02 紅之蘭 著 『天才紅教授の魔法講義 其の十六』
16 長寿
―― 島村学科長談 ――
人里遠く離れた奥深い山を「深山」といい、山奥深くにある静かな谷「幽谷」といいます。これを四字成語にすると「深山幽谷」。人跡未踏の奥地にある神仙境を意味することになるわけです。これは水墨画のテーマになるところです。
山水画の起源は中国にあります。
昔、彼の地では近親婚を避けるため家長は、遠方にある異なる氏族から嫁を貰っていたといいます。周りに味方のいない嫁は己の地保を固めるため、子供をたくさん産んで見方を増やしたり夫を脅迫したりして、次第に舅・姑・小姑から婚家の実権を奪って乗っ取りますので、家長は恐妻家になりやすい。――他方、家長が少しでも余財があると、親類縁者が群がり金を無心にくる。なんとも煩わしいことでしょう。――家長は一人になりたい。ゆえに山水画に描かれる人物は男性一人だけが描かれることになります。
これに対して山水画が日本に伝わるとどうなったか? 日本の山水画で描かれているのは、男性友人を集めてワイワイと酒盛りをしている様子です。
作者未詳のその絵には仙女が描かれていました。
先日の学会で上京した私は、神田の古美術店で素敵な山水画を見つけ、なけなしのヘソクリをはたいて買いました。会計を済ませる際、店主がこんなことを言いました。
「中国・桂林には及ばないですが、なかなか風光明媚でございましょう。実をいいますとね、モチーフになった場所は実在するのですよ」
「ほう、それはどこに?」
「静岡県西部の宮川を遡ったところです。戦後直後に洪水があり、お膳やお椀が下流の人里に流れてきました。『この里こそ宮川の最上流と言われてきたのだが、川をどこまでも遡って行った秘境に、隠れ里があるに違いない』という噂がたちました」店主はそこで一度咳払いをして、「この噂を聞きつけた民俗学者・折口信夫が、門下生たちと探検隊を組織して、川の上流を目指したのです」
静岡県・宮川の支流を犬居川といい、従来、最上流にある人里だと呼ばれてきたのが犬居村です。折口先生ら探検隊は村在住の猟師の案内で、犬居川を遡って行く。民俗学ではかつて、西方浄土思想というものがあったことが知られています。
人が住む里山を小川に沿って西へ向かう。人里から離れて行くと、まず入山、さらに進むと奥山となり、そして人跡未踏の秘境を遡ってゆくと意外にも、人里を見つけて驚くことになる。隠れ里・神仙境だ!
「――だがその隠れ里は洪水で、壊滅していた?」
「その通りです。生存者は若い娘が一人だけ。折口先生一行は娘さんを保護して下山いたしました。彼女には画才があり、郷里を絵にしたといいます」
「なるほど。深山幽谷を振り返る仙女こそその娘さんだというわけですね。――ところで、その女流画家はその後、どんな人生を送っていらっしゃるのでしょうね?」
「彼女は画家であり、学者でもあったといいます。そして、ほとんど歳をとらない。周囲がハイエルフだの八尾比丘尼だのと騒ぐので、定期的に居所を変えている。藤原紅子というのが本名のようですが、最近は黄戸島に渡り、紅藤絵と名乗っているのだとか」
*
―― 述者・縫目フラ子 ――
小笠原諸島にある黄戸島村立大学。イケオジな島村教授の学科長室の壁に飾られた日本画は、山水画と見返り美人とを合わせたような絵柄だ。切れ長の双眸をした美女は、白い直垂・水干に立烏帽子、白鞘巻の刀をさす〝白拍子〟のいでたち。
―― この人、見覚えのある顔だ。もしかして?
絵を眺めながら、学科長の奨めでソファに座り、珈琲をごちそうになっていた私を呼ぶ声に気づき、戸口を見遣る。するとそこに、――紅教授が立っていた。
「悟ったなあ!」
ぎゃっ。
了




