第三話
『陽が落ちてきた、そろそろ帰ろう』
『ええ、あなた』
遠くで遊ぶ子供達を妻が呼び戻す。軽やかな笑い声を立てて四人の子供達が駆け戻ってきた。戦果を自慢する子供達にうなずいて褒めてやりながら、ゆっくりとした足取りで館に帰っていく。騒々しいけれど、かけがえのない幸せに満ちた最高の時間だ。
『幸せだな』
『私もそう思うわ、愛おしいローレンス』
これ以上の幸せがあるだろうか。ローレンスは愛する妻をエスコートしながら彼女の手を握り返した。
家に着くと、夕焼けに染まる庭の片隅で庭師が切った植木の枝を処分している。ローレンスは何気なく彼の手元を覗き込んだ。すると彼の手に見覚えのある植物の小枝が握られていて、訳もなく心臓がどきりと跳ねる。
『おかえりなさいませ、旦那様。出迎えもせず申し訳ありませんでした』
『いや、それはいい。その手にあるものはなんだい?』
『ああ、これですか。これは月桂樹の花ですよ』
庭師が指差す先には月桂樹の木があって、金にも淡い黄色にも見える不思議な色合いの花がたくさん咲いていた。
『王城にある親木から挿し木にして増やしたうちの一株なんですがね。根付いたのはいいのですが、十年以上も花を咲かせなかったのですよ。病気かと心配していたのですが、今年になって突然咲きまして。剪定のついでに記念として採取したのですよ!』
手渡された小枝にはかわいらしい花が重なり合って咲いている。濃い緑に映える柔らかな淡黄色の花。そんな言葉を、昔どこかで聞いたことがなかったか。ローレンスの心臓がうるさいくらいに音を立てた。
――あなたの柔らかい髪は金にも淡い黄色にも見える不思議な色合いなのね。
私は何か、忘れていないだろうか?
『あなた、真っ青な顔をしてどうされたの?』
寄り添う妻は金の髪に青い瞳。庇護欲をそそる甘い顔立ちをしているけれど、それは求める彼女のものではなかった。探しているのは焦茶色の髪に、焦茶色の瞳。謎めいて、どこか自由の香りがする少女。
――ローレンスはどうかしら。勝者や英雄を思わせる美しい名だと思わない?
その瞬間、バリンと音を立てて記憶の檻が砕け散った。呆然とした表情でローレンスは月桂樹の小枝を取り落とす。真っ青な顔で震える彼を妻が激しく揺さぶった。
『あなた、どうされたの⁉︎』
『君が私にローレンスと名付けた理由は?』
『え、と突然何を』
『いいから!』
『それはローレル……月桂樹の葉から取ったと言ったじゃない』
『いつ、どこで?』
『王城の庭で、舞踏会のときに』
『それだけ?』
『え、それ以外って何が』
『どうして月桂樹と私が結びついた?』
ローレンスは冷ややかな眼差しで言葉に詰まった妻を見下ろした。
『違う、君じゃない』
妻はヒュと息を呑んだ。そして踵を返したローレンスに縋りつく。自分への情熱がローレンスから完全に失われていることに気がついたから。そして思い出した今、ローレンスの心を占めるのは別のこと。
『待って、待ってよ! そんなこと十年以上も経った今、突然言われても困るわ! ええと、今思い出すからとにかく待って!』
『思い出すも何も、君が名づけたわけじゃないじゃないか』
『……どうして、それを』
これまではうまく誤魔化してこられたのに、どうして。呆然と見開いた妻の瞳が揺れている。彼女に騙されていた、そんなことはどうでもいい。そう、十年だ。十年以上も君を待たせた。ローレンスは止める妻の手を邪険に振り解き、何事かと騒ぎ立てる家人や子供達を置き去りにして急ぎ馬車に乗り込んだ。
目指すはモンタルク公爵家。我が運命の乙女――――フォルテューナの元へ。
到着したのは夕食の時間を過ぎたころ。他家を訪問するには非常識な時間だ。だがそれでも緊急事態という理由でフォルテューナの父親であるモンタルク公爵家当主に取り次ぎを願うと、意外にもすんなりと応接室に通される。程なくして応接室にフォルテューナと同じ焦茶色の髪と瞳をした当主が姿を現した。
面と向かって顔を合わせるのはフォルテューナと婚約破棄したとき以来だ。この十数年は重要な会議で顔を合わせる以外は没交渉だった。最後に会ったときの、いかにも切れ者という印象は昔のまま。彼は迷惑そうな顔を隠すこともなくローレンスと向かい合ってソファーに座った。
『それで、突然押しかけてくるほどの緊急事態とは? 我々はそれほど親密ではなかったはずですが?』
扱いが雑すぎる。ローレンスは第二王子、筆頭とはいえ公爵が不敬だけれど咎めるわけにはいかない。
『フォルテューナはどこにいるのか教えていただきたい』
『は?』
『もしくはフォルテューナに連絡をとる手段があるなら、それを教えてくれ』
一瞬、言葉を失った当主は顔を顰めた。
『なぜいまさらフォルテューナを探そうとなさるのですか?』
なぜ、いまさら。そんなこと決まっているじゃないか。
『彼女が私の運命の乙女だからだ』
運命の乙女が守護天使を見限るなどあり得ない。心底惚れ抜いていたのだから、きっとどこかでローレンスを待ち続けているはずだ。
『……やはり解けたか』
『やはりとは?』
『いいえ、こちらの話です』
独り言をつぶやいて、当主は厳しい表情で首を振った。
『忘れたとは言わせませんよ。殿下がフォルテューナを断罪し、国外に追放した』
『あれは間違いだった。私は騙されていたのだ』
『国を統べる王族が間違えたなど許されるわけがありません。殿下が罪と断じれば冤罪だろうが、罪は罪。だからフォルテューナは決定に粛々と従って国を出ました。その先どうなったのかは我々も知りません』
『なぜだ、あなた達の家族だろう!』
『それをあなたが言いますか?』
心底失望した。そんな気持ちを隠すことなく当主は深々とため息をつく。
『あなたはあの子の婚約者だった。それなのにあなたは傷を負った娘を用済みとばかりに使い捨てたのです。さらには国を巻き込んだ断罪劇とやらのせいで娘は公爵令嬢という立場まで奪われた。公爵家から娘を強制的に奪ったのは他でもない、あなたです。それを家族なのにと責められるのは納得いきませんな』
唸るような、怒りを押し殺した声。彼らがフォルテューナを守ろうとする気持ちはわかる。だがローレンスはフォルテューナを何が何でも取り戻さなくてはいけなかった。
『あなた達に迷惑をかけるつもりはない。情報さえもらえれば、あとは私が自分で探すから……』
『ですから国を出て以降は知りませんと申し上げました』
『そんな……公爵令嬢が国を追い出されて一人で生きていけるわけがないだろうが!』
『よく言いますね。あなたがそれを望んだのです』
そうだ、そうだけれども!
ローレンスは刻一刻と追い詰められていく。早くしないと彼女は、どこかもっと遠い場所へ……自分の手が届かない場所へと逃げてしまうかもしれない。考えれば考えるほどに気が狂いそうだった。
『絶対に情報を持っているはず。とにかく何でもいいからよこせ!』
『話になりませんな、お引き取りを』
当主が部屋の外に待機させていた兵士に合図を送ると、手荒くローレンスが連れ出されていく。フォルテューナの名を叫び、逃れようと暴れる姿は尋常ではなかった。狂ったように暴れる彼の後ろ姿を当主は冷ややかな眼差しで見守っている。そんな彼の隣に次期当主である息子が並んだ。彼は王城で王太子を補佐する事務官として働きながら、密かにローレンスの動向を当主に報告する役割も担っていた。
『我々が懸念していたとおり、魔法が解けたようですね』
『ああ。元々王家は精神に作用する魔法に対する抵抗力が高いとされている。守護天使だけに、そのあたりの恩恵も手厚いのだろうな。それでもさすがフォルテューナの編んだ魔法だ。十年も保てば時間稼ぎとしては十分だろう』
モンタルク公爵家の固有魔法は闇魔法から派生したもので精神と空間に作用する。まるで呼吸するように、さまざまな高位魔法を使いこなすフォルテューナはモンタルク公爵家にとっても幸運そのものだった。将来はどれほど優秀な魔術師となるか、家族の誰もが楽しみにしていたのに。
『自分で探すと言っていましたが、国外に出ることが許されない守護天使がどうやって探す気なのやら』
『おそらく我々が秘密裏に国内のどこかへ匿っているとでも思っていたのだろう。浅はかな男の考えそうなことだ。フォルテューナが己への愛を失ったことが信じがたくて、ああやって迎えにくれば喜んでついてくると思ったか』
『すでに妻がいて子供もいるのに、いまさら離縁などできようはずもない。手に入れたとして、フォルテューナを妾にでもするつもりだったのでしょうか』
『筆頭公爵家が舐められたものだな』
窓から眺めていると、ようやくローレンスを閉じ込めた馬車が動き出した。馬車の行き先は、王城。それを確認して、後を追う息子に当主は声をかけた。
『王と王太子に伝えてくれ――――命を奪われたくなければ、一生閉じ込めておけと』
『承知しました』
『それとあの男のことはフォルテューナに伝える必要はない。筆頭公爵の誇りにかけて芽は潰す』
『もちろんそのつもりです』
あの男はこれからもずっと死ぬまで幸せでなくてはならない。そうでなければ、あの男が幸せになることを願って国を捨てたフォルテューナが報われないじゃないか。当主は窓越しに満天の星を見上げた。
『引き金となったのは月桂樹の花。花をつけなかった木が十数年経ってようやくというのは神の意思だろうな』
幸福の絶頂から、一気に奈落の底へと突き落とすために。今回のことで王も王太子も察するだろう。
守護天使は神に見放されたのだ。
運命の乙女は神が与えた唯一の慈悲。利用した挙げ句に捨てるなんて自分勝手が許されるわけがない。あの子は愛を忘れたけれど感情の全てを失ったわけじゃなかった。気の強いところや真っ直ぐな気質、無防備でお人好しなところはそのままだ。それでも手放すことを望んだのは、あの男自身の選択によるもの。
『さあて、あの娘は今どのあたりを旅しているのだろう』
たとえ離れたとしても。フォルテューナが幸せなら、それで我々は十分だ。
でももし願いが叶うなら、いつか家族の元に戻ってきますように。
満点の星の群れに一際明るくリゲルが瞬いた――――。
「……ル、……リゲル! ちょっとリゲル、どうしたの?」
「……フォルテューナ?」
「急に黙るから驚いたわよ、顔色が悪いけれど大丈夫?」
「ああ、悪い。大丈夫だ、問題ない」
話している途中に突然、他人の記憶がリゲルの脳裏に流れ込んできた。はじめての経験と情報量にふらついた体を根性で支える。またフォルテューナの前で倒れたら格好つかない。というか私が守らないととか思われたら絶対に立ち直れない気がする。
それに……少なくともこれが誰の記憶なのかはわかっているからな。
見覚えのあるチョコレートのような焦茶の髪に、同じ色の瞳。顔の輪郭や目元がそっくりだった。そうか、彼女は父親似だったのか。
不安そうに眉を寄せるフォルテューナの髪を大丈夫だという思いを込めてなでた。猫みたいに目を細めて、ふわりと彼女の表情がゆるむ。時折見せる、こういう素直なところがかわいい。
なぜ自分にこんな非現実的な状況が起きたのか。それはわからないけれど悪意は感じなかった。これも魔法なのか。情報提供、もしくは警告。フォルテューナを大切にしろという無言の圧力すら感じる。
それにローレンス王子の身に起きたことはリゲルが予想していたとおりだった。魔法の力を使っても、出会ってしまえば守護天使は運命の乙女を忘れられない。出会ったら最後、忘れられないようにできているのだ。フォルテューナに聞こえない距離でリゲルは兄の耳元で囁く。
「出し惜しみせずに」
「……あとで理由を話せよ」
「もちろん」
立ち上がり、クラウディオは覚悟を決めるように深く息を吐いた。
「それでは対価を支払う」
「ありがとうございます」
フォルテューナは誰もが見惚れるほどに美しい所作で膝をついた。
「まずはフォルテューナ・モンタルク公爵令嬢の名誉を取り戻す。王家の側に非があったことを公に認めよう。当然、爵位剥奪や国外追放という罰もなかったことになる」
それに対してフォルテューナが礼を返すことはなかった。だって冤罪を晴らすなんて至極当然のことだもの。
この決定を聞いた使用人達は顔色を悪くした。本来なら、王家が非を認めるなんてことはあってはならないことだ。しかも忘れられた歴史の闇をわざわざ掘り起こしてまで処分を取り消すなんてあり得ない。噂が広がれば各国から探られることもあるだろうし、うまく切り抜けられなければ、他国だけでなく自国の民の信頼さえ失う。
なかなか強力なカードを切ったものだ。でもね、まだまだ。フォルテューナは首を垂れたままひっそりと口角を上げた。
「まずひとつ、承りました」
「次にモンタルク公爵家には賠償を行う。王子の横暴により、娘を失った家に対する賠償だ」
教育にかかった資金、命がけでローレンスを助けたことに対する褒賞。そして将来的にどのくらい国に貢献があったかを試算し、合算した額を見てフォルテューナは目を丸くする。……結構いい金額じゃないの、こんな大盤振る舞いして大丈夫? 横に並ぶリゲルを上目遣いで見上げると、頬を赤くしながらうなずいた。って、なんで顔赤い?
「ちなみに以前、リゲルを治療してくれたお礼と、ネズミ三匹に内通者までオマケして捕獲してくれた謝礼は、これとは別で君に支払うつもりでいるよ」
「まあ、光栄ですわ! ありがとうございます!」
まさかこの期に及んで謝礼をもらえるとは思わなかった。なんでも元々謝礼はするつもりで用意していた金額に上乗せしてくれるとか。さすが王家、太っ腹ね!
「ちなみに支払いが遅れた理由はリゲルが傷の具合を白状しないから試算に時間がかかったせいだ」
「……なんですって?」
地を這うような野太い声が出た。支払いを遅らせるとは、なんて迷惑なことをしてくれているのよ。フォルテューナが毛を逆立てた猫のように威嚇すると、野生のネズミが目を逸らした。それを見た全員が力関係を理解する。やっぱり猫が上か。
ちなみに手当にかかった費用は、フォルテューナがきちっと本人に請求している。愛があったら請求しないですって? 愛を返さなくてもいいと言ったのは本人だもの。もちろんまるっと請求するわよ当然じゃないオホホホホ。けっこういい金額だったけれどそのぶん本人には教訓になったでしょう。いいわね、二度とあんな無茶をするんじゃないわよ!
「二つめ、承りました」
「それから、もうひとつ。もし望むなら貴族の身分を取り戻すこともできるが……これはどうする?」
フォルテューナは目を丸くする。もちろん想定はしていたけれどね。まさか本気でそのカードを切るとは思わなかった。カラクリは単純明快、フォルテューナをモンタルク公爵家の養女にする。それと同時にフォルテューナの伴侶であるリゲルには適当な爵位を授けて彼と共に貴族として返り咲くという古典的な手法だ。裏で暗躍するリゲルに爵位という権限を与えてやれるし、国にとっても益がある。だがフォルテューナは首を振った。
「いいえ、それは辞退いたします。目立ちすぎますもの」
最初からモンタルク公爵家を巻き込むつもりはなかった。それにフォルテューナが何十年も歳を取らないままでいるというのはいくらなんでも不自然だ。いつかどこかのタイミングで姿を隠すにしても貴族という立場では目立ちすぎる。だからフォルテューナは代わりの対価として、自分の手持ちのカードを切ることにした。
今の私は公爵令嬢じゃない、魔道具店の店主だもの。
「その代わりにですが、王子殿下のためにこちらをお買い上げくださいませ」




