15 / 商人見習い
イトゥアンで迎えた最初の朝、クリルは知らない音で目を覚ました。
窓の外から、低く長い鐘の音が響いている。
一度鳴って終わるのではなく、少し間を置いてもう一度鳴り、そのたびに街のどこかで別の音が増えていく。荷車の車輪が石畳を転がり、通りでは誰かが大声で朝の商品を売り始め、遠くからは昨日も聞いた海鳥の甲高い鳴き声が届いていた。
レナルドでは、朝になると最初に聞こえるものは大抵、鳥か家畜だった。
人の生活そのものが朝を始める音を、クリルはしばらく寝台の上で聞いていた。
宿の部屋は広くない。
簡素な寝台と荷物を置く台、小さな窓が一つあるだけで、昨夜クリルが使った黒布は枕元に畳んで置いてある。旅日記は荷袋の一番上へしまい、その下には父の短剣と、オウロウの大樹から落ちた白い葉を挟んだ小さな包みが入っていた。
窓を開けると、冷たい朝風と一緒に潮の匂いが入ってきた。
昨日までは知らなかった匂いなのに、もう海だと分かる。
建物が邪魔をして水面までは見えなかったが、少し身を乗り出せば屋根の向こうに帆柱が何本も伸びているのが見えた。
クリルはそれだけで少し嬉しくなった。
顔を洗って階下へ降りると、食堂ではすでに何人もの商隊員が朝食を取っていた。大きな卓を何台も並べた場所に、パンや豆の煮込み、焼いた魚が置かれ、昨夜遅くまで荷の確認をしていた者たちが眠そうな顔で皿をつついている。
ロビは奥の席にいた。
目の前に食事だけでなく帳面まで広げている。
「遅いぞ」
クリルは窓の外を指してから、自分の目を指し、海を見ていたのだとでも言うように肩をすくめた。
「朝からかよ」
呆れながらも、ロビは隣の椅子を足で押して空けてくれた。
クリルが座ると、ちょうど給仕が焼いた魚を一皿置いていった。
昨日の市場で見たものより小さいが、レナルドで食べる川魚とは形も匂いも違う。
少し警戒しながら一口食べる。
塩気が強い。
けれど身は柔らかく、思っていたよりずっとおいしかった。
もう一口食べたところで、ロビが帳面から顔を上げる。
「今日は俺についてくるか?」
クリルは魚を咀嚼しながら首を傾げた。
「昨日みたいな観光じゃないぞ。仕入れと売り先の確認。あと次の道で何が売れるか見て回る」
少し考える。
海も見たい。
市場もまだ全部見ていない。
ただ、商人が実際に何をしているのかも気になった。
クリルが頷くと、ロビは帳面を閉じた。
「ならさっさと飯食え。置いてくぞ」
今度は返事をする代わりに、クリルは魚を食べる速度を上げた。
少し遅れて階段を降りてきたアンティルは、その様子を見ただけで大体の事情を察したらしい。
「今日はそっちか」
クリルは頷く。
「俺は別行動だ。昨日の岩礁の話を少し調べる」
手が止まった。
アンティルを見る。
「港の記録を見られるならな。大した話じゃないかもしれないが、似たことが続いてる以上、一応残しておく」
クリルは旅日記が入った荷袋へ目を向けた。
昨日自分も書いた。
消えたかもしれない、小さな岩礁。
「お前は来なくていい」
誘われる前に断られた。
クリルは眉を寄せた。
「昨日ずっと海にいたんだろ。せっかくの街なんだから、別のものも見てこい」
そう言われれば、確かにその通りだった。
クリルは少しだけ考えたあと、素直に食事へ戻った。
◇
イトゥアンの朝市は、昨日の夕方よりさらに騒がしかった。
夜のうちに入港した船から新しい荷が運び込まれ、通りには箱や樽が積み上げられている。海沿いの店では魚や貝を売る声が響き、その一本奥の通りへ入ると、今度は乾燥させた果物、香辛料、布、革製品などが軒先を埋めていた。
クリルは最初こそ周囲を見ることに夢中だったが、ロビについて歩くうちに、昨日とは少し違うものが見えてきた。
ロビはほとんど商品を買わない。
店へ入り、品物を手に取っても、値段を聞いて何かを書き留め、そのまま戻すことの方が多かった。
穀物店では袋の口を開けてもらい、中の粒を指先で確かめる。布屋では同じように見える生地を二枚並べ、厚さを比べる。魚を加工した保存食の店では、味見をしてから値段と保存期間を尋ね、荷として運んだ場合にどれほど持つのかまで確認していた。
クリルにはどれも、買う前の迷いに見える。
けれど、ロビは迷っていなかった。
店を出るとすぐ帳面へ何かを書き込み、次へ向かう。
何軒目かを出たところで、クリルはとうとうロビの袖を引いた。
「ん?」
彼の帳面を指差す。
「見たいのか?」
頷く。
ロビは歩きながら帳面を開き、見やすい高さへ下げた。
商品名の横へ値段が並び、そのさらに隣に、クリルには意味の分からない短い印や数字が書かれている。
「ここで買える値段と、内陸で売れそうな値段。それから重さ、傷みやすさ、どのくらい荷台を使うか。儲けだけ見て決めると痛い目見るぞ」
クリルはページへ顔を近づけた。
「例えばこれ」
ロビは干した魚の欄を指した。
「向こうじゃ高く売れる。でも嵩張る。こっちは香辛料。値は張るけど小さいから運びやすい。ただ、仕入れに金がいる」
クリルは少し考え、さっき見た大きな魚の樽を両腕で抱える仕草をしてから、腰の小袋ほどの大きさを手で示した。
「そういうこと。荷車一台で運べる量には限界があるからな」
ロビは満足そうに帳面を閉じた。
「商人ってのはな、安く買って高く売れば終わりじゃないんだよ」
そこまでは考えたことがなかった。
旅人の話を聞くとき、クリルが気にするのはどんな町へ行ったのか、どんな生き物を見たのかということばかりだった。
けれどロビにとって旅は仕事でもある。
町が違えば欲しがるものが違い、その違いを知っていなければ商売にならない。
知らない土地を見るという点では、自分がやろうとしていることに少し似ている気もした。
ただ、ロビの場合は最後に必ず損得勘定がついてくる。
そのことを考えて口元が少し緩むと、ロビが怪訝そうに見る。
「何だよ」
クリルは何でもないと笑って首を振った。
説明してもよかったが、そのために黒布を出すほどのことではなかった。
◇
昼前になると、ロビは市場から少し離れた商人向けの共同倉庫へ向かった。
巨大な建物の内部には細長い通路が何本もあり、その両側に商品が積み上げられている。高い天井の梁からは滑車と縄が何本も垂れ、場所によっては魔道具を使って荷を二階部分へ持ち上げていた。
クリルが昨日見た荷役用の道具よりさらに大掛かりだった。
また足を止めそうになったが、今回はロビに小言を言われる前に追いついた。
「ちょっとは慣れたな」
褒められているのか微妙だった。
倉庫の奥では、商隊の者たちが次に積む荷について話していた。
ロビもその輪へ入り、朝に調べた値段を報告し始める。
クリルにはまだよく分からない話だったので、少し離れた場所から荷物を眺めていた。
そこで、一人の女性に気づいた。
商隊の者ではない。
少なくとも、レナルドからここまで一緒だった中にはいなかった。
年齢は二十を少し越えたくらいに見える。
長い金髪を背中へ流し、旅装は飾り気のないものだった。人族らしく耳も尾もないので、昨日ならそれだけでクリルは珍しそうに見ていたかもしれないが、一日街を歩いたおかげで、人族そのものにはもう少し慣れている。
ただ、その女性は商人たちに混ざっていても、少し雰囲気が違った。
荷物の前に立ちながら、やたら周囲を見ている。
落ち着きがないわけではない。
むしろ反対だった。
どこに誰がいて、どの荷車が動き、通路のどこが空いているのかを自然に確かめているように見える。
クリルが森で獣道を確認するときに近い。
何となく気になり、少し眺めていると、女性の方もこちらへ気づいた。
目が合う。
柔らかく微笑まれた。
「こんにちは」
クリルは軽く頭を下げた。
女性はそのまま近づいてくる。
「こちらの商隊の方ですか?」
クリルは一瞬どう答えるか迷った。
商隊員ではない。
でも、一緒に旅をしている。
身振りだけでは少し説明しにくい。
腰袋から黒布を出そうとしたところで、ロビの声がした。
「そいつは客みたいなもんだ。今はな」
いつの間にか話が一段落したらしく、こちらへ歩いてくる。
「レナルドから乗ってきた。名前はクリル」
「クリルさん」
女性はロビの説明をそのまま受け取り、改めてクリルへ向き直った。
「私はカレンです。よろしくお願いします」
クリルも笑って軽く頭を下げた。
「こっちがロビさん、でいいんですよね?」
「さんはいらねえよ」
「そういうわけにはいきません」
柔らかな口調のまま即答された。
ロビが少し嫌そうな顔をする。
「堅いな」
「普通です」
カレンの返事も変わらず丁寧だった。
そのやり取りがおかしくて、クリルは少し笑った。
カレンがこちらを見る。
「何か変なことを言いました?」
クリルは首を横へ振りながら、まだ少し笑っていた。
そこでカレンは、クリルが一度も声を出していないことに気づいたらしい。
一瞬だけ喉元へ視線が落ちた。
けれど、それ以上じっと見たり、すぐ理由を尋ねたりはしなかった。
ロビが自然に補う。
「クリルは声が出ない。必要なときは布に書く。あとは雰囲気だ」
「分かりました」
カレンはそれだけ答えた。
可哀想だとも、不便でしょうとも言わない。
クリルは少しだけ彼女を見直した。
「で、お前が例の見習いか?」
ロビが尋ねる。
「はい。商隊長さんには先ほどお話ししました。同行については問題ないそうですが、実際に仕事を教わる方にも挨拶をしておくようにと言われまして」
「俺かよ」
「ロビさんの担当する荷の一部を手伝うことになると聞きました」
「勝手に人に押し付けるなよ……」
そう言いながらも、本気で嫌がっている様子ではなかった。
クリルは二人を見比べる。
見習い。
今朝、ロビの仕事を見ていたばかりだったので、何となく興味が湧く。
カレンはその視線に気づき、少し首を傾げた。
「私も商人としてはまだ勉強中なんです。これからしばらく、皆さんと一緒に旅をすることになりました」
クリルの耳が上がる。
新しい同行者らしい。
「内陸へ行きたいらしくてな」
ロビが説明する。
「うちはこのあとしばらく東部を回ってからキルガスの方へ向かう。こいつも進む方向が同じなんだと」
「商売も、街から街へ商品を運ぶだけでは分かりませんから。実際の仕入れや交渉、道中での管理も覚えたいんです」
カレンはそう言って、近くに積まれた荷へ目を向けた。
「食費や宿代は自分で払いますし、荷役や帳簿の手伝いもします。それで経験を積ませてもらえるなら、私にも商隊にも悪い話ではないと思っています」
話し方は丁寧なのに、内容はずいぶんはっきりしている。
自分を連れていってほしいと頼むだけではなく、自分を乗せる利点まできちんと出している。
ロビも同じことを思ったらしい。
「そこまで言えるなら、少なくとも何も知らねえお嬢ちゃんってわけじゃなさそうだな」
「お嬢ちゃんと呼ばれる年齢でもないです」
「クリルに比べたらな」
突然比較に使われ、クリルは眉を寄せた。
「ほら、怒った」
ロビが笑う。
カレンも少し笑った。
ただ、その笑顔は感じが悪いわけではないのに、どこか綺麗に整っていた。
クリルはそう思った。
母さんやロビの笑い方とは違う。
相手へ見せても困らないところまでしか表情を出していないような、不思議な距離がある。
それを嫌だとは感じなかった。
初めて会ったばかりなのだから、むしろ普通なのかもしれない。
レナルドでは、初対面というもの自体が少なすぎただけだ。
「どこから来たんだ?」
ロビが何気なく尋ねた。
カレンの表情は変わらなかった。
「北の方です」
「ざっくりしてんな」
「少し遠いので」
「地名くらいあるだろ」
「ありますよ」
そこで答えが終わった。
ロビが一度カレンを見る。
カレンは微笑んでいる。
それ以上話すつもりはないらしい。
「まあ、商隊長が確認してるなら俺が聞くことじゃねえか」
ロビはあっさり引いた。
クリルも聞かなかった。
どこから来たのかは気になる。
でも、相手が話したくないなら、それだけのことだった。
自分だって声のことを会うたび説明したいわけではない。
聞かれたくないことがあるのは、たぶん珍しくないことだ。
◇
カレンの最初の仕事は、イトゥアンで積み込む荷の確認だった。
ロビが朝から集めていた情報を見せ、実際に何をどれだけ仕入れるのかを説明していく。
クリルも横から覗いていた。
「この干し魚は買わないんですか?」
カレンが帳面を指す。
「値段だけなら悪くねえけど、今の荷台じゃ場所取る。次の村までなら売れるが、その先まで持ち越すと邪魔だ」
「では、こちらの香辛料を多めに?」
「高い。売れなきゃ金が寝る」
「難しいですね」
「それが商売なんだよ」
ロビはどこか楽しそうだった。
教える相手がいること自体は嫌いではないらしい。
カレンも質問するだけではなく、積まれた商品の状態を一つずつ確かめていった。箱の印を帳面と照らし合わせ、重さを確認し、濡れてはいけない荷が馬車のどこへ積まれるのかまで聞いている。
クリルはその様子を見ながら、自分がアンティルに記録を教わっているときと少し似ていると思った。
知らないことを一つずつ聞く。
聞いたら、次は自分で確かめる。
ただしカレンの質問はかなり細かかった。
「雨が続いた場合は?」
「布を二重にする」
「道が塞がれた場合、売り先を変えることはありますか?」
「ある。そのために町ごとの相場を覚えとく」
「護衛費は荷ごとですか、それとも商隊全体で割るんですか?」
「契約による」
しばらく聞いていたロビが、とうとう片眉を上げた。
「お前、本当に見習いか?」
「見習いですよ」
「質問が細かすぎる」
「分からないことは聞いた方が早いので」
その答えに、クリルは密かに共感した。
アンティルは質問すると面倒そうな顔をすることもあるが、結局は答えてくれる。
聞かなければ分からないままだ。
クリルがカレンへ親指を立てると、彼女は意味を理解したらしく、小さく笑った。
「ありがとうございます」
「お前ら気が合いそうだな」
ロビが嫌そうに言う。
クリルとカレンは一度顔を見合わせた。
今度は二人とも笑った。
◇
午後には、カレンも商隊の宿へ移ることになった。
荷物は思ったより少なく、大きめの旅鞄が一つと、細長い包みが一本だけだった。
クリルはその包みに気づいた。
形だけなら、剣か何かが入っていそうに見える。
旅人が武器を持っていること自体は珍しくない。街道では商人でも短剣くらいは身につけるし、ロビだっていざというときのために刃物を持っている。
ただ、商人見習いの荷としては少し長い。
クリルが眺めていると、カレンもその視線に気づいた。
「気になります?」
クリルは素直に頷いた。
「護身用です」
それだけ言われた。
なら、それ以上尋ねる必要はない。
クリルはすぐ別の荷物へ視線を移した。
カレンはほんの少し意外そうな顔をした。
「聞かないんですね」
今度はクリルが首を傾げる。
「普通は、何に使うのかとか……気になりませんか?」
言われてから少し考えた。
確かに気にならないわけではない。
けれど、さっき出身地についても話したくなさそうだった。
聞けば答えてくれるかもしれないが、今知らなければ困ることでもない。
クリルは肩をすくめ、細長い包みとカレンを交互に指したあと、自分の短剣を軽く叩いてみせた。
武器を持っているなら、それでいい。
何を使うかは本人のことだ。
カレンはしばらく意味を考えたあと、柔らかく笑った。
「そういう人なんですね、クリルさんは」
どういう人なのかまでは分からなかった。
クリルは片耳だけ傾ける。
「いえ。悪い意味ではないです」
少なくとも気を悪くしてわけではなさそうだった。
安心して、クリルは小さく笑った。
◇
夕方には、宿の食堂でロビ、アンティル、カレンと同じ卓を囲んでいた。
昨日までなら、カレンのいた席には別の商隊員が座っていただろう。
一人増えただけで、食卓の会話は少し変わった。
「アンティルさんは考古学者なんですよね?」
「そうだ」
「護衛も?」
「それも仕事だ」
「ずいぶん違う仕事に思えます」
「旅費稼ぎだ」
アンティルはそれ以上説明しなかった。
カレンも無理に聞き出そうとはせず、「なるほど」とだけ答えて食事へ戻る。
ロビが笑った。
「お前ら似てるな。必要ないこと喋らねえところ」
「ロビさんが喋りすぎなのでは?」
「会って半日で言うことか?」
「事実ですから」
クリルは吹き出しそうになり、慌てて口元を手で隠した。
「クリル、お前まで笑うな」
肩を揺らして首を振る。
否定にはなっていなかった。
カレンはそんなクリルを見ながら、食事の合間に尋ねた。
「クリルさんは、キルガスまで行くんですか?」
クリルは頷いた。
「商人になるために?」
今度はすぐ首を振る。
「では、何か用事が?」
これは身振りだけでは説明できない。
クリルは腰袋から黒布を取り出した。
〈大図書院へ行きたい。自分のファルナと、最近見た変なことを調べたい〉
カレンは文字を読む。
「最近見た変なこと、ですか?」
クリルは少し考えた。
消えた集落から全部説明すれば長くなる。
今すぐ話す必要もないだろう。
そこで布の下へ、
〈いろいろ。また今度話す〉
と書き足した。
「分かりました」
カレンは素直に引いた。
「ファルナは何なんですか?」
クリルは少しだけ迷ってから、もう一度白筆を動かす。
〈《旅人》〉
「《旅人》……」
カレンの表情に、ほんのわずかな驚きが浮かんだ。
「聞いたことがないですね」
「誰もねえんだよ」
ロビが横から口を挟む。
「里にも記録がなかった。だから大図書院なら何かあるかもしれないって話になってる」
「なるほど」
カレンはもう一度〈旅人〉の文字を見る。
「それでは……ファルナに従って旅に出たわけではないんですか?」
クリルは一瞬考えた。
この質問には、ちゃんと答えておきたかった。
黒布を拭いて書き直す。
〈最初はそう思った。でも今は、私が外を見たいから旅してる〉
カレンはその文章を、少し長く見ていた。
「自分で決めたんですね」
クリルは笑って頷いた。
「それは、いいですね」
その言葉だけが、それまでより少し静かだった。
クリルはカレンを見る。
何か聞こうかと思った。
けれど、カレンはもういつもの微笑みに戻り、食器へ手を伸ばしていた。
だから聞かなかった。
◇
食事を終えたあと、ロビが明日の予定を話し始めた。
「俺は午前中にもう一回市場に行く。カレンはついてこい。帳簿の続き教える」
「お願いします」
「アンティルは?」
「港の記録をもう少し見る」
「好きだなあ」
「仕事だ」
最後にロビがクリルを見る。
「お前はどうする?」
クリルは少し考えた。
まだ市場も見たい。
海も見たい。
ただ、旅を続けるなら、お金も必要になる。
クリルは小さいころから森で採取してきた希少な素材を商隊に売って小遣いを貯めてきた。
加えて家から持たせてもらったものもあるが、それだけでいつまでも旅をするわけにはいかない。
ロビが市場で働いている姿を見て、そのことを少し実感していた。
自分にも、旅をしながらできる仕事があるのだろうか。
その疑問を伝えるには、さすがに身振りだけでは難しい。
クリルは黒布へ、
〈旅しながらできる仕事ってある?〉
と書いた。
「仕事?」
ロビが考える。
「狩りならできるけど、場所によっちゃ勝手に獲っちゃ駄目だしな。商売やるなら元手がいるし……」
「冒険者はどうです?」
カレンが言った。
クリルは顔を向けた。
「護衛や討伐だけじゃありませんよ。採取や運搬、探し物なんかもあります。町から町へ移動するなら、道中に合う依頼を受けることもできます」
冒険者。
クリルも名前は知っていた。
ロビの話に何度も出てきたし、イトゥアンの街でも武器を持った者たちをたくさん見かけている。
ただ、自分がなるものだとは考えたことがなかった。
「悪くないかもな」
ロビも頷く。
「キルガスまで行くなら、運搬とか採取の仕事は相性いい。お前は森にも慣れてるし」
クリルの耳が少し上がった。
「ただ十四だろ。登録に条件があったはずだ」
「ありますね」
カレンが答える。
「未成年の場合は、保護者の許可か、資格を持つ冒険者の保証が必要だったと思います」
クリルの耳が元へ戻った。
保護者。
ミーリャもジグもレナルドにいる。
今から戻って許可をもらうわけにもいかない。
「まあ明日、ギルドで聞いてみればいい」
ロビはそれほど深刻には考えていないようだった。
「駄目なら別の方法を考えりゃいい」
クリルもそれ以上気にするのをやめた。
まだ何も確かめていない。
駄目だと決まったわけでもない。
明日の行き先が一つ増えたと思えばいい。
黒布をしまう。
その向こうで、カレンは何かを考えているようだった。
けれどクリルが視線を向けると、彼女はいつも通りの穏やかな表情へ戻った。
「冒険者ギルドなら、私も一緒に行きますよ」
クリルは首を傾げた。
「少し用事がありますから」
それ以上の説明はなかった。
クリルも求めなかった。
明日になれば分かることなのだろう。
食堂を出る前、クリルは新しく商隊へ加わった金髪の女性をもう一度見た。
商人見習い。
丁寧で、よく笑い、知らないことは細かく尋ねる。
けれど自分のことになると、必要なところまでしか話さない。
アンティルとは違う意味で、まだ分からないことの多い人だった。
数日前のクリルなら、すぐに答えを知りたくなっていたかもしれない。
今は、それほど急がなくてもいいと思えた。
旅は始まったばかり、知る時間ならこれからいくらでもあるのだから。




