裏話 幸運をつかまえに
――――時は遡る。
ラウルが歪んだ笑みを浮かべて、走り去ったあとのこと。
「単純な男だ」
死角から這い出た影はひとつ息を吐いて、するりと応接室に滑り込んだ。そして扉の内側の影になった部分に身を潜ませる。
「戻りました」
「おかえり」
表情を消したままのリゲルにクラウディオは微笑んだ。そしてアルセニオはリゲルに向かって騎士の礼をとる。
「噂話をわざと聞かせたのですか」
「やはり気がつくのだね、さすがだ」
「アルセニオだって気がついていただろう」
「当然ですよ。クラウディオ様が望んでいたから黙っていただけです」
リゲルが相手でもアルセニオは丁寧な口調を崩すことはない。ほぼ存在を隠されていたに等しいリゲルだけれど、ごく一部の騎士には影として顔を知られていた。ただ、彼らはリゲルを平民だと思っているようで、意味もなく怒鳴りつけたり、侮って傲慢に振る舞う者も少なくなかった。そんな中でアルセニオだけは他の王子と分け隔てなくリゲルにも敬意を払っている。
この勘の良さをクラウディオは気に入って彼をそばに置くようになったのだ。そんなアルセニオが盗み聞きする不躾な存在に気がつかないわけがない。
クラウディオは微笑みを浮かべたまま、テーブルに置かれたティーカップに手を伸ばす。中身の紅茶は少々冷めているけれど、猫舌の彼にはむしろちょうどいい温度だ。温くなった紅茶を美味しそうに一口飲んで、クラウディオはほっと息を吐いた。
「来客があってね。会談後にそのままここで休憩していたら、応接室に近づく存在がいると報告があった。誰かと思って様子を伺っていたら彼だったのだよ。それで、ちょうどいいと思ってね」
つまり半分は偶然で、半分くらいは計画のうちということか。
「第二騎士団所属、ラウル・サバティーノ」
クラウディオが呟いた騎士の名を聞いてアルセニオがわずかに眉を顰めた。
「アルセニオ?」
「申し訳ありません」
「別にいいよ。他国の目もないし、その気持ちもわかるから」
クラウディオは冷ややかに笑った。姉という婚約者がありながら、悪意ある噂に便乗して妹に乗り換えた不実な男。リゲルも影として調査したから知っている。嫌いならさっさと婚約を解消すればいいものを、悪い噂を助長するような態度をとって相手有責で婚約者を変更させるという手口はあまりにもえげつない。
ラウル本人はそんなつもりはなかったようだけれど、日頃の態度もあって周囲からはそう見えていたのだ。
「あの男は良い意味でも悪い意味でも他人に興味がないのです。適度な距離感を保ちつつ話を聞いてくれるので優しい人物に思えるのですが、チェチーリア様の件では裏目に出ました。他人のために波風を立てるのがいやだから、肯定もしないが否定もしない。婚約者をかばうことすらしなかったことで、彼の優しさが上辺だけのものだと知れて騎士団内での評価をさらに落としております」
「そうだよねー、騎士が婚約者すら守れないのに国を守れるのかという話だよ。そのうえ悪評まみれだったチェチーリアが実際は賢妃と呼ばれるくらい優秀な女性だった。ラウルのせいで貴重な人材を手放す羽目になったとイヴァーノが嘆いていたよ」
優秀で冷静沈着なイヴァーノもまた、クラウディオのお気に入りだ。今の彼は家族を切り捨てたことで世間から冷酷で容赦ない性格と畏怖され敬遠されている。だがイヴァーノ本人は評価を利用しながら楽しそうに国の裏側で暗躍しているのを援護したリゲルは知っていた。意外と図太いところのある人だから、世間の評価を逆手にとってうまいこと立ち回るだろう。
「それであの男に今の話をわざわざ聞かせたのは何が目的ですか?」
「エドガルドに頼まれていたんだ。もし不穏な動きをするようなら排除してほしいってね」
全てはチェチーリアのために。彼はラウルがチェチーリアに対して害意を抱くことを何よりも恐れていた。
「わかるよ、男の嫉妬ほど意味不明で根深いものはないからね」
「クラウディオ様が申されると妙に説得力がありますね」
「他人事じゃないよ、アルセニオ。騎士が中途半端に手を抜くから何度か令嬢に突撃された」
「あのころはクラウディオ様無双状態で、婚約者ができないから他国に移住すると思い詰める騎士が結構な数いたのですよ。彼らの上司として部下を引き留めるのが手一杯で、正直なところそこまで気が回らなかったのです」
美姫と評判だった母に似て、クラウディオは優美な容姿をしていた。しかも頭脳明晰でカリスマ性の塊。まさに女性が憧れる王子様を具現化したような男だ。そのせいで他国の姫が婚約者に決まるまでは、婚約者の座を巡って熾烈な女の戦いが繰り広げられたと聞く。そして裏では彼女達から相手にされないあぶれた男達の行き場のない嫉妬が凄まじかったらしい。
なんでも媚薬でも盛られてさっさと婚約してしまえと手を抜いた騎士がいたとか、いないとか。いや、いくらなんでも騎士がそれをやってはだめだろう、立派な職務怠慢だ。
「だから意味不明だというのだよ。彼らに理性を求めてはだめなんだ。感情でモノを考えて、それが正しいことだと思い込む。罪悪感という抑止力が働かない状態だから過激で行動が読めない。そこが余計に厄介なんだ」
表沙汰にしないだけで、どれだけ精神的に削られたことか。憮然とした顔のクラウディオはお茶菓子に手を伸ばした。
「なんだかんだ理由をつけてロレンツが婚約を避けるのは、たぶんあのときのことが原因で女性不信になったからだと思うよ。君だって男前だから守護天使じゃなければ確実に標的だっただろうね」
「比喩じゃなくて本当に手に槍持った娘がいましたからね。王家が早々にあなたの婚約者を決めてくれたおかげで、ご令嬢方だけでなく騎士の命も救われました」
「なんか納得いかないんだけどねー。まるで私が諸悪の根源みたいじゃないか」
今だから話せる殺伐とした時期があったらしい。リゲルも最近になってそのときの話を聞いたのだが、一瞬、表舞台に出られない存在でもいいと思ってしまうくらいだ。
「他人には興味がないはずのラウルがチェチーリアにだけは執着している。一人に集約されている状態だから注がれる熱量は半端ではないはずだ」
「たしかにそうなると余計に危険ですね」
命が奪われてからでは遅い。妻を溺愛するエドガルドが警戒するわけだ。
「それでは彼を排除すればいいのですね」
「そう。命は奪わずに法律に則って裁く。誰もが納得するような落としどころで頼むよ」
「わかりました。その代わり……」
「いいよ、うまく片付けてくれたら君の願いを叶えてあげる」
「……っ、それをどうして」
クラウディオは笑みを深めた。こうすると表情からは一切思惑が読めなくなる。リゲルの一番苦手とする顔だ。
「君は女性を探しているそうじゃないか。しかも彼女は……君の運命の乙女だそうだね」
アルセニオが息を呑んだ。彼もそこまでは知らなかったらしい。さすが、次期国王。情報網の広さも深さも桁違いだ。そこまでわかっているのなら誤魔化しはきかない。リゲルは覚悟を決めて顔をあげた。
「どうしても逃げた彼女をつかまえたいのです」
少しだけ、時間を。そう望んだ彼女が姿を消すなんて思いもよらなかった。しかもリゲルに何も告げることもなく、まるで元からいなかったかのように消えてしまうなんて。
「たしかに守護天使にとって運命の乙女は別格らしいね」
出会うかもわからない幸運。クラウディオは紅茶の温度を確かめて慎重にカップを口元へ運んだ。
「我々に君の覚悟を示してほしい。それができたら次期王として私も君の自由を保証しよう」
「承知しました」
「できなかったときのことを聞かないあたりが君らしいね」
もちろん、できるからに決まっている。応諾の意を示すため首を垂れながら陰でリゲルは薄らと笑った。
「最後にひとつだけ聞かせてくれないか?」
「なんでしょう?」
「運命の乙女は君になんという真名をつけてくれたんだ?」
リゲルは一瞬迷った。せっかくフォルテューナが自分のためにつけてくれた名だ。あんまり人には教えたくないのだけれど。
「リゲル・テオドロス・セアモンテ」
「祝福名はテオドロスか、いい名前だね」
クラウディオは微笑んだ。前髪に隠されているけれど、リゲルの表情が生き生きと動き出したのがわかる。本人は変化に気づかれていないと思っているかもしれないが、ずっと見守ってきた周囲の人間には丸わかりだ。
ようやく守るべきものを見つけたという顔だった。
大切な女性すら守れない人間が国を守るなんてできるわけがない。その変化が悪くないものだけに、クラウディオはできればこのままでいてほしいと願った。
「手配がありますので、失礼いたします」
「ああ、怪我だけには気をつけて」
……情報源はロレンツ兄上か。油断も隙もない。深々とため息をついてリゲルは闇へと溶けるように姿を消した。
「相変わらず恐ろしい技量だよね」
「本当に。あれが魔法ではないというのだから余計厄介ですね」
「そうだね。さて、我が弟――――リゲルはどんな結末を描くのかな」
ようやくだ。弾むような声でクラウディオは弟の名を呼んだ。本人と両親の苦悩を知るからこそ、しっかりと噛み締めるように名を口にする。そして紅茶を飲み干してから席を立った。
「祝福名のことはまだ知らないと思うから、父と母に教えに行かないといけないね」
「承知しました。先ぶれを出しましょう」
「実はね、両親は弟にテオドールという名をつけたかったらしい。だから喜ぶと思うんだ」
「それは……! こんな偶然もあるのですね」
アルセニオが驚くのも無理はない。古語であるテオドロスから派生した名がテオドールだ。そして、両方ともに神の贈り物という意味を持つ。
「どうやら相手の女性とは気が合いそうだ」
「微力ながら、我々もリゲル様の捜索の手伝いをいたしましょう」
柔らかな笑みを浮かべて、祝福するようにアルセニオは頭を垂れた。
――――そして一ヶ月後。
正規の手続きを経て、法に則り、ラウルの刑は確定した。
「汝は国の保有する鉱山において強制労働を命じる。なお、刑期は定めない」
現時点でラウルはサバティーノ伯爵家から除籍されており、身分は平民となっている。そして刑期の定めがないということは死ぬまでということだ。そんなバカな、どうしてこんなことに。判決を申し渡されてラウルは呆然となった。たしかに騎士として規律違反を犯した。しかもひとつではない、いくつもだ。それはわかっている。けれど、どれもこれも軽微なものばかりだ。一生を強制労働に縛られるような罰を与えられるほどのものではないはずだった。
「……申し渡すことは以上となる。何か言いたいことはあるか?」
「教えてください、私はそこまでの罪を犯したのでしょうか!」
騎士の資格を一時的に剥奪、もしくは一兵卒として国境線に派遣とかその程度の罰を想像していたのに。たしかにそれも不名誉ではあるけれど、挽回できる機会があれば再び騎士に戻ることだってできたはず。それなのに、どうして! ラウルの悲痛な叫びに、裁判官は深々と息を吐いた。
「あなたには常に選択肢があったはずだ。平凡でも幸せな人生を歩む道と、華々しくも一歩間違えれば他人を不幸にしかしない道。あなたは一度、選択肢を間違えた。欲望に忠実なあまり、他人を不幸にしかしない道を選んだ記憶があるでしょう?」
チェチーリアとダリアのことだとすぐにわかった。
「もちろん、だからといって次も間違えるとは限らない。むしろ人は間違える生き物だから、次こそは間違えないことを信じて見守ることも必要だろう」
「だったら、私だって!」
「だが、あなたは二度目も道を踏み間違えた。この差は小さいようでいて、とても大きい」
「……っ!」
「一度目は許されても、二度目は許されない。なぜなら今後も同じことを繰り返す恐れがあるからだ。それはもう個人に由来する問題で、いくら慈悲の心があっても見逃していいものではない」
「……」
「本人が選択できないのなら、国があなたの道を示す。周囲の人間が不幸にならないように、それ以上にあなた自身が軽微だろうと罪を重ねることがないように」
「……」
「小さな罪だから許されると思う時点であなたは誰かを不幸にしているのです。そのことを忘れないように」
はじまりはささやかな欲だった。嫉妬してくれることがうれしくて、いつしかそれだけでは物足りなくなっていて。もっと、もっとと過ちを繰り返しているうちに、状況が制御できなくなって取り返しのつかないことになってしまった。
ラウルは己が手を見つめる。手離すつもりなんてなかった、だからチェチーリアを取り戻したかっただけなのに。言葉にすればささやかにも思える願いが、それほど罪深いものだと思ってもいなかったのだ。その時点で道を踏み間違えていたのだと悟ったラウルは、もはや抵抗する気力もなくうなだれたまま部屋を後にする。
そしてその後ろ姿を隠し窓から見送ったクラウディオは王太子の顔で冷ややかに笑った。
「本当、理解できないよね。元は伯爵令嬢でも今や大国の第二王子妃だ。どう考えても手を出していい相手じゃない」
「……」
「手離してから価値がわかったとしても、もう遅すぎる。縁がなかったものとあきらめて、ささやかでも己が器に見合った幸せを掴めばよかったものを」
「それを私に言いますか?」
リゲルは深々と息を吐いた。彼もまた愛した人が絶賛逃走中だ。
「リゲルとは状況が違うよ。君は相手を利用するためにつかまえるわけじゃない、そうだろう?」
「そのつもりでしたが……答えをはぐらかされて、まんまと逃げられました」
「そういうところだよ。同じように逃げられたはずなのにね、君の場合は応援したくなるんだ」
必死に愛する人を求めるリゲルの姿は、たしかにラウルのものと重なる。けれど、似ているようで状況は全く違った。
「君の恋はまだ、はじまってもいないじゃないか」
フォルテューナを追いかけて、つかまえて。そこでようやく選択肢が生まれる。
「幸運は一度逃したら二度と捕まえられないものらしいからねー、がんばって」
とにかく逃げ足の速い猫なんだ。捕獲するまでの道のりの険しさを思い描いて、リゲルは肩を落とした。そして笑うクラウディオの視線の先では、判決を見守った聴衆が次々と部屋を出ていく。そんな聴衆の中に、救われたような顔をしたイヴァーノと、満足げな表情を浮かべるマウケーニア王国の外交官の姿を確認して、クラウディオは口角を上げた。
「誰もが納得するような落としどころだ、見事だね」
「ありがとうございます」
リゲルはこれからも決して表に出ることはないだろう。セアモンテの守護天使として国の裏側で生きる。与えられる賞賛も栄誉も、余すところなくクラウディオに差し出すという覚悟を示したのだ。
その代わり、リゲルにはもっとほしいものがあった。
「では約束どおり探してくるといい。君の運命の乙女をつかまえて、ちゃんと答えを聞いておいで」
「はい」
「ただし、振られたらおとなしく戻ってくるようにね。誘拐や監禁は犯罪だ。私は君をラウルのような犯罪者にはしたくない」
「どうして、それ……。というか振られることを前提に話を進めないでください!」
「一回は逃げられているからね。可能性が高いほうを心配するのは当然じゃないか。ロレンツからも釘を刺してくれと言われている」
「……」
さすが兄弟だ、そういうところの連携は自分以上に取れている。次期王と王弟に見張られていては、絶対悪さはできないな。深々と息を吐いてから、リゲルは臣下の礼の姿勢をとった。はじめて見た弟の姿にクラウディオは目を丸くする。
今日このときから部下に。これもまたリゲルの示す覚悟のひとつ。
「任務が優先だ。それから定期的に連絡を寄越すように。これは守れるね?」
「承知しました」
短く返事を返すと、リゲルは瞬く間に姿を消した。その様子はまさに一目散という表現が的確で、クラウディオは思わず声をあげて笑ってしまう。そして隣に控えていたアルセニオも肩を振るわせながら同じように笑っている。
「健気というか、たしかに応援したくもなりますね!」
「そうなんだよ、もうちょっと甘えてもよかったのに」
全く頼ってくれないのは、さすがに寂しいじゃないか。あんな小さく頼りなかった弟があっという間に大人になってしまった。それはうれしいけれど、兄としては少々寂しくもある。
「古来より、運命の乙女は神のものである王子を人たらしめると言われている。守護天使に神が与える唯一の慈悲だともね。死んだように生きていた弟は、運命の乙女に出会ってようやく人として生を歩み始めた。結局、我々は何もできなかったけれど、家族として幸せになれるように応援くらいはしてあげたいよね」
ノックの音がして、扉越しに侍従が全員の退席を告げる。
クラウディオは立ち上がると隠し部屋を後にした。
「さあて、ネズミは猫をどんなふうにつかまえるのかな」




