13 / 旅日記
今日、レナルドを出た。
昨日までは、旅に出ると決めたらもっとわくわくすると思っていた。
ロビから外の話を聞くのはずっと好きだったし、森の向こうに何があるのか知りたかった。海も見たいし、大きな町にも行ってみたい。大図書院には、私の知らない本がたくさんあって、《旅人》のことも分かるかもしれない。
アンティルの魔法も、もっと教えてもらいたい。
だから自分で行くと決めた。
それは今も変わっていない。
でも、家を出るときは思っていたより寂しかった。
朝ごはんはいつもと同じだった。
ジグが私の皿に大きい肉を入れようとして、母さんに止められた。旅に持っていく荷物も昨日全部確認したのに、ジグはもう一度確認しろと言った。
いつもと同じだったから、余計に変な感じがした。
明日の朝は、あの席に私はいない。
そう思ったら、急に家の中のいろいろなものが気になった。窓も、床も、ベッドも、ずっとそこにあったのに、昨日までちゃんと見ていなかった。
ジグから父さんの短剣をもらった。
見た瞬間に分かった。
小さいころ、父さんが腰に差していたものだった。
触ったら、少し怖かった。
父さんのことを思い出したからだと思う。
全部は覚えていない。覚えているところも、思い出したくないところがある。
でも、持っていきたいと思った。
ジグは、父さんと同じ使い方をしなくてもいいと言った。父さんのものだからといって、父さんと同じにならなくてもいいらしい。
それを聞いて、少し安心した。
私は父さんの娘だけど、父さんではない。
たぶん、そういうことだと思う。
母さんには久しぶりに抱きしめられた。
ちょっと苦しかった。
でも、自分から離れようとは思わなかった。
声があれば何か言えたのかな、と少し考えた。
何を言ったらいいのかは、結局思いつかなかった。
だから、声があっても同じだったかもしれない。
大樹のところでは、みんなが見送ってくれた。
《旅人》になったあと、里では私がここに残ることを怖がる人もいた。あのとき言われたことを忘れたわけではないけれど、今はもう嫌な気持ちじゃない。
私が嫌いだったからではなく、みんなにも家族や守りたいものがあって、何が起こるのか分からなかったから怖かったんだと思う。
私だって、魔穴を初めて見たときは怖かった。
分からないものを怖いと思う気持ちは、たぶん同じ。
この前、山羊を追って森へ入ってしまった子にも見送られた。
また貝殻を頼まれた。
前に聞いたときより、欲しい貝殻の大きさがずっと大きくなっていた。
本当にあんな大きな貝がいるのかは知らない。
海へ行ったら探してみる。
そういえば、里を出るとき、大樹から白い葉が一枚落ちてきた。
今は葉が落ちる季節じゃない。
たまたま落ちただけかもしれない。
分からないけど、捨てる気にはなれなかった。
最近、分からないことが増えた。
ロビたちが覚えているのに、なくなっていた集落のこと。昨日まで確かに使っていたのに、途中だけ森になってしまった道。里の近くに突然現れた魔穴と、そこで初めて見た魔物。普通の鹿だったのに、瘴気で魔獣になってしまった鹿のこと。
カギリ草の名前だけが、急に思い出せなくなったこともある。
私の《旅人》が何なのかも、まだよく分からない。
少し前なら、分からないことは嫌だった。
答えがないまま残る感じがして、早く何なのか決めたかった。
今も怖いものはある。
でも、分からないなら調べればいいと思えるようになった。
アンティルは、見たことと考えたことを分けて書けと言った。
私はまだ上手くできない。
今日の日記も、たぶん考えたことの方が多い。
でも、これは誰かに見せるためだけの記録ではないから、それでもいいことにする。
私は声が出ない。
小さいころは、それが嫌だった。
今も嫌じゃないと言ったら嘘になる。
普通に話せたら楽だと思うことはたくさんある。布を出して書いている間に話が進んでしまうこともあるし、危ないときに誰かの名前を呼ぶこともできない。
でも、何でも書かなければ伝わらないわけではない。
うなずけば済むこともあるし、嫌なら首を振ればいい。指を差せば分かることもあるし、レナルドのみんななら簡単な手の合図だけでも分かってくれる。
言葉が必要なときだけ書けばいい。
それでも、書いたものには一つだけ声より便利なところがある。
文字は残る。
森でカギリ草の名前が分からなくなったときも、私が書いた文字は残っていた。
もし私が何かを忘れても、この日記を読めば、今日の私は何を見て、何を考えていたのか分かる。
だから、これからも書こうと思う。
珍しいものだけじゃなくて、どうでもよさそうなことも書いておきたい。
おいしかったものとか、知らない鳥とか、ロビが変なことを言ったこととか、アンティルの魔法が少し格好よかったこととか。
本人には言わないけど。
今日、里が見えなくなったあと、一度だけ帰りたいと思った。
帰ろうと思えば、まだ戻れた。
走れば夕方までには着けたかもしれない。
でも戻らなかった。
レナルドを捨てたわけだからじゃない。
むしろ、帰りたい場所だからだと思う。
外へ行って、知らないものを見て、それから帰ってきたい。
そのとき母さんとジグに見せられるものを、たくさん持って帰りたい。
みんなにも話したい。
私は声で話せないから、きっとまた書くことになる。
それでもいい。
貝殻も忘れない。
明日から、もっと知らない道になる。
少し怖い。
でも、それより楽しみな方が大きい。
まずはイトゥアン。
海を見たい。
海が本当に、向こう側の見えないほど大きいのか、自分の目で確かめたい。




