術を終えると、杖を腰へ戻して次の杭へ歩いていく。
クリルはその背中を目で追った。
魔法はやはり、特別な場所でだけ使われるものではないらしい。火をつける。濡れたものを乾かす。道を固める。柵を直す。旅に出てから、そういう使われ方を見ることが増えた。この世界の魔法というものは意外と生活の中に根付いている。
自分の小さな光も、いつか同じように「使えるもの」になるのだろうか。漠然と考えながら歩いていると、ガラドが前を向いたままふと言った。
「昨日の林で、鳥が減ったのに気づいたのもお前なんだってな」
自分だったかベルカだったか、はっきりとは覚えていないが頷いておく。
「ベルカが珍しく感心してたぞ」
ベルカの顔が浮かぶ。あの腹の底から明るい牛人は、今日も朝からどこかへ行っているらしい。
「昔からあいつは勢いで動くからな」
ガラドの声音が少し柔らかくなった。
「里の外へ出たいって、子供の頃からよく言ってた」
昨日、ベルカ自身も似たことを話していた。
「別に行くなとは思わん。見たいなら見ればいい。ただ、戻ってくる場所があるありがたみを、あいつは理解してるのかと不安なだけだ」
クリルはその言葉に少し引っかかった。
戻ってくる場所。クリルにとっては真っ先にレナルドが浮かぶ。ミーリャ、ジグ、里長にオウロウの大樹と大切なものをたくさん置いてきた場所だ。。
自分は帰ろうと思えば帰れる。けれど、昨日まで一緒に歩いてきた宿場の人たちには、それがない。
ガラドも同じことを考えたのか、少し先にある集会所の方へ目を向けた。
「あの者たち、しばらくここに置いてもいいんじゃないかって話が出てな」
クリルの耳が立つ。
「だが、ミル・ヤルピへ行くんだろう?」
予定ではそうなっているはずだった。
「なら、それまではゆっくり休めばいい。動ける奴は里の仕事を手伝ってもらえばいいし、子供は子供で勝手に馴染む」
昨日すでに何人かの子供が一緒に遊んでいた。ガラドの言う通り、人はそれぞれ居場所を見つけるものだと、クリルは頷いた。
「家がなくなったって話、正直まだよく分からんがな」
ガラドは空を見上げる。
「でも、あいつらが帰れないのは本当なんだろう」
その言い方が、クリルは好きだった。
理解できないこともこの世界にはたくさんある。それも大事だが、もっと大事なものは目の前で実際に困っている人たちがいるという事実だ。理解の及ばない出来事だとしても、目の前にいる人まで疑ってはあまりに救いがない。
「……そういえばな、俺も魔法は使えん。だが鍛えた体と技があれば何も不自由することなんてない。だから……気にするな」
唐突にガラドは話題を変えた。さきほど見た生活魔法の詠唱とクリルが喋れないことを結び付けて、気を遣ってくれたのだろう。たしかに以前までであれば気分が滅入っていたかもしれない。しかし、アンティルとの出会いでその固定観念は粉々に打ち砕かれた。
今まで出会ってきた人のうち少なからずがガラドと同じようにクリルを見ていたのかもしれないと思うと、ちょっと気に食わなかった。哀れみなのか同情なのか、なんという名前の感情なのかは分からないが勝手に採点されているような居心地の悪さを感じる。
だが、不思議とガラドの言葉を聞いても嫌な感じはしなかった。それはこのほんの少しの探索で知った彼の実直さに好感をもったからかもしれない。最初は口数が少なくぶっきらぼうな男、といった印象だったガラドだが一言で言うと「いいやつ」なのである。
◇
外周の確認を終える頃には、陽がかなり高くなっていた。
里へ戻る途中、昨日薪を運んだシェグが二頭、荷を積んで向こうから歩いてきた。今日は背中の左右へ大きな籠を下げ、その中には根菜や乾燥させた草束が詰まっている。先頭の個体は、クリルを見ると少しだけ耳を動かした。昨日の灰褐色のシェグだった。クリルが挨拶をしようと近づく。
「餌を持ってないと相手にされんぞ」
ガラドはそんな冷たいことを言う。そんなことはないだろう、そう思いながらクリルは鼻先へ手を差し出す。しかしシェグは匂いを嗅ぎ、それからクリルの手のひらを一度舐めたっきり、興味を失ったように顔を逸らした。
ガラドが笑った。
「すまん、相手にはされたな。一瞬だけ」
クリルは少し不満そうにシェグを見る。それでも昨日より近くで見られた。大きな耳の付け根には細かな傷がいくつかあり、背中の木枠が触れるところだけ毛が短い。荷を運ぶために暮らしてきた動物なのだと、その身体を見るだけでも分かる。
シェグのような動物がいる。オルンのような馬もいる。牛人の里では別の家畜もたくさん飼われている。
旅へ出る前、外の世界を想像するときには、まだ見ぬ町や人の種族ばかりを考えていた。けれど世界を作っているのは、人だけではないらしい。
そんなことを考えていたときだった。
シェグの耳が突然立った。昨日と同じだ。いつにない素早さで顔を西へ向け、ぴたりと歩みが止まる。
つられてクリルも同じ方向を見る。
向かい風が来る。鼻の奥へ、嫌な臭いが入った。焦げた金属の臭いだ。昨日より明らかに濃い。
すぐにガラドの表情が変わり、仲間へ指示を出し始めた。
「戻れ」
シェグを引いていた牛人へ短く言う。
「荷ごと広場へ戻せ。外へ出すな」
「何かいるのか?」
「まだ分からんが、嫌な予兆だ」
それだけ答えると、ガラドは腰の角笛を取った。低く長い音が一度、里の上へ伸びた。それに反応して、遠くで別の角笛が返ってくる。
クリルは鳥の声を探したが、どこにもいない。昨日より広い範囲で、生物の気配がしなかった。ただ風に揺れる草の音だけがする。
ガラドがクリルを見る。先ほどまでの優しい顔と打って変わって、戦う男の顔になっていた。
「お前は戻れ」
今度は反射的に首を横へ振りかけた。
「昨日みたいに見回りだけじゃ済まんかもしれん」
静かな声だった。
「里の中にも仕事はある」
その言葉で我に返った。戦うことだけが仕事ではない。昨日もそうだった。宿場の子供たちがいて、動物にもいる。何か起きれば、安全な場所へかくまい、守る人間が必要になる。
クリルは一度だけ西を見てから、頷いた。
「分かってくれると助かる」
ガラドはそれだけ言い、里の外へ走った。
◇
異変が起きたのは、それから一刻も経たないうちだった。
里の広場では、外から戻された家畜が普段より密集していた。馬は落ち着かず地面を掻き、シェグは低い唸り声を繰り返している。牛人たちは子供を家の中へ入れ、宿場から来た人々も荷の移動を手伝っていた。
クリルはロビと一緒に、広場の端に積まれていた荷を集会所へ移していた。
「これで最後だ」
ロビが木箱を下ろす。その隣ではカレンが毛布をまとめていた。
「子供たちは全員、中に入りました。年配の方も集会所にいます」
言葉はいつも通り丁寧だが、表情は硬い。
アンティルは少し離れたところで、商隊の護衛たちと外周を見ていた。
クリルがそちらへ目を向けたとき、地面がわずかに震えた。最初は馬が足を踏み鳴らしたのかと思った。けれど、違う。足裏から伝わってくる、ごく小さい振動は一定ではない。
クリルは荷を置いた。地面へしゃがみ、掌をつける。また震えた。少し西、次はもっと近いようだ。
クリルの耳が伏せる。
昨日、ガラドたちは足跡を見つけなかった。木には内側から何かが抜けたような穴があった。もし、地上を歩いていないのなら。
クリルは顔を上げた。声が出ない代わりに拳を突き上げる。
『止まれ』
レナルドで使っていた手の合図を、今ではロビも分かる。
「止まれ!」
すぐ周囲へ声を飛ばした。
クリルは地面を指し、それから指を二本、こちらへ引き寄せる。
「下から来てる?」
大きく頷く。
一拍遅れてアンティルも気づいた。彼は地面へ片手を向けた。詠唱はないが、墨汁をこぼしたような黒が指先から地面へ走り、薄い帯となって土の上を滑っていく。数歩先で黒い帯がわずかに持ち上がった。
「そこだ」
アンティルの声と同時に地面が裂けた。
飛び出したものを、クリルは一瞬、生き物としてどう捉えればいいのか分からなかった。四足獣でもない。虫というには禍々しすぎる。黒い節を幾つも連ねた細長い身体が土の中からせり上がり、その両側に生えた脚が一斉に地面を掻いた。先端には頭らしい丸みがなく、縦に開いた裂け目の内側へ白い棘が並んでいる。
魔物だ。
そう理解したときには、すでに近くのシェグへ身体を向けていた。シェグが恐怖に鳴く。
クリルの身体が先に動いた。腰の短剣を抜き、正面ではなく横から回る。未知の相手へいきなり懐へ入らない。まず脚の動きを見る。
魔物が前へ滑った。体に似合わず速い。けれど、六本脚のシェグが後ろへ退くよりは遅かった。
クリルはシェグの手綱へ手を伸ばした。恐怖で踏ん張っていて、動かない。この状態のシェグは引いても意味がない。なら、先に自分が動くしかない。
首筋を一度叩き、クリルが後ろへ下がる。昨日、何度かやった合図だ。
シェグがこちらを見る。あと一歩。クリルが下がる。ようやく前脚が動いた。
その瞬間、魔物の身体が大きく伸びた。横から何かが飛んでくる。
クリルは頭で考えるより先に沈んだ。黒い脚が耳のすぐ上で空を切る。地面へ片手をつき、そのまま身体を旋回する。低い姿勢から短剣を振り、脚の付け根へ正確に刃を刺し入れた。
しかし、魔物の脚は生き物とは思えないぐらい硬かった。一閃は表面を浅く削っただけだった。無理に押し込まず、すぐに離れた。
魔物は脅威と判断したのだろうか、ゆっくりとクリルへ向きを変えた。
そこで、別の声が響いた。牛人の術者が短い詠唱を唱え、杖を地面へ打ちつける。クリルと魔物の間で土が盛り上がり、低い壁になった。
魔物が轟音をたてながらぶつかり、壁は一撃で半壊した。それでも一瞬の足止めには十分だった。
その一瞬へ、黒い魔法が絡みついた。見間違いようのない、アンティルの術だった。黒い帯が節と節の間へ入り込み、身体を地面へ縫いつけるように締まっていく。近くで同じように杖を構えていた術者が、驚いたようにほんの一瞬だけアンティルを見た。
それも当然だろう。自分は詠唱したのに、アンティルは何も唱えていないのだから。
けれど今は説明する暇もなければ、驚いている場合でもない。
「クリル、離れろ!」
アンティルが叫ぶ。
すでにシェグは動き始めている。クリルは手綱を取り、広場の奥へ走った。
その背後では、槍を持った牛人たちが魔物を囲む音が聞こえた。
短剣で追撃したい気持ちはある。そのために戦いの訓練も毎日欠かしていなかった。でも、自分の役目は今そこではない。無事にシェグを柵の奥へ入れ、ロビが勢いよく戸を閉めた。
「よし、こっちは任せろ」
クリルが振り返ると、魔物はまだ動いていた。アンティルの黒い帯を引き千切ろうと、節のある身体を激しく捻っている。そのたび黒い魔法が伸び、形を変えながら絡み直す。
アンティルは無理に倒そうとしていない。魔物の自由を奪う役割に徹して、牛人たちが槍を入れる時間を作っている。
一人が正面から注意を引き、別の一人が側面へ回る。最後に長い穂先が節の隙間へ深く入った。魔物の身体が一度大きく跳ね、そのあと力を失った。
里の広場へ、急に静けさが戻った。
誰もすぐには近づかなかった。まだ動くかもしれないという不気味さがあった。しばらく待ち、牛人の一人が槍の先で身体を押す。反応がないのを確認してから、ようやく数人が周囲へ集まった。
クリルも少し離れたところから見る。
守人の一人によって裂けた身体の中から、黒い石が取り出された。
大型の魔石だ。表面には同心円状の筋が見える。まとわりつく泥と体液を布で拭うと、四つの環がはっきり現れた。
「この辺で出る環じゃないな」
アンティルが呟いた。牛人の守人たちも険しい顔になる。
「近くの魔穴じゃ、こんなのは出ない」
いつもとは違う何かが起こっている。それは明らかだった。
クリルは魔石よりも、魔物が通ってきた地面の大穴を見ていた。西の方角から地中を通って来た。それなら、これが聖域内に突然出現したっておかしくはない。
その考えが浮かんだ直後、北の方角から角笛が鳴った。短い音が三度。広場にいた牛人たちが一斉に顔を上げる。
ベルカが青ざめた。
「……聖域だ」
走り出した。
◇
聖域へ向かう途中、クリルはベルカの背中を追った。
牛人の脚は長く、その一歩は大きい。それでもクリルの脚なら遅れをとることはない。問題は速度ではなく、何が待っているか分からないことだった。
後ろからアンティル、カレン、ロビも来る。商隊全体が向かうわけではない。里に残る者も必要だからだ。
聖域へ近づくにつれ、地面の傷が増えた。昨日まで張られていた縄が一本切れている。石柱の根元が抉られ、その周囲へ黒い体液が飛び散っている。
守人が一人、地面へ座り込んでいた。脚には一目でわかる重症を負っており、苦悶の表情を浮かべている。
「中に二体入った!」
痛みも気にせず彼は叫んだ。
「ねえ、ガラドは?」
ベルカが珍しく余裕のない顔で訊く。
「奥だ!」
返事を最後まで聞かず、ベルカが境界を越える。
クリルも続こうとして、一瞬だけ足が止まった。昨日、入ってはいけないと言われた場所だ。ガラドにも、ベルカにも止められたこの里の大事な場所。
ふと、負傷した守人と目が合った。
「頼む……行け!」
それで迷いは消えた。立ち入り禁止の縄を軽く飛び越え、先を急いだ。
聖域の中は、外から見たよりずっと広かった。緩やかな丘の奥に古い石造りの道が続き、その先へ低い建物がある。壁には街道の境界杭で見たものとよく似た紋様が刻まれていた。クリルの目はそこへ向かったが、今は意味を考える余裕はない。
地面に魔物が一体倒れていた。さっきの個体よりもさらに一回り大きい。身体の何か所かが槍で貫かれている。その少し先に、真っ二つに折れた槍が落ちていた。
その先にあるものを見て、ベルカが急に足を止めた。
「……ガラド」
石柱の根元に、大きな身体があった。仰向けに倒れている。
クリルは一目で、嫌なものを感じた。ガラドの体は真っ赤な血に染まっていた。どう考えても命に関わる出血量だった。革鎧の胸から腹にかけては大きく裂けている。
ベルカが一目散に駆け寄った。
「ガラド!」
膝をつき、身体を起こす。ガラドの目がゆっくり動いた。まだ意識はあるようだ。
すぐに癒しの魔法を使える術者が到着し、傷口の上へ手をかざし始める。
低い詠唱に反応するように淡い光が血に濡れた革鎧を照らす。けれど傷は深すぎるのか、光が集まっても流れ続ける血が完全には止まらない。
「じっとしてて」
ベルカの声が震えている。
「喋らなくていいから」
ガラドは息を吸った。
「……お前は、無事か」
ほとんどベルカにしか聞こえない、弱い声だった。それでも、いつものガラドだった。
「そんなこと言ってる場合じゃない」
「じゃあ何を言えばいい」
「何も言わなくていいって言ってる!」
ベルカの声が大きくなる。怒っているのではない。失うのが怖いのだ。
それはクリルにも分かった。
ガラドは少しだけ目を細めた。その視線がベルカから外れ、周囲を探す。そして聖域の奥をじっと見つめた。
「中は」
ベルカが一瞬だけ返答に詰まる。
「大丈夫。何もされてない」
ガラドの肩から、僅かに力が抜けた。
「……そうか」
それだけで安心したようだった。
何が聖域に隠されているのか、クリルは知らない。今もガラドの心の内は分からない。それでも、ガラドが最後まで気にしているほど大事なものなのだということだけは分かった。
彼の目がさらに動き、ベルカの後ろで様子をうかがうクリルを見つけた。そして、ほんの少し口元が緩む。
「……来たのか」
クリルは頷いた。何か力になるようなことを言いたい、言わなくてはならないような気がした。そう思って黒布へ手を伸ばしかけたが、やめた。今は文字を作る時間ではない気がした。
ガラドはそれでよかったらしい。
「動物……見てろよ」
クリルの耳が動く。
「人より先に……気づく」
昨日もした話だった。シェグが気付き、鳥は姿を潜めた、そんな小さな違和感はこういうときに大事だと身をもって知った。
クリルは強く頷いた。
「ベルカも」
ガラドの視線が戻る。
「ちゃんと見ろ」
「何を」
「全部……だ」
ベルカの顔が歪んだ。
「分かんないよ、それじゃ」
「考えろ」
「今それ言う?」
「今しか……言えん」
冗談めかそうとしたのかもしれない。けれど最後の方は息になった。
ベルカがガラドの手を強く握る。
「ちゃんと家に帰って……また今度言ってよ……」
もう返事はなかった。一度だけ、指が動いたように見えた。それから力が抜けた。
術者の詠唱も止まった。誰もすぐには声を出せなかった。
ベルカは手を握ったまま動かなかった。クリルも、その場から離れられなかった。
昨日までほとんど知らなかった人ではある。それでも昨日、里の外を一緒に歩いた。朝、守人の仕事を見せてもらったシェグに相手にされず笑われた。戻ってくる場所の話をした。ほんの少しガラドという人を知った。
だから、その人が世界からいなくなったのだとはっきり分かった。
◇
その日の午後、里の北側では何度も人が行き来した。
入り込んだ魔物は三体だった。すべて逃さず討伐された。残された魔石の環は、どれもこの周辺で普段確認される魔物より多かったらしい。どこから来たのかは分からず、新しい魔穴が生じたのか、既存の魔穴で何かが変わったのかも結論は出なかった。
アンティルも断定しなかった。
「分からんものは分からん」
いつも通りの言葉だった。ただ、その日はいつもより声が小さかった。
里の暮らしのすぐそばまで、何だか分からないものが来た。それで一人死んでしまった。準備ができるまで危機は待ってくれるわけではない。
夕方になると、広場に大きな火が焚かれた。それはガラドを送るためのものだった。牛人たちは一人ずつ火の前へ行き、彼について話した。
槍が上手かった。酒は弱かった。子供の頃に放牧柵を壊して、亡くなった父親に追い回されたことがある。見張りの途中で眠った新人を怒鳴りつけたくせに、そのあと自分の外套を掛けてやった。料理は下手だった。ベルカには昔から厳しかった。
知らないガラドが次々と出てくる。
クリルは少し離れたところで聞いていた。朝までは、そんな人だとは知らなかった。今日初めて知ったことが、もう本人には聞けない。そのことが不思議だった。
しばらくして、ベルカが隣へ座った。ずっと泣いていたわけではない。むしろ、ほとんど泣いていなかった。ただ、いつもよりずっと静かだった。
「朝、一緒に歩いてたんだって?」
クリルは小さく頷く。
「何話したの?」
一言では伝えられないので黒布を取り出す。そして少し考えてから書いた。
〈守人は小さい違いを見る仕事だって。ベルカは昔から外へ行きたがってた〉
「余計なことまで話してる」
少しだけ笑ってくれた。だがその笑みはすぐに薄くなる。
「ガラド、私が小さい頃からずっとああだったんだよ。駄目なものは駄目って言うし、理由を聞いても自分で考えろって言うし」
火を見つめながらベルカは話し続けた。
「今日も最後までそれ」
クリルは何も書かなかった。
「守ったんだよね」
ベルカがそう言い、聖域の方角を眺める。
「ちゃんと」
誇らしそうにも聞こえた。悔しそうにも聞こえた。クリルはそのなんとも言えない横顔をじっと見つめる。
聖域に残された戦いの跡は凄絶だった。クリルたちが数人がかりでようやく仕留めた個体よりもさらに大きい魔物をガラドはたった一人で討伐したのだ。文字通り命と引き換えにしてでも、彼は守るべきものを守ることを選んだのだろう。
昨夜、旅日記へ書いた一文を思い出した。この里では、何かを守ることが暮らしの真ん中にあるように見える。今日になって、その言葉は昨日より重くなった。
守るということは、勇ましい戦いだけではなく、泥臭い毎日の積み重ねこそが大事なのだ。毎朝同じ杭を確かめ、家畜の様子を誰よりも観察する。異変があれば誰よりも早く出向き、守るべき場所の前へ夜でも立ち続ける。そして、その役目を果たしたまま帰ってこないことすらある。
クリルは旅日記を持っていたが、開かなかった。今すぐ文章にするより、もう少しガラドの話を聞いていたかった。
火の周りでは、また誰かが昔の話を始めている。ベルカは黙って耳を傾けた。クリルはその隣で、ただ一緒に夜を過ごした。
その夜は記録するよりも、ずっと聞いていたいと思った。




