第一話
「セーラが熱を出したそうだ。私がそばにいないと不安で眠れないらしい」
「まあ、それは大変ですね。お大事にとお伝えくださいまし」
ああ、腹が立つ。物語じゃないのだから、そんな毎回都合よく熱を出すわけじゃないの。きれいに笑いながら手土産の花とお菓子を受け取って、ジュリエッタ・リッツォーレは婚約者を送り出した。
「ジュリ、ありがとう! この埋め合わせはするから!」
いやだわ、あんなうれしそうな顔をしちゃって。ジュリエッタは完全に背を向けたリカルドを、あきらめたような暗い眼差しで見つめる。本当に厄介な人、このまま嫌いになれたらいいのに。
「いいのですか、ジュリエッタ様」
「……いいわけがないわね。でも病気を理由にされたら咎められないわよ。しかもこうして一応、顔は出すのだから」
ギリギリ婚約者としての務めを果たしている。そして毎度、冒頭のような理由をつけてさっさと帰るのだ。相手の家が経済的に厳しいという理由でお茶会は当家で行われることが決まっている。月一度とはいえ、準備するこちらの負担なんて、これっぽっちも考えていないのだろう。
「計画的にでしょうか。それなら余計に腹立たしい」
侍女のリリスの表情は、もはやは怒りを通り越して能面みたいに冷ややかだ。
「婚約を解消なさったらいかがですか? 別に当家は痛くも痒くもありませんもの」
「それではお祖父様が悲しむでしょう。過去に助けてもらった恩を返すための婚約でもあるのだから」
言い訳がましいと自分でも思う。もう亡くなっているけれど、お祖父様だって私が苦しい思いをするくらいなら婚約を解消してもいいとおっしゃってくださるに違いない。ただ、今の状況で婚約を解消すれば私の有責になる。悪くないのに責を負うのは腹立たしいというだけだ。
――――ずるいと思うのよ、好きになってからこの仕打ちは!
これもまた、言い訳がましい。
ジュリエッタの婚約者はリカルド・ジョルダンという。ジョルダン侯爵家の三男、そしてジュリエッタはリッツォーレ伯爵家の長女だ。ジュリエッタの下には二つ違いの妹がいるが男子はいないから、このままいくとジュリエッタが婿をとって跡を継ぐ。そしてこの婚約はジュリエッタの祖父が決めたものでもあった。
「リッツォーレ伯爵家が苦しい時代に援助してくれたのがジョルダン侯爵家。我が家が持ち直した代わりに、今度は侯爵家が傾いた。支えなければ、当家が恩知らずと謗られるでしょう」
「ですが、この仕打ちはあんまりです!」
「病気を理由にされたら、何があろうと許さざるを得ないものね」
たとえ婚約者よりも幼馴染みを優先したとしてもだ。
いつの世に、婚約者よりも幼馴染みを優先する男性がいるのか……と思っていたけれど、それが残念なことにここにいる。ああ、考えれば考えるほどに情けない。
ジュリエッタとリカルドは生まれたときから婚約が決まっていた。同い年で、幼馴染み。そしてもう一人、二人にとって幼馴染みと呼ぶことのできる存在がいた。
セーラ・ハディントン。ハディントン子爵家の娘で年齢は一つ下。歳が近く、三人とも家が近いので、幼いころはお互いの家を自由に行き来していた。
金の髪にエメラルドのような緑の瞳。肌は抜けるように白く、唇は熟れた苺のように赤い。人形のように整った顔立ちで、成長するにつれてどんどんきれいになっていった。ただ彼女は体が弱く小さいころからよく熱を出す。そんなときはいつもリカルドが付き添っていたのだが、今思うとそれが予兆だったのかもしれない。
歳を重ねるうちにセーラの身体も少しずつ丈夫になっていった。けれど共に過ごす時間が長かった二人はやがて精神的に依存するようになっていたのだ。リカルドはセーラを守ることが使命のようになっていたし、セーラもリカルドに守ってもらうのが当然という態度をとっていた。そして婚約者でありながら二人の間にジュリエッタの入り込む余地などわずかも残されていない。
今では、完全に邪魔者扱いだ。
昔は多少の交流もあったが、いろいろあってジュリエッタとセーラの付き合いは表面的なものになっている。きっかけは忘れもしない、十三歳のときのこと。疎遠になった理由はジュリエッタの描いた絵だ。ジュリエッタは絵を描くことが好きで、旅先の風景や日常生活の一場面を切り取った絵を描いている。移動するときは常に手元に画用紙を持ち歩いていて、たまたまセーラのお見舞いに行ったときも出先から直接寄ったので手元にあった。リリスに預けてあったけれど、大きさがあるので目を引いたらしい。
「ねえ、ジュリエッタ。あの大きなカバンはなあに?」
「水彩画の絵の具と画用紙よ。これを元にして大きな油絵を描いたりするの」
「ジュリエッタの描いたもの? すごいわ、見せて!」
「素人が書いたものだから下手なのよ、見せるようなものではないわ……」
「いいじゃないの。見たいわ、見せて!」
ここまで言われたら見せないわけにはいかないだろう。そう思ったジュリエッタは画用紙を広げて見せた。瞳を輝かせたセーラにあれこれ聞かれたので、旅先の話や絵にまつわる話を聞れるままに答えたのだ。すると後日、リカルドが血相を変えてジュリエッタの元に怒鳴り込んできた。
「ジュリエッタ、見損なったぞ!」
「ど、どうしたの、リカルド。そんな血相を変えて……」
「これが怒らずにいられるか! 君は病気で寝ているセーラにこれみよがしに絵を見せびらかしたそうじゃないか! しかも旅行先の楽しかった思い出や、動物に囲まれて楽しかった思い出を自慢するように話した。君の仕打ちがショックでセーラは熱を出して寝込んだそうだぞ!」
ジュリエッタは仰天した。そして即座に否定する。
「絵を見たいと言ったのはセーラのほうよ? 絵の題材についてあれこれ聞いてきたのもセーラからだし、聞かれたら答えるでしょう?」
「だが、セーラは泣きながらこう言ったぞ? まるで病気で出歩けない自分に見せつけるようだった、と」
「それならセーラが見たいなんて言わなければいいだけでしょう?」
「だいたい病人のいる部屋に画材道具を持ち込むほうがどうかしている! あんな大きな物が近くにあれば何だろうと思って聞くじゃないか!」
「それは……そうかもしれないけれど……」
「自分に非があるのに認めないなんて最低だ! あとでセーラに謝っておけよ!」
どうして私が? たしかに配慮は足りなかったけれど、謝らなければいけないようなことなの? リカルドは最後にジュリエッタを睨みつけるようにして大きな足音を立てて部屋から出ていった。ジュリエッタは言葉を失ったまま、彼の背中を見送る。
「ねえ、リリス。私が悪かったのかしら?」
「いいえ、悪くありません。あの場にいた私が証言します。見たいと言ったのはセーラ様です。それでショックを受けて寝込んだとしても自業自得でしょう」
決して崩れない鉄壁の微笑みを誇るリリスでさえ、表情が怒りでゆがみ、声が震えている。主人を蔑ろにされたのだから当然よね。相手は侯爵子息だし、こちらは強く言える立場ではない。でもね……。
「婚約者の言葉よりも幼馴染みの言葉を信用する時点で婚約者としては失格です!」
問題はそこなのだ。たまたま今回だけということはないだろう。今後、確実に同様のことが起こり得る。結婚してからも同じ目にあったら……そうなったときに、私は耐え切れるだろうか。
「好きになるまえだったら、いくらでも引き返せるのに」
昔はとても優しかったのだ。今の彼とは別人のように、ジュリエッタだけを見て、ジュリエッタだけを愛してくれる。このまま、ジュリエッタだけを見ていてくれたらいいのに、そう願わずにはいられないほどに甘く、優しい。それがいつからか、すっかりと変わってしまった。セーラが絡むと、彼の中ではいつもジュリエッタが悪者になってしまう。
「もうセーラと会わないでほしいわ」
「ジュリエッタ様……」
「ふふ、ごめんなさい。意地悪を言ってはいけないわよね! 二人とも、大事な幼馴染みなのだから」
ぼんやりとした眼差しで、窓から彼の馬車があわただしく走り去っていくのを見送る。そういえば、定例のお茶会以外で彼が私に会いにきたことはあっただろうか。当主教育か義務のお茶会でもなければ、自分からは決して会いにこない。こうして悪いことばかり考えてしまうのは良くないわね。私はゆるく首を振った。
「セーラにお詫びの品を贈りましょう。手作りのお菓子のお礼もあるし、お花がいいかしらね」
「正直なところ必要はないと思いますが……それでジュリエッタ様が納得されるのであれば手配いたしましょう」
「では手紙を書くわ。一緒に届けてちょうだい」
マーガレットの花言葉に仲直りの願いを込めて手紙を添えて贈った。ところが再びリカルドが怒鳴り込んできたのだ。外に出られないセーラに花を贈るなんて嫌がらせだ、というのが理由だ。
「泣きながらも、優しいセーラは受け取っていたぞ。花には罪がないからと言っていた。彼女はなんて清い心を持っているんだ。それに比べて君は病人に対する配慮が欠けている!」
「謝罪の気持ちは手紙にも書きました。あの手紙はどうなったのです?」
「あんなもの私がその場で捨てた、何が書いてあるかわからないからな!」
ひどい、心を込めて書いたのに。呆然としながら、それでは何を贈れば喜んでもらえるのか聞いてみた。正直なところセーラの欲しい物がわからなくなったから。するとリカルドは、ますます蔑むような顔でジュリエッタを見つめ、吐き捨てるように答えた。
「幼馴染のくせに最低だな、自分で考えろ!」
たしかに幼馴染みではあるけれど、もはやジュリエッタにはセーラが何を考えているのかわからない。結果、リリスに相談して有名な菓子店のゼリーにした。食べ進めると透明な器の中でゼリーが色を変えるのが若い女性に人気なのだという。すると二、三日して、リカルドが不機嫌丸出しという表情で伯爵家に乗り込んできた。
「君は何を考えているんだ! あんな高そうなお菓子を贈られたらセーラが萎縮するだろう!」
「……え、っと?」
「セーラは悲しそうな顔で言うんだ。子爵家では高級なお菓子を買えないから私をかわいそうに思って贈ってきたのねって」
「それでゼリーはどうなったのです?」
「君と違ってセーラは優しい人だ。お菓子に罪はないからと涙を流しながら食べたよ」
なんだ、結局は食べたんだ。こうなるともはや喜劇としか思えない。セーラは意図的に意地悪をしているのだろう。でも恋に溺れたリカルドはセーラの意図に気づかない。それどころかジュリエッタを蔑むような態度を隠さなくなっていた。
「健気なセーラは慎ましく生きている。家の財力を見せびらかす君と違ってね!」
「一体、いつ見せびらかしたのですか?」
むっとして聞き返すと彼は深々と息を吐いた。
「それがわからない君は人間としてどこか欠けているよ。ジュリエッタが婚約者で私は恥ずかしい」
婚約者になんてことをいうの……ジュリエッタは青ざめた。さすがにここまで言われたら、もう一緒にはいられない。覚悟を決めて顔を上げる。
「では婚約を解消いたしましょう。我が家からはできませんが、侯爵家なら婚約の解消を申し出ることは可能です。それでセーラを新たな婚約者としたらいかがですか?」
すると呆れた顔でリカルドはため息をついた。
「君は何もわかっていないね。これだから無知でわがままに育ったお嬢様は困るんだ」
「なっ!」
「君はすぐに感情で物を言う。我が家が君の家の支援なしでは立ち行かないのは知っているだろう? 建前上、援助を受ける口実として私と君の婚約が結ばれた。私は、金で買われた人質と同じだ。そんな人間が婚約解消なんて言えるわけがないじゃないか」
「金で買われたなんて……!」
「資金援助と引き換えに婿入りするわけだが、どこが違う?」
リカルド皮肉げに口元を歪めながら私を嘲笑った。そして夢見るような眼差しで虚空を見つめる。
「こんな私でも、いつも優しくセーラは寄り添ってくれた。彼女こそ見た目だけでなく中身も天使だ。こんな単純なこともわからないわがままな君とは違ってね」
「……っ、そんな」
「君に良心があるなら、もうセーラには会わないでほしい」
そう吐き捨てて、言葉を失ったジュリエッタを置いてリカルドは部屋から出て行った。
この件をきっかけにしてジュリエッタはセーラと疎遠になったのだ。そしてリカルドもまたジュリエッタを邪険にすることが増えていく。婚約者として最低限の務めは果たすけれど、あきらかに贈り物の質は落ちて心は籠もっておらず、お茶会は顔だけ出して数分で退席する。手紙にはセーラを褒め讃える言葉が書き連ねられて、ジュリエッタの近況には一切触れることがなかった。だが取り繕うことが上手いリカルドとの関係は、表向き順調そうに見えていたらしい。
「リカルドに大切にされて、ジュリエッタは幸せ者だな!」
「……そう見えますか、お父様」
「違うのか? 贈り物もこうして届けてくれるじゃないか」
「贈り物は他人に選ばせて、お茶会は途中で退席されます。手紙は届きますが、セーラのことしか書いていないのですよ?」
「セーラは体が弱いからね。幼馴染みとして心配しているのだろう。彼の優しさだと思って許してあげなさい」
「……お父様、もし私がリカルド様との婚約を解消したいと申し出たらいかがしますか?」
「そうだな、現状では難しいね。彼にはあきらかな瑕疵がないからだ。最低限でも婚約者の務めも果たしている。第一、侯爵家には借りがあるだろう? 我が家とのことは世間に知られているから、一方的に婚約を解消するとなれば我が家が責められることになる」
「……」
「たしかにおまえには家同士の因果で、生まれたときから婚約を結ばせて苦労をかけているとは思う。だが、今は少々情緒が不安定になっているだけだ。きっと落ち着けばまたリカルドとの関係を上手く築いていくことができるだろう」
ダメだ、と思った。父にはもう頼れない。このじわじわと真綿で首を絞められていく感覚を理解してもらうことはできないだろう。ジュリエッタに一切瑕疵はないのに追い詰められているのは自分のほうだ。
婚約を解消したい、でもそんなことをすれば私が悪者になる。ああ、リカルドはそれが狙いなのか。私に愛されていると知っているから、何をしても許してもらえると思っている。それにもし私が音を上げて婚約を解消したとしても、非難されるのは私のほうだと目に見えているから余裕なのだ。ジュリエッタは唇を噛んだ。
金で買われた人質ですって、冗談じゃないわ。自分を正当化して利益を手放さないなんて卑怯よ。
だけどこれ以上は手の打ちようがなくて、表向き貴族としての義務を果たす日々が続く。ジュリエッタはやがて愛がなくとも貴族の務めを果たせばそれでいいと思い始めていた。バカにされたって、甘く見られたってしょうがない。契約どおりに結婚することが貴族として生まれた娘の義務なのだから。でも心の奥底にいるもう一人の自分はジュリエッタを責め続ける。
自分の欲望のために婚約者を切り捨てるような男が貴族の義務を果たせるの?
貴族の義務以前に、彼との結婚は本当にリッツォーレ伯爵家のためになるのか。こんなふうにジュリエッタを追い詰めるリカルドこそ人として何かが欠けているのではないか。
もし白い結婚になって跡継ぎが生まれなかったらどうしよう。セーラとリカルドの間にできた子を育てる羽目になったらリッツォーレ伯爵家の血が絶えてしまう。
もしくは病気と偽ってリカルドに閉じ込められたら? 要領がよく、外面のいいリカルドのことだから上手く周囲を丸め込んで、私を監禁したうえで、セーラを新たな妻に迎えることくらいしかねない。
ジュリエッタは、もはやリカルドを愛しているのかさえわからなくなった。むしろ彼が得体の知れない生き物のように思えて仕方がないのだ。彼の存在そのものが気持ち悪い。いっそのこと、何もかも捨ててしまいたいと思うくらいに追い詰められていた。
そしてついに、決定的なことが起きた。
勉強の合間の息抜きに、ジュリエッタはリリスを連れて街へ買い物に出かけた。途中、通り過ぎたカフェに見たことのある二人の姿を見つけたのだ。
あれはリカルドとセーラだわ。セーラはますます美しく成長していて、顔色も良く、病気がちだと聞いていたがずいぶんと元気そうに見える。二人はお茶を飲みながらケーキを食べて、話が弾んでいるようだ。やがて二人は視線を合わせて幸せそうに笑い合う。
どこからどう見ても、恋人同士にしか見えなかった。
「……っ」
「ジュリエッタ様、どうされまし……あ、あれは」
リリスも気がついたようだ。恥じらうセーラの手をリカルドの手が優しく包み込む。
そして風に乗って二人の会話が聞こえてきた。
「こうしてリカルドと二人で過ごす時間がとても幸せだわ」
「私もだ、この時間がずっと続けばいいのに」
「……でも、あなたにはジュリエッタがいる」
「彼女は関係ない」
「関係ないって婚約者でしょう?」
するとリカルドは語気を強めた。
「私がジュリエッタを選んだわけじゃない。あっちが勝手に惚れ込んでいるだけだ」
冷ややかな声、嫌悪に満ちた言葉。そして彼の表情が歪んだ。
「契約がある以上、彼女とは結婚しなくてはならない。でも安心してくれ、私の愛は永遠に君のものだ」
「うれしい! 私だってジュリエッタよりもリカルドのことを愛している自信があるわ!」
「ああ私の運命の恋人。君だけを愛している」
――――そして彼らはジュリエッタの目の前で、啄むようなキスをした。
さらっとタイトルが決まって、最後まで一気に書いたお話です。今思うと一番苦労がなかったお話かもしれません。




