第三話
ラウルは思わず叫んだ。
「チェチーリア!」
「さあ、お帰りください。私はこれ以上、ダリアにありもしないことで悪い噂を流されたくはありませんの」
チェチーリアの視線の先には怒りに震えるダリアの姿があった。
あんな嫉妬に狂った醜い顔をラウルは見たことがない。逃げるように馬車に乗って自宅へ戻ると、帰宅していた父親に詰め寄った。
「婚約者の変更だなんて、どういうことですか!」
すると父親は満面に笑みを浮かべて、こう言い放った。
「驚いただろう! 先日の当主同士の話し合いでそう決めた。わざと黙っていたのだ、おまえを驚かせてやりたくてな!」
「っ、なぜそんな余計なことを!」
「余計って、自分が上手いこと立ち回った結果じゃないか」
「は?」
「性格の合わない姉がうとましくなって、気の合う妹に乗り換えた。そうなのだろう?」
「……どうして、そう思うのですか?」
「付き添いの使用人から聞いている。お茶会ではダリア嬢としか話さないそうじゃないか。チェチーリア嬢は終始黙ったままで、おまえと趣味趣向が合わないからだろう。それにここ最近、社交のパートナーを務めるのはダリア嬢だ。揃いの衣装まで作って、周囲に少しずつ二人の関係を認知させていったのだな」
悪い噂の絶えない姉から、愛らしいと評判の妹に婚約者を変更する。
だからチェチーリアの悪い噂を否定しなかった。
「自分に瑕疵がないよう、上手いこと立ち回るものだと感心していたよ」
ラウルは自分の態度が違う方向に取られていたことで愕然とした。
「違います、そういう意図はありませんでした!」
「ならば、どんな目的があってあんな態度を取ったのだ?」
怪訝そうな顔で父に言われてしまえば答えに詰まる。
「クレイン伯爵曰く、婚約者の変更はチェチーリア嬢から申し出たそうだ。『そうすれば誰もが幸せになれるから』、と。自分の身を犠牲にしてまで家族に尽くすとは、冷たく見えて情のある女性なのだな!」
「そんな、チェチーリアまで!」
ラウルは真っ青な顔で首を振った。
父は残酷とも思える現実をラウルに突きつける。
「下手に動くとチェチーリア嬢が責任を被ってくれたのに台無しになる。それともおまえにすべての責任を負う覚悟があるのか?」
そこまで言われたら、ラウルは黙るしかなかった。
そして、二日後。
あらゆる伝手をたどって婚約者の変更届を無効にしようと動いていたラウルに、予想もしていなかった出来事が起きる。
「チェチーリアに縁談が⁉︎」
「しかも相手は隣国の第二王子殿下だ」
父が機嫌のいい顔をする。
第二王子殿下はチェチーリアと同い年で貴族学院に在籍していた。勉学の成績が優秀でチェチーリアと常に上位争いをしていたから名前だけならよく覚えている。
ラウルは呆然とした。
そもそも、こんな短期間に次の婚約が決まるなんてことが本当にあり得るのか。
「運のいいことだ。悪評の立ったチェチーリアに縁談が来るとすれば、後添えが必要な高齢の貴族か、金はあるが性格に難のある貴族しかいなかっただろうな」
「……そうなのか」
つぶやいて、ラウルは視線を落とした。
たかが噂のせいで、チェチーリアの立場がそこまで悪くなるとは思わなかった。
「王子が以前からチェチーリア嬢を望んでいたのは事実らしい。もっとも、その話が今になって広まったのは、国が彼女の印象を良くしたいからだろうな」
「以前から準備をしていたから、これだけ早く事態が動いたのか。」
父は貴族らしい、腹の底が読めない顔で笑った。
社交の場でも、他国の王族に望まれた令嬢を悪く言う人間はいなくなる。
ラウルの背中に嫌な汗が浮かぶ。
噂すら操る手際の良さに、ラウルは焦りを隠せずにいた。
「他国の王家からの申し出であれば縁談を受けざるを得ないだろう。おまえとダリアが結婚すれば伯爵家とは縁続きになる。これで我が家も安泰だ!」
台詞の半分もラウルの耳には入ってこない。
機嫌のいい父の口はなめらかに動く。
「ああ、そういえばダリアに必要な教育を行うから、我が家へ来るよう伝えなさい」
「そんな」
「姉が二年で修了できたのだ。ダリア嬢なら問題あるまい。愛らしく評判のいい娘が嫁いできてくれて鼻が高いよ。チェチーリア嬢は優秀だが、悪評が立ちすぎた。これ以上、我が家の名誉に傷がつくのは困る。ならば評判のよい妹に変更するほうが得策だ」
ラウルは首をかしげる。
そう上手くいくだろうか。ダリアがチェチーリアと同じくらい優秀だなんて話を、学院では聞いたことがなかった。
「……ほんの少し前まで、彼女は醜い嫉妬心を隠して笑っていたのに」
ラウルの思惑が狂ったのは、チェチーリアが自分の手を離れたからだ。
なぜ自分はあそこまでチェチーリアを追い詰めたのか。
これ見よがしにダリアを連れて歩いたのか。
この期に及んでラウルはようやく理由を理解した。
追い詰められたチェチーリアに頼ってほしかったのだ。「助けてほしい」、彼女のその一言が聞きたかった。
暗く嫉妬にまみれた顔をしていたのに、あんなきれいに笑うなんてチェチーリアらしくない。自分だけを求め、切なく笑う彼女の顔がもう一度見たかった。
「きっと誰かに唆されたのだろう。愛は物ではないのだから、そんな簡単に捨てられるわけがない」
ラウルに深く愛されていると知れば、チェチーリアはまた戻ってくる。
このときのラウルはまだ二人の再婚約に可能性があると信じていた。
ーーーー
そして今夜、王城で社交の場が開かれる。
朝になって急遽ダリアが欠席するという知らせが届いた。婚約者変更の発表も延期になる。自分にとって都合のいい展開になったとラウルはほくそ笑んだ。
そしてついにラウルの前にチェチーリアが姿を現した。
珍しく明るい色合いのドレスで着飾ったチェチーリアの姿に会場の人々が騒めく。悪評が流れて社交を控えていた彼女がこういう場に姿を現したのは久しぶりのことだった。
「あれがチェチーリア・クレイン伯爵令嬢だ」
「えっ、あの方が悪評まみれの伯爵令嬢だというの⁉︎ 聞いていた話とずいぶん雰囲気が違うわね」
「それにしても、あんな洗練されたきれいな方だったかしら?」
流れるような優美な型のドレスに金の装飾を身につけて、輝くばかりに美しい。表情や仕草も上品で、内面から知性がにじみ出る。
ラウルは欲望に塗れた視線を彼女に注いだ。
「なんてきれいなんだ……早く閉じ込めて、自分だけのものにしなければ」
声が聞こえたわけではないだろうに、彼女の横で豪奢な衣装を身にまとった男がラウルの視界を邪魔した。
「あれがチェチーリアの縁談の相手」
忌々しい存在にラウルはグッと拳を握る。
王子という身分を使い、チェチーリアを脅したのだろう。人のものに手を出して、横からかすめ取った不愉快な男だ。
だが脅されているわりには、チェチーリアは彼の隣で幸せそうに笑っている。
いぶかしく眉を寄せたラウルの前で扉が開き、王が姿を現した。
会場を見渡した王は意気揚々と口を開く。
「本日、良き知らせがある。マウケーニア王国の第二王子エドガルド殿と我がセアモンテのチェチーリア・クレイン伯爵令嬢の婚約が整った。二人の婚約は両国の架け橋となるだろう」
「皆のもの、祝福を!」
王の掛け声に応じて、静まり返っていた場に盛大な拍手が起きる。
人々の視線がクレイン伯爵と夫人に向いた。娘が王族に嫁いで、さぞかし喜んでいるだろうと思えば、二人の表情は固く顔色も悪い。
周囲の空気を察して、王が再び口を開いた。
「またチェチーリアはモンタルク公爵家の養女となる予定だ。公爵家の庇護を受けて嫁ぐ。これは両国間で調整済みのことであり、王命であると心得よ」
しんとなった次の瞬間、人々のざわめく声が大きくなった。
王命により、チェチーリアは公爵令嬢の身分を得て嫁ぐ。それは同時にクレイン伯爵家は娘を失うだけで、恩恵を享受することができないということも意味していた。
「伯爵家には問題があるのでは?」
「クレイン伯爵家と言えば、ほらダリア嬢の」
「ああ、姉から婚約者を奪ったというあの」
「ほら、あそこにいるのが婚約者の……」
途端に人々の不躾な視線がラウルに注がれる。刺すような彼らの視線にも気がつかないほど、ラウルが受けた衝撃はすさまじかった。
これではまるで縁談のために、自分が捨てられたみたいだ。
「おい、ラウル。これはどういうことだ。一体、何が起きている」
ラウルの隣では、父が顔色を青くしたり赤くしたりと忙しい。
父の考えていることはわかる。クレイン伯爵家と縁続きになっても、恩恵は得られないことに気がついたのだろう。
肩を強く叩かれても、ラウルは微動だにできない。
チェチーリアのいる場所と自分との間には、見えない壁がそびえている。
これだけ遠ければ、視線が合うこともない。
――――お願いだ。もう一度、笑って。
ただ自分だけを見て、自分だけのためだけに生きてほしい。
ラウルが願ったのはそれだけだ。
人々の好奇の目に晒されながら、ラウルはじっとチェチーリアを見つめている。
けれど、結局最後まで彼女と視線が交わることはなかった。




