第六話
「前回、この店に来てからたった二日。それで朽ち果てた廃墟になると思うか?」
さまざまな修羅場をくぐり抜けてきた自負のあるリゲルでもこれは驚くなというほうが無理だ。こんな状況を簡単に受け入れられるわけがない。
そしてまるで嘘みたいな現実を引き起こした可能性で思いつくものなんて、たったひとつしかなかった。
「フォルテューナの魔法が解けたから」
壁の色、屋根の形、扉や窓の配置。
かすかに店の面影を留めているということは、元々廃墟だった建物を人が暮らせる状態まで魔法で改変したということになる。
リゲルに違和感を抱かせることなく虚構の空間を作り上げるなんて、規模も影響力も桁違いだ。
これだけの技量を持つ彼女に魔法でできないことなどあるのだろうか。
リゲルは建物を見上げて、ラウルを捕らえた後の出来事を思い出す。
ーーーー
「……っ、そうだ、フォルテューナ!」
建物に気を取られていたせいで、思い出すのが遅れた。
フォルテューナはどこに、無事なのか。拐われたのか。
さまざまな可能性を考慮してリゲルは周囲を駆け回る。彼の必死な様子が気になったようで、隣の教会に住む修道女が姿を現した。
「どうされたの? 誰かを探しているのかしら?」
「隣にあった店は……、店主のフォルテューナを知りませんか⁉︎」
そうだ、フォルテューナは彼女の手伝いをしていたから、彼女も異変に気がついているはず。だがカメリアと名乗った修道女は首をかしげた。
「お隣は十年以上前に家主の男性が亡くなってからずっと廃墟ですよ? それに……フォルテューナさんという方はどなたかしら?」
嘘をついているようには見えなかった。リゲルは青ざめる。
記憶の改竄……まさか人の記憶にまで彼女の魔法の影響が及ぶということか。その後も店に出入りをしていた近隣住人に尋ねたけれど同じような回答が返ってくるばかりだ。彼女は意図して自分と店が存在したという記憶を周囲の人間から消し去っていた。
どうしてこんなことを。
それに、なぜかリゲルにはフォルテューナの記憶が残されている。彼女の魔法の影響を受けたはずなのに、一片も欠けることなく残された彼の記憶は何のため?
まさか、全部夢だったとは言わないよな。
今はもう、自分の記憶すら信じられない。それなら何を信じればいいのか。途方に暮れたリゲルの視線が白いベンチに釘付けとなる。
そうだ、この白いベンチ。
フォルテューナの目の前でリゲルが傷を削り、白く塗り直した。このベンチだけは改変されることなく、記憶に残る姿そのままだった。
今となっては、このベンチだけがフォルテューナが存在したという唯一の証のように思える。力尽きたようにリゲルがベンチに腰掛けると、彼の体をふわりと柔らかな風が包み込んだ。
加護――――。
やはり夢なんかではなかった。たしかに彼女はここにいたのだ。
彼女が寝床と呼んだ白いベンチ、ひっそりと残された加護の魔法。何も告げずにリゲルの元を去る、それが彼女の出した答えだった。目元を押さえ、リゲルは深くうなだれた。
「つまり置いていかれたということか」
それにしてもひどい話だ、何も言わずにいなくなるなんて。
同じことをした覚えのある自分が文句を言う筋合いはないけれど、それでもこの状況には文句のひとつも言いたくなる。
「……逃げるなと言ったのに」
リゲルはフォルテューナの深い知性を湛えた瞳が好きだった。
柔らかな唇の感触も、陽だまりのような甘い香りも。気の強さや遠慮のない率直な物言いも、熱に浮かされたリゲルの頭をなでる手の感触も覚えている。
運命の乙女だからという理由以上に彼女自身を愛していたのに。
『リゲルにしましょう。狩人座の左足、青白き星の名よ』
はじめて自分の名を呼んでくれた人だった。
リゲルの命をこの世に繋ぎ止めて、見返りを求めることなく支えてくれた人。
ようやく掴んだ幸運を、彼女はこんな中途半端な結末であきらめろとでもいうつもりか。
「……冗談じゃない、あきらめてたまるか!」
リゲルは拳を握りしめて、つぶやいた。
どうしても彼女の口から答えが聞きたかった。だから逃げたリゲルを追ったフォルテューナのように、今度は自分から彼女に会いに行く。
心落ち着かせるように深く息を吐いて、リゲルは自嘲した。ラウルのことは責められないな。自分だって捨てられたくせに、まだこんなにも深く囚われている。
「フォルテューナを探そう」
いなくなった彼女の痕跡を探るために廃墟へと足を踏み入れた。
ーーーー
リゲルは屋根の上で呑気に回転する風見鶏を見上げた。
あの日、結局何も見つからなかった。以降もずっとリゲルは逃げた彼女を探し続けているけれど、腹立たしいことに逃げた幸運の尻尾は掴めそうで、なかなか掴めなかった。
日を置いて、今日ふたたびこの場所を訪れたのは、もしかすると何か見つかるものがあるかと思ったからだ。
『幸運はね、一度逃したら二度と捕まえられないものなのよ』
オリヴィアの言葉を思い出したリゲルは唇を噛んだ。
たとえ逃げたとしても、幸運はどこかに身を潜めているはずだ。
鋭い眼差しでリゲルは朽ちた建物をもう一度見上げた。
「フォルテューナが消えた理由にはラウルの件があったからだろうな」
ラウルがこの場所を目指していると聞いたときに確信は深まった。
あれは魔法なのか、それとも積み重ねた経験則なのか。ときどき彼女は恐ろしいくらいの勘の冴えをみせることがあった。おそらくだが何かきっかけがあって今日のような出来事が起きることを察したのだろう。
オリヴィアのときのように、チェチーリアが店でラウルへの愛を買い取ってもらったのかはわからない。
けれど、もしラウルの勘が当たっていたとすれば、狂わされた男の執念でこの店にたどり着いたということになる。
面倒なことを。リゲルは深々と息を吐いた。
「ラウルは婚約者を愛しているわけではないのに。迷惑だな」
彼は婚約者が自身に与えてくれる恩恵を取り戻したかっただけだ。
取り戻すためには愛が必要で、フォルテューナの店の噂を聞いた彼は失った愛がそこにあると信じた。
そしてフォルテューナは買い取った愛を守るために姿を消した、そんなところだろう。
「では彼女は今、どこにいる?」
きっと誰もが思いもよらないところに隠れているに違いない。
したたかで気まぐれな猫のように、物陰から右往左往している人間達をしらっとした顔で観察しているのだ。
そう思うと、リゲルはなんだか少しばかり腹立たしい。
「絶対つかまえてやる」
そのためには、せめて彼女につながる何かがほしかった。
フォルテューナの気の強さを知るリゲルは彼女が一方的にやられたままでいなくなるとは思っていなかった。
彼女のことだから何か自分のいた痕跡を残しているはずだ。欠けることなく残されたリゲルの記憶はきっとそのためのもの。
彼は朽ちた扉をくぐって店内に足を踏み入れた。
結局あのときは何も見つけることはできなかったけれど、今でもここに何か残されているような気がしてならない。
床下から飛び出す雑草を踏み越えて、もう一度奥まで進む。このあたりは商品をしまう倉庫があったところ。だがやはり割れたガラスや折れた枝しか見つけられなくて再び出口まで戻ってくる。
周囲を見回して、間取りと家具の配置を思い浮かべる。壊れて窓枠だけになってしまったけれど、あの窓際にはテーブルがあった。テーブルには来客用の茶器や飲み物がきれいに並べられて、使わない食器は台所脇の食器棚にしまわれていたはずだ。フォルテューナの店は魔道具だけでなく骨董品も扱うだけあって、古いけれど質の良い食器が置かれていたのを覚えている。
そういえば店にあった大量の商品はどうなったのか。まさか家財道具と一緒に移動したとか……途方もない魔法の力を持つフォルテューナなら、そのくらいは余裕でできそうな気がする。
そしてここには文机があって……思い出したリゲルが手を伸ばしたときだ。無造作に伸ばした手が固さのある何かに触れる。途端にガタンという、物が落ちてくるような大きな音がした。
「……っ、罠か!」
衝撃に備えてリゲルはとっさに身構えた。だがそれ以上の衝撃は襲ってこない。
その代わり、まるでリゲルの記憶に引きずられたかのように突然文机が姿を現したのだ。
――――まさか、嘘だろう?
リゲルは震える手で文机に触れた。感触も、傷がついているところも。朽ちた建物にはそぐわない飴色になるまで大切に使い込まれた文机は間違いなくフォルテューナのものだった。
間違いない、これは本物。
きっとここには彼女に繋がる何かが残されている。リゲルは慎重な手つきで文机の細部を探った。そして最後に文机の引き出しを開ける。この引き出しには地下室の鍵がしまわれていたはずだ。すると引き出しには鍵の代わりに紙が残されていて、たった一行、文字が綴られている。
悔しかったら、つかまえてみなさい!
フォルテューナの筆跡だ。彼は何度も文字を見直すと、やがてその場に座り込んだ。ほんの少しだけ視界が滲んで安堵したように深々と息を吐く。……よかった、無事で。命に別状はないと信じていたけれど、この世に絶対はないということもリゲルは知っていた。
「まったく、心配させて」
きっと今ごろいたずらが成功したと喜んでいるに違いない。
悪巧みをする猫のようなフォルテューナの笑顔を思い出して、リゲルは乾いた笑い声を立てた。この手紙は家具の配置を知る人間で、彼女を直接探しに来ることができる人間に宛てたものだ。
しかも、この優しさも気遣いの欠片もない内容。
間違いなく、リゲルに宛てた置き手紙。
「フォルテューナらしいというか、人を振り回すにしても限度っていうものがあるだろう」
噂をばらまいた貴族女性に、噂を聞きつけた王太子殿下、それを盗み聞きしたラウルと彼によって無駄に召集された兵士達、そして今まさにここにいるリゲル自身。
今思うと、彼女の魔法にどれだけの人間が振り回されたことか!
降って湧いたかのように突然姿を現した文机。これもフォルテューナの魔法なのだろう。彼女の手にかかれば、なんでもありなんだな……正直なところ、リゲルは彼女の魔法に振り回された記憶しかない。
紙を裏返してみたけれど、リゲルが紙を裏返しても何もない。
表に戻して、もう一度読む。
「……本当にこれだけか?」
リゲルの口から思わず呆れた声がこぼれた。
手掛かりを残してくれたことには感謝している。フォルテューナが無事だとわかっただけでも、苦しい気持ちがほんの少しだけ軽くなった。
だが、それとこれとは話が別だ。
「どこに行くのか、せめてヒントくらいは書くものじゃないのか⁉︎」
返事があるはずもない廃墟に向かって怒鳴る。
当然、静寂が返ってきただけだった。
リゲルは額を押さえた。
「……いや、フォルテューナなら書かないな」
むしろ書くほうがおかしい。
彼女は人をからかうのが好きだ。こちらが必死になればなるほど、楽しそうに笑う。だからこれは手掛かりというより――挑戦状に近いのかもしれない。
「そういうことか」
口元がゆっくりと吊り上がる。
フォルテューナは、自分を探してほしいのだ。
だが、簡単には見つけさせない。
彼女は残した魔法の痕跡を探し、謎を解き、追いかけてくることを期待している。
「だったら乗ってやる」
リゲルは紙を丁寧に折りたたんだ。
懐へしまおうとして、ふと手を止める。インクではない。紙の端に、ごく小さな染みがあった。
「……これは?」
指先で擦ると、ふわりと潮の香りがした。
脳内にセアモンテの地図を展開する。消去法で該当する箇所を洗い出せば、そう多くはなかった。
「……まったく」
リゲルは笑った。
「どこまで人を振り回せば気が済むんだ」
リゲルはしばらく黙っていた。
やがて、深々とため息を吐く。
「そういうところだぞ、フォルテューナ」
どうやら本当に始まったらしい。
彼女が仕掛けた、長い追いかけっこが。
「待っていろ。今度は俺が、おまえを見つける番だ」
すると遠く離れた場所で――――。
「……ふふっ」
誰かが楽しそうに笑った。
それは風に紛れて消えるほど小さな声だ。
もう一度、潮の香りがする置き手紙をゆすった。
「だがこれでつかまえられないと思っているところがフォルテューナの甘いところだ」
きっとつかまえてみせる。
意地悪く笑うリゲルの手の中で、ひらひらと紙が揺れた。




