↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
秘録を旅する輪舞曲(ロンド)
PR
92/138

第二章

 退院までの日常はあっという間に過ぎて。どうにか日常生活を送れる程度まで筋力を取り戻したクラウスは、晴れて世話になった病院を後にする。

 目が覚めてから十日ほど。担当医も驚くほどの速さで取り戻した二年前の自分には、少し心当たりがある。

 誰も口にはしなかったが、病院での生活は暇な事が多いからか、人が尋ねて来るたびに必要以上に勘ぐってしまっていたようで。その中で覚えた違和感に、見えないながらも当たりをつけて自分なりの納得を導き出したのだ。

 特に目に見えて分かりやすかったのはユーリア。ほぼ毎日見舞いに来ては持ち前の独占欲を振り回してくれた彼女だったが、そのやり取りには波がある様子で、差が激しいのだ。

 前日クラウスが少し遠慮したいほどに口付けをせがんで来たかと思えば、次の日にはただ話をして帰るだけとか……。

 最初こそその極端なほどの変化に彼女も疲れているのだろうとどうでも良い事を考えてはいたのだが、日を追う毎(ごと)に連れて、それに理由がある事に気が付いたのだ。

 特に何かを遠慮するように話だけの日は、よくクラウスの周りを気にしていた。クラウスから見れば何もないはずの中空を、だ。

 そこで気付いたこと。どうやら目には見えないけれど、フィーナやアルが時折クラウスの様子を見に来てくれていたようなのだ。

 流石のユーリアも、誰かに見られているとしな垂れ掛かって甘える事に抵抗はあるらしく、彼女達が居る時には話だけに留まり。その反動のように誰も居なければ何かを刻み込むように強くクラウスを求めると……。

 そんな実感とある種の恐怖さえ抱きながら過ごした日々の中で。

 フィーナやアルが来てくれていると気付けば意思疎通を図りたくはあるのだが、回路が塞がっている身ではそれも出来ず。

 しかしそこは契約や約束で結ばれていた絆。彼女達からの声は聞こえなくても、こちらからの声は届いているのだろうと。

 折りを見て一人事のように呟いていた事があったのだ。

 早く学院に戻りたい……早くフィーナ達に会いたい。

 彼女達がその言葉をどう解釈してくれたのかは分からない。けれどきっと好意なのだろう。

 毎日行う退院の為の運動に加え、体に英気が漲る事があったのだ。

 それを自然な生理現象と思うにはクラウスは鋭すぎたようで。温かく胸の内を揺らす覚えのある感覚は、きっと妖精術だったのだろう。

 恐らく一時的な身体強化の術式。それを彼女達がクラウスの知らない場所から掛け続けていてくれていたらしく。お陰で通常より早く退院する事が出来たのだ。その御礼も含めて、やはり彼女達には早く会いたいのだけれども。

 考えつつ色々な可能性を描いて病院を後にすれば、戻ってきたのは寮の自室。

 アンネから聞いた話だが、休学扱い中部屋の掃除などは彼女が。それ以外の手続き的な維持はエルゼが善意で手を貸していてくれたらしく、殆ど二年前のまま……ともすれば少し綺麗になったかもしれないと思うほどに、手入れの行き届いた部屋に足を踏み入れる。


「……ただいま」


 声は返らない。返ったのかも知れないけれど、聞こえない。

 そんな事を想像して、少しだけ寂しく感じた懐かしくもある部屋に戻ってきた実感に僅かに酔う。

 彼女が世話をしていてくれたお陰か、少しだけクラウス以外のにおいが混じっている気がする。

 二年だ。それだけの期間空けていれば人の温もりなどなくなるというもの。空気が変わっているように感じるのは当然か。

 ……アンネの事だ。もしかしてわざと自分の色を残したのだろうか?

 だとするならば使用人として失格だなと考えて。それから空気を吸い込みクラウス・アルフィルクを取り戻す。

 帰ってきた。そして今以上に帰るのだ。

 クラウスが野望を追いかけ続けた学び舎へ。少し未来には生まれ故郷へ。そしてその先に、妖精のふるさとへ────

 そんな暴論さえ、クォーターだからと言い訳すれば胸の内に再び炎が燻り始める。

 ここから再び。一度失敗した夢を今度は手放さないように追い駆けるのだ。

 次こそは何事にも負けずに。本当の成功を掴むのだと。

 胸の内が震えたのは錯覚だったか。肩の上に乗った感触は、頭に感じる微かな重さは、幻覚だろうか。

 それが嘘かどうかなんて、今のクラウスには分からない。分からないから、未来に理想を描くように途方もなくありえて然るべき野望を音にする。


「フィーナ、アル。また僕に力を貸してくれる?」


 姿の見えない彼女達。クラウスのはんぶん、クォーターの妖精に。

 彼女達と歩んでいく未来を想像すれば、聞こえないはずの答えを捕まえた気がした。




 翌日、朝早くに学院の制服へと身を包んだクラウスは、一人懐かしい感じのするいつもの敷地内を歩く。

 意識の感覚としては二週間ぶりくらいの登校。現実には二年と二ヶ月ぶりの復学。

 けれど変わらずに冬の寒い風を肌に突き立てる空気は、クラウスが過去に二度経験したブランデンブルクでの景色で。

 変わらないものと変わった気がするものの間で揺れながら、他の生徒の全くいない寂しい校舎へと足を踏み入れる。

 昇降口は変わらずトーア級。休学中進級などしていないのだから当たり前。学院側からしてみればトーア三年目の生徒という事になるのだろう。なんだか少し理不尽な気がする……。

 胸の内でぼやきつつ職員課の扉を叩けば返ったのは間延びした声。その音に、少しだけ嬉しくなりながら扉を開けて中を覗けば、想像通りそこにはイェニー・ファクト女史が気だるげに椅子に深く腰掛けていた。


「おはよう、……ぁく…………」

「おはようございます、先生。寝不足ですか?」

「ちょうど昨日が当番でね。宿直室の硬い寝具で寝覚めの悪い朝を迎えたばかりなのよ」

「お勤めご苦労様です」


 どうやら学院へ泊まっての仕事や見回りの任があったらしい。持ち回りだと聞いた事があるが、偶然彼女の番だったようだ。漏れた小さな欠伸に労いの言葉を掛ける。

 クラウスからしてみればやりやすい相手というか……過去に話をして、数少ない大人への尊敬と同時に気が置けない人物。今回の復学手続きの、最後の確認などの受け持ちが彼女だったのだ。

 アンネから聞いた話だが、イェニーは今トーアの学年主任を担当しているらしい。実力もありこの学院に勤めて長い。クラウスとしても納得の人選だ。


「えっと、それで……復学手続きだったかしら?」

「はい。後は目を通して承認印を頂くだけです」

「何処に捺せばいいんだっけぇ…………」


 クラウスから書類の束を受け取った彼女は小さく零す。どうやら確認をするつもりはないらしい。仮にも物事を教える立場の人間が、そんな杜撰な管理と態度でいいのだろうか……。


「あ、今失礼なこと考えたでしょう?」

「……いえ」

「いいのよ。それにどうせこれあの子……ルキダさんが手を回してくれたんでしょう? だったら今更確認することなんてないわよ」


 唐突に飛び出たアンネの名前に少しだけ笑って納得する。

 彼女がヴァレッターだというのは意外と有名な話らしい。特にイェニーは教職に就く前は軍に身を置いていた経験もある。その辺りの事で、ユーリアやニーナ。それから国に仕えるアンネとは少なからず話をする機会があったのだろう。

 アンネも、クラウスと同じで対外的な仮面だけは被るのが上手だと僅かに同属嫌悪。もちろん、だから彼女と居て楽しい部分もあるのだけれども。口にすればユーリアの嫉妬が苛烈になるのでここ最近はアンネの名前をまともに口にしていない。嫉妬深い彼女曰く、話に他の女の名前を出す事は裏切りらしい。お陰でフィーナたちについても聞く事が出来なかったのだ。

 と、そんな事を考えていると必要な部分に印を捺して差し出してくるイェニー。一応公式な書類なので妖精力を宿した署名の意味も持つ確かな契約印だ。


「……ぁい。じゃあ学院長に持って行って最後の許可貰ってきなさい」

「ありがとうございます」


 受け取って、それから彼女の机の上を目の端で捕らえる。どうやらまだ仕事が残っているらしい、重役というのは大変なことだと、他人事に応援を心の中で送っておく。

 ならばこれ以上貴重な時間を浪費するのも悪いと。挨拶と共に踵を返せば背中に声を掛けられた。


「あぁ、そう。教室も席も変えてないから。見慣れない顔ぶれで少し居心地は悪いかもしれないけれど、卒業までしばらく我慢してもらえる?」

「あぁ、はい。それは大丈夫です」

「……それから、また今度ゆっくりお話しましょう?」

「機会があれば」


 紅碧(べにみどり)色の瞳に宿った好奇心の色を見逃すことなく。彼女の助言にも世話になったからその期待には答えたいと声を返して、それから職員課を後にする。

 そう言えばと。クラウスは彼女の授業を受けた事がなかった。妖精史の、聞く者を眠りの底へと引きずり落とす魔性の教鞭。身にならない睡眠学習の指揮を振る彼女の独特な授業。

 卒業に際してのまず最初の心残りと言えば、その貴重な経験が出来なかったということだろうか。もちろん例に倣って、クラウスも礼を欠くことなく眠りの淵へと船を漕ぎ出そうではないか。それが彼女の授業での正式な授業態度らしい。もちろん成績は推して知るべし、だが。…………なんで教員が出来ているのだろうか、あの人は。

 浮かんだ疑問はけれど答えを得るより先に掻き消える。理由は目の前に聳(そび)える木製の大きな扉。いつの間にか次の目的地、学院長室へ辿り着いていたようだ。

 扉を叩いてしばらくすれば返ったエルゼの声。どうやら居てくれたらしい。アンネが手を回しておいてくれたのだろうか?

 考えつつ部屋に入れば、どこか楽しそうな期待の瞳でこちらを見据える学院長、エルゼ・アルケスと視線が交わる。


「……おかえりなさい」

「…………ただいま戻りました」


 なんと返すのが正しいだろうかと少しだけ考えて。けれど素直に音を零せば彼女はくすりと笑って肩を揺らした。


「調子はどうかしら?」

「全てを取り戻したわけではありませんから……」

「あぁ、体の事は聞いてるわよ。見えないんでしょう、妖精」


 書類を渡して待つ傍ら、彼女の声に答えていく。


「……それでも諦めなかったのね」

「諦めて逃げたら、学院長に何て言われるか分かりませんからね」

「何も言えないわよ。最初に逃げたのはワタシだもの」


 返った自嘲の音に、クラウスは口を噤む。

 エルゼは、一度失敗をした。クラウスと似た夢を描いて、それを一人でやり遂げようとして出来なくて……逃げた。

 だからそのやり直し……自分には出来なかったその夢を、今度はクラウスに託してこれまで手を貸してくれていたのだ。その事に関しては感謝をしてもし切れないが、今更口に出すほどの事でもない。彼女だってそんなのは望んでいない。


「……それで、これからどうするのよ」

「とりあえず失ったものですから、取り戻しに行こうかと。あては既にあります」

「けれどそればっかりって訳には行かないでしょう?」


 繋がった話題が別のところへ矛先を向ける。

 別にクラウス個人からしてみれば後回しでもいいのだが、彼女の立場を考えればそうも言ってられないのだろう。

 そうでなくとも期待された身。ローザリンデとの事もエルゼは知っているだろうし、だったら有り触れた得るべき物は与えないと教育者として謗(そし)られる。


「どこか希望があるならある程度口を利いてあげるわよ?」

「そちらはアンネさんに頼んであるので」

「あぁそう」


 何と言っても唯一の国立の学び舎。そこで色々なものに手を伸ばしたお陰か、嫌に名前が一人歩きしたらしく注目されているのだ。そんな卒業生が一体何処へ向けて歩き出すのか。

 言ってしまえば就職という話で、クラウスは前から話を持ちかけられていた妖精術の研究施設へ話を通してもらっている最中だ。

 と、気になったのはクラウス以外の進路。分かるようで分からない他人の将来に、意味もなく興味本位で首を突っ込む。


「先輩……ニーナさんは今は?」

「そろそろ研修期間が終わるんじゃないかしら? どこかに診療所を持つって言ってたわよ?」


 一度失敗した後に得た地位。エルフのフェアリードクターという異質な肩書き。その世界では、他国からも興味を集めているらしい彼女には、今年度クラウスと一緒に卒業する恋人が居るが。


「テオの事は聞いてますか?」

「悩んでたみたいだけど、イェニーが教職を勧めてたから多分そっちじゃないかしら?」

「人に教えるのは苦手って前聞きましたけど」

「引く手は数多でしょうよ。実力もあって契約妖精が英雄的妖精……フォルトでの卒業だから困らないはずよ」

「だからこそ迷ってたんじゃないですか?」


 幼馴染の事だから、その性格はよく知っている。

 度が過ぎるほどのお人好しとクラウスの及ばない実力と。優しい炎を司る彼は、遠慮こそすれど基本的に好意を断るという事は余りしない。けれどそれは見方を変えればどんな相手にも平等で、比べられないほどに優しいということで。

 きっと卒業に際して色々な方面から誘いの言葉が掛かったのだろうと。だからこそどれもが魅力的に思えて、一つを選ぶ事に躊躇してしまったのではないだろうか。

 そこにイェニーが教職を勧めて……その道ならばここを卒業後、更に専門の学び舎で学生を続ける事になる。資格を取るのも一つ。その間にじっくり考えればいいとでも口添えしたのだろう。

 あれで居て意外と優柔不断な幼馴染に小さく笑う。


「色々な選択肢があるというのは羨ましい限りですけれどね」

「全員が得られるものじゃないわよ。だからこそフォルトにだって上がれたし……ワタシは彼を認めてもいるのよ」

「それ、先輩に直接言ってあげたらどうですか?」

「今更母親面をしろだなんて、クラウス君も随分と意地悪ね」


 傷を舐めるように零したエルゼ。入院中にニーナから聞いた話にもあった母と娘の間の溝は、曖昧な距離感で存在していて。

 クラウスも一度は巻き込まれた話だけに、全てを他人事とは思えない。けれど何が出来るかと自分に問うたところで、やるべき事は彼女から託された命題の解明なのだと。


 ────エルフはエルフじゃない


 そろそろ本当に向き合うべきときなのかもしれない。その真実がイェニーが語ったように、妖精の国(アルフヘイム)へと繋がっているのだとしたら……やはり避け得ぬ大きな壁である事は間違いがないのだから。


「……それから、そうね。貴方の周りで言うならルキダさんはヴァレッター、クー・シーさんはそのまま軍属だったかしら?」


 聞くより先に返った声に納得。

 彼女達は既に分かりきったというか、アンネに関してはクラウスの個人の傍付きという契約の事もあるし、それ以外にありえないと思ってはいたのだが。ユーリアは軍へ残る事を選んだらしい。

 今から言えば二年前の学院祭で、彼女は父親であるハインツから自由を選ばされた。

 クー・シーを継がなくてもいい。彼のその思いに今のユーリアがどんな風に考えているのか……そういえばまだ聞いていなかったと疑問の一つに連ねる。


「……不思議な気分ですね。あれだけ色々な事を一緒にしたのに、卒業すればまるでなかったかのようにそれぞれの道を進み始める」

「…………たったそれだけの別離でなくなるほどの絆しか結んでないのかしら? 学院で貴方が得たものは、形に残るものしかなかった?」


 教育者然とした、花束とも試験用紙とも思える問い掛けに、クラウスはただ自分の胸の内に問い掛ける。

 学院で過ごしたのは三年ほど。その内クラウスがクラウスらしく居られたのがトーアでの一年間だけ。

 あの春に、フィーナと出会って契約を交わし。それから校内保安委員会でユーリアやテオを巻き込んで……裏ではアンネが力を貸してくれて。その内国との繋がりから仕事も任せられるようになり面倒で目まぐるしくて……何よりも飽きることなき妖精とのすれ違いに奔走して。

 得た繋がりは、クラウスが最初に想像していたよりも遥かに沢山。分不相応なほどの確かな証。

 それら全てがクラウスだけの力ではないことなど分かりきっている。

 エルゼにだって助けられてきたのだ。


「……形に拘るのなら、学院長との関係以上に曖昧なものはありませんよ」

「やっぱり貴方に託して正解だったわね」

「卒業させてもらえるんですよね?」

「ワタシ個人の我が儘でいいなら、まだ後二年あるわよ?」

「その二年の分だけエルゼさんの夢は遠のきますよ?」


 意地悪に問い返せばくすりと笑って肩を揺らした学院長。

 彼女に、期待をされて。まだここに居てもいいと。その気があるのならば特別にそれだけの理由をでっち上げてもいいのだと。

 とても魅力的な提案を突きつけられて、けれど静かに断る。


「…………そう、それじゃあ仕方ないわね」

「機会があれば面白い話を持って伺いますよ」

「その時にワタシを捕まえられるかしら? この身は妖精のように奔放にして自由よ?」

「っ……!」


 最後に貰った助言。その意味に気付いてしっかりと抱きとめる。

 だったらもう少し待っていて欲しい。その願いを……託された問いの答えは、もう目の前に迫っているから。

 世界を揺るがす理を振り翳して、彼女が失敗した夢を今一度叶えようと。


「さぁ、今しばらくの学院生活、楽しんでいらっしゃい。貴方の行く末に、精霊の加護があらん事を」




 学院長室を後にして懐かしい気のする校内を歩く。エルゼと随分話し込んでしまったか、既に生徒達の幾人かは登校をしてきていて、窓から校庭の方を眺めれば続々と向かってくる人の影。見慣れない顔が多いのは二年間眠っていたからか。それとも単に必要以上他人へ興味がないからか。

 自分らしさに小さく笑って教室へ向かう人の流れへと合流する。時折、こちらを気にしてくる視線は色々な感情を灯して。

 しばらく歩けば、その中に話に聞いた気持ちの悪い空気がない事に気付く。

 テオの代で学院中に蟠(わだかま)った不信と疑念の重い雰囲気。それはどうやら今はないらしく、純粋にクラウスに対する興味だけだ。

 とはいえ少し多いと。注目される事には慣れているつもりだったが、行き交う生徒の悉(ことごと)くに視線を向けられるのは流石に居心地が悪い。

 と、そんな事を考えつつ辿り着いた教室。少しだけ色褪せたように感じる扉の向こう。僅かに感じる人の気配に少しだけ息を呑む。

 二年経ったのだ。そこ並ぶ顔は知らないものだらけ。あちらにしてみても初顔だ。

 緊張をしないと言えば嘘になる。それほどにクラウスは彼らにどう見られるかを懸念しているのだと気付いて、溜め息を吐いた。

 心細いのは、隣にフィーナやアルが居ないからか。いや、居るのかもしれないが、見えないからだろうと。

 心配そうにこちらを覗きこんでくるフィーナと、興味なさげに体いっぱいで表現しながら隠し切れない感情を言葉の端に宿すアルを想像して。胸の内で大丈夫だと自分に言い聞かせ扉を開ける。

 景色は、変わらない。扉の開く音にこちらへ向いた視線に息が詰まる。そこに宿った怪訝な色。残り数日とは言え長い戦いになりそうだと一人ごちる。

 仕方の無い事だと割り切って足を出す。今更他人の目を気にして何になると。

 考えつつ自分の席へと回した視界で、一つだけ見慣れた色に思わず足を止めた。


「……やっと来ましたね、お待ちしてました、先輩っ」

「…………レベッカさん」


 レベッカ・コルヌ。コルヌ家次期当主にしてヴォルフの異母兄妹。

 机に腰掛けた彼女がとんっと飛び降りて小走りにやってくる事に今更ながらに思い出す。

 あぁ、そうだ。ヴォルフも言っていたではないか。同級だと。けれどそれがよもや同じ教室だとは思わなかった。


「さん付けなんて、やめてください」

「……だったら先輩ってのもおかしくないかな?」

「駄目ですか?」


 記憶の頃より長くなった鶸(ひわ)色の後ろ髪。綺麗に輝く黒橡(くろつるばみ)の双眸には意地悪な炎が僅かに揺れてこちらを見上げてくる。背丈が少し伸びただろうか……それでも160セミルはない気がする。


「ふふっ、ごめんなさい。驚かせたくてお兄様には秘密にしてくださいってお願いしていたんです」


 少しだけ大人っぽい雰囲気を纏うようになったレベッカに……アンネに似た魔性のにおいを感じてクラウスの中の仮面が表に出てくる。


「……秘密が自分だけだと思った?」

「え…………?」

「先輩から君にって手紙を預かってるんだ」

「っ……!」


 それは病院に幾度か見舞いに来てくれた時に。ブラキウムのことで忙しい彼に代わって届け物をして欲しいと託されたのだ。

 曰く彼個人がレベッカとしている文通で、他に見られたくないことらしい。

 堅物で実直で……それで居て慎重な彼らしい性格。それを照れ屋と言えば彼は否定するだろうから……事レベッカ限定の及び腰という事にしておこう。意味は変わらない気もするが。


「そういう事は早く言ってくださいよ、クラウスさんっ」

「ごめんね。元々そういう性格なんだよ」

「知ってますよ。その意地悪にどれだけ振り回されたと思ってるんですか……」


 可愛らしく唸って笑顔を見せるレベッカにクラウスも肩の力を抜く。

 先ほどまでの緊張は、見知った顔にある程度緩和された。やはり知り合いが居るというのは何に際しても良い事だ。偶然に感謝を。

 手紙を受け取って大事に胸へと抱くレベッカに優しく笑って顔を上げれば、教室内の視線がこちらへと向いていた。

 冷静になって当たり前かと気付く。

 レベッカはコルヌ家の令嬢。この学院にも深く関わりのある家柄の娘だ。彼女の事だからそれを鼻に掛けたりはしていないだろうし、友達付き合い以上はないのだろう。

 けれど友達であることと、その奥に眠るある種の忌避感……伯爵の娘という肩書きは中々に相容れないもので。友達こそ少なくはないだろうがそれはどこか上辺の繋がりに過ぎないのだろう。

 そんな彼女と、いきなり現れた見慣れない眼鏡の灰色が親しそうに話をしていれば興味を引くのは当然。

 クラウスが学院にいた頃……二年前には彼女達はハウズ級、最も下級に属していた者達だ。ドルフの者達に憧れを抱き、トーア以上に至っては契約妖精を持つ妖精従き(フィニアン)として、尊敬以上の敬意で持って距離感を感じていたはず。だから本当に仲のいい先輩でもなければ上級生に声を掛ける事は躊躇われ、顔や名前を覚えるには至らなかったのだろう。怪訝な視線はその証。

 特に記憶に残っているのは専(もっぱ)ら生徒会長だったテオの方。校内保安委員会という物々しい名前と、そこに連ねる顔ぶれにはクラウスの名前などかすれてしまう。何より二年も学院にいなかったのだ。知られていなくても別に怒ったりはしない。そこまで自己顕示欲に溺れているつもりはない。


「レベッカが居てくれてよかったよ。僕も少し安心した」

「学院での事はわたくしが任されてますから。何かありましたら直ぐに声をお掛けください。少しの間ですけれど、よろしくお願いします」

「こちらこそ」


 彼女と同級というのはやはりどこか違和感があるが……それも数日のこと。卒業式がくれば訪れる別れだ。それまで不自由なく過ごせればそれでいい。

 そんな風に朝の挨拶をしながら自分の机へ。使われないまま日に当たって少しだけ色褪せた気のする木製のそれは、けれど記憶のまま。クラウスがここに座った時から付いていた過去の誰かが彫った傷がまだ残っていて懐かしく思う。

 眠っていた身からすれば数週間の事なのに……体が刻んだ時間がそんな事を思い起こさせるのだろうかと。

 益体もなく考えて、それからいつもなら席に腰掛け本を読むかフィーナたちと雑談する時間。けれど彼女達は居ないし、今日は本を忘れてきてしまった。

 かと言って何もせずずっと席に着いているのもこの部屋の空気を悪化させるだけかと。遠巻きに興味から見つめて来る視線。それがどこか、『妖契の儀』を行った時の事を思い起こさせる。

 あの時も、クォーターに由来する歪んだ波長に妖精からは距離を置かれていたのだったか。それが人間に変わっただけの事で、この身にしてみればどちらでも変わらないいつもの光景だ。

 二年前は、家名を演じる事に意味がいらず気持ちを嘯(うそぶ)きながら傍に居てくれた佳人と、体いっぱいに溢れんばかりに愛嬌を詰め込んで陽気に振舞う彼女に囲まれ、その上で委員会や生徒会のことで忙しく動き回っていたから感じなかった久しぶりの孤独感。

 特に世界の伴侶を見ること叶わない今の体では、トーアに上がる以前まで感じていたような世界からの疎外感に胸の奥を冷たくする。

 久しく忘れていた。それがクラウス・アルフィルクを作り上げた周りからの非難だ。

 少しだけ取り戻した過去の自分。都合のいい害の少ない仮面を被って独りを取り戻す。

 気付けば立ち上がって歩き出した足は廊下へと出ていた。

 途端、閉めた扉の向こうから少し大きくなった話し声。噂はいつになっても変わらず囁かれるものだと。

 考えて、それから脳裏を巡ったのは浮評に生きる少女の顔。

 彼女はいつも学院には早くに来ていた。もしかしたらもう居るかもしれない……。

 暇潰しにと向けた行き先は一つ下の階。

 うまく行っていればクラウスも所属していたかもしれない階級……ハーフェン。いや、属性の妖精術に愛されないクラウスだ、何か裏技でも使わない限り難しいか。

 肩書きなんて、結局は他人が個人を測る尺度でしかない。押し付けられる指標にうんざりしながらハーフェンの教室を覗いていく。と、最初に見つけたのは目当て以外の顔。

 表向きの友達付き合い程度しかした事がない人物だが、話をするには事欠かないか。

 教室の入り口で立ち止まってそんな風に考えていると、視線に気付いたかその人物が顔を上げてこちらに声を掛けてくる。


「何、教室に居場所がなくてふらついてた?」

「……眼鏡掛けるようになったんだね、マルクス」

「あぁ、うん。視力が落ちてね」


 マルクス・アルテルフ。テオの友人にして、ニーナに部屋を追い出された苦労人。クラウスとは時折話をする程度の間柄だった元同級生。

 その顔つきは二年のうちに少しだけ大人っぽくなって、増えた眼鏡の装飾に話題を挿げ替えれば彼もそのままついてくる。象牙色の瞳の奥には言葉にならない謝罪。謝るくらいならその察しのよさをもっと別のところへ使えばいいのに。


「日常生活に支障はないから普段は裸眼なんだけどね。本読んでたから。……今度貸そうか?」

「マルクスが読み終わったらでいいよ」


 二年の間に増えた娯楽もあったのだろう。覚えのない題名に視線を注げば、彼の好意に社交辞令を返す。


「で、どうしたのさ。別に寂しくなって顔を見に来たってわけじゃないんでしょ?」

「カペラさんを探してて。彼女の教室は?」

「二つ向こう」


 言って指し示した教室は、確かヴォルフが卒業以前に授業を受けていた場所だったか。因みにマルクスが居たのはニーナが授業を受けていた教室。クラウスの知らないところで変な縁が繋がっているものだ。


「とはいえ急ぎの用でもないからね。暇を持て余してたところ」

「だったら何か驕らせてよ、退院祝い」

「……折角の好意だからね、もらうとするよ」


 断るのも悪い。あと僅かしかないだろう時間。だったらどうでも良い事に使うのもいいかもしれない。人間らしく今更に友達を作るのも面白いだろうか。


「なんだか変な気分だな。少し前まではクラウスと一緒に授業受けてた気がしたのに」

「属性妖精術が使えないんだからハーフェンには上がれなかっただろうからね。結果は同じだと思うけれど」

「卒業後はどうするんだ?」

「研究機関から声が掛かってるから、とりあえずはそこに名前だけでも置いておこうかと。マルクスは?」

「…………面倒な事に家を継ぐ事になった」


 他愛ない話題。卒業生らしい話をしながら購買に向かう途中、隣の彼から漏れた音は記憶とは正反対の言葉。


「あれ、家の事はお兄さんがするんじゃなかったの?」

「あの人はいつも自由すぎるんだよっ。許婚が居たのに恋人と逃げて……父さんは当然のように勘当。今は多分トゥレイスに居るんじゃないかな? で、結果アルテルフの家名がぼくのところへ回ってきたんだよ」

「……大変そうだね」


 少しだけ面白そうだと。それこそ人情味たっぷりな恋物語が書けそうな野次馬根性さえ抱きながら、他人事に笑う。

 横目で見やって溜め息を吐いたマルクスは、それでも受け入れてはいるのか楽しそうに語る。


「昔から憧れてなかったわけじゃないんだよね、家を継ぐって。ただいつも兄さんと比べられてきた分、兄さんの存在は大きくて。家を出て行くまでは兄さんが継ぐんだって思ってたから、その時は驚きはしたけれど。薄情に夢が叶ったといえばそれまでだよ」

「その気持ちに気付いてて、お兄さんはマルクスに家の事を譲った、とか?」

「……どうだろうね」


 肩を竦めたマルクス。

 自分を騙す事ができる彼にしてみればそこまで気にすることではないのかもしれない。

 あと、出来ることならクラウスは彼のお兄さんには会いたくはない。話を聞く限り、テオ以上の奔放さ。こちらの調子を狂わされるのが目に見えている以上、得意な相手ではないだろう。

 そんな事を考えながら辿り着いた購買で。彼は飲み物を二つ買うと片方をこちらへ投げてきた。


「ま、お互い頑張ろうよ。何かあれば友達として手を貸すからさ」

「……いいね、友達。分かりやすくて面倒じゃないのが決め手かな」

「クラウスらしいことだね」


 友達なんて上っ面な言葉、彼だって本気で信じているわけではない。ただそう言葉にしておいた方が、後々何かあった時に首を突っ込めるからと。彼なりの打算的な思惑に気付きながら言及はしない。

 それはマルクスがクラウスの体の事を知っていて言ってこないことへのお返しか。それとも単に自分の口から嘘を言いたくないだけの我が身可愛さか。

 誰かを騙す時は、嘘を吐くのではない。真実を言わないだけだと、何かで目にした覚えがある。

 それを分かっているから、二人してそれ以上深くは掘り下げない。折り合った暗黙の了解は、言葉の外の信用で心地がいい。

 形が違えば、彼とは仲良くなれたかもしれない。それこそアンネの役割を彼が担っていたかもしれない。

 そんな想像をして、警戒するしかない協力相手の存在に笑みを零せば、二人して来た道を戻る。

 と、その途中。昇降口の近くを通った際に、これまた見知った顔を見つける。クラウスが気付くのと同時、向こうもこちらを見つけて声を掛けてきた。


「おう、はよう、クラウス、マルクス」

「朝から元気だね、テオは」


 テオ・グライド。クラウスの幼馴染にしてこれまでも色々な面倒を掛けてきた付き合いの長い友。

 考えて、それこそ友達だと胸を張って言えるのは彼くらいしか居ないのではないだろうかと自分の情けなさに寂しくなる。そんなに人間らしさから遠いところに居たのかと。


「体はもう平気か?」

「無理をしなければね」

「何かあれば頼れよ? 今更気兼ねするほどの遠慮はいらないからな」

「僕がテオに遠慮した事があった?」

「遠慮しかしてないだろ? 口ではいつも無茶を言うくせに、その癖できることしか頼まない。それはつまり俺に遠慮して期待してないことの裏返しだからな。……そう分かるくらいには、幼馴染をやってるつもりだ」


 飾らない言葉に思わず面食らって、それから「そっか」と笑う。

 そういえばテオからこれほどに直接胸の内を覗かれたのは初めてだ。よく無遠慮に信頼を丸投げしてくる幼馴染だが、それは彼の性格がそうだから。考えるよりも行動で示す。だから口よりも先に手が出るのだろう。個人的に直して欲しい部分でもあるのだが……引っ張ってくれる分には助かっているのだから憎めない。


「だから、今更何かに悩むな。力になれるならなりたい。それだけの夢がお前にはあって、俺にもあるんだ。……嫌なものだな、幼馴染ってのは」

「嫌なことよりも、一緒に居て楽しいから幼馴染なんでしょ? テオは、損得勘定で幼馴染を語るの?」

「……違いないっ」


 いつか交わしたやり取りを再び紡げば、彼も笑って肩を揺らす。何があっても許せてしまう。根拠もなく何かを預けられる。だからこそ、テオと幼馴染なのだろう。

 小さな頃からの長い付き合い。何かが変わってもずっと変わらないものを少しだけ尊く感じる。


「あ、先輩っ」


 そんな風に柄にもなく人の温かさに溺れていると、耳に飛び込んできたのは知らないとは言えないほどに言葉を交わした女子生徒の声。

 考えるより先に視線を向ければ、こちらに向けて小走りで駆けて来るのは橙色の髪を後頭部に一つ結びで纏めた少女。頭の横から伸びる長い耳殻は彼女らしさの象徴。

 ハーフエルフ、エミ・アリデッド。出会うたび何か失敗をしている少し駆け足な少女。


「っとあ?」

「はいはい、いつものな……」


 考えたのが悪かったか。目の前まで迫った彼女はそれから何もないというのにいきなり躓いてこけかかる。一瞬見えたのは、どうやら右足の踵に左足を引っ掛けたらしい。

 そんな彼女の愛嬌は、どこか慣れた様子のテオが伸ばした腕で支えられて、床と衝撃的な挨拶をする前に止められた。


「ご、ごめんなさいっ。わたし、またご迷惑を……」

「二年も一緒に生徒会やったんだ。もう慣れたよ」


 どこか疲れたように零すテオは、どうやら慣れた様子で。先ほど彼女を助けたのもまるで分かっていたように自然な行動。不必要な警戒心が増えたものだと、その生来の優しさに呆れる。ニーナに見られてまた一つ灸を据えてもらえばいいのに。

 妬み半分で胸の内にそんな事を考えつつ、ようやく落ち着いて目の前に立ったエミは笑顔を浮かべる。


「えっと、改めておはようございます、先輩」

「……うん、おはよう。けど先輩ってのはどうだろうね、僕トーアだし」

「それでも先輩は先輩で……わたしは先輩に教えてもらったこと、沢山ありますからっ」


 返した挨拶に続いた居心地の悪さ。

 というのも、エミの胸元を彩る紐は赤色。ハーフェンを示すクラウスの一つ上の階級。

 当然なのだが、クラウスが知っている二年前の彼女はドルフ……トーアの下の級だったのだ。となれば二年の間に二つ進級し、ハーフェンになっているのは当たり前。

 一つ年下であることは変わらないから人生としては先輩である事は間違いはないのだが、上級生に先輩と呼ばれるのはなんだか変な気分だ。

 こういう光景は、この学院では時々あること。

 優秀な生徒は上へ上へと早くに上ってしまうから、どこかで先に入学した先輩方を追い抜いてしまう事がある。実力に応じて属する階級をある程度選べる自由が齎す弊害というか、仕方のない光景だ。

 そうなった場合、年の功を優先させるか妖精に関わる者として実力を敬うべきかというのは個人の裁量。

 クラウスはやはりクォーターで、属性に愛されない分実力を重要視する傾向にあるが、どうやらエミは年功序列に重きを置くらしい。


「まぁどうせ後数日で卒業だしね、好きな風に呼ぶといいよ」

「はい、クラウス先輩っ」


 花の咲く笑顔で告げたエミは、記憶の頃より積極的になったようで。あの時見られた引っ込み思案な雰囲気は余り感じられない。

 彼女にも二年の間で何かあったのだろうか。それとも、単にここに居る面子が顔見知りだから緊張をしないだけか。

 彼女なら後者もありそうだと考えつつ、四人で並んで歩き出す。


「クラウスは聞いてるんだっけ、エミちゃん今生徒会長してるの」

「いや。……そっか、テオの後大変じゃない?」

「いいえっ。先輩がしっかり引き継いでくれましたから。選挙後の特別試合では勝てませんでしたけれど……」

「いやいやっ、極炎闘衣(ラーヴァ・メイル)を特技で爆発させようとしてきたんだぞっ? お陰でまともに使えなかったんだからっ」


 マルクスの声に答えれば、テオが恐ろしい物を見るように告げる。

 エミの特技……前にマルクスから聞いたが、確か連結点火。炎(フラム)の妖精術に干渉して自他関係なく爆発させる能力だったか。

 確かにテオとは相性が悪い。幾ら絶対の防御を誇る極炎闘衣でも、その存在自体を解かれて爆発されてしまえば意味がない。テオの炎の妖精術も片っ端から無力化されるし……エミの前には炎の妖精術は存在を許されない。

 言わば同属食いの炎……炎の属性(エレメント)を持つ方からすれば相手にしたくない事この上ない。

 そんな炎には滅法強いエミだが、持ち前のやらかし癖は変わらないらしく。広がる話を聞く限り現生徒会でも猛威を振るっているらしい。そんなところにまで面倒事の炎を爆発させなくても……。


「少し心配ではあるけど、伝えるべき事は伝えたからな。後はエミの頑張り次第だろ」

「はいっ」


 エミはエルフの血が流れているからか、ニーナの事をとても尊敬していた。だから同じような夢を描いて、彼女の背中を追い駆け続けた。その際に見える失敗という名の愛嬌が彼女の色。それを含めて前に進もうとする彼女には、きっとニーナの頃にはなかった一体感が生まれることだろう。

 クラウス個人から見ても、エミという少女は庇護欲をそそるというか……周りが助けてあげたくなるような魔性を持っているのだ。

 それはもしかすると、無自覚に祭り上げられるお姫様の如き象徴として。彼女が上に立つ学院は一風変わったものになるかもしれない。

 それを見られない事に少しだけ残念に思いながら目の前に迫った卒業の事を考える。


「まずは卒業式ですよね。先輩方が気持ちよく門出が出来るように、精一杯頑張りますからっ」

「……その件で昨日副会長が俺のとこに泣きついてきたんだが?」

「わ、忘れてくださいっ。わたし達だけでどうにかしますから」

「期待してるぞ?」


 頼りないが、だからこそ彼女なのだろう。

 テオとのやり取りに小さく笑っていつの間にか辿り着いていた教室の前でマルクス、エミと別れる。どうやら二人は同じ教室らしい。何かあればマルクスが助けてくれるだろうと。テオと二人言葉にしないまま別れて、それから二人並んで歩き出す。


「んで、クラウスはどうしてここに?」

「あーっと、カペラさんに用があって」


 問われて、最初の予定を思い出す。とはいっても授業が始まるまでの時間潰しに、何か面白い話でも聞ければと思ってはいたのだが。


「イーリスかぁ……」

「……そう言えばあの話の後は結局どうなったの? 学院の雰囲気、元に戻ってるよね?」

「あぁ、うん」


 出た名前にテオが唸る。そこでクラウスも気付く。テオとイーリスは、クラウスが寝ていた二年間に色々あったらしく、学院の雰囲気改善の為に頑張っていたらしい。クラウスが感じるに今の学院は特に目立った悪い空気もなさそうだから解決はしたのだろう。その際にはミアの力も借りたと前に聞いたが、その詳しいところは知らないままだ。

 いい機会だからと話題に出せば、テオは少し悩むような間を開けて語り出す。


「……別に、これと言って変わったことはないぞ? ただ生徒会ぐるみで噂を流して渦巻いていた気持ち悪い空気の淀みをなくしただけだからな」

「そこにリリウムさんがどう関わって来るの?」

「関わる、っつうかな。あの人学院にいた頃から影響力のある人だったろ? それこそニーナがお飾りで、生徒会が意味を成していたのは彼女によるところが大きいとか言われるほどに」


 その話はクラウスも耳にした事がある。ニーナの降級騒ぎが起きるまで、どちらかと言えば怠惰な部類のニーナとそれを支えるミア。仲のよかった二人は手を取って学院の問題を片付けていた。

 病室で話を聞いた身から言えば、ニーナはミアに心を開いていて、ミアはそんなニーナに憧れ以上の気持ちで付き従って。それはクラウスとテオの共依存のような関係にも似た繋がりで学院を動かしていた、生徒の代表達。


「元々発言力があるというか……正しい事が好きな人なんだよな。だからそれに押し潰されて学院を辞めたわけだけど。ニーナに想いを告げて吹っ切れたのか、溜まっていた正論を振り翳したんだよ。陰口が格好悪いとか、そんな当たり前なこと。……面と向かって言えるその度胸にこそ俺は尊敬してるけどな」


 その片鱗はテオから話を聞いたときに感じていたというか……決断力からなる彼女の行動力には誰にも止められないような正しさが宿っている。

 真実と正義を疑わない、誰よりも正しい事を振り翳した女性。何かが違えば、アンネの演じる役……クラウスを否定するという場所に納まっていたかもしれない人物だ。それくらいには、クラウスだって彼女の事は知っていた。


「暇なのか何なのか、よく学院に来てたんだよ。今ではもう国公認の学院との連絡係らしい。んで、そんな彼女が自分の失敗と重ねたのか、目に付いた先から雰囲気悪化の原因である噂話を否定して回ってくれたんだよ。……俺の為じゃなくて、ニーナの為だとか事ある毎に俺に告げてな。何も聞いてないのにそんな事言うもんだから、俺も途中から何も言わなくなったんだよ」

「……それが功を奏してというか、テオの方もしていた新しい噂の上書きと重なって、雰囲気が改善されたと」

「ま、簡単に言えばそういうことだな。だから感謝はしてる、んだけど……それを面と向かって伝えたところであの人俺を目の敵にしてるから素直に受け取ってもらえないんだよ」


 ニーナが好きなミアは、どうやらまだテオの事を認めていないらしい。

 彼の受難は随分長く続いているようだ。いっその事彼に焦点を合わせて追い駆けていた方が退屈しないで済むのではないだろうか。そんな事を考えてしまうほどにテオはテオらしく周りに振り回されていると小さく笑う。


「ったく、俺が一体何したってんだか……」

「聞いてる分には愉快で楽しい話だよね」

「クラウスだって似たようなもんだろうが」


 そうして返った矛先に今度はクラウスが唸る。


「流石に俺だって気付くぞ? 学院だって少し前からその噂が飛び交ってる」

「……僕はちゃんと選んでるから。それにテオみたいに困らないように今までもしっかりけじめはつけてきたつもりだよ」


 噂を吹聴して回っているのはアンネか。きっとクラウスに選ばれなかった腹いせにイーリスにでも相談をしたのだろう。それが巡り巡って話題になっていると。

 そう考えれば教室でのあの視線も少し納得できるが……さて、彼女は一体どんな悪名をばら撒いてくれたのやら。


「火のないところに、なんて言うだろ?」

「……噂っていうなら、僕もテオの事は聞いたけどね」


 これ以上追求されても面白い答えが返せそうにないので少し強引に話題を変える。


「噂?」

「進路のこと。教職目指すんだって?」

「あー、それなぁ……。とりあえずってことで進んでみようかと思ったんだよ。困った時のって奴だ。前にクラウスも言ってただろ?」


 それは確かニーナの将来……フェアリードクターの話のときだったか。言った気もするが、それをテオが実践するとは思わなかった。


「不誠実な教職願望もあったものだね」

「欲がないって言うとあれだけど、就きたい職業がわからねぇんだよなぁ」

「なら性にあってるもの選べば良かったのに。軍属から引き抜きの案内ももちろん来てたんじゃないの?」

「それは駄目だな。ヘルフリートをそっちに巻き込みたくない」


 返った言葉に納得する。ヘルフリートはヘンリックの右腕として、先の大戦を戦い抜いた英雄的妖精だ。その目で沢山の命が潰える瞬間を目にし、そして彼自身も望まない殺戮を行っただろう。戦争という性質上、致し方のないことだ。

 そんなヘルフリートに、テオは同じ景色を見て欲しくない。戦い以外の場所で平穏に暮らしたいのだろう。


「まぁテオの事だからね。僕が口出しするようなことではないんだけれど……幼馴染なりの心配」

「そのまま返してやるよ。クラウスはどうするんだ?」

「……僕もとりあえず。前から保留にしてた妖精や妖精術の研究施設」

「情報の虫なクラウスにはうってつけの場所だな」

「それ褒めてる?」


 半眼で呻けば肩を揺らした幼馴染。曖昧な着地地点に、けれど先の確かな答えを更に求めないのはどこかで信頼しているからか。

 彼ならばどうにかなると。同じようにテオも思っていることだろう。

 そんな事を考えながら歩いているといつの間にか階段へ。そういえばテオはフォルトなのだから、もう一つ下の階。どうやら雑談に付き合ってくれたらしい。


「んじゃ俺はここで。イーリスならそこの教室だ」

「ありがと。またね」


 肩越しに手を上げて答えた彼は、それから鞄を肩に担いで階段を下りていく。変わらない幼馴染も、彼らしく色々悩んでいる最中らしいと。出来ることならその面倒に巻き込まないで欲しいと願いつつ彼に聞いた教室の中を覗き込む。

 見回した中に人影が十人近く。その中に目当ての顔を見つけて躊躇を踏み越えて教室の中へ。

 近くまで歩けば、気配にか少女が顔上げる。


「おはよう、カペラさん」

「……面倒事はやめてよ?」

「違うよ、ただ遊びに来ただけ」

「……話をしたいのはもちろんだけど、時間取れないかも」


 変わらない性格。どこか楽しげに紡がれる音は好奇心を宿してイーリスらしく跳ねる。

 二年あっても変わらない事はあると。テオに聞いた話では学院の雰囲気の悪化に一役買ったらしい彼女は、けれど今ではそれも過去にして納得しているのだろう。

 さすがのクラウスもそれを話題には出さない。ただ単純に、残り数日居るだけのこの学院で変わった事を聞ければと思ってきたのだが。


「というと……?」

「あの子だよ」


 言って彼女が向けた視線は教室の入り口。そこに立つ線の細い印象を受ける男の子に頭の中を旅する。

 が、どうにも該当者は見つからない。胸の前に下がる首紐は青色だから最下級生、ハウズ。ハウズなら、クラウスが知らないのも無理はないが……。

 考えているとこちらを伺いながら及び腰でやって来た少年はイーリスの後ろに隠れる。


「クラウス君には……前に話した気がするけど……」


 話の切り出し方からして彼女個人の付き合いで、クラウスも知っていること。彼女については少ししか知らないが、だからこそ分からない事は少数で、その中から最も疑問としての質が高い部分を音にする。


「……もしかして、弟さん?」

「そっ。念願叶って春に入学したんだ。クルトって言うの」

「は、はじめ、まして……クルト・カペラです」


 おっかなびっくりな挨拶は警戒心というよりも及び腰か。似たようなところだとクラウスと出合った頃のエミと同じ雰囲気。違うのは、彼女よりも更に存在感が薄いということ。


「人見知りというか、引っ込み思案でね。悪気はないんだけど」

「性格は人それぞれでしょ?」

「クラウス君が言うと本当にその通りだよねっ」


 肩を揺らしたイーリスは、それからクルトに視線を向ける。


「で、今日はどこ?」

「……これ…………」


 その一言に、弟想いな音が溢れていて普段は見られない彼女を感じながら。

 声に答えたクルトは取り出した教科書を広げてイーリスに見せる。どうやら勉強を教わりに来ていたらしい。この時期となると殆ど習ったことの復習と、進級に向けての準備だろう。

 春に入学という事は順調に行けば卒業式後の春休みで進級試験、次の春からドルフか。彼の成績はどんなものなのだろうか。

 自分の過去の事を思い出しつつ懐かしさから教科書を覗き込めば、次の瞬間背中から掛けられた声に思わずびっくりする。


「何しに来たの?」

「どわっ」

「そんなに驚かなくてもいいのに……」


 気配無く忍び寄った人物。声に振り返れば、そこに立っていた顔に安心する。


「……使用人らしいのは結構だけど、それで遊ばないでくれるかな?」

「邪魔することなくご主人様に仕えるのが使用人としての勤めですからっ」


 答えた声は楽しげに弾んで。僅かに首を傾げた仕草に柔らかく波打つライトブラウンの毛先が砂糖菓子のように揺れる。少し下から見上げてくる嬉しそうな色を灯した水色の瞳は今日も変わらず意地悪に。言い訳を振り翳した彼女は当然のようにアンネ・ルキダとして自分を振り翳す。


「あ、おはようアンネ」

「おっはよう、イーちゃん」


 そんな彼女はクラウスの向こう側に友の姿を見つけて軽快に挨拶。彼女達の仲も相変わらずらしい。

 と、そんな事を考えながら鎌首を擡(もた)げる不安。

 アンネとイーリス。クラウスにしてみれば相手にしていて楽しい二人だが、例えばその二人が同じ武器を手にこちらを振り向いたらどうなるのだろうかと……。

 不意に過ぎった想像が、結論を見つける前に形になる。


「ねぇ聞いてよ。クラウス君酷いんだよ? 私を専属の使用人にしておきながら私の親友を選んだんだよ? これって死罪だと思わない?」

「何それアンネ負けたの?」

「ちっがう! 盗られたのっ。そこの灰色眼鏡さんが私の気持ち弄んだのっ」

「ほほう、それはいかんですな。友達として仇をとらねば……」

「よくもそんなに次々嘘が思いつくね……」


 呆れつつ言葉を挟めば意地悪な視線が二つ。……駄目だ二人相手は分が悪い。というかイーリスに面倒な秘密を握られた。


「そうだよ、嘘だよ? だからクラウス君は私が好きなんだよね? 今から私を選んでくれるんだよね?」

「アンネさんは────」

「やっぱりここに──おにいちゃんだっ!」


 語るに落ちたりと瞳を光らせたアンネが意地悪に問うてくる。その直接的な物言いに傍でイーリスが修羅場だとばかりに嬉々とこちらを見つめてくる。分が悪い所じゃない……最悪だ。

 反論よりも先に呆れて。それからクラウスの好きな彼女の名誉の為にと否定しようとした刹那。次いで響いた声に遮られて口を閉ざす。

 声のした方……教室の入り口に視線を向ければ、そこにはこちらを見つめる水浅葱色の双眸が。彼女は……と巡った思考が右目の下の特徴的な黒いほくろを見つけて確信するのと同時、その小さな体が鳶色の長く緩やかな後ろ髪を揺らして駆け寄ってくる。


「やっと会えました、おにいちゃんっ」

「……ひさしぶり、ティアナちゃん」


 体一杯で抱きついてきた少女。その人形のような小さな体躯を思わず抱きとめて挨拶を返す。

 ティアナ・ルキダ。アンネの妹にして、二年前の文化祭で迷子だった彼女と連れ立って学院を巡った記憶を思い起こす、魅惑の少女。

 あの頃より随分と大きくなった背丈はアンネと5セミル程しか変わらない。

 姉妹らしく似通った背丈。似た雰囲気、似た香り。真下から見上げてくる無邪気な視線に思わずアンネを重ねて胸が跳ねる。


「おにいちゃん、嘘じゃないですよね?」

「女の子に嘘を吐かないのが信条だからね」

「~~~~っ!」


 いつもの癖で歯の浮く台詞を音にすれば、じっと見上げてきた彼女がそれから嬉しそうにクラウスの体を抱きしめる。

 女の子特有の甘さと柔らかさ。二年前はまだどこか子供らしいと感じていた彼女は、知らぬ間に妖艶な魅力をどこかで拾ってきたらしく。危うく飲み込まれそうなほどの魔性に少しだけくらりとする。

 クラウスの周りで言えば余りいなかった部類の性格。嘘なく、虚偽なく、飾りなく。感情そのままを言葉に表し、それを体いっぱいで表現する異性。

 彼女から向けられる溢れんばかりの信頼と喜びに脚に力を入れて撫で返せば、有り余った感情が再び下からクラウスを射抜く。

 そんなティアナに、驚き半分呆れ半分で声を掛けるアンネ。


「ティアナどうして……って、あぁ、そっか。クルト君か」

「ひぅ……」


 漏れた声は悲鳴のようで。名前が出ただけで随分な反応だと思いつつ可能性に気付く。

 過去に語っていたアンネとイーリスの言葉。それぞれに妹と弟が居て、年が確か同じ。だとしたら今年学院に入った新入生か。……卒業式を目の前にして新入生というのも何か変な感じはあるが。

 考えつつ視線を下ろせばティアナの首許に揺れる紐は青色……ハウズを示すものだ。

 至った確信を音にして尋ねる。


「……ティアナちゃんはクルト君と同級?」

「同じ教室なんですっ。なのに分からない事があるとティアナじゃなくて先輩のところへいつも来てて……。同級生ならティアナに聞けばいいと思いませんか?」

「…………だってティアナちゃんすぐ怒るし」

「怒ってないですっ」


 クラウスの服の裾を掴んだまま始まりかける喧嘩の空気。顔を上げてイーリスとアンネを見れば彼女達も困ったように小さく笑う。

 どうやらいつものことらしい。なんだか巻き込まれた気がしながら諌めに掛かる。


「ティアナちゃんのは優しさだよね?」

「友達として当然ですからっ」


 胸を張って答える友達という言葉に、アンネが嬉しそうに笑う。記憶の限りでは振り回されていた言葉だったが、彼女の中でも納得がついたらしい。それを笑って受け入れられるくらいには変わったということだろう。


「クルト君はもう少し堂々としてないと。じゃないと僕みたいに学院で敵しかいなくなるよ? 男らしくしてないと女の子に食べられるから」

「クラウス君にそんな酷いことする人居るの? 誰? ユーリ?」


 その筆頭が惚けてこぼす。何を言っているんだか。


「男、らしく……」

「後友達は作っておくべきだね。友達じゃなくても、話の出来る相手くらいは欲しいかな。相手が声を掛けてきたら逃げないのが近道」

「人から逃げてる癖に」


 柄にもなく先輩風を吹かせてそれっぽい事を言葉にしておく。

 後、一々ちょっかいを掛けて来るのは何なんだろうか。もしかして妹に嫉妬してるの?

 視線を向けてみるが拗ねるように逸らされる。と、その水色の瞳が驚いたように揺れて、それから再び別方向へ逸れた。

 それとほぼ同時、背後に感じた気配に思わず息を詰めた。


「朝から恋人の好意を無駄にしておいて自分は暢気に楽しくお喋りとか、いい度胸してるわねクラウス……?」

「…………おはよう、ユーリア」

「えぇおはよう。……それで? 寮まで迎えに行ったのに肩透かしを食らった私のこの気持ちはどうしてくれるわけ?」

「……復学手続きとか色々やる事があったんだよ。それについては言ってなくてごめん。今日一緒に帰る?」

「いいね、久しぶりの三人だっ」

「…………はぁ?」


 どす黒く響いたユーリアの唸り声。口を挟んだアンネがその声に真っ向から笑顔を返して詰め寄る。


「て言うかユーリ朝から押しかけたの? 馬鹿じゃないの? 馬鹿じゃないの?」

「私を貶すって事はクラウスを貶すことと同義よ? いいわよ、久しぶりに喧嘩でもする?」

「あっはー、これだから恋愛の仕方が分からないお嬢様は困るんだよ。その独占欲早く治さないと折角の恋人さんに嫌われるよ?」

「使用人風情が分かったような口利かないでもらえる? 負け犬の癖に尻尾振ってぞんざいに頭撫でられて満足してる方が惨めよ」

「犬はそっちでしょ? クー・シー」


 どうにか落ち着きかけたティアナとクルトの間の空気が、更に重く険しい雰囲気に塗り替えられる。

 笑った笑わない笑みと、笑えない言葉の応酬に。それまで再会に少し興奮していた様子のティアナまでもが怯え始める。後輩困らせてどうするのさ……というか教室内の視線が痛いんだけど。

 居た堪れない板ばさみの中で僅かに向けたイーリスへの視線。が、それも失敗で、僅かに抱いた希望は目の前で繰り広げられる光景に身を乗り出した好奇心の瞳の前に玉砕した。こんなやり取りになんで楽しさ見出してるのさ……。


「というかクラウスが悪いのよ」


 最も悪い方へ被弾、着火。


「……ほぅら、クラウス君? 早く私と逃げよ? 何処までもお供するよ、ご主人様?」


 言いつつ擦り寄ってきたアンネ。先ほどまでティアナが居た場所に入り込んだ彼女はしな垂れかかるように体を預けてくる。

 因みにティアナは空気にあてられてクルトと一緒にイーリスの後ろへ避難。うん、それが正しいよ。


「ちっ」


 次いで響いた隠しようのない舌打ちにクラウスの背筋が凍りつく。


「クラァウスッ!!」

「僕はユーリアの恋人だから、ね……?」

「だったら何っ!?」


 駄目だ。もう僕にはこの景色を丸く収める事はできない。というかしたくない。逃げたい。


「……いい? こんな修羅場になりたくなかったら二人は仲良くすること」

「うん……」

「分かりました……」


 イーリスがクラウスを反面教師に祀り上げる。

 うん、そっちは無事に解決だね。だから早く僕を助けてっ。

 ……こんなことなら欲を掻かずに教室でじっとして居ればよかった。全く、とんだ災難だ。


「クラウスっ」

「…………何?」

「今ここでキスして」


 僕にはその思考回路が分からない。なんでそうなった。


「クラウス君、手を出して?」

「…………うん」


 既に逆らう気力すら失せて言われるがままに差し出す左手。その手を取ったアンネは甲へと優しく口付けを落とす。


「……お慕いしております、ご主人様っ」


 刹那に。クラウスの頬を掠めた熱い感覚。次いで麻痺するほどに痺れた鼓膜が爆音を遠くに聞きながら、視界の先に黒く覗く虚を見つける。それは────ユーリアの構えたガバメント。

 僅かに遅れて頬を伝った液体の感覚は、汗だったか血だったか。

 ただ分かるのは、今放たれたそれが紛れもなく実弾であったこと。


「……先に抜いたのはユーリだよ?」

「順番なんて関係ないわよ」


 思考さえ奪われて立ち尽くすクラウスを置き去りに進む景色は、アンネとユーリアの会話。

 いつの間にかクラウスを庇うように位置取ったアンネの手には、何処から取り出したのか小さな短剣が一つ。いわゆる懐刀という奴だろう。ヴァレッターとして仕える主人を守る為の護身用の武器。それをユーリアに向けて構えていた。


「一度躾が必要そうね。いいわ、今ここで教え込んであげる」

「あはっ、ご主人様に武器を向けるオンナなんていらないんだよっ」


 言葉を皮切りに飛び掛かった二人が真正面からぶつかる。そうして始まった命さえ奪いかねない衝突に教室内にいた生徒が慌てて廊下へ飛び出る。

 咄嗟の好意か、イーリスがクラウスの腕を引っ張って連れ出そうとしてくれたが、それより数瞬早く駆けた弾丸がイーリスを邪魔する。


「……置いていきなさい。それは私の恋人よ?」

「例えイーちゃんでもクラウス君連れて行ったら許さないからっ」

「…………わ、かった……。ごめんね、クラウス君」

「………………生きて会えたらまた今度」


 上の空でそんな事を答えられたのは染み付いた性格のお陰か。思うように笑えない顔でイーリスを見送って、それから大きく溜め息を吐く。

 どうして、こうなった。


「大丈夫よクラウス。私が貴方を守るから」

「だから信じて待っててね、ご主人様っ」


 願うのはただ、誰よりも何よりも……人生二度も死にたくないという悲願だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。