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コルコニアの旅人たち  作者: 南河鯨
1章 / 旅立ち

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14 / 最果ての街

 海の匂いというものを、クリルは知らなかった。


 だから、その日の朝から風に混じり始めた知らない匂いについても、最初は何なのか分からなかった。


 雨が近いときの湿った空気とは違う。川辺の水草や泥とも違い、鼻の奥へ入り込んだあと、舌の上にまで薄く残るような鋭さがある。嫌な匂いではなかったが、森の中には存在しないものだった。


 商隊は朝から緩やかな坂道を下り続けていた。レナルドを離れてから続いていた深い森はすでにまばらになり、街道の左右には畑や小さな集落が増えている。すれ違う荷馬車の数も昨日までとは比べものにならず、二台どころか三台の馬車が並んでも余裕があるほど広い道を、さまざまな土地から来た人々が行き交っていた。


 クリルは馬車の横を歩きながら、もう一度風へ鼻を向けた。


 やはり知らない匂いがする。


 御者台に座っていたロビが、その様子を何度か横目で見たあと、とうとう笑った。


「気になるか?」


 クリルはすぐ顔を上げた。


「海だよ」


 耳が立った。


 あまりにも分かりやすかったらしく、ロビの笑みが広がる。


「まだ見えねえぞ。もうちょい先だ」


 クリルは街道の先へ視線を戻した。


 当然のように歩く速度が少し上がる。


「だから落ち着けって」


 ロビの声が後ろから追ってきたので、クリルは不満そうに振り返ったものの、結局は商隊から離れない程度まで速度を落とした。


 アンティルが少し前を歩いている。


「昨日の日記に、海を見るって書いてたな」


 クリルは一瞬目を丸くしたあと、じっと彼を睨んだ。


「見える場所に置いているのが悪い」


 言い訳になっていない。


 クリルは尾を大きく一度振り、そっぽを向いた。


「怒るなら隠して書け」


 さらに腹が立った。


 それでも海が近いと聞いた興奮の方が勝り、数歩も歩けばアンティルへの抗議は頭の隅へ追いやられていた。


 街道は進むにつれて、少しずつ景色の性質を変えていった。


 道沿いに並ぶ建物が増え、旅人向けの宿や食事処、馬具を修理する工房などが途切れなくなっていく。小さな露店まで現れ、朝早いというのに焼いた肉や甘い菓子の匂いが漂っていた。


 さらに驚いたのは、そこを歩いている人々だった。


 狐人以外の獣人を見ること自体は初めてではない。ロビの商隊にも他種族はいたし、レナルドを訪れた旅人の中でも何人も見てきた。


 それでも、これほど多くの種族が一度に同じ道を歩いている光景は見たことがなかった。


 大きな角を持つ牛人が荷車を引き、その横を背丈の低いハーフリングの商人が忙しそうに歩いている。人族らしい一団とすれ違った直後には、背中へ翼を畳んだ有翼人が道端で果物を買っていた。少し遠くには、肌や髪の質感が陸の人々とはどこか異なる者たちの姿もあり、彼らが海人なのだとロビに教えられた。


 クリルの首は右へ左へと忙しく動き続けた。


「前も見ろよ」


 ロビに言われて正面を向いた瞬間、危うく道端の樽へぶつかりかけ、寸前で身体を捻って避けた。


「ほら」


 それ見たことかと笑われた。


 クリルは何事もなかったような顔で歩き続けたが、耳だけが少し横へ寝た。


 今までなら、見知らぬ旅人が一人レナルドへ来るだけでも誰かが気づいた。子供たちが遠巻きに眺め、大人たちはどこから来たのかを尋ね、その日のうちには大抵の者が顔を知る。


 ここでは逆だった。


 誰もクリルを見ない。


 白い髪も狐の耳も、背中に荷を背負った十四歳の少女が商隊と一緒に歩いていることも、大勢の中では特別な出来事ではないらしい。


 自分が透明になったような寂しさはなかった。


 むしろ、それが新鮮だった。


 世界には、自分を知らない人の方がずっと多い。


 当たり前のことなのに、レナルドにいる間は本当の意味で考えたことがなかった。


 やがて、緩やかだった下り道が開けた。


 前方から吹いてくる風がさらに強くなり、知らない匂いも濃くなる。


 そして丘の向こうに、建物の群れが見えた。


 クリルは思わず歩みを止めそうになった。


 町だと理解するまで少し時間がかかった。


 レナルドなら、高い木へ登れば里のほとんどを見渡すことができる。どこに誰の家があり、大樹までどれくらい離れているのかも一目で分かる。


 目の前に広がっている場所は、ひとつの視界に収まらなかった。


 街道がそのまま巨大な通りとなって建物の間へ吸い込まれ、そこからさらに幾つもの道が左右へ分かれている。屋根の高さも形もばらばらで、石造りの三階建ての隣に木造の店があり、その後ろには何倍もの高さを持つ倉庫や塔が並んでいた。


 通りのさらに向こう、建物の上から細長い柱が何本も伸びている。


 木にしては枝がない。


 塔にしては細すぎる。


 その一本の先で、大きな布が風を受けて膨らんだ。


 帆柱だった。


 船があるのだろう。


 ということは、その向こうに海がある。


 クリルが思わず背伸びをすると、ロビが御者台から笑った。


「いや、建物越しには見えねえって」


 クリルは振り返り、早く行こうと言わんばかりに片手を大きく前へ振った。


「はいはい。着いたばっかりなんだから仕事くらいさせろ」


 どうやら、海はもう少しお預けらしい。


 街道脇の大きな石標には、見慣れない装飾文字とともに街の名が刻まれていた。


 《イトゥアン》。


 大陸の東端にあり、海へ開かれた巨大な港町。


 ロビの話の中で何度も聞いてきた場所に、ついに自分の足で来た。


     ◇


 イトゥアンへ入って最初に困ったのは、人だった。


 多い、という言葉だけでは足りない。


 レナルドの里人が全員集まったとしても、今見えている大通りの人混みの方がまだ多いのではないかとクリルには思えた。


 道の中央では荷馬車が絶えず行き交い、その隙間を騎乗した者や荷運びの動物が通る。左右の歩道にも人が溢れ、店先では客と商人が声を張り上げていた。


 匂いまで多い。


 焼いた魚の香りがしたかと思えば、その直後には甘い果実や香辛料の刺激が鼻へ入ってくる。革をなめす臭い、馬の汗、潮気を含んだ風まで混ざり、森のように匂いだけで何がどこにあるのか判断することが難しかった。


 音も同じだった。


 人の声、車輪の軋み、金属を叩く工房の音、遠くから聞こえる鐘に、甲高い鳥の鳴き声まで重なっている。


 クリルはしばらく歩いてから、自分の耳が無意識に何度も向きを変えていることに気づいた。


 一つの音へ集中しようとすると、別の音がその上へ重なる。


 森とはまるで違う。


 レナルドなら、後ろの藪が一度動いただけでもすぐ気づけた。


 ここでは、何か一つを見逃すことの方が普通なのだと思い知らされる。


「クリル!」


 ロビの声がして振り返ると、商隊との距離が随分開いていた。


 また店を見ながら歩いているうちに、自分だけ遅れていたらしい。


 ロビが呆れた顔で手招きする。


 クリルは小走りで戻った。


「本当に迷子になるぞ」


 それはさすがに不本意だったので、クリルは眉を寄せて首を横へ振った。


「迷わねえって顔してるけど、お前はこの街の道を一本も知らねえだろ」


 言われてみればその通りだった。


 表情だけ少し弱くなる。


「森じゃねえんだから、最初のうちはちゃんと誰かについてろ」


 クリルは渋々頷いた。


 それを見たアンティルが横から口を挟む。


「迷子になってさらわれても知らんぞ」


 クリルはすぐ彼をじとっと睨んだ。


「何だその顔は」


 抗議のために黒布を出すのも負けたような気がしたので、クリルは鼻を鳴らすように顔をそらした。


 商隊は大通りから港へ向かう道へは進まず、先に商人たちが使う大きな荷降ろし場へ入った。


 旅が終わったからといって、馬車を止めれば終わりではないらしい。


 何台もの荷車が決められた場所へ並び、商人たちは帳簿を開いて積荷を確認し始める。レナルドで売った物もあれば、ここで降ろす商品もあり、逆に次の旅へ向けて積み込む品もある。


 ロビも到着早々、別の商人に呼ばれて忙しくなった。


 クリルは何か手伝おうと周囲を見たが、どの荷がどこへ行くのかまるで分からない。


 しばらく立っていると、ロビが箱を一つ指し、向こうの荷台へ運ぶように手で示した。


 それくらいなら分かる。


 クリルは箱の下へ手を入れて持ち上げた。


 予想より重い。


 身体ごと持ち上げようとしたところで、隣の荷台から短い詠唱が聞こえた。


 荷役人が二人、巨大な木箱の下へ一本の金属棒を差し込んでいる。


 棒へ刻まれた文字が淡く光った瞬間、男二人では到底持てそうにない木箱が、まるで中身を半分失ったように軽々と浮いた。


 クリルの足が止まった。


 箱を抱えたまま、その光景をじっと見る。


「落とすぞ」


 横を通ったアンティルに言われ、腕へ力を入れ直した。


 慌てて指定された荷台まで運び、箱を置く。


 すぐ先ほどの道具を見に戻った。


 荷役人たちはもう別の箱へ取りかかっている。


 クリルが興味深そうに見ていると、アンティルが隣へ立った。


「荷役用の魔道具だ」


 クリルは目を輝かせたまま彼を見る。


「魔力を通すと、一定時間だけ対象の重さを軽くする。港や大きな商都ではよく使う」


 クリルはもう一度道具へ目を向けた。


「そんな顔をしても、持って帰れないぞ」


 今度はすぐ首を横へ振った。


 欲しいのではない。


 使ってみたいだけだ。


 それが伝わったのかどうかは分からないが、アンティルは小さく息を吐いた。


「あとで時間があれば見せてもらえるか聞け」


 クリルの耳が立つ。


 その反応を見たアンティルが、少しだけ口元を緩めた。


     ◇


 商隊の荷が一通り片づくころには、太陽がかなり高くなっていた。


 宿の場所も決まり、今日中に必要な仕事はほとんど終わったらしい。


 クリルはロビの近くへ行き、港の方を指差した。


「やっぱり行くのか」


 当然だった。


 クリルは何度も頷いた。


「一人で行くなって言ったら?」


 少し考え、アンティルを見る。


 アンティルは帳面を閉じかけたところだった。


「俺まで巻き込むな」


 クリルは両手を合わせるようにして頼んだ。


「その顔をされてもな」


 断る口調ではなかった。


 ロビが笑う。


「連れてってやれよ。どうせお前も港の記録庫か古物商でも覗くんだろ」


「目的は違う」


「方向は同じだ」


 しばらくして、アンティルが諦めたように立ち上がった。


 クリルは満足そうに尾を揺らした。


「ただし勝手に走るな」


 今度はすぐに頷く。


 書くほどのことではない。


 二人は人の流れに乗り、港へ続く大通りを歩き始めた。


 街の中心に近づくほど、イトゥアンはさらに賑やかになった。


 道沿いには衣服や旅道具、薬草、香辛料、見たことのない果物まで並んでいる。店そのものが小さな建物になっているところもあれば、布一枚を広げて品物を置いているだけの商人もいた。


 クリルは途中で何度も速度を落とした。


 細長い殻を持つ木の実に似た食べ物が気になり、立ち止まる。次の店では、自分の手より大きな色鮮やかな羽根飾りに目を奪われる。そのさらに向こうでは、火を使わずに冷気を出して魚を保存している魔道具を見つけた。


「海を見るんじゃなかったのか」


 アンティルに言われ、思い出したように歩き出す。


 数十歩進んだところで、今度は香辛料の店へ吸い寄せられた。


「……日が暮れるぞ」


 さすがに呆れた声だった。


 クリルは少し恥ずかしくなり、今度こそ港まで寄り道しないと決めた。


 その決意は、半分ほどは守られた。


 海が近づくにつれて、建物の隙間から明るい青が見えるようになったからだ。


 空とは違う。


 目の高さより下にある。


 風はさらに強くなり、潮の匂いも濃くなる。


 道の先が急に開けた。


 石造りの広場を抜け、その向こうの岸壁まで視界を遮るものがなくなる。


 そこでクリルは歩みを止めた。


 海があった。


 ロビから何度も聞いた。


 絵でも見た。


 向こう側が見えないほど大きな水塊だと知っていた。


 それでも、知っていたものとは違った。


 水が、どこまでも続いている。


 岸壁の下から始まった青は、陽の光を無数に反射しながら遠くへ伸び、その先で空と溶け合っている。どこまで目を凝らしても対岸はなく、山も森もない。


 波が寄せるたびに水面の形が変わる。


 白い泡が石壁へ当たり、低い音を立てて砕ける。


 その向こうでは何隻もの船が動いていた。


 クリルの表情から、街へ着いてからずっとあった忙しさが消えた。


 ただ立って、見ていた。


 アンティルも急かさなかった。


 海から吹いてくる風がクリルの白い髪を後ろへ流し、狐耳の毛を揺らす。


 いつの間にか、口元が笑っていた。


 声が出ないことなど、今は関係なかった。


 誰かへ説明したいとも思わない。


 そのまま見ていたかった。


 クリルはゆっくり岸壁へ近づいた。


 水面を覗き込むと、波のたびに自分の顔が崩れて見える。


 少し下では、小魚の群れが光を反射しながら泳いでいた。


 それだけでも初めて見るものだった。


 顔を上げると、さらに知らない景色がある。


 港へ入ってくる巨大な商船では、甲板の人々が何本もの縄を操っていた。岸からは別の作業員が短い詠唱を唱え、荷物を吊り下げた網を魔法で安定させている。


 小さな漁船も次々に戻ってくる。


 濡れた網の中では銀色の魚が跳ね、近くを飛ぶ白い鳥たちが甲高い声を上げていた。


 魔法も、人も、船も、全部が働いている。


 レナルドで一度でも大きな魔法を見れば、子供たちは一日中その話をした。


 ここでは魔法が荷を運び、魚を冷やし、船を岸へ寄せるために使われている。


 誰も珍しそうに見ない。


 クリルは、自分が知っている世界がまた一つ小さくなったように感じた。


 海の向こうへ目を向ける。


 水平線より少し手前に、黒い影が幾つか浮かんでいた。


 そのうち一つからは、細い煙のようなものが空へ伸びている。


 クリルが目を細めて見ていると、アンティルが隣から言った。


「ドゥルベリー火山群だ」


 クリルは彼を見た。


「あれも初めてか」


 大きく頷く。


「天気がいい日はイトゥアンから見える。今いる場所からだと遠いが、船なら行ける。だが、危険な場所だ」


 船なら行ける。


 その言葉が妙に強く残った。


 海の向こうに見えている場所にも、人が行ける。


 そのさらに向こうにも、何かがあるのだろう。


 クリルは海を見た。


 レナルドを出るまで、自分にとって遠い場所とは、ロビが話してくれる場所だった。


 今は、その「遠い場所」が目の前にある。


 そこへ行く方法まで見える。


 世界は広い。


 でも、ただ広いだけではない。


 道があり、船があり、人が行き来している。


 歩いていけば、いつかどこへでも行ける。


 そんな気がした。


     ◇


 海を見たあとも、クリルはすぐには戻らなかった。


 港に沿って歩けば、今度は市場が続いている。


 魚だけでも種類が多すぎた。


 掌ほどの小さなものから、クリル一人では抱えられそうにない大きな魚まで並び、その隣では長い脚を何本も持つ生き物が桶の中で暴れていた。


 店主が一匹を持ち上げて見せる。


「どうだ、狐の嬢ちゃん。新鮮だぞ」


 クリルは反射的に両手を振って後ずさった。


「見るだけか?」


 笑われる。


 その生き物の脚がこちらへ伸びたので、さらに一歩下がると、店主は面白がって桶へ戻した。


 アンティルは助ける気がないらしい。


「食べればうまいぞ」


 クリルは疑わしそうに桶を見る。


「その顔は覚えておく」


 何のために覚えるのか嫌な予感がした。


 市場をさらに進むと、今度は貝殻を並べた露店があった。


 クリルの足が自然に止まった。


 白や薄桃色の殻、渦巻く形をしたもの、手のひらより大きな扇形のものまである。


 レナルドで頼まれた土産を思い出す。


 一つ買えば簡単だ。


 そう考えたものの、少し眺めて首を振った。


 旅の途中で見つけると言った。


 最初の町で買ってしまうのは、何となく違う。


「買わないのか?」


 アンティルが尋ねる。


 クリルは店の貝殻を指し、次に海の方を指してから、自分で拾うような仕草をした。


「なるほど」


 それだけで意味は伝わった。


 店主には何のことか分からなかったようだが、買わない客を引き止めるほど暇ではないらしく、すぐ別の客へ声をかけていた。


 少し先の岸壁で、クリルは腰を下ろした。


 今度こそ旅日記を取り出す。


 先ほどは書くより見ていたかったが、今なら書ける気がした。


 日付の横へ《イトゥアン》と記す。


 その下に、最初の一文を書いた。


 『海は、本当に向こう側が見えなかった。』


 一度読んで、少し笑う。


 昨日の日記に、自分の目で確かめると書いた。


 本当にその通りだった。


 続けて、街で見た種族のことや荷役用の魔道具、港で働く魔法、遠くに見えたドゥルベリー火山群について書いていく。


 全部残したいと思えばいくらでも書けそうだった。


 最後に少し迷い、


 『世界は、思っていたよりずっと広い。』


 と記した。


 白筆を止めたとき、近くから大きな声が聞こえた。


「だから、あそこにあっただろ!」


 クリルは顔を上げた。


 少し離れた場所で、漁師らしい男が二人、海を指差しながら言い争っている。


「何がだよ」


「岩だよ。小さい岩礁があっただろ。潮が引けば頭が出てた」


「そんなもん最初からねえよ」


「あるって! 去年、そこで網を引っ掛けたんだぞ」


「場所間違えてんだろ」


「毎日のように通ってる海でか?」


 クリルの耳が二人の方を向いた。


 漁師の一人が、港の外に浮かぶ赤い標のさらに向こうを指している。


 もう一人は、そこには何もないと繰り返していた。


 周囲の人々は特に気にしていない。


 漁師同士が場所を勘違いして言い争うことなど、珍しくないのかもしれない。


 少しして別の男が間へ入り、「今日はもう上がれ」と笑いながら二人を引き離した。


 それだけの出来事だった。


 けれどクリルは、閉じかけていた旅日記をもう一度開いた。


 レナルドの近くで消えた集落。


 途中だけなくなった猟道。


 そして、あるはずだったと言う者と、最初からなかったと言う者がいる岩礁。


 同じものだとは決められない。


 漁師の勘違いという可能性もある。


 だから、考えたことではなく、聞いたことだけを書く。


 『港の漁師二人が、小さな岩礁について言い争っていた。一人は以前からあったと言い、もう一人は最初からなかったと言った。』


 そこまで書いて、筆を止めた。


 理由については何も足さない。


 アンティルが横から日記を覗く。


「それでいい」


 クリルは日記を閉じた。


 夕方の光を受けた海が、朝とは違う色へ変わり始めている。


 小さな岩礁が一つあったかどうかなど、この巨大な海を前にすれば、ほんのわずかな違いにしか見えない。


 けれどクリルは、そのわずかな違いを残しておこうと思った。


 忘れてしまう前に。


 間違っていたなら、あとでそう書けばいい。


 二人は港から街の中心へ戻り始めた。


 人の流れは朝よりさらに多く、店の灯りが一つずつつき始めている。今夜泊まる宿がどんな場所なのかも知らないし、明日この街で何を見るのかもまだ決まっていない。


 それでもクリルの足取りは軽かった。


 レナルドを出たとき、大図書院だけを遠い目的地として考えていた。


 けれど、最初の大きな街へ着いただけで、見たいものは際限なく増えている。


 海の向こうの火山も、港に並ぶ船も、この街を歩く知らない人々も、まだ見ていない場所へつながっている。


 世界の端まで来たはずなのに、その先にも世界が続いていた。


 クリルは振り返り、建物の間から僅かに見える海をもう一度眺めた。


 行きたいと思った場所には、歩き続ければいつか辿り着けるのだと信じていた。

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