第二話
ラウル・サバティーノは不審に思っていた。
「……チェチーリアの様子がおかしい」
そう思ったのは、久々に会ったチェチーリアが実に楽しそうだったから。
彼女に関する悪い噂は落ち着くどころか酷くなる一方で、必要な外出以外は引きこもっていると聞いていたのに。
――――嫉妬深い姉が、妹をいじめている。
誰が広めたのか知らないが、そんな噂が流れていることをラウルは知っていた。
チェチーリアが妹をいじめるような人間ではないことも知っている。だから噂を否定する必要などないと思っていた。
「自分の時間を潰してまで、否定して回るほど私は暇じゃない。だってそうだろう、噂なんて飽きれば消えてなくなるようないい加減なものだ。それをまともに信じるほうがおかしい」
そういえば、彼女自身に潔白を証明させたことだってある。「神に誓えるか」と問いかければ、彼女は迷わず誓った。それで十分ではないか。
婚約者の義務であるお茶会のためにクレイン家を訪れると、ちょうど部屋から出てきたチェチーリアと鉢合わせた。
顔色がよくなって、足取りも軽い。最近はあまり読んでいないと聞いていたのに、今は本を何冊も両手で抱えている。
――――落ち込んでいたはずが、今こんなにも楽しそうなのはなぜだ?
眉をひそめたラウルとチェチーリアの視線が合った。
チェチーリアは柔らかく微笑んだ。
「ようこそいらっしゃいました」
「楽しそうだが、なにかいい事があったのか?」
「ええ、心の曇りが晴れましたの。今ではすっかり元気になりましたわ」
よく見れば、相変わらず服装は地味だが肌や髪の色艶も輝くようで、以前よりも美しさに磨きがかかっている。
ダリアのような派手さがない代わりに、知性と品のよい色気のようなものがにじみ出ていた。そんな彼女の体から、ほのかに良い香りがする。香水だろうか、自然の陽だまりに包まれているような心地良さを感じさせるいい香りだ。
きっと私を他の女に取られたくなくて努力したからに違いない。かわいいところがあるじゃないか。
美しく磨かれた容姿に、優しく人を招くような香り。彼女の女性らしい変化によろこんで、ラウルは胸を張った。
「だから言っただろう、噂を気にしすぎだと」
「そうですね。もう気にしなくてもいいのだと思うと、途端に気が楽になりました」
にっこりと微笑んでラウルとすれ違ったチェチーリアは、立ち止まることなく廊下の奥へと歩いて行く。
「おい、どこへ行くんだ?」
「これから図書室に行きます」
「図書室って……お茶会はどうするんだ?」
「ああ、それでしたら今日は天気がいいので庭に席を用意してあるそうですよ。行けばダリアが待っているからすぐにわかるはずです。好きだとおっしゃっていたチョコレートをたくさん用意しているそうですわ」
「あれか……そんなたくさんはいらないな。私には甘すぎる」
ラウルが軽く眉を顰めると、チェチーリアは驚いた様子で目を見開いた。
「まあ、そうなのですか」
「義理の家族になる人間が勧めてくるのだから断りにくいだろう。仕方なく合わせていただけだ」
「よろこんで口に運んでいらっしゃるから、てっきりお好きなのだとばかり」
「君の手作りのクッキーのほうが甘さが控えめで好きだな」
ラウルは取ってつけたように笑った。
ーーーー
その言葉を聞いたチェチーリアは軽く首をかしげる。
「それは、いつのものでしょう?」
「いつだったか、最近の話じゃないか」
チェチーリアは前回のお茶会のために作ったクッキーの末路を思い出した。
一生懸命作ったのに、ダリアの勧めるチョコレートを食べすぎたせいで胸焼けがすると一口も食べずに残したはずだ。
食べ物には罪はないからと、ラウルが帰ったあとに使用人達と残ったクッキーをおいしく食べた記憶がある。
もはや彼の中ではさまざまな記憶が混ざり過ぎて、どの記憶が本当なのかわからなくなっているのかもしれない。彼はそういういい加減なところがある人だった。
「そうだったのですね……いまさらですけれど」
チェチーリアはポツリとつぶやいた。
そう、いまさらだ。もはや気にするだけ無駄というもの。
軽く会釈して振り向くことなく図書室に向かった。
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どこか他人行儀なチェチーリアの態度にラウルは眉を顰める。
「なんだ、あの態度は。あれぐらいで機嫌を損ねたのか……まあいい、いつものわがままだろう。面倒だし、放っておくか」
チェチーリアは優秀だが、気難しいところがある。
ため息をついて、ラウルが庭に出てお茶会の会場に行くと、そこには彼女の言葉どおりにダリアが待っていた。
ラウルと視線が合うと花が咲くように鮮やかな笑みを浮かべる。
「ラウル様、お待ちしておりましたわ!」
「相変わらず花のように美しいね、ダリア」
ダリアはチェチーリアと違って素直でかわらしい。
走り寄ったダリアの手を取って、ラウルはテーブルまで誘導する。
こうしてチェチーリアを除いた状況でお茶会は始まって、ダリアはいつも以上に賑やかによく喋った。
ラウルはうなずいていたけれど、内心ではとまどっていた。
……こう、まくし立てるように話されては返す言葉を挟むこともできない。
ラウルは相槌を打つので精一杯だ。
だが肝心のチェチーリアは終わりの時間になっても姿を現さなかった。
婚約者の務めを果たさないなんてこと、かつて一度もなかったというのにどういうことだろう。
ふてくされているのか、子供でもないのに。
帰り際に文句のひとつも言ってやろうとチェチーリアの部屋に向かった。ノックをすると、彼女が扉を開けて顔を出す。
「まあ、どうされましたか?」
「なぜお茶会に来なかった」
するとチェチーリアは不思議そうな顔で、瞳を瞬かせる。
「なぜって――――婚約者ではないからですわ」
言っている意味が理解できなくて、ラウルは固まった。
「は?」
「先日、ラウル様の新たな婚約者はダリアと決まりました」
「どうして!」
「まさかご存知なかったのですか?」
今度はチェチーリアが驚いた顔をする。
「国への届出は済んでおりますし、今週末に行われる社交の場で、皆さまに婚約者の変更を周知すると聞いておりますよ。ですから問題はないはずです」
「問題あるに決まっているだろう! ダンスのパートナーはどうするんだ?」
問題はそこじゃない。自分でも見当違いのことを言っている自覚はあった。
でもラウルには想定外すぎて、どういうわけかこれ以外に言葉が出てこなかったのだ。するとチェチーリアが表情を消した。
「当然、ダリアでしょう」
「そんな」
「なぜです? 今までもそうだったじゃありませんか」
冷静に切り返す彼女の眼差しは、ラウルが見たことのない冷たいものだった。
「私という婚約者がありながら、婚約者の妹をエスコートして入場し、ダンスのパートナーまで務める。そんなことをすれば、いつかこういう未来がくることも想像できたのではないですか?」
「だがそれは君が嫌がっているとダリアが言ったからだ。私と一緒に踊るのが嫌で、君は私が贈ったドレスや装飾品を彼女に下げ渡していたのだろう?」
「いいえ、気に入らないから下げ渡したことなんてありませんよ。エスコートも、ダンスも、ドレスも。姉として妹に譲るべきだと両親にきつく言われていたからそうしたまでです」
「は……おかしいだろう、それ」
「おかしいも何も、それが事実ですわ」
「なぜ言わなかった?」
「聞かれていたら、そう答えました。それだけ私に興味がなかったのでしょう」
チェチーリアは皮肉げに口元を歪める。
「それに最近はドレスや装飾品をダリアの好みに合わせて仕立てておりましたわよね。知らないとでも思っていました?」
ラウルは言葉につまった。
ドレスを身につけたダリアは、見せつけるようにチェチーリアの前でくるりと回ってみせたのだという。
『ラウル様が私のために仕立ててくださったの』
頬を染めて幸せそうに微笑んで。
「たぶんあのときに、こうなる覚悟を決めたのです」
彼女のつぶやく声が聞こえて、ラウルはチェチーリアから視線を逸らした。
「いつも君が着ないから、いいかと」
「男性側の衣装とデザインを揃えた妹と、異なるデザインのドレスを着た姉。二人が並べば、どちらが婚約者かなんて一目瞭然でしょう。ですからたいした議論もなく、婚約者の変更が認められたのです」
婚約破棄でもなく婚約解消でもない、婚約者の変更。
チェチーリアは表情を消したまま、淡々と言葉を重ねる。
「これなら誰も傷つかない。貴族の婚姻は政略という一面もありますが、二人の間に愛があるなら、なお好ましい。今や二人は真実の愛を貫いた運命の恋人同士。社交界でも話題になっているそうですわ。よかったですわね、思いどおりになって」
「違う、そんなことは望んでいなかった!」
「そんなこといまさらおっしゃられても……信じられないというのなら、まずは家に戻られて事実を確認されてはいかがですか?」
「チェチーリア……」
思わず名を呼ぶと、困った顔で彼女は笑った。
「サバティーノ伯爵子息。癖で呼んでしまうのは仕方ないでしょう。ですが屋敷の外でお会いしたときは名前でなく家名のクレインでお呼びください。下手な噂を立てられてはダリアが可哀想ですから」
「だが、ダリアは外でも私の名前を呼んで……」
「親しさと、馴れ馴れしさを履き違えてはいけません。それこそ気遣いのできない人間のすることですわ。家族だからこそ、誤解を招かないように線引きすべきだと私は思います」
気遣いができないというチェチーリアの台詞は、かつてのラウルとダリアの関係を当てこすっているとしか思えなかった。
拗ねているだけの嘘か、それとも彼女の言うことは本当なのか。
これが最後とばかりにチェチーリアは決定的な言葉を口にした。
「とにかく私はもう婚約者ではありません。家族としての立場はきちんとわきまえておりますので、ご心配なさらず」
何の色も浮かんでいない顔は、清々したといわんばかりだ。こんなきれいに笑うことができたのか。見たものが信じられなくてラウルは言葉を失う。
「だ、だが君は私のことを愛していただろう」
チェチーリアは、幸せそうに笑った。
「いいえ、もう愛しておりません」
誇らしげに胸を張って、すっきりとした笑みを浮かべる。
「よかったです。最後にご挨拶ができて。サバティーノ伯爵子息のお心遣いに感謝しますわ」
その言葉が別れの挨拶だと、ラウルはまだ理解していなかった。




