第二話
真名を得たはじめての王子。彼の手記は公爵令嬢への賛辞から始まっていた。
幸運との出会いは、王城の裏庭で。名もなき王子が舞踏会の軽妙な音楽に誘われるようにして、裏庭を散策していたときのことだ。
『こんばんは』
噴水の傍らに備えられたベンチに行儀よく座る彼女と視線が合った。焦茶色の髪に、焦茶色の瞳。謎めいて、どこか自由の香りがする少女は舞踏会にふさわしく煌びやかな衣装を身につけている。王子でありながら、どうせ誰も見ないのだからと質素な装いを纏う自分とは大違いだ。だけどいつのまにか惹き寄せられて、気が付けば声をかけていた。
『こんばんは、美しい人。宴を楽しんでいるか?』
『ええ、どれもこれも豪華で選び抜かれた逸品ばかり。でも少々退屈なのよ!』
貴族令嬢にしては飾らない言葉。きっと彼女は彼を使用人かなにかと勘違いしているのだろう。分け隔てのない親しげな雰囲気を好ましく思う王子はクスッと笑った。
『そうか、じゃあゲームをしようか』
『いいわね、何をしましょうか!』
暗闇でも、瞳を輝かせているのがわかる。王子は少女の隣に座った。この時間が長く続けばいい。苦悩に満ちたこの世界で、ささやかでも心弾む時間は貴重だ。できれば終わらないでほしいと願った。
『では、私の名を当ててみて?』
どうせなら、本人ですら正解の知らない問いを。終わりがなければ、この幸せな時間は終わることなく続くはず。
『ヒントは?』
『なしだ』
『難しいわ、そうね……』
彼女は視線をさまよわせて周囲を見回していたけれど、ぽんと手を叩いた。
『ローレンスはどうかしら?』
『……え?』
『あなたの柔らかい髪は金にも淡い黄色にも見える不思議な色合いなのね。月桂樹の花がちょうどそんな色なのよ。勝者や英雄を思わせる美しい名だと思わない?』
しなやかな指が差した先には月桂樹の青葉があって、彼女は夢見るように微笑んだ。ああ、彼女はここにいたのか。王子はまるで定めのように恋に落ちる。彼はためらうことなく彼女の足元にひざまずいた。彼女はますます瞳を輝かせる。
『それで、正解は?』
『ローレンスだ』
『えっ、大当たりなの? 私、すごくない⁉︎』
『そうだ、今日このときから私はローレンスになった。さあ行こう、美しい人。家族に報告しなくては』
彼女こそ、我が運命の乙女。
意味がわからなくて目を白黒させる彼女をエスコートし、王子は舞踏会の会場を目指した。
名を得た王子は表舞台に返り咲き、婚約者となった公爵令嬢とともに甘美で濃厚な愛を育んだ。自由で、ユーモアがあって一途で愛らしい。あっという間に王子は彼女に夢中になった。愛し、愛されて、彼はこのうえなく幸せだった。だがその幸せが、ある日突然崩れ去る。
『危ない!』
『っ、ローレンス!』
宴の最中、内通者によって手引きされた刺客が王を襲った。かばう王子の胸を剣が刺し貫く。婚約者の腕の温もりと悲鳴が徐々に遠くなって、ああ自分は死ぬのだと覚悟した。国のために死ぬのは守護天使として生まれた自分の定め。わかっていたけれど、愛を知ってしまった彼の口から思わず本音がこぼれ落ちる。
『死ぬのは、こわい。お願いだ、助けてくれ』
『大丈夫、絶対に死なせないわ』
公爵令嬢の固い声を最後に王子は意識を失った。
そして次に目覚めたのは一週間後のことだった。家族は涙を流して喜んだ。だがその傍らに……彼女の姿はない。聞けば彼女は彼を救うために高難易度の魔法を行使したそうだ。術は成功したけれど、後遺症が残ってしまったそうで今は引きこもっているとのことだった。
『彼女には会わないほうがいい』
『どうして、私を助けてくれた恩人なのに!』
『会えば後悔するからだ』
王子は家族の制止を振り切って彼女に会いに行った。そして懸念は的中したのだ。王子は変わり果てた婚約者の姿に呆然として言葉を失った。
応接室で王子を出迎えた彼女に、表面上、大きな変化はみられなかった。だが話しはじめると、かつての快活さが嘘のように表情が乏しいことに気がついた。そして興味を引く話題のはずがほとんど笑わない。
まるで冷たく美しいだけの人形じゃないか。感情を失ったような彼女の姿に衝撃を隠せなかった。
『どうしてこんなことに』
『後遺症のせいで人の気持ちが理解できないのですわ』
『……そんな、私のせいで』
『私が勝手にやったことですもの、お気になさらず』
突き放す言葉に傷口は深くなる。だがこの変化は自分のせいなのだ。今度は私が彼女を救う番だと、王子は手を尽くした。だがどれだけ尽くしても彼女に変化は見られない。それどころか彼女の自直な物言いや冷たい態度がまるで物語に登場する悪役令嬢のようだと、他家の貴族令嬢から敬遠されるようになっていた。
手のひらを返すような彼女たちの振る舞いに傷つかないわけはないのに、婚約者は全く堪えていないように見える。そのことがまた、王子の心を傷つけた。これではいけない。自分のせいだ、なんとかしなければと思っても空回りするだけで、徐々に婚約者の存在そのものが負担になっていく。
彼女が私の運命の乙女でなかったら。
王子は捧げる愛に応えてくれない彼女を、いつしか憎むようになっていた。そして、そんな彼の感情を先回りするように彼女は一つの魔法を編み上げたのだ。
『愛を買い取る魔法、だと?』
『はい』
『そんなおそろしいことを、君は!』
『では、逆にお聞きします。あなたにその愛は必要ですか?』
あらためて聞かれると言葉に詰まる。だが私は彼女を愛している。そして彼女も同じはずだ。すがるような気持ちで王子は言葉を紡いだ。
『君は、私を愛しているか?』
『ええ、今も変わらず愛しているはずですわ』
熱のこもらない眼差しに、作り物のような表情。このときようやく彼女から愛そのものが失われていることに王子は気がついた。ああ、もう無理だ。私には耐えられない。完全に心が折れた王子は彼女の手を取った。
『この愛を買い取ってくれ』
『承知しました』
最後に手記はこう締め括られている。
何があろうとあなたの献身に報いたいと思っていた。だが深く愛された記憶があるだけに、どれだけ愛そうとも愛を返してはもらえない今の状況が私にはつらすぎる。最後の最後で、裏切るような真似をして本当にすまない。
我が運命の乙女、フォルテューナ・モンタルク公爵令嬢。
愛を失ったとしても、死ぬまで変わることなく私はあなたのものだ――――。
手記を読み終えたクラウディオ・リエト・セアモンテ王太子は静かに表紙を閉じた。そして見事な礼の姿勢を披露する来訪者に視線を向ける。
「お召しにより参上いたしました。フォルテューナ・パンタシア魔道具店店主、フォルテューナにございます」
「応じてくれたことに感謝する」
「もったいないお言葉にございます」
温もりのある表情に、柔らかな微笑み。礼を尽くす謙虚な姿勢に不快感を抱く者はいないだろう。もしリゲルの情報がなければ、この手記に出てくるフォルテューナ嬢と今の彼女が同一人物だとは到底思えなかった。まさに血の滲むような努力を重ねて、ようやく自分本来の姿に戻ったということか。そう思い至ったクラウディオは内心で頭を抱える。
どうやって償えというのか。
過去にたった一人、真名を得て幸せになったとされる王子。ハッピーエンドの裏側で、彼が運命の乙女に与えた仕打ちが、これほどまでに残酷だとは思いもしなかった。しかも王子の未来のために、王家は傷ついた公爵令嬢を切り捨てたわけだ。それが巡り巡って現在の苦境につながる。王家への不信と裏切りの対価が軽いもので済むとは思えなかった。
「公の場ではないから直答してかまわない」
「はい」
「何か言いたいことはあるか?」
「それでは、ひとつだけ。事前にご承知おきくださいませ。私はリゲルの運命の乙女ですが、御子の運命の乙女となれるかはまた別の話です。場合によっては、ご期待に添えない可能性もございます」
たしかに。リゲルという実績があるからそうと思い込んでいたが、運命の乙女が別にいるという状況もあり得るのだ。クラウディオが侍従に視線を走らせると、彼は静かに顔色を悪くした。今から探しても、見つかる保証もなければ見つける自信もない。彼らの動揺を見透かしたようにフォルテューナは笑みを深める。
「時間が惜しいのはお互いさまです。もし差し支えないようであれば、御子にお会いしても?」
「だが、こちらの用意したものはあなたの望む対価ではないかもしれない」
「それはそれ、これはこれです。結果次第で対価の重みが変わるのは道理。ですからリゲルにはこの本の存在と私の働きに見合う対価を見繕っていただきたいと申し添えました」
自分は弱みにつけ込む悪徳商人ではないと言いたいらしい。さてどう答えるか、思い悩むクラウディオの背後で突然扉が開いた。
「何をまどろっこしいことをなさっているのです!」
フォルテューナの視線の先には赤子を抱えた女神と見紛うがごとき美しい女性がいた。
「ディーナリンデ、起き上がって大丈夫なのか?」
「ああディーナリンデ様、お体に障りますのでご無理なさらずとも」
美しい女性――――ディーナリンデ王太子妃は、あわてるクラウディオと乳母の静止を振り切ってフォルテューナの前にひざまずいた。
「申し訳ありませんでした。この場において深くお詫びいたします」
子を抱き、深々と頭を下げたデーナリンデの姿に誰もが言葉を失う。フォルテューナは微笑んだまま微動だにしなかった。
「それは何に対する謝罪ですか?」
「まずは我々の不実な対応に関する謝罪です」
「……」
「守護天使に関する委細はクラウディオ様から聞きました。王子が残したとされる手記も読んでいます。王家があなたにした仕打ちは許されるものではありません。もし正式な謝罪が必要であれば後日、日を改めて場を設けます。ですがその前に。厚かましい母の願いでありますが、もしあなたがこの子に名をつけられるのであれば……お願いします、どうかこの子に名を授けてください。渡せるものであれば、対価は望むように用意いたします」
「デ、ディーナリンデ様! 落ち着いてください、早まってはいけません!」
急いで止めようとする乳母の手を、ディーナリンデは勢いよく弾いた。
「血迷っているのはあなた達です。対価をどうこうする前に、まずは謝罪すべきでしょう!」
誰もがハッと目を見開いて視線を下げた。フォルテューナが手渡したローレンス王子の手記と、記録に残る公爵令嬢の断罪劇。照らせばどちらに非があるのかなんて明らかだった。
「この子がかわいいのなら最良の機会を失ってはなりません」
フォルテューナの気持ち一つで御子に名をつけないこともできるのだ。ディーナリンデの咎めるような眼差しを受け止めたクラウディオは、彼女と同じように静かに膝をついた。
「クラウディオ様!」
「ディーナリンデの言うとおりだ」
「……」
「申し訳なかった、深くお詫びする」
クラウディオは知っていた。為政者として最も配慮すべきは臣民からの信頼を得られるか、だ。王家だから何をしても許されるわけではない。
すると王太子に倣うようにして使用人達も次々と膝をついた。彼らにとってフォルテューナへの仕打ちは遠い昔の出来事で完全に無関係だけれど、王太子と王太子妃が揃って膝をついているのだ。知らない顔をする度胸は彼らにはなかったらしい。緊張感が高まって、場に沈黙が落ちる。成り行きを見守っていたリゲルがフォルテューナの手を握って頭を垂れた。
「フォルテューナ、私からもお願いしたい。この子を救ってくれるか?」
視線の先には、生まれたばかりの小さな命がある。フォルテューナは膝をついてディーナリンデと視線を合わせた。視線が合うと、どちらからともなく微笑みを浮かべる。
「かわいらしい男の子ですわね」
「ええ、髪の色と瞳は父親似なのよ。それで顔立ちは私に似たのかしら?」
「将来はとんでもない美男子になることでしょう。無意識のうちにお嬢様方を熱狂させそうですわ!」
クラウディオがほんの少し眉を顰めたけれど、無視だ無視。一瞬、目を閉じてフォルテューナは微笑んだ。
「お会いできて光栄です。アシェル・ラウレテウス・セアモンテ王子殿下」
「!」
「祝福名は古語で勝利と栄光という意味です。お祝いに、ささやかですが祝福の魔法を贈っても?」
「魔法ですって……ええ、お願いするわ!」
「幸運の息吹を。アシェル王子殿下に愛と豊かな実りが訪れますように」
フォルテューナは儀式を執り行う司祭と同じように額に口づけを落とした。柔らかな風が吹いて、天からキラキラとした光の粒が落ちる。成り行きを見守る誰もが息を呑んだ。祝辞はよく知る洗礼の儀式どおり。だがいまだかつて光が降り注ぐ光景を誰も見たことはなかった。
これが、祝福の魔法。
はじめて見たが、なんと神々しいものだ。この光こそ、本来あるべき儀式の姿。魔法が失われつつある世界でこんな奇跡を目の当たりにするとは誰もが思いもしなかった。
「アシェルね、かわいい名前だわ」
「ああ、それにとても親しみやすい名だ」
ようやく我が子の名を呼ぶことができる。ディーナリンデはそうつぶやいて、ほろりと涙をこぼした。歓声が上がり、場が一気に盛り上がる。使用人達は次々と部屋を出て公式発表のために各部署へと走った。安堵したようにリゲルが深々と息を吐く。手を引いてフォルテューナを立たせると、頭頂部に口づけを落とした。
「フォルテューナ、ありがとう」
「どういたしまして」
触れる体温の心地よさにフォルテューナは目を細めた。クラウディオとディーナリンデは揃って首を垂れた。神妙な顔をしたクラウディオは覚悟を決めたように口を開く。
「奇跡を目の当たりにして、ようやくあなたのいう対価の意味がわかった」
実際に目にしてみなければ、奇跡の価値はわからない。フォルテューナはにっこりと微笑んだ。
「セアモンテ王家が聡明な王太子殿下と誠実な妃殿下を迎えられましたことを心よりお喜び申し上げます」
「あなたは今もまだ我々を恨んでいるだろうか?」
「さあ、どうでしょう。愛を忘れたときに大抵の苦しみからは逃れることができたつもりです。ですが受けた痛みだけは、今も鮮明に覚えています」
目に見える傷がないからといって、痛みがないわけではない。あの人は……ローレンスは、それに気づかなかっただけ。
「心の傷に家族は優しく寄り添ってくれましたけれど、婚約破棄と同時に国外追放を命じられましたので孤独なままで癒すなどとても」
不自然なところで言葉を切ったフォルテューナを、傷ごと包みこむようにリゲルはそっと抱き寄せる。心配そうに眉を顰める彼の腕をフォルテューナは軽く叩いた。大丈夫、もうそれほど痛みを感じない。
「離れたあとも、公爵家とは連絡を取り合っていたのかい?」
「はい、定期的に連絡を入れていました」
そしてその繋がりは現在も続いている。ハッとした表情でクラウディオはつぶやいた。
「もしかしてあなたがモンタルクの魔女か?」
「なんですの、それは?」
クラウディオはディーナリンデの耳元に顔を寄せる。
「昔、一度だけエミリアーナから聞いたことがあったのを思い出した」
子供同士の秘密だと、こっそり教えてもらったのだ。深い知恵と不思議な力を持った信頼のおける相談相手。魔女はときに知恵を貸し、ときには魔法の力で影ながら公爵家を支えてきた。クラウディオは、はっと息を呑んだ。
「歴代の王太子の手記には国難に見舞われたとき、モンタルク公爵家には幾度となく助けてもらったことがあるとの記述があった。もしかするとその手助けにはあなたの助言も含まれていたとか……?」
「さあ、どうでしょう?」
フォルテューナは店主の顔で笑った。ぼやかしたままのほうが効果的なこともあるのよ。
国外に追放されたあとも、公爵家はフォルテューナを見捨てなかった。だから手を貸したまで。国に利益を還元した覚えはないけれど、モンタルク家は筆頭公爵だから王家と関わりが深いので程よく助けとなったかもしれない。
巷でも囁かれるように、フォルテューナ・パンタシア魔道具店には魔女がいる。
ではその魔女は何を守ってきたのだろう?
「さて、王太子殿下。本の存在と私の働き。それに見合う対価をお示しくださいませ」
月桂樹には「栄光」「勝利」「栄誉」という花言葉のほかに、花には「裏切り」、葉には「私は死ぬまで変わらない」などというこわい意味もあるのだとか。お気づきのとおりに、ローレンスのイメージは月桂樹の花言葉でした




