第四話
季節は変わり、朝晩が肌寒くなるころ。レティを連れて店舗の隣にある教会に足を運んだ。
「教会には何をしにいらしたのです?」
「お掃除と片付けの手伝いね」
興味津々という表情で笑うレティは、もうすっかり体調を取り戻していた。今日の彼女は襟と袖口に白いレースをあしらったチェック柄のワンピースを着て、滑らかな髪は後ろでひとつに結えている。それがまるで猫の尻尾みたいに揺れるのよ。ああ、かわいい。どちらもレティの仔猫のような雰囲気によく似合っている。全方向完璧よ、死角はないわ!
レティが愛を捨てた日から、およそ四ヶ月が経っていた。
あの日を境に、レティはどこか遠い場所を思い浮かべるような目をしなくなった。その代わりに、しっかりと前を向いて毎日幸せそうに笑っている。そうよ、それでいいの。フォルテューナは微笑んで、まぶしそうに目を細める。
「それにしてもレティが目の覚めるような美少女だとは思っていなかったわ」
「なななななにをいきなり言って……!」
特徴的なのはやっぱり目元よね。ぱっちりとしてちょっとだけ吊り目なのよ。それがなんとも言えない愛嬌があるの。肌も白いし、ほっぺはふっくらとして、唇はほんのり赤い。一見すると気の強そうな美少女なのに、実は口下手で、照れ屋さんで。そんなレティがはにかみながら上目遣いで微笑んでごらんなさいな。若い男の子なら一撃でしょう。元婚約者も一目惚れだったみたいだし。
周囲を見回したレティは瞳を輝かせる。
「お店のほかに、教会への奉仕までされているのですか! フォルテューナさんは働き者ですね!」
「教会という場所がね、いろいろと便利なのよ」
愛を求める人が集う、そういう場所だから。
「レティ!」
「アンナさん!」
「ちょっと見ないうちにずいぶんと育ったね!」
道の向こう側から籠を抱えたアンナさんが姿を現すと、レティは満面に笑みを浮かべて駆け寄った。フォルテューナが籠を受け取ると、レティはアンナさんへと抱きついた。あらまあ、甘えちゃって。するとうれしそうに表情をゆるめたアンナさんがレティの背をなでながらフォルテューナにそっと囁く。
「こうしているとね、迷子の仔猫を手懐けた気分になるんだ」
「ふふ、わかります。実は私もなのです」
保護した仔猫の傷を手当てをして、ご飯を食べさせて。元気になるようにと願うところまで一緒だ。
「これから教会のお掃除かい?」
「はい、カメリア様に頼まれていたのです」
「あの方も高齢だからね。フォルテューナが手伝ってくれるなら喜ぶだろう」
カメリア様はこの寂れた教会を一人で切り盛りする修道女だ。親切だし、皆に優しい人で、子供好き。はじめてお会いするけれど、レティのこともきっとかわいがってくれるに違いない。
「私もお手伝いします!」
「うんうん、レティは良い子だ。しっかりと働くんだよ!」
頭をなでられて喜ぶレティは、やっぱり素直で良い子なんじゃないかなと思う。
「レティ、籠を台所に置いてきてくれないかしら? 惣菜はあとで一緒に食べましょう!」
「はい!」
レティは元気よく駆け出した。仔猫の尻尾のような髪が見えなくなるまで見送って、フォルテューナは口を開く。
「もしかしてレティのことですか?」
「ああ、そうだ。少しずつだけど噂になっているよ」
アンナは、先ほどまでとは一変して厳しい表情を浮かべている。
「連れ戻したからといって、全てが丸く収まるわけがないでしょうに。浅はかな人達だ」
ロアルディ家はレティを諦めていなかった。
フォルテューナは、アンナにだけはレティの生い立ちと逃げ出した理由を教えている。仕事柄、彼女の周囲に人が集まるから情報が集まりやすいと思ったからだ。隙を見て、ロアルディ家の手が届かない場所にレティを逃すためにも情報は大事。
そうしたらアンナは激しく怒り狂い、なんとしてでもレティを守るとロアルディ家と商会の情報を恐ろしい勢いで集め出したのだ。しかもこれがまた慄くほどに精度が高い。これだけの情報をどこからどうやって……やり方はわからないけれど一番敵に回してはいけないのは彼女のような人だ。
「レティが逃げ出してから間もなく半年くらい経つだろう? ちょうど半年前くらいからロアルディ商会の扱う薬の質が悪くなったんだ。特に麻酔薬と麻痺薬の質は明らかに下がったそうだ」
「でしょうね。表向き姉が作っていたことになっているけれど、実際のところは、彼女が遊び歩いている間にレティが作っていたようですから」
レティの作る麻酔薬と麻痺薬は看板商品になっていたから、受けた打撃も大きかったようだ。取引先からは契約を打ち切られ、国外に輸出する量も明らかに目減りしているらしい。売り上げも当然下がるから、今までのように派手に遊び歩くなんてこともできない。
「そのうえ、薬の効きが悪いから軍の討伐にまで影響が出るようになってね。褒賞を授けたのに怠慢だと国からお叱りを受けたそうだ。しかもそれだけでは怒りが収まらないようで、今後改善が見られなければ子爵家と商会に査察が入るそうだよ」
「査察はいつ頃だと聞いていますか?」
「猶予は半年くらいと聞いている。それでも改善が見られなければ、査察を行なって結果を公表するそうだ」
「半年も我慢できるかどうか……あと三ヶ月が限度でしょうね」
国の行う査察を甘く見てはいけない。厳しいと評判の取り調べを受けたら、おそらくロアルディ家はレティのことを話すだろう。そうしたら国は総力を挙げてレティを探すに違いない。適性が毒特化だと知れたら余計にだ。その前に、あの子をこの国から逃さなければ。
「手はあるのかい?」
「いくつか心当たりがありますが、できれば彼らの想定の上をいく意外性のある逃走経路がいいですね」
アンナは思案するフォルテューナの顔を心配そうな顔で見つめていた。大丈夫、ここから先はフォルテューナの腕の見せどころだ。しっかりとうなずいたところで、レティが駆け戻ってくる。
「アンナさん、帰るのですか?」
「そんな寂しそうな顔をするんじゃないよ。また来るからね。じゃあフォルテューナ、頼んだよ」
「ええ、お任せください」
「まだ来たばっかりなのに」
「お店の開店準備があるからね。あなただってこれから往診があるでしょう?」
するとちょうどアンナと入れ替わるようにしてダリオ先生が姿を現した。ここにきた当初からレティを診察してくれている主治医で、フォルテューナとも長い付き合いのある医師だった。
「ようこそ、ダリオ先生。あら、今日はライアン先生もご一緒なのね!」
「ああ。忙しいくせに、どうしても一緒に行きたいと粘られてな」
「ちょ、ちょっと、先生! それは言わない約束でしょう!」
先々月くらいから、ダリオ先生の助手であるライアン先生が一緒にくるようになった。セントアイル王国で医師免許を取得し、経験を積むためにこの国にきたそうだ。ちなみにライアン先生はダリオ先生の甥っ子にあたるのだとか。レティは先ほどからそわそわしていたが、視線がライアン先生と合うと彼女の頬が赤く染まった。
「あ、あの、よろしくお願いします……」
「こちらこそ」
おやおや? さっきまで元気いっぱいだったのに、恥ずかしいのか。そしてライアン先生の頬も、ほんのり赤かった。あわてて眼鏡の位置を直していますが誤魔化しきれていませんよ! ほんの少し頬の赤いライアン先生が、真っ赤な顔をしたレティの手をとった。
「じゃあ診察しようか」
「ライアン、主治医は私だが?」
「夜勤を代わってあげたでしょう? レティは私が診察します。そばで見るだけにしてください」
「ええーー! って、わかったよ。わかったから睨むんじゃない」
おやおやおやおや……これは、もしかして? ニンマリとフォルテューナの口角が引き上がった。そのままの体勢で、そそっとダリオ先生に近づく。
「いいのですか?」
「いいわけないだろう、公私混同も甚だしい」
「でも許してらっしゃる?」
「レティを診察できる腕はあるからな。患者と症例にしか興味のなかった甥にも遅い春が来たみたいだ」
年齢的にはレティの七つ上、ちょっと歳上だ。でも事前調査では医師として優秀で、生活面にも大きな問題を抱えてはいなかった。レティを一人前の淑女として扱ってくれるし、彼女もそれが嫌ではないらしい。レティはエスコートする手に自分の手を添えて、幸せそうに笑っている。
これよコレ、この意外性が大事なのよ!
「彼、いいですね。もらってもいいですか?」
「まさかおまえさんが、か? 春が来るには、いくらなんでも遅すぎないか?」
「いろいろな意味で失礼ですね! 私じゃありません、どうみても相手はレティでしょう!」
「レティも成人しているからな。まあ本人同士が納得して、それでいいなら良いだろう」
さて、吉と出るか凶か。時間も惜しいところだし、軽くレティを突っついてみよう。ダリオ先生とライアン先生が帰ったあと、ぼんやりと窓の外を見つめる彼女にハーブティーを満たしたカップを差し出した。
「ライアン先生が好き?」
ハッとして振り向いた彼女の顔は夢見る少女のものではなかった。立派な大人の女性のもの。……そう、すでに愛しているのね。
「おかしいですよね。愛を捨てたばかりなのに、すぐに別の誰かを好きになるなんて」
「違うわ。愛を捨てたからこそ、新しい愛を手に入れる余地ができる」
うつむいたレティの頭をなでる。こんな呆気なく誰かを好きになるなんて思わなかったのだろう。
「この店で愛を買い取るのはそれが理由なの。愛に縛られて幸せになれない人から、いらなくなった愛を買い取る。人間は器が小さいから、一度にはたくさんのものは持てないのよ。だからね、愛を失ったレティがライアン先生を好きになるのはむしろ当たり前のことなの」
「でもまた失ったらと思うと、こわくて……」
そうだ、レティには薬師として欠陥がある。医師の治療に必要な回復薬と治癒薬が作れないのだ。それを知られたら、また愛を失うかもしれない。そう思うと一歩が踏み出せないでいる。自信がないのね、フォルテューナは眉を下げた。この手はあまり使いたくないけれどしょうがない。とっておきのカードを切ろう。
「レティ、よく聞いて。ロアルディ家があなたを探している」
彼女は、一瞬びくっと肩を振るわせた。家族への愛は失っても受けた傷は消えない。彼女の脳裏には家族から与えられた苦痛がよみがえっているのだろう。レティはもはや彼らを家族とは思っていないけれど、彼らは違う。再び彼女を探し出して、自分達への愛に殉じさせるため必死なのだ。
「彼らに見つかれば再び元の生活に戻されるでしょう。今のあなたに彼らの仕打ちを許容できるかしら?」
「そ……、そん、そんなもの許せるわけがないわ!」
「ええそうね、私だって許せないわ」
そうよ、怒れ。あなたの愛はそんなに安くない。企む顔で笑って、フォルテューナは人差し指を立てた。
「あなたに選択肢をあげる。ひとつはライアン先生を口説き落として一緒にセントアイル王国に連れて行ってもらうこと。先生は滞在許可証の更新手続きのために国へ戻られるそうだから、婚約者として一緒についていくというのはどうかしら?」
「ここここんやくしゃー⁉︎」
レティが真っ赤な顔で目を丸くした。そしてもうひとつ、今度は二本目の指を立てる。
「マウケーニア王国に知り合いがいるのよ。話をつけてあるから、その方を頼って逃げなさい。ただし、この場合はマウケーニアに一人で逃げてもらうわ。できれば目立たず、着くまで誰にも知られないようにしなくてはならない。旅の途中で邪魔が入るかわからないし、最悪の場合、見つかって無理やり連れ戻されるという危険もある」
たった一人、自分の力だけで他国まで逃げ切る。リスクは伴うけれど、一人で生き抜く経験値と自信がつくだろう。それもまた選択肢としてはふさわしい。
「言っておくけれど、ひとつめも、ふたつめも今のあなたなら十分に達成できるわよ。すでに平民と混じって生き抜くための力と知識を身につけているのだから」
ここにきて約半年。一人で生き抜く力をみっちりと鍛えてきたのはこの日のためだ。
「期限は今日から三ヶ月以内よ。それを過ぎれば今度はロアルディ子爵家だけでなくセアモンテ王国が相手になる。規模も権力も桁違いだからこちらのほうがより厄介な相手よ」
「……!」
「今のあなたには、それだけの価値があると自覚なさいな」
そして最後に、彼女にとって一番厳しい現実を突きつける。
「もし一人で逃げる気なら、事前にも事後であってもライアン先生に居場所を知らせてはダメよ」
「ど、どうして?」
「中途半端に巻きこんでしまえば、先生の身を危険に晒すからよ」
芽吹きつつある愛を失う覚悟もあるか。そう問われていることに気がついてレティは勢いよく顔を上げた。
「本当はもっとゆっくり決めさせてあげたかった。でもね、状況がそれを許さないの」
聡い子だからここまで言えばわかるだろう。小さく息を吐いてレティは黙り込んだ。さあ、どちらを選ぶかしら。まあ、もう決まっているようなものだろうけれど。ひっそりと笑い、フォルテューナはわざとらしく声を上げた。
たまたま偶然、手に握りしめていたペンを掲げて!
「あらあら! ライアン先生ったら、こんなところに大事なペンを忘れていったようね!」
「えっ!」
「どうしてこんなところにあるのかしらー? ああきっと、診療録を書いていたときに忘れてしまったのでしょう! 大変、届けてさしあげないと!」
わざとらしい? いやいや、どういうわけか手元にあったのよ不思議よねー。首をかしげると演技が大根……って誰かの声が聞こえた気がするが、今大事なのはそこじゃない。レティがすぐに立ち上がった。
「わ、私が行きます!」
「あらそう、助かるわー! そうそう、ライアン先生はきっとガーゴイルの噴水のあたりにいる気がするの。忘れたことに気がついて取りにいらしたのかしらー? こういうときの私の勘はとってもよく当たるのよー! でも、もう夕方だから、ちゃんと話し合うなら後日になさい。日にちと時間さえ決まれば場所は提供するわ」
「はい、ありがとうございます!」
そう、それがあなたの答え。いってらっしゃいー!
真剣な表情で飛び出して行ったレティは、暗くなる前に帰ってきた。しかもライアン先生のエスコートつきで。やるわね、でも紳士ならそのくらいの配慮はできて当然でしょう。あなたの忘れ物を手繰り寄せた黄金の右手に感謝なさい!
そして迎えた翌々日。話し合いの場を設け、きっちりと話し合ってもらった。お互いの気持ちを確かめ合った二人は、手を携えて頬を染めながらフォルテューナの前に姿を現した。
「私、ライアン先生と一緒にセントアイルへ行くことにします」
レティは自分が薬師の家系であり、適性が毒特化であることも話したそうだ。そして回復薬や治療薬が作れないということも包み隠さず話した。嫌われるかもしれない、でもありのままの自分を選んで欲しかったから。それで断られたら、すっぱりと諦めようとしたらしい。だけど先生はレティの事情をまるっと受け入れた。それはもう、レティが驚くくらい呆気なく。
『なんとなく、君に事情がありそうなことは気がついていたんだ』
『そうなのですか?』
『小さいころから相当高度な教育を受けていなければ薬の効果効能をここまで正確に詳しくは語れないよ。医者だけど、私にもそこまで深い知識はない。薬については専門書で調べたり、薬師に直接尋ねることもあるくらいだ」
『ですが私は薬師なのに、人を癒す薬を作ることができないのです』
『その代わり治療を手助けする薬が作れるのだろう? しかも、効果が高くて少量でもよく効くものが』
『っ!』
『見方を変えるだけで短所は長所になるものなんだよ』
自分が当たり前だと思うことが実はそうではなかった。外界から遮断されて生きてきたレティは、自分がどれだけ狭い世界で生きていたのかと衝撃を受けたという。
『君はもっといろいろな世界を見て知る必要があると思う。どうだろう、君の手伝いをさせてもらえないだろうか? その代わり君は私に薬の知識を授けてほしい。医師である私には君の知識だけでも十分に価値がある』
よくやった。フォルテューナは内心でライアン先生を褒め称える。ロアルディ家は回復薬や治療薬といった人を癒す薬を重視していたから、毒しか作れないレティの価値を低く見ていた。でも医師であればレティの知識や技量を正しく評価してくれると思っていたのよね。
だって医師からすれば治療薬や回復薬も、麻酔薬や麻痺薬だって人を救うために必要な薬なのだから。
「連れて帰ったとして、先生はレティをどうされるつもりなの? 身内ではない未婚の女性を連れて帰るのですから、ただの引率だったという言い訳は通用しませんのよ?」
レティの覚悟を蔑ろにしたらただじゃおかない。鋭いフォルテューナの眼差しを静かに受け止めたライアン先生はただ幸せそうに笑った。
「結婚して、私の妻になってもらいたいです」
結婚して私の妻にのあたりで、レティが恥ずかしそうに下を向いた。まだまだ詰めが甘いわね、簡単に信用しちゃダメじゃないの。外堀はきっちり埋めさせていただきます。
「そんな大事なことをあっさり決めてしまってもいいのかしら?」
「彼女は回復薬や治癒薬を作ることができない。それなのに治癒薬や回復薬の知識も潤沢に備えている。材料や製薬の手順だけでなく、用法用量まで。彼女は自分が作れないとわかっているはずなのに、できないことから目を逸さなかった。それこそ現実と勇敢に向き合ってきた証です。医師としてだけでなく、一人の人間としてもずっとそういう芯の強い女性を探していました。それがようやく見つかったのだから、何がなんでも手放したくないと願うのは当然でしょう?」
「ライアン先生……」
柔らかく微笑んで、先生はレティの手を握った。
「事情は知らなくても診察すればわかるよ。たくさんつらい思いをしてきたはずなのに、それでも君は笑顔で前向きに生きようとする。そんな君を好きだと自覚したときに、こうして事情を聞いて覚悟を決めた。しがらみなんて捨てて、私の国で一緒に暮らそう」
「ですが一度レティを連れて出国したら二度とこの国には戻って来れませんわよ? それでもよろしいの?」
「医師の仕事はどこでもできます。正直なところ、レティが幸せに暮らせる場所なら私はどこに住んでもいい」
ですって。男性は一度火がつくと溺愛の度合いが深くなる人もいるのよね。レティったら、せっかく檻から逃げたのに今度は別の意味で執着されそうだけれど……まあいいか。
矛盾しているようでも本人が幸せなら、それもまた愛なのかもしれない。