第一章
「ここまで来られたらご褒美でもあげようかしら?」
「……それは、素敵な提案、だね…………」
国立の医療機関。ブランデンブルクの軍とも繋がりを持つ、この国の最先端の医療施設にて。夜遅くに目を覚ましてから半日ほど経った昼下がり。
灰被りに病衣を肩に掛けただけの少し涼し気な格好で、その顔に眼鏡を掛けた少年が壁伝いに覚束ない足取りで歩く。
少年の名前はクラウス・アルフィルク。二年と二ヶ月、意識を失い昏睡していた、妖精に見放された人物。
曖昧な感覚に頼って不恰好に歩く姿は、宛ら生まれたての鹿のようで。入れても入りきらない体の力に苦心しながら、ようやく目的地たる少女の胸に飛び込む。
クラウスを受け止めたのは、黒く綺麗な長髪を着流した紫苑の瞳の佳人、ユーリア・クー・シー。恐らく誰よりもこの身を案じ、誰よりも戻って来る事を願っていた少女。実感なんてない、クラウスの恋人。
その温かな腕に包まれて、体を預けるようにその場へと座り込む。
「……大丈夫?」
「…………うん。体力が、著しく低下してるだけだからね……。感覚さえ取り戻せれば、問題はないはずなんだけれど」
ユーリアの肩を借りながら立ち上がって、近くの椅子に腰掛ける。と、そこへやってきたのは愛嬌が人の皮を被って動いているような少女。砂糖菓子のような緩く波打つライトブラウンの髪に、好奇心を宿した水色の瞳。クラウスの友人にして、罷り間違って恋心に溺れてしまった少女、アンネ・ルキダ。
彼女は小さく笑いながら手に持った飲み物を差し出してくる。
「あんまり無理しないでね? ユーリが厳しかったら私に甘えていいから」
「黙ってなさいよただの傍付きの分際で……」
「ユーリア…………」
「何? 口移しがいい?」
随分と曲解された返答に思わず笑みを零せば、眉根を顰めたアンネも溜め息を吐く。
二年と二ヶ月の空白。デュラハンの刃によって眠りっぱなしだったこの体は随分と鈍ったようで。寝ている間も折りを見てアンネやニーナ達が治癒や強化の術式を応用し、出来る限り筋力などを保とうとしてくれていたお陰で、どうにか直ぐに立って動ける程度には残っていた体の感覚を取り戻す為の訓練。
所謂退院を目指してのクラウスの復帰運動に、彼女達は煩いほどに手を貸してくれている。
「……二人とも過保護すぎるよ。確かに少し急いではいるけれど……無理をしてるつもりはないから。だから────」
「その心配は、元々誰の所為よ」
そんなのは分かりきったことで。言葉にされてしまえばクラウスには返す声がなくなる。
確かに迷惑は掛けただろう。心配もさせただろう。それは認める。必要ならば埋め合わせも考えている。
けれどその為にも早く前のようないつも通りを取り戻さなければで……しかしそれさえも過保護に制限されていてはまともにこなせないと……。
悪循環、というか好意が齎す弊害。お陰で廊下の端から端まで歩くだけの事にこれほどの好待遇。何というか……満足だからこその不自由だ。
「……私だってやりすぎだとは思うわよ。けど目を離したらそこの使用人風情が手を出そうとするんだもの。だったら監視の為に私が傍にいなきゃならないでしょう? 私だってクラウスに早く戻ってきて欲しいもの。だったら監視と、その手伝いに精一杯手を貸すのは何も間違ったことじゃないわよね?」
当たり前だと疑わない視線がクラウスを射抜く。言い始めの言葉と最後の言葉が矛盾しているように聞こえるのは気のせいだろうか?
今まで以上にユーリアとの会話に理不尽が増えた気がしながら、脳裏を過ぎるのは今朝の事。
ユーリアから二年間に起こった彼女の物語を聞いて……その終わりにクラウスの体の現状にも僅かに触れた後に。期を計ったように病室に飛び込んできたのはアンネ。
彼女は当然の如くクラウスの手を握って傍に座るユーリアを見つけるや否や、病院だというのに有り触れてじゃれ合うような喧嘩が勃発。次いで彼女の傍を抜けてクラウスに口付けまで迫ったのだ。曰く、気持ちに嘘を付けるほど賢くなくて。例えそれが親友の大好きな人でも奪ってみせると。
もちろんそれを見過ごすはずのないユーリアが、あと少しのところで重なりそうになったアンネを引っ張り返して、そうしていつの間にか抜かれたガバメントに後からやってきたテオたちが止めに入り……。
落ち着いた次の瞬間には矛先がクラウスに向いて修羅場に巻き込まれたりと…………。
思い返すだけでも目まぐるしく騒がしかった光景に頭が痛くなる。
薄々気付いていた事だが、ユーリアの愛情が重い。ともすればアンネの依存以上に。
心配を掛けたことにも起因していることは確かだが、それ以上に彼女が気を許した相手にだけ見せる独占欲が、こちらの言い分を許してくれないのだ。
その上に畳み掛けるような追撃がアンネ。彼女も二年前と比べて積極的というか……言動が直接クラウスに干渉するようになってより危険度が増したのだ。
その一幕が今朝のことであり、嬉しくもありつつその気持ちに答えられないのが余計に彼女の気持ちを助長するようで。
歯止めの効かなくなったアンネと、彼女の行動に独占欲を振り翳すユーリアと。間にクラウスを挟んだまま、お互いに燃え盛る闘争の炎に薪をくべ続ける循環に、既に心労が振り切れかけているクラウスだ。
同じ異性として優先順位を付けるわけではないけれど……今クラウスにとって大切なのはユーリアの方だ。だからアンネの気持ちには頷かない。それはきっとアンネも分かっている。分かっていて、どこかその取り合いを楽しむように燃料を投下し続ける彼女に振り回されている現状だ。
何よりも怖いのは、楽しんでいるアンネにどこか本気を交えて食って掛かるユーリア。聞き違いであって欲しいほどに、朝の交錯では物騒な単語も飛び出ていたほどだ。その行く先にクラウスが巻き込まれないように……なんていう懸念はするだけ無駄なのだろうと思いつつ。
手にした関係のその先に生まれた新たな問題に頭を抱えつつ。そこに折り合いを見つけながら学院へ戻る為の体の準備を整えていくのが現状目標か。
ユーリアの話では約二週間後。恐らく大丈夫だとは思うが、今のままではぎりぎりになりそうな脳内予定に、けれどしっかりと目的地を設定して足を踏み出す。
「……そうだね。ただ先輩にも言われたけれど無理しすぎるのはやっぱり駄目だから。経過を見つつ、ね。何か手伝って欲しい事があったら声をかけるから」
「えぇ。クラウスの為だったらどんな助けにだってなってあげるわよ」
言葉の端に宿る収まりきらない彼女の愛情に押し潰されそうになりながらも。けれど好意なのだと……クラウスにとっての償いなのだと諦めれば、受け止めるだけの度量は持っているつもりだ。大丈夫、想像より随分と気持ちが溢れているだけなのだ。
だから彼女の気持ちに答える為に……これ以上の心配を掛けない為に。クラウスは一刻も早く元に戻らなければ。
それからしばらくして今日の運動は終わり。担当の医者の指示に従って病室まで戻れば、面会時間の終了。
その時でさえ、ユーリアは噛み付こうとしていたからどうにか宥めてアンネに後の事を任せた。最後の辺りはアンネの名前を呼ぶだけで嫉妬を見せたほどだ。愛されるって辛い。
そんな一幕を終えて食事に睡眠。狂ってしまった体内感覚を戻す為に規則正しい就寝時間。クラウスの感覚ではまだ調べ物をしている頃で、寮に居た時はまだまだ起きていられたのにと。
考えつつも襲い来る睡魔は体の疲労を示しているようで重く深く。
けれどきっとこんな日が数日続けばそれに適応してしまって、起きているのが惜しくなるのだろうと。また今度暇つぶし用に本でも持ってきてもらうとしよう。
沈んでいく意識の淵で最後にそんな事を考えて。
閉じた瞼に光を感じて持ち上げれば時刻は日の昇りかけた朝。相変わらず寝て起きると感覚的には一瞬だ。
欠伸一つ。昨日の運動で体の節々はほぐれたか、伸びをしてもそこまで辛くない。まだ少し思うようには動かないが、それでも確かに取り戻しつつある体の感覚に進展を見ながら。
朝食を食べて定期健診を受けると、暇になった寝具の上で渦巻く疑問に焦点を向ける。
何よりもまず重要だろう問題はこの体の事。
ユーリア曰く、妖精従きでも妖精憑きでもない体。医師やニーナの話では、回路の機能が停止しているという話。
クォーターなこの体。四分の一に流れる妖精の血。それに起因し、これまで何不自由なく妖精と交信してきたそのある種人体器官とでも言うべき回路。妖精力を内包し、妖精術へと昇華し、妖精と意思疎通を交わす為に必要な、妖精憑きや妖精従き特有の身体機能。
生まれつきに宿るはずの隣人との繋がりが、どうやら今のクラウスからは欠落しているらしい。
詳しいところでは、妖精力はあるらしいのだ。
クラウスが寝ている間、魂だけの旅となった妖精の国での出来事。記憶にも確かに残るオーベロンやタイターニア、そしてピスカたちと紡いだ思い出でも至った結論。
妖精憑きや妖精従きが持つ妖精力は、魂に宿るもので、その器は魂であるというもの。つまりは、魂だけ取り出せば、そこにはその者の波長を宿した妖精力も存在するという話。
この際に言う魂とは、いわゆる意識という類だろう。だから妖精の国でも意識だけの存在であるクラウスが、妖精力を宿したままあの場所に仮初の体を与えられ存在できた。
あの世界で動き回れた体は特別製。恐らく妖精力に親和性の高い物で作られていたから、魂だけでも妖精の姿を認識できていたのだろう。
けれど元のクラウスの体はただの人間のそれ。体の中に回路が形成され、それを介することで妖精力や妖精術を扱う事ができるというのが大元の仕組みだ。
今のクラウスは、その回路が機能していない。回路自体は存在するようだが、そこに魂から妖精力が流れ出ていない……言わば回路を封印されているような状態らしいのだ。
だから妖精術を使えなければ妖精力を練る事も……ましてや妖精力の塊である妖精を視認する事もできないというわけだ。簡単に言い換えれば、妖精力を宿しただけの妖精尽きということだ。
随分珍しいが極稀にある症状だそうで……確か、妖精力乖離性疾患、だったか。難しい名前をニーナが言っていた気がする。
そんな病状に置かれ、認め難い現状をどうにか納得して。
そうして今のクラウスに何が出来るのかと自問したところで思考が止まる。
クラウスの野望。アルと交わした幼い頃の夢にして、フィーナの協力を得て紡いできたこれまでの功績。それらが全て、泡沫に帰すような感覚に自分を見失いそうになる。
妖精と交信できない者がどうやって妖精の国を再興するというのだ。
それは飛べない鳥が大樹の上に巣を作るような果てしなく遠く可能性の低い話。皆無、と言ってもいいだろう。
ニーナの話では、この病気は自然に治るものではないらしい。治す手立てもないに等しいらしい。
らしい、というのは想像で語った彼女の推論に僅かに光を見ているからだろうか。
曰く、妖精の宮廷……マブの居るミドラースの中心部に行けば何か手掛かりはあるかもしれないと。
確かにあの場所は妖精に関する秘境だ。クラウスの記憶では、ミドラースという地名を重ねれば妖精の国の近くでもある。恐らく妖精の国と妖精の宮廷は何かしらの関係があるはずだ。そこを今治めているのも、妖精の女王とも呼ばれる蜂蜜酒のマブ。クラウスが目を覚ますその一番のきっかけが眠っていた場所だ。
この二年で世界の何が変わったか詳しくは分からないが、少なくともその最奥までは至っていないだろう。よくて数度派遣隊が足を踏み入れた程度か。
それほどに秘匿され手を拱いている場所だ。可能性は存在する。
けれどそんな場所にクラウスは辿り着けない。
なにせ妖精が見えないから。交信が出来なければ、マブと話をすることもできないだろう。
誓約と真実に彩られた悪を許さない絶対の妖精。直接話が出来なければ、きっと彼女はクラウスの言葉に耳を傾けてはくれない。
そうなれば幾らこの身を元に戻す方法があっても、辿り着けない答えだ。
だったら何が出来るのかと、今一度問う。
妖精に見放され、歪んだ波長を持ったただ一人の灰被り。幾らオーベロンに許されたとしても、そこに干渉できないのでは意味がないと。
「……せめてアルの手を借りられたら違うんだろうけれどね」
彼女の事だ。見えなくとも直ぐ傍に居るのかもしれないと。縋るように零してみるが音は返らない。当然、目に見えないのだから声を聞くことも出来ない。
契約もなければ妖精語での会話も不可能だ。特技だって目視して触れなければ発動できない。
…………終了だ。クラウスには、どうする事もできない。
ただそれとは別に、諦められない気持ちはある。
当たり前だ。それは何より、アルとの約束よりも、フィーナと目指した夢よりも…………誰よりもクラウスが望んだ理想だったのだ。
妖精のように自由に生きたい。その為の世界を、つくりたい。
言葉にすればたったそれだけの、子供の戯言のような夢。世界の誰もが求める大志にして、誰もが挑んでは諦めた夢。
クラウスだって、同じだ。
周りを振り回して近いところまでは情報を集めたかもしれない。けれどそれさえも水の泡。そこから先の道を見失えば何の意味もないと。
「……ここで、終わりかぁ…………」
学生の身にしては随分な大冒険だったと。夢を見られてよかったのだと。そろそろ大人になるべきなのだと。
まるでそれは────妖精の存在を否定するような気持ちで。
妖精力という、無から有を生み出す力を失えば、後に残るのは今有る物で我慢する大人な納得だ。
寂しいことだ。けれど、そういうものなのだ。
「…………どうぞ」
胸の内に渦巻く色のない諦めに浸っていると、扉が叩かれる音。少し間を開けて入室を促せば、体感では久方ぶりな顔がクラウスの視界に映る。
「体調はどうですかな、クラウス殿」
「……お久しぶりです、ベンノ最高顧問」
記憶より少しだけ寂しくなった気のする白色の頭髪に、雄黄色の双眸。理知的で、けれど確かに意思の炎を灯した真っ直ぐな瞳に、体を起こしながら挨拶を返す。
「……今日はどういったご用件で?」
「ただのお見舞いだよ。そんなに警戒しないでおくれ」
彼と紡いだ記憶はヘルフリートの波長の一件。それから反転術式や連結術式でのやり取りだ。
あの時は王立機関妖精術統括理事会の最高顧問としての彼として幾つかの話をした。だからクラウスにとって見れば、彼という存在は知人というよりは取引相手。あまりクラウスという存在を見せたくない相手ではある。
けれどどうやら、今回はそちらではなく、ただ彼個人として顔を見に来たようだ。
思わず構えた事に謝罪をしつつ、先ほど脳裏を巡っていたことの気分転換にと話題を広げる。
「まさかベンノさんに気に掛けてもらえているとは思いませんでした」
「ははっ。それは少し寂しいな。いやなに、個人的には君には興味があったのだよ。なにせその若さであの術式を作り上げたある種の天才だ」
「……あの時はたまたまその閃きがあっただけです。僕個人は面白味のないただのクォーターですよ」
ベンノの言葉に答えたのは上辺の理由。妖精の国でオーベロンに見透かされたように、反転術式の開発はクラウスの手柄ではない。そんなのは分かっていた。分かっていて、どこかでそれを考えないようにしていたのだ。
「まぁいいがね。……少しそちらの話をするならば、これに署名して欲しいというくらいか」
言ってベンノが差し出してきたのは一枚の書類。受け取って目を通せば、それは術式二つに関する定期褒賞の受け取りに関する書状。どうやら二年の寝ている間に随分勿体無い額の報奨金を失ってしまったらしい。
最初の契約の際に、術式の褒賞は先立つものとして受け取ると取り決めをした。しかし価値は生き物。受け取り手や使い手が居ないものを手元において置くわけにも行かず、一定期間内に手続きをしなければ受け取り権利の失効と見做されその分を手放してしまうのだ。
話はその失効した報奨金の確認書類。それから権利の再取得手続きだ。
「こんな折にする話ではないのだろうがね。こちらの都合もあって今日くらいしか予定が空かなかったのだよ」
「それは大丈夫ですけれど……失敗しましたね。これは少しというには余りあるほどに勿体無い事をしました」
人間らしく少しだけ欲を見せれば肩を揺らしたベンノ。初老の彼らしい、どこか疲れたような雰囲気を少しだけ見つめて、それから感じたいつも通りの違和感に納得を見つける。
そうだ、彼は妖精憑きだ。
契約妖精を失った元妖精従き。先の大戦を経験した彼は、その最中で失った相棒の事を思ってか、それ以降再びの契約をしていない。
実を言うと妖精憑き自体はそこまで珍しい話ではないのだ。
まず今が大戦の後であるということ。あの悲しい国同士の衝突は、望まない被害をどの国にも与えた上に一応の終幕を見ている。
その過程で生まれた妖精憑きがたくさん居るのだ。
少しだけ戦術的なところへ話を持っていくとすれば、戦場で表立って力を振るうのは妖精騎士……妖精従きだ。
その力の源は妖精力で、次いで人の発想力が交わり、結実した妖精術が破壊となり被害を齎す。
それは戦争という景色から見れば、ユーリアが持つような銃や、クラウスの愛用する短剣と大差はない。それが妖精の形を取っているだけのこと。
見える力の象徴だ。
更に妖精従きが繰る妖精術……その顕現の為に力を貸すのが妖精で、彼女達が居なければ幾ら秀でた妖精従きでもそこまで大きな妖精術は使えない。戦争という非情な環境下では、どこか妖精を道具として扱う風潮も時折あるほどだ。
だとしたら、力の源にして破壊の象徴……恐れるべき敵にして相手にすべきなのは妖精従きではなく契約妖精だと誰もが気付く。
妖精からしてみればいい迷惑だろう。長く生きたいが為に契約をしているのに、その命を狙われる。争いごとだって妖精にしてみれば面白くないことだ。
けれど結んだ回路、契約に従って妖精は妖精を攻撃する。戦いの基本として実力ある者や指揮官を狙い、流れを変えようとするのと同様だ。
この世界で言う戦争とは、人間同士だけの話ではない。そこには必ずと言っていいほど、妖精の存在が絡むのだ。
相手の戦力を削る為……戦いに勝利する為に妖精を狙えば、後はなけなしの妖精術と剣術などを持つ人間だけが残る。そこまでくれば不自由なく妖精術を使える妖精従きの相手ではない。契約妖精を失った方も、無駄な命は散らしたくはない。
結果生まれる、契約妖精を失った妖精憑き……戦争が残した傷跡の一つ。
そんな人々が今の時代では少なくない数いる。
中には新たな妖精との契約を結ぶ者も居るが、大抵がそれを拒むのだ。
理由はそれぞれだが、大分して二つ。
一つは唯一無二の相棒だからと、新たな相棒の存在を許せない事に起因するもの。
クラウスがフィーナと出会った『妖契の儀』でも言われていたこと。
妖精との契約は一生のもの。それは単純に、危ない目に合わなければ添い遂げるという意味でもあるし。何より契約は妖精のお眼鏡に適わないと結べない。その最初の出会いの時に、誰しもが思うこと。
自分はこの妖精と苦楽を共にするのだと。
その誓いこそが、妖精との契約だ。
だから二人目の妖精との契約を拒むのだ。
二人目の妖精との契約は、その最初の妖精との誓約を反故にするような気がして余り挙がらない話。それに何より、相棒たる妖精を失ったからと言って次から次へと使い捨てのように契約していれば辺りからの視線も、何より妖精から抱かれる不信感がその先を暗に示す。
それから二つ目は、人間性の問題で、妖精を巻き込みたくないというもの。
一つ目にも繋がる話ではあるが、契約妖精は相棒で、人生の伴侶とも言われる存在だ。だから唯一無二として思い出を紡ぎ、そして失えば悲嘆に暮れる。
そんな辛い経験を二度もするのかと。二度すれば、それだけ妖精の命を奪ってしまうのだと。転生するとはいえ、その妖精と繋いだ絆の分だけの責任を、自分が背負えるのかと。
そもそもが妖精に支えられた世界で、彼女達の不信を買えば何が起きても不思議ではない。国の滅亡どころか、文化、文明の消滅までありえるのだ。
例え自分一人が傲慢さを押し付けたところで何にもならないかもしれないが、それが積み重なった時にどうなるだろうか……そこまで至れば、二度目の契約に乗り気ではなくなる。
それ以外にも理由はあるだろうが人それぞれ。特に仲のいい妖精従きと契約妖精に多く見られる話なのだ。
詮索するようで少し気が引けるが、ベンノもそんな一人だと記憶している。
今でこそ王立機関妖精術統括理事会の最高顧問という肩書きで妖精術の管理を請け負っている彼だが、昔は軍属していたらしいのだ。
戦争にも参加して、そこで契約妖精を失って。ヒルデベルトの友人だったらしいベンノは国王の計らいで前線から退き、今の居場所に身を置く事になったというのが簡単な彼の経歴だ。
元々事務仕事が苦手ではなかったらしく、与えられた仕事をこなしているといつの間にか最高顧問に上り詰めていたと……前に何かでそんな事を言っていた気がする。あれは……雑誌の片隅の取材か何かだったか。
曖昧な記憶を断片的に思い出しつつ目の前のベンノに感じたいつも通りの違和感。
傍らに契約妖精がいないというその欠けた景色に、今だけは共感を覚える。
「……ベンノさんは、妖精憑きでしたよね?」
「そうですな。今にも失った相棒の事は夢に見ますがな」
言って寂しそうに肩を揺らすベンノ。どうやらその話題について、彼自身の中で整理はついているらしい。
署名をし終えた書類を返しつつ重ねて尋ねる。
「もう一度、契約をしたいとは思いませんか?」
「……昔は考えた事があったが、今はそうは思わんよ。幾ら争いがなくとも別れはいつか来る。その時に相手を残してしまうのは心残りだ。人が抱えられるものはそう多くない。わたしにとっては、妻と、僅かばかりの思い出だけだ」
どこか遠くを見据えるように窓の外へと視線を向けるベンノ。外の空模様は残念ながらクラウスと同じ灰色。季節柄冷え込めば雪でも降りそうだなどとどうでも良い事を考えて。僅かの沈黙の後にベンノが続ける。
「だから、例え妖精の方から声を掛けてきてもわたしはその子と契りは結ばんよ」
「そうですか……」
固い覚悟……というよりはそれが彼なりの納得か。
あと、どうでも良い事だがベンノの一人称が前と変わっていると。
前に話をしたとき……ヘルフリートの一件では『わたくし』だった一人称が、今は『わたし』になっている。
染み付いた名乗り方を二年の間に変えるということもないだろうから、恐らくそこが彼の境界線か。
仕事をしている時の彼は『わたくし』。個人的な話では『わたし』。
そんなどうでも良い事を考えてしまうのは、クラウスがそういった端の情報から相手の事を値踏みしてしまうから。
一人称には知らずその人の性格が出る。だから第一印象と共にそこにも気を掛けて距離感を計るのだ。
クラウスの記憶で後特徴的な一人称と言えばエミだろうか。ハーフエルフの彼女は普段『わたし』で、何かやるべき事を見つけて意欲を燃やすと『あたし』に変わる。その切り替えと、時折起こしていた愛嬌という名の失敗を合わせて、爆弾のような少女だとエミの性格を把握しているのだ。
更に言えばクラウス自身。『僕』という一人称は少し飾った言い方だ。単純に、その方が周りが誤解してくれるから。礼儀正しく面白味のない平凡だと勝手に思い込んでくれるように……そうすれば面倒事を避けられるからと意識してそう呼称しているのだ。打算的で嫌な奴だからこそ着飾った仮面というわけだ。今ではもう慣れてしまったけれど。
「……どうしてそんな質問を?」
返った疑問に少し考えて、それから着地するべき場所目掛けて答えを零す。
「……妖精と契約をしたくても出来ない人がいますよね。その人たちの事を考えると、機会があるのに契約をしないのは勿体無い気がして」
「それは、けれど仕方の無い事だろう」
「分かってます。……けれど何か納得のできない思いがあって」
「…………だったらまた君がその閃きを手繰り寄せるのはどうかね?」
ベンノなら、そう答えてくれるのではないだろうかと。心のどこかで期待していた音を聞いて顔を上げる。
「反転術式を作り出したのだ。妖精術どころか妖精力に干渉する術式……妖精の根幹に干渉する術は、やはり規格外だ。その重要性は君も分かっていて、命令式も随分複雑だっただろう?」
「…………そうですね」
反転術式を作る際、その殆どを担当したのはフィーナだ。今となってもあの時のフィーナの姿は脳裏に焼きついている。
クラウスが思いついた先から口にする言葉を、まるで初めから分かっていたように間違いなく理解して術式に昇華してくれた。波長の違う妖精力に干渉して影響を及ぼすのだ。並みの命令式では不可能で、けれどそれを乗り越える為の膨大な命令式をどうにか矛盾なく方陣という形にまとめてくれた。
それこそベンノが言うように閃きに突き動かされたように無心で形を成そうとしてくれた彼女は、まるで妖精術を指先一つで操るその化身のようで。
フィーナにもアルにも、まだクラウスの知らない秘密が沢山ある事は知っている。それを解き明かす為にも、再び彼女達を見つけ出さなければいけないのだ。
「あれほどの術式が作れた君だ。だったら今度は契約に関する術式に手を伸ばしてみてもいいのではないか?」
「契約術式なら既にありますよ……」
「分かっていて話を逸らすものではない。妖精の見えない者にも妖精との契約を齎す術式を、だ」
明確に言葉にされて、逃げられなくなる。
それは、今のクラウスに必要なことなのだ。けれど問題もある。
「そう簡単に出来たら苦労はしませんよ」
力なく笑って今の身の上に嘆く。
妖精力こそあるが、回路が閉ざされ妖精術など使えない。回路がない以上契約もできないし、そうなれば妖精の手を借りる事もできない。
幾ら方法論が思い浮かんだとしても、それを命令式にして妖精術として昇華する手立てがないのだ。
必要な妖精術はあるのに、それが作れない。前提からして既に行き詰っているのだから仕方ない。
「……それに、例えできたとしてどうするんですか? 妖精との歴史を歪める事になるかもしれませんよ?」
「まぁ、そうなのだがね」
これまで、契約は妖精の見える者……妖精憑きしか行えなかった。その理を捻じ曲げれば、人間の側はよくても、妖精には都合が悪い事が起こるかもしれない。
それに、その先の未来もクラウスには想像できる。
契約に関する術式を先に進めれば、誰かが言い出すはずだ。
多重契約の術式を、と。
前にクラウスも思い描いていた理想。
多数の妖精との同時契約。今でもそれが不可能だとは思わない。
それがもし実現したとすれば、世界が乱れるだろう。
例えばその力を国が持ったとしよう。戦後の火種燻る今の時代にそんな変革が訪れればどうなるか。語るまでもない未来だ。
「妖精だけではない……人間同士の争いにも発展するかもしれない。そこにまた、妖精を巻き込むんですか?」
少しだけ強くなった語調に気付いて、それから言葉を引っ込める。
ベンノは、何かを考えるような間を開けて答えた。
「……そういう意味で言ったのではないのだよ。ただ単純に、妖精を知る手がかりになればと思ってね。例え誰かが作ったとしても、きっと封印指定で世には出ないだろうが……」
当然だ。そんな均衡を狂わせる術式が公に発表されれば面倒事になるのは目に見えている。
「嫌な想像をさせて悪かったね」
「……いえ」
彼の言葉に相槌を打って。けれど世界のこととは別に、やはりクラウスには必要なことなのだと至る。
フィーナやアルとの再契約。多重契約。もしそれを手に出来たなら、今度こそ妖精の国に手が届くのかもしれないと。
まだどこかで潰えていない胸の炎に自分らしさを見つける。
理由なら、二年もかけてクラウスを連れ戻してくれた彼女達への償いで十分だ。
「わたし個人としてはね、君みたいな貴重な人材を失いたくはないのだよ。だから、気が向いたらでいい。妖精と歩む歴史の為、何かあったなら声をかけてはくれまいか?」
「その時はもちろん……。でしたら最後に一つお聞きしてもいいですか?」
あるかどうか定かではない未来に空虚な答えを返しつつ尋ねる。
「今編纂された妖精術の中で、契約に関する最も進んだ妖精術って何ですか?」
「………………そうだね、妖精語の会話、ではないかな?」
「っ…………!」
返った答えに肩を揺らす。
「妖精変調は知っているね?」
「はい」
「あの際に回帰種たちと会話をする為に作られた術式。言語の平均化を応用し、回路を介して妖精の本質と会話をする術式だよ」
それはきっと、ユーリアがデュラハンに襲われた際に参加していた任務で使われていた妖精術。
「あの後時間は掛かったけれど、どうにか安定して効果が望める程度には出来上がったのだよ。君が眠っている間の出来事だ」
「そうでしたか…………」
クラウスにしてみれば別の方法で手に入れたやり方だ。
世界を探せば、クラウスのようにその術式がなくとも相棒と会話をする妖精従きが見つかるかもしれない。今ではそこまで珍しい技術でもない気はする。
けれど心のどこかで、何かが引っかかって可能性の炎を燃やす。
「もし君がいたならもっと早くに出来上がっていたかもしれないがね」
「……買い被りですよ」
ベンノの言葉に小さく笑って返せば、彼は席を立つ。
「さて、余り長話で体に無理を強いたら悪い。次の予定もあるのでな。ここらで失礼するとしよう」
「……貴重な時間をありがとうございました」
「なに、わたしがそうしたかっただけなのだ。許しておくれ」
肩を揺らしたベンノは、それから続けて紡ぐ。
「それでは、賢き裁量に正しき叡智の遭逢があらん事を」
それは彼が運営する施設の訓示。
別れの挨拶にそう言って寄越した彼は静かに礼をして病室を出て行く。
ベンノの背中を見送って。廊下から彼の足音が聞こえなくなってから一人考える。
妖精と契約を交わす方法。クラウスが抱き続けた野望の根幹にあるフィーナとの出会い。そこにさえ影響を及ぼす妖精との繋がりに視点を向けて考え込む。
ベンノの言葉、妖精術、契約、回路……。
先ほど何かを掴み掛けた感覚の端を辿って思考を伸ばす。
妖精。その存在に干渉する為には、妖精を知らなければならない。
ならば妖精の全てがある場所にて可能性を探せば。
……妖精の故郷、契約、回路────何だ、記憶に微かに引っかかる。後少しで繋がるはずなのに……。
僅かに見えた妖精の尻尾。それを追い駆け続けて喉まで出掛かったその方法論に歯噛みする。
っ誰か。もう一つ欠片を……。それで捕まえられる気がするのに…………!
と、そんな風に一人捕まえきれない答えに悩みの渦へと振り回されていると扉が叩かれる音。定刻の診断だろうかと顔を上げて出入り口を見れば、そこに立っていた顔に思わず息を止める。
「……何だ、元気そうじゃないか」
「…………フェリクス、さん……」
フェリクス・ピクトル。宮廷画家の地位を捨ててまで己を貫き通したリャナンシーに愛されし者。儚き命の持ち主。
予想外の顔に名前を落とせば、彼は小さく笑ってそれからクラウスの傍の椅子へと腰掛ける。
「……どうかしたか?」
「あ、いえ…………」
「まだ勝手に殺さないでくれよ? 幾ら短い命と分かってはいても、出来る限り彼女と居たいのが本音なんだから」
クラウスが視線を向けていた事に何を感じたのか、彼は茶化すように告げて承和色の瞳を向けてくる。
その双眸に、彼が何に対して答えたのか気付いて慌てて否定する。
「違いますよ。そんな薄情な事は思ってません。ただ少し意外だっただけです……」
「ぼくはどうでもよかったんだけどね。リアナンがどうしてもというから顔だけ見に来たんだ」
「…………合わせる顔なんてありませんよ」
リアナン。フェリクスの契約妖精である彼女の事を思い出して苦い思いを募らせる。
クラウスがこんな事になったのは、最後の選択だった筈の彼女の助言を素直に聞き入れなかったからだ。
────魂に近づきすぎよ。生きている事を愛し、死なない事を祈りなさい
彼女がクラウスの波長を覗いて得た、預言染みた言葉。それはきっと、生の魂に由来する占いのような予感だったのだろう。
そんな彼女の危惧も空しく。クラウスは目の前に突きつけられたと感じたデュラハンへの激情を抑えられなくて、行動へと移して……そうして失敗したのだ。
もしあの時彼女の言葉に従っていれば、少なくともクラウスはこんな風にならなくて済んだのかもしれない。
けれどそれでユーリアが傷付いていたのでは、結局いつかは似たような結末へ至っていたのだろうと。
だとしたらリアナンのあの言葉は忠告ではなく、彼女自身が信じたかった未来なのかもしれない。
「リアナンに何を言われたのかはぼくも聞いていないから知らないけれどね。君の事だ、誰に何と言われようと似たような結末には至っていただろう?」
「だからこそ余計に、です。なによりも妖精の助言だったんですから、それに従わなかった僕が愚かなだけですよ……」
失敗を改めて悔いるように零せばフェリクスは溜息と共に沈黙を選ぶ。
先ほども言った通り、彼にとってクラウスのことなど殆ど関係ない。仕方無しにここへ来ただけなのだ。
だとすれば、目的の在り処は彼ではなく、彼女の方。
「…………リアナンが怒ってるよ。回路がないから直接文句も言えないって」
「……そういう意味では幸運でしたね」
嫌われるのを覚悟で自嘲すれば、フェリクスがリアナンの言葉を代弁する。
「運なんて、ただの言い訳だろう? それに君はまだ、諦めていない。生きている。生きようと、している……」
「…………それがせめてもの償いですからね」
ユーリアやアンネに助けられて、残してしまったフィーナやアルにも謝らないといけない。そういえば、まだ謝罪の言葉を一言も口にしていなかったと。……いや、クラウスが言わないように彼女達が振舞っていたのか。
謝られても迷惑だから。謝るくらいならそれ以上の答えを返して欲しいと。
クラウスにはそれに甘えるだけしかできない。だからまだ、諦めていない。
「死神の刃に触れて尚生きる希望を失ってないのだから、やっぱり君は規格外だ」
「希望なんて……これはただの僕の我が儘ですよ」
「…………だったら我が儘にまた一つ助言でもしてあげようか?」
呟きに返ったのは変わった声の調子。いつの間にか俯いていた顔を上げてフェリクスを見れば、彼は小さく笑って告げる。
「リアナンからの生きる為の道標だ。『ニーベルングの指環』だそうだ」
「っ……!! あぁ、そっか…………そう言う事か」
先ほど要領を得なかった喉元に詰まっていた蟠りが解けていく感覚。その何とも言えない心地よさと新たな可能性に胸の内が躍る。
「……けれど、どうしてそれを?」
「…………会話は出来ないけど宿る妖精力から波長を読む事はできるらしい。そこに言葉にならないものがあったから、きっとそれが引き金だろうって」
「悩み事まで筒抜けとは……契約よりも恐ろしい干渉範囲ですね…………」
そこにいるはずのリアナンに悪態を吐いて。それから見た目妖精憑きなフェリクス……フェリクスとリアナンに感謝をする。
「……ありがとうございます。お陰でまた一つ、我が儘が増えました」
燃え尽きかけた野望の炎。燻っていた可能性が再び火花を散らす音を聞いて、今一度深呼吸。
そうだ、何を落胆する事がある。分かりきったことじゃないか。クラウスは、認められている。
理由なんて、根拠なんてそれで十分だ。
脳裏に描いたオーベロンの姿に小さく笑えば、フェリクスが立ち上がる。
「……さて、それじゃあぼくもここに世話になるとしようか」
「どうかしたんですか?」
「…………肩の骨が外れたんだ」
間抜けな病院への来訪理由に肩を揺らす。だったら見舞いよりも早く診断を受けに行って来ればいいものを。
気付いて、それから言葉にしない彼の優しさにまた一つ感謝を。
「リャナンシーの禍福の一端ですかね?」
「それを愛というなら受け入れて然るべき福だろう?」
「……恋は盲目、とはよく言ったものですね。残念ですけれどここに不治の病を治す処方箋はありませんよ?」
「だから君も罹ったのだろう?」
痛いところを指摘されて視線を逸らせば、フェリクスが笑って挨拶を告げる。
「その内、また遊びに来てくれよ。君の事も描きたくなった」
「魂を閉じ込められるので遠慮しますっ」
吐いて出た悪態に彼は背中を向けて。それから廊下へと出て行く。
「っと、失礼」
「いえ」
と、彼が扉を開けるとぶつかりそうになった人影。返った声の音に聞き馴染んだ響きを聞いて視線を向ける。
フェリクスと入れ替わりに顔を見せたのはアンネ。
「今日はお客さんが多い日だね」
「クラウス君そんなに友達いないのに?」
「失敬な」
胸に抱えられた綺麗な花。女中服に映える鮮やかな花弁の色は白色。
生憎と草花にはそこまで詳しくないクラウスだ。残念ながらそこに込められた思いまでは分からない。
「その花は?」
「春告草だよ。花言葉は、逆境のなかの希望」
偶然にしてはできすぎていると。彼女の気遣いに嬉しくなりながらどうでもいい話を紡ぐ。
「それは、アンネさんがまだ諦めてないってことの意思表示?」
「……鉢植えでも持ってきた方がよかった?」
縁起の悪い事を言う少女だ。冗談にも限界があることを知らないのだろうか。
「こうして話が出来なくなってもいいと?」
「眠っててくれれば、世話を焼くのは私の仕事だから」
どこか危なげな瞳で告げるアンネ。流石にそれを依存というには行き過ぎている。
甘やかしというか……ユーリアの独占欲にも似た嫉妬だ。言葉を重ねられるたびにクラウスは居心地が悪くなるというのに。
これ以上話を広げれば後々面倒になる事が分かりきっているので、早々に話題を別へ移す。
「……それで、今日はどうしたの?」
「お見舞いと、お届け物」
「届け物?」
花を活けた彼女は、それから懐から便箋を取り出す。
「クラウス君宛の手紙だよ」
差し出された白いそれを受け取れば裏返して、そこに綴られた名前に胸が跳ねる。
ラース・アルフィルク。脳裏を過ぎった顔に知らず息を吐く。
「……家族、だよね?」
「あぁ、父さんだ」
アンネの問いに答えながら内容に目を通せば、彼らしく簡潔な文章に懐かしささえ覚える。
「今回は流石に無視できないかなぁ」
「……何が書いてあったか聞いてもいい?」
「顔を見せに帰って来いって。二年以上会ってないわけだからね……」
彼女に言ったところで何も変わらない。これはクラウスの問題だ。
「故郷に帰るの嫌? お父さんが苦手とか……」
「家族は好きだよ。仲が悪いわけでもないと思う。……ただ故郷にはいい思い出がないからね」
どうしようもない過去の事を思い出して呟けば、アンネは視線を逸らす。
クラウスはこれまで自分の過去の事を誰かに言いふらしたりはして来なかった。テオやカイが同郷として幾らか知っているが、彼らは人の嫌がる事はしない性格。わざわざクラウスの過去を話題には出さないだろう。
クラウスが自分から言ってこなかったのは、そこに後悔しか無いからだ。
小さな頃の過ち。今更どうしようもない過去の出来事。
話せば自分が惨めになるだけの失敗談。
だから好きでいてくれて、こうして世話を焼いてくれているアンネや。独占欲を振り翳して、今日もきっと軍での仕事が終わったら顔を見せに来てくれるのだろうユーリアでも、クラウスの過去については殆ど知らない筈だ。
クラウスが寝ていた二年の間にアルとも仲良くなったようだったが、彼女は気紛れでもあの過去を口にするとは思えない。彼女も当事者で、彼女なりの後悔もあるはずだから。
できることならずっと隠していたかった事だけれども……。
「……知りたくないって言ったら、嘘になるよ。大好きなクラウス君の事だもん。知りたいよ。けれどそれでクラウス君が辛くなるなら、私は無理をしてまで話して欲しくない」
「ありがと…………」
アンネの優しさに小さく笑えば、彼女は痛みを抱えるように胸の前で手のひらを抱く。
そんな心配顔の彼女を見ていたくなくて、クラウスは殊更いつも通りの調子で言葉を継ぐ。
「大丈夫だよ。今更アンネさんに気を遣う事なんてないから。だから、そうだね……気持ちの整理が出来たら聞いてくれる?」
「その時は、これ以上無いくらい甘いもので埋め尽くさないとね。苦いのは私の気持ちだけで十分だよっ」
「アンネさんがいてくれれば、僕にとってはそれだけで十分に甘やかされるから大丈夫だよ」
これ以上無いほどに甘い言葉にアンネの頬が染まる。けれどきっと、その言葉にこそ彼女の胸の内は際限なく辛くなるのだろうと。
そこまでしてでもクラウスの傍にいたいと願う彼女には適わない。どうしてそんなに自分を焦がす事が出来るのだろうか。
「だったら私を食べてみる? これ以上無いくらい甘くて美味しいよ?」
「……楽しそうなお誘いだけど、残念ながらそれは出来ないかな」
「どうして?」
「食べてもきっと満たされないから」
「…………どっちの意味で?」
空虚なのか、それとも次を求め続けて満たし続けないといけないからか。
可愛い問い掛けに罠を見つつ笑顔だけで答えれば、アンネはくすくすと肩を揺らす。
分かっていてこんな意味のない答えを求めてくるあたり、どこかで諦めているのだろう。
選ばれないから、選ばれないなりの楽しみ方。ずっと追い続けるという苦痛を背負いながら、そこに刹那の愉楽を渇求している。
あぁ、ままならない。彼女を選べていたのなら、どれだけ溺れていたのだろうと。
失敗だらけの人生の、中でも随分と大きな後悔に名残惜しさを感じながら話題を変える。
「そう言えば昨日本を持ってきてくれるって言ってたけど」
「あぁ、うん。明日部屋に寄ろうかなって。何か注文でもあるかな?」
「えっと……『ニーベルングの指環』って題名の本があると思うからそれを持ってきてくれる?」
「『ニーベルンゲンの歌』じゃなくて?」
「うん。あ、童話の方じゃなくて大人向けの小説の方ね」
『ニーベルングの指環』。『ニーベルンゲンの歌』を元に綴られた話で、このフェルクレールトの大地では世界に広く伝わる話で、童話用に編集された物語は英雄譚。
英雄がドラゴンを倒しお姫様を救う。有り触れた冒険譚にして、夢の詰まった物語。
大人用のそれはお姫様を助けたその後の話も描かれ、多数の人間模様が織り成す少し悲しい物語。
先ほどアンネが来る前にリアナンから貰った助言と、それから前にイェニー女史からも話には聞いていた重要な文献。
クラウスはそこに、話には直接出てこない妖精の存在を追いかけている。
「でもあれってただの英雄譚なんじゃ……?」
「普通はね。ただ確信はないけど、恐らくって言う想像は妖精まで繋がりがあるから」
まだそれが真実だと胸を張っては言えない。根拠が足りない。
それを探す為にも、まずは妖精の最奥に手を伸ばす。その為にフィーナやアルとの契約を取り戻す事が必要で、まずはその最初の一歩としてかの存在を見つけなければ。
「…………クラウス君、また何かしようとしてる?」
「新しくって程じゃないよ。今までの延長線上。また頼ってもいいかな、アンネさん」
今更な確認かもしれない。けれど幾つか変わった関係の中で彼女がクラウスに愛想を尽かしていないとも限らない。
その問い掛けに、彼女は嬉しそうな笑みを浮かべて答える。
「……もちろんっ。よかったよ、クラウス君がまだ諦めてなくて」
「諦めきれないから、夢なんだよ」
それからアンネとひとしきり意味のない話をして見送れば、ようやく手に入れた一人の時間に溜め息を吐く。
ベンノ、フェリクス、アンネ。珍しい顔ぶれが多かったとどうでもいい感慨を落としながら、頭の中で考えるのは記憶の限りの可能性。
リアナンに言われアンネにお願いした『ニーベルングの指環』。あの物語の中にはクラウスが欲する方法論があったはずだ。
繋がりだけ引っ張り出せば次の通り。指環、財宝、アルベリヒ、エルフ、オーベロン、妖精の国……。これらの単語が、たった一つの答えに収束する。この想像は、きっと間違っていない。
これまでに幾つも積み重ねてきた情報収集と、遠回しに逃げ続けてきた疑問が結びつき始める。
後必要なのは、それを裏打ちする真実の根拠か。
けれどそれは、きっとこの行く末の先に見つける事が出来るはずと。あの場所は、そういう場所なのだと。
至った結論は行き詰まりにも似てその先を曖昧にぼやけさせる。
脳裏に巡る論には一応筋は通る。だからこそ余計に分からない事が一つ。
妖精とは、何なのか。
それはきっと妖精の国を理解するに辺り最も必要な知識であり、人間が手にした事のない欠けた真実。
全ての根源にして最大の謎は、クォーターであるクラウスにも未だ分からない。
……いつかそれを理解できる日が来るのだろうか?
もしくるのだとしたら、その時クラウスはどうなってしまうのだろうか。
曖昧な結末を幾つも夢想しては、要領の得ない想像に一人笑みを零す。
…………とりあえず、それはその時に考えるとしよう。何よりも今必要なのは、妖精従きとしてのクラウス・アルフィルクを取り戻すこと。
行くべき場所は分かっている。そこまでの道のりの為に、何を利用すればいいか、どんな筋道を立てて行けばいいか。
まるで白紙の地図に自分なりの世界を描き出すように……宛らそれは芽吹いた若葉がやがて沢山の梢を伴って大樹へ成長するように。数え切れないほどの分岐と細い道をどんどん増やして少しずつずれた未来を幾つも想像する。
これから先、どんな葉っぱに行き着いてそこにどんな花を……実をつけるのだろう。その果実は何色をしていて、どんな味がするのだろう。
分からないからこそ、そこにクラウスの求める最もの理想を押し付けて、そこへ至る為の道を作り出す。
……まずはできることから。早く学院に戻らなくては。
心配は嫌というほど沢山掛けた。その償いとして……何より待ってくれている彼女の為にも。クラウスは今一度あの場所へと戻らなければ。
幾つもの中間地点を描きながら天井を見上げて。それから重く息を吐き出せば視界の端に映る便箋についても考え出す。
帰郷……挨拶は、後回しにするべきだろう。
別に帰るのが嫌というわけではない。……苦い思い出こそあるが、両親に会える事は素直に嬉しいのだ。
前に会ったのは三年ほど前か。枕元に置いてある記録結晶から考えても見舞いには来てくれたのだろうと。けれどまともに話をしていない。
だからいい機会だ。学院であったこと、契約を交わしたフィーナや再会できたアル。幼馴染のテオや純潔なるエルフのニーナに堅実で実直なヴォルフと。その他にも沢山出来た友人と呼ぶべきなのだろう人間関係に…………慕ってくれる二人の少女。
佳人と愛嬌。対極に位置する二人の存在に、言葉にならないほど助けられたのだと思い出話として語るべき事は山のように存在する。
親元を離れて暮らす親不幸者として、せめて家族らしい時間と思い出を。クラウスとしてここに居させてくれる父親と母親への感謝を。
少し恥ずかしいけれど大切なことだから面と向かって伝える為に、今は少し我が儘で後回しにしたい。
当然なことで、クォーターであるクラウスの片親はハーフィーだ。その体は妖精力で作られた妖精……いわゆる妖精寄りのハーフィー。
しかし妖精であれば、今のクラウスには見ることも話すことも出来ない。そんな状態で親を悲しませたくないから……フィーナたちとも顔を合わせて話をしたいから。
今はただ妖精が見えるまで頑張らなければ。
二年もの空白に積み重なったやるべき事は沢山ある。学院のことだって、もう数日すれば卒業なのだから、進路も考えなければ。
幾ら妖精の国を目指すとはいえ、それはクラウス個人の野望であって、社会的に認められているわけではない。それを旗印に仕事をするならば、やはり研究職という事になるのだろうと。
デュラハンに狙われて意識を失う前にも幾つか届いていた案内。反転術式や連結術式の事を知って是非にと受けていた誘いはまだ有効だろうかと。また今度アンネが来たときにでも確認をとって貰うとしよう。
現実的な部分と空想の間の、ここに生きるクラウス・アルフィルクとしてを少しだけ考えて、それから徐に手を天井へと向けて伸ばす。
クラウスが考え得る事は、クラウスにしか出来ないことだ。それを振り回して、最も困難で最も意味のある夢を描けば、クラウス・アルフィルクとしての中核が出来上がる。
何よりも、疑うな。オーベロンに認められたからではない。手にした関係に自惚れているからではない。
自分がただ、クラウス・アルフィルク以外の何者でもないからだ。
だからただ一人、自分だけを信じたまま道化の仮面を思い出す。
悪魔のような非情の道化。……少し付け足そうか。
妖精に愛されし悪魔のような非情の道化。そう謳えば、何よりも正しく自分自身を示している気がすると。
と、あだ名とも蔑称とも言える名前に自分なりの解釈を付け加えていたところへ響いた扉を叩く音。
「……どうぞ」
その響いた音。間隔のあけ方、音の大きさ、扉の向こうの気配。
間違えようのないクラウスの欲した彼女に向けて入室を促す。
さぁ、今日も今日とて深く重い彼女の愛情に応えるとしよう。今日は一体どんな精神的束縛を受けるのか……少し楽しみになりつつあるクラウスは、やっぱりどこか歪んでいるのかもしれない。




