第五章
ヴォルフの話を聞き終えて。落ち着いた心持ちで思った事を素直に口にする。
「本当に山も谷もありませんでしたね」
「ピスとケス……あの二人の少女に助けられて、随分と好待遇を受けたのが大きかったのだろう。クラウスのように危険な橋は渡ってなどいない」
「堅実ですね。先輩らしいです」
「この性格は諦めてはいるが、自分でも好きなのだ。静かに暮らせるに越したことはないだろう?」
「退屈ばかりも遠慮したいですけれどね」
彼の話を聞く間に自主的に動かしていた体は段々と感覚を取り戻しつつある。二年も寝たきりだった所為かやはり筋肉は衰えているだろうが、別にどこかが麻痺しているほど絶望的ではない。時間さえあれば直ぐに日常生活には復帰できるだろうと。
「どうでもいいですけれど、上から二番目の留め具はその人の心って意味があるらしいですよ。一番心臓に近いところを貰う……気持ちを貰うって言う意味らしいです」
「…………そうか」
知らなかったらしい知識を今更ながらに語れば、彼は少しだけ居心地悪そうに視線を逸らした。
心を貰う。流石にそこまで聞けば彼も意味が分かるらしい。分かったところで、彼にしてみれば終わった話なのだろうが。
「……それでまだ聞くか? クラウスも疲れるだろうが」
逃げるような話題転換に黙って応じる。
「平気ですよ。確かに余り体力に自信はありませんけど、無理をしているつもりはありませんし」
「そうか…………。しかし、かといって私の身の上話ばかりというのも一辺倒だ。出来る事なら別の話もしてやりたいのだが……」
「だったら彼女に任せてみたらどうですか?」
言って向けた視線は部屋の出入り口。肩を僅かに揺らしてそこに立つその姿に、彼女の象徴たるエルフの長耳が震えるのが見えた。
心配そうな彼女は何を言うでもなくすぐに近寄ってきて手を取ると脈を測る。
「……口開けて」
「一通りの問診は既に────」
「開けなさい」
静かな物言いに言葉の先を潰されて仕方なく従えば、喉、目、爪と順に診断を終えた彼女は、やがてクラウスの手を握ったまま安堵の溜息を落とした。
「皆心配性ですね。必要以上に過保護すぎますよ」
「報いよ、甘んじて受け止めてなさい」
記憶の彼女から少しだけ伸びた気のする背丈と共に、纏う雰囲気は水の流れるような随分と落ち着いたものに変わっていて、そこにこそ驚きを見出す。
「遅いなんて言わないでよ? これでも急いできたんだから」
「何か用事でもあったんですか?」
「別に……仕事よ。それよりも本当にクラウス君なのよね?」
「僕が僕じゃない時がありましたか?」
「……えぇ、今確信したわ。死んでもその減らず口は治らないのね。あ、別に死んでたわけではないか……」
酷い言い草だと。
けれど同時に、少しだけ大人っぽくなった彼女も、中身はきっと二年前のままだとクラウスも安心する。
「ならば丁度いい、続きはニーナから聞いてくれ」
「そうしましょうかね」
「は、え? 何の話?」
「……昔語りです。聞かせてもらえませんか? 僕が眠ってた二年間の事」
「…………寝てなさいよ」
「もう十分に寝ましたよ」
取り戻しつつある彼女との呼吸を他愛のない言葉で補えば、ニーナは呆れたように笑って椅子へと腰を下ろした。
「で、どこまで聞いたのよ……。まさか嘘教えてないわよね?」
「私は事実を伝えたまでだ。アンネの方は知らんがな」
「なら大丈夫でしょ」
クラウスの居ない間にも時間は流れて、その中で彼女達の関係も少し色を加えたのだろう。名前で呼び合うようになっていたりという変化から察していたことだが、別にクラウスがいなくても世界は時を刻むのだ。
「卒業式の辺りから話してみてはどうだ? 話題には事欠かないだろう?」
「あたしをクラウス君と同じ迷惑者と一緒にしないでよ。……でもそうね、あたしはあたしの知ってる事を語ろうかしら? テオがいればもっと話しやすいのだけど……彼も忙しそうだからね。彼が来るまではあたしに付き合ってもらうわよ?」
「お願いします」
「……素直だと気持ち悪いわね」
呟いて、それから彼女は記憶を旅するように語りだす。
「別に押し付けるわけではないけれど……。戻ってきてくれたあなたに捧げる福音歌の代わりにはなるかしらね」
* * *
卒業式なんて、有形無形に関わらず幾度も経験する実感のない式典だ。
命の終わりも最期に迎える生の卒業式だと言えば笑い飛ばしてくれる人はいるだろうか?
そんなただただ押し付けがましい学院の行事に。あたしが異端と称してその奔放さと埒外さに。間違っても尊敬さえしたクォーターの少年はいなかった。
小耳に挟んだ話では、彼が裏でニーナを驚かせようとささやかな送別会に似た何かを企画していたようだったが、発起人である彼がいなくなって空中分解したのだろうと。別に学院を出たところで関係の糸が切れるわけではないだろうに。どうせ何かと理由をつけて、国との足掛かりとして……エルフとして利用するのだろうと想像すれば少しだけ笑みも零れた。
一応彼が企画していたそれとは少し異なるが、委員会や生徒会仲間で小規模な集まりは一度あった。
それほどに色々な意味で興味を集めたこの身は──違えようもなく、エルフだ。
エルフ。妖精とは異なる異能力を使い、翅はないものの同じ長い耳殻を持ち、人型をした、分類学上は亜人種や異人種と呼ばれる存在。
長く理解されず、今もまだ非難は残る種族だが……けれど一定の理解を示す者もいる。もちろんその興味も様々なものだ。
クラウスのように何かに利用しようと思う者もいれば、単純に物事の研究に意欲を燃やす人々もいる。もちろん大多数は差別だろうが。
そんな、迫害と忌避と興味と需要の上に危なげに立つ種族。それがエルフだ。
需要、というのはその身に宿る異能の力……精霊力だ。
この世界は妖精に溢れている。世界の伴侶とも呼ばれるその存在の恩恵を受けて、生活や景色には妖精に由来するものが沢山存在する。
照明器具も、水も、炎も。日常で関わる事の多いそれらは、使いやすい形で人の文化に取り入れられ、時には大規模に応用もされている。
けれど妖精の異能力は無から有を生み出す力。妖精力を形ある何かへ結実する力だ。既に物質としてあるものに干渉して便利に扱うことは難しい。出来ないとは言わないが、限られる。
なぜなら自然由来のものには妖精力は宿らないから。樹木にも、風にも、大地にも。妖精力の宿らないものを妖精術で操る事はできない。
一定以上の実力を持つ妖精従きや契約妖精ならば、僅かにその存在を借りることで術式の規模を拡大する事が可能だ。
ヴォルフなどがよく利用しているその技術。大地から土の腕を生やしたりする異能は、妖精力で生み出した指向性を持つ土や岩のほかに、僅かに自然由来のものが混じる。
そうする事で使用する妖精力を少し減らしたり、僅かに規模の大きい結果を作り出すことが出来るのだ。
逆に、純粋に妖精力だけで作り出した土の拳は、空中にだって浮かせられるし、飛ばすことも出来る。使い勝手を取るか効率を取るか。その判断は個人によるところはいいが……今はいいとしよう。話がずれすぎた。
そんな無から有を生み出す事に長けた妖精力、妖精術とは違い、精霊術は既にあるものを扱う事に長けた異能の力だ。
熾した火を操って炎の蛇を作ったり、流れる水を思うままに操作して虹を掛けてみたり。実用的なもので言えば戦場では自然すべてが味方する。
大地は隆起し、風は逆巻き、炎は猛り、水は狂う。地形にこそ左右されるが、その力は時折妖精術で成す結果よりも大きな傷跡を残す事がある……万物に干渉する異能力。
それは形あるものを歪める行為として……何より歴史を共に歩む妖精を貶める名として、長い間否定されてきた力。
しかしここ十数年で、エルフへの認識がある程度改められた事による利用価値。既にあるものを加工するという技術は、妖精のそれよりも応用範囲が広いと言われる事もあり注目度が上がっているのだ。
妖精術も精霊術も、それぞれにできない事ができる力で、優劣などつけるものではないとニーナは考える。実際、エルフは妖精に対してそこまで敵意を抱いているわけではない。中にはエルフの技を聖視して声高に主張する者もいるけれども。
もちろんニーナにだってエルフとしての誇りはある。けれどそれは何かを貶めた先にあるものではないと思うし、ならば全てを尊重して、平等に扱われてしかるべきというのがニーナの理想。……転じた夢が──全てが平等な世界。
語れば、エルフがと罵られて唾棄されるだろう夢物語なのは分かっている。
けれどしかし、人間が同じ夢を抱くのと、エルフが抱くのと…………そこにどれ程の違いがあるというのだろうか?
誰が目指したって難しいことなのは承知だ。だからこそ、手を取る事が必要なのだと気付いて……あたしはあの春に、彼の言葉に頷いたのだ。
校内保安委員会。学院の秩序を守るという大義名分にしてとても小さな平穏への一歩。言葉通りに受け取って裏切られた……灰色というには程遠く真っ黒な彼の思惑。
けれど間違いだとは思わないし、救われた部分も沢山あった。彼のお陰で取り戻したものもあるし、新しく手に入れたものもある。
そして──忘れられない言葉も。
その言葉はこの学院の長にして、あたしの母親であるエルゼに言われた言葉。
────エルフはエルフじゃない
彼女が言うにはクラウスとの共通見解であり、それ以外ではない間違った常識だそうだ。
その言葉だけを伝えられても、ニーナにはその真意は分からない。
だってエルフはエルフだ。
人間とは違い、妖精とは違う。この世界の何者とも交わらない、誇り高きエルフだ。
その信じるべき誇りは今も揺らいではいない。
考えるだけ無駄なのかもしれないと。拭いきれない違和感を抱きながら胸の内に秘めたその言葉。
悩む事さえ封印して諦めたその答えは、いつの日か彼が教えてくれればいいと願って。目の前に控えた帰郷にも似た何かを見据える。
それはアンネに寄せ集められ、フィーナやアルの可能性を信じ、大人の協力を取り付けてどうにか漕ぎつけた現実。
特使として、スハイル帝国の皇帝陛下からミドラースの地へ赴く許可を頂く事。
同時に、今はもう疑わない己の夢をかなえる事。
フェアリードクター。エルフの、という修飾語をつければ調べた限りでは世界で初の場所。彼は他にもいるのではないかとも言っていたが、あたしだって居れば師事出来ると期待は膨らませていた先達。
しかしどうにもそんな話は見つからなかったのだ。もちろん調査不足かもしれないが。
けれどしかし、スハイルにはニーナが尊敬する人物も居るのだ。エルフではなくとも、その人の元へ向かえば少しは教えを乞えるかも知れないと。
そんな色々を抱えて迎えた卒業式は、彼が居ない事が支えになったか涙は出なくて。
緊張の所為だと理由を見つければ声を掛けてくる周りの生徒にいつも通りのあたしで挨拶を返す。
悩んでも、見つめなおしても、仕方ない。今はただ、目の前にあるはずの微かな希望にかけるだけだ。
「先輩っ、卒業おめでとうございます!」
考えて、とりあえずはこの余韻に浸ろうと……それから愛しい彼を探しながら進めた歩みに見慣れた顔を見つける。
同時、目を赤くしたその少女は、笑顔の華を咲かせて小走りで駆け寄ってきた。長く綺麗な橙色の髪。そこから伸びる、あたしと同じ血をその身に秘める証たる、長い耳殻。こちらを見上げる視線は透き通った瓶覗き色。
「ありがと、エミ」
エミ・アリデッド。今の生徒会副会長として……そしてニーナの時代の臨時の会計としてよく顔を合わせることの多かった、ドルフ級のハーフエルフの少女。
ニーナの何がそんなによかったのか、生き様まで真似したいとまで慕ってくれた、可愛らしい後輩だ。
普段は気弱で、けれど火が点くと目的に向かって邁進する、よく失敗をするちょっと抜けた女の子。物好きな生徒からはそんなところがいいと密かな人気を持つ彼女だが、その鈍感さは今も変わらずだ。
「卒業、なんですよね……えへへっ」
はにかんだ笑顔は自覚のない愛嬌で。彼女みたいに愛される振る舞いが出来たなら、と羨んだ事は過去にあったけれども。
彼女は彼女、あたしはあたしだ。
「あたし、寂しいです……。先輩が居なくなって、それにクラウスさんも…………。先輩みたいに要領はよくありませんし、うまくできるかどうか……」
「うまくしようなんて思うとまた失敗するわよ? 大丈夫。今度の会長も、それからヴォルフやアルテルフ君だって力になってくれる。愚痴くらいならいつでも聞いてあげるから、みんなに助けられながら頑張りなさいっ」
「それじゃあ成長できませんよぅ」
可愛らしく呻くエミに肩を揺らせば、彼女も揃って小さく笑う。
まぁたしかに、やっぱり少しだけ心配ではあるけれども。それも立派な試練だと思えば前へ進む原動力になるだろうと。
後願う事といえば、できる限り失敗を減らして欲しい事か。
致命的ではないにしろ愛嬌の範囲を超えてしまえばそれは迷惑だから。彼女が彼女らしく前を向けるように、出来る限り失敗しないように精霊の加護があれと。
「そうだっ。先輩、よかったら何かお守り代わりにもらえませんか?」
「お守り?」
「いつでも目標を思い出せるようにしておきたいんですっ」
いきなり言われても直ぐに渡せるものなどは先ほど貰った花束くらいなものだし……。卒業祝いとして貰ったそれをあげるのは流石に変な話か。
少しだけ悩んで、それから不意に彼女の長い髪が目に入る。
そう言えば少し前に、後ろ髪を閉めた扉に挟んで転んでいたと。綺麗ではあるが、どうやらその扱いに難があるような髪に傷がつくのは同じ女として見て見ぬふりはできない。
かといってニーナの髪は短い。普段からすっきりと切り揃えられているから、髪留めも使わない。制服にも、生憎持ち合わせはないようで。
と、そうして下ろした視界で真ん中に揺れた一本の紐。首元で結ばれた赤い襟締め。
気付けばその端を引っ張って解いていた。
「先輩?」
「あっち向きなさい」
「えっ、あ……はい…………?」
何をするのか分からないと言った様子の彼女にくすりと笑って、それからエミの後ろ髪を手にとって軽く梳きながら纏める。
「……大丈夫よ。あたしが居なくたってエミはエミ。貴女らしく自分に自信を持てばいい。けどもし、それでも何か不安があったならこれを思い出すといいかしらね」
頭の後ろで一つ括りに纏め上げた真っ直ぐ伸びた一つ結び。
彼女の雰囲気をまた一つ芯のあるものへ変えつつ、こちらに向き直った彼女に告げる。
「頑張りなさい、エミ・アリデッド」
「っ……!! はいっ!」
そうして彼女が浮かべた笑顔は、自信に満ち溢れたこれからを期待させる朗らかなものだった。
卒業を祝う言葉と引き換えに彼女へ学院の事を託して、それから目的の人物を探して校庭を歩き回る。
「まだ後始末してるんじゃないですかね?」
「あたしの時は既にこの時間に終わってたわよ」
交わす言葉は肩上のディルクから。からかうような物言いに自分と比べて、それから小さく自己嫌悪。
違う、そうじゃない。彼とあたしは生き様さえ違う。
彼にだっていいところは沢山ある。だから生徒会長として認められ、ニーナの後を継いだのだ。もちろん、事務仕事が苦手なところも可愛いとは思うけれど。
と、そんな事を考えながら辺りを見回していると、目当ての背中を見つける。
直ぐに声を掛けようとしたところで、彼が誰かと話をしている事に気付く。相手は、女生徒。胸に花を飾っているから卒業生だろう。
彼女に向けられた真っ直ぐな黒い瞳。ちらりと見えたその色に、少しだけ悟って勇気の一歩を踏み出す。
静かに背中へ向けて近寄れば、最初に気付いたのは女生徒。彼女はニーナの姿を見ると僅かに肩を揺らして、それから踵を返すと逃げるように駆け出した。その刹那に、女生徒の目に確かに光る雫をみつけて────
「……そんな顔しないの。似合わないわよ?」
「っ! あ、いや……さっきのは…………」
「分かってるわよ。言わなくていい。その気持ちまでも否定しようとは思わないわよ」
声を掛ければ慌てて振り返ったテオ・グライド。その驚きと焦りの宿った瞳に優しく微笑んで言葉を返す。
言葉にされてはニーナの立つ瀬がなくなると。去って行ったその方向を少しだけ見つめて零す。
「一度きりの時間だもの。誰だって満足のいく気持ちの整理くらいつけたい。あたしだって……もしかしたらそっち側だったかもしれない…………」
例え叶わない想いでも。告げて、納得して、またもう一度歩き出す為に。けじめとして気持ちをぶつけるだろうと。
それだけの魅力を、あたしの彼氏は持っているのだと。自慢で、誇りだと不遜に胸にしまいこめば自信にも繋がる。
だから……ニーナだって分かるから。そんな狭い了見で否定などしない。
「……けど、駄目だから。ここまでは許しても、その先は許さないから」
「も、もちろんだっ。俺にとって大切なのは、ニーナだけだから」
「っ…………!」
これまでも二人きりの時には幾度となく投げかけられた、純粋で真っ直ぐな言葉。
けれどその瞳に見つめられて言われれば耐性などあってないようなものだと、自分に少しだけ恥ずかしくなる。
それから、初めてがあるとすれば。彼がニーナの名前を呼び捨てで呼んだこと。
これまでは何かとはぐらかすように先輩だとか敬称を付けて遠回しに呼んでいた彼だが……一体どんな心境の変化だろうか。
「…………隠し事したくないから、言うけど。もう六人の気持ちを受け取った。けどな、最後に全員が口を揃えて言うんだよ……お似合いだって」
彼もまた恥ずかしそうに顔を逸らしながら、けれど懸命に零す。
「俺は、まだ未熟で。幼馴染さえ守れないほどに弱い。言えば敵を増やすかもしれないけど、俺が学年首位を取ったりみんなより少しだけ強いのだって、特別だとは思わない。ただ少しだけ、違うだけだって思ってる」
それはともすれば葛藤のように。知らず認められるからこそ、その椅子に座り続ける覚悟。
不意にその姿が、エルフである事を誇りに思い、生徒会長の責務に追い回されていた自分と重なる。
「だから、相応しくないなんて言うつもりはないけど、隣に居られるような努力はしてるし、これからも続けていく」
そんなのはニーナだって同じだ。
彼自身が語ったように、一目置かれ、尊敬されるべき魅力と実力を備えたテオだ。ニーナの方こそ、自分から射止めた彼の隣という場所に、まだ僅かに引け目を感じる。
「……その一歩、として。だから自覚を持ってみようと思って。逃げるのは、性に合わないから」
言ってはにかむような笑顔を浮かべた彼に、ニーナも言葉を返す。
「…………あたしだってまだ少し納得できてないこともあるけど。でも手放したくないから。だからテオがそう思ってくれてるなら、あたしだって負けてられない。少し先を生きる先輩として、格好悪いところは見せられないから」
それは覚悟だ。彼の気持ちに答える為の、ニーナなりの宣誓。
負けるとか負けないとかではないかもしれないけれど……彼との関係はそれが一番正しい気がするのだ。
何せ彼に向けて本気になった時だって、彼と刃を交えたその時だったのだから。
戦いこそ恋だと。それは誰とでもなく、自分との切磋琢磨なのだと。
そうして少しだけ胸を張れば、周りの視線を集めていた事に気がついて恥ずかしくなる。そしてそれは、隣の彼も一緒だったようで、居心地悪そうに視線を泳がせる姿に小さく笑う。
気付けば取っていた彼の手のひら。
「…………来て」
「えっ、あ、ぶな……!」
引っ張った強引さに少しだけ体制を崩したテオは、けれど直ぐに持ち直すと隣に並び立って歩いてくれる。
「来いって、どこに……?」
「ふふっ、どこだと思う?」
からかうように訊き返せば真剣に悩み始めるテオ。彼は彼で、ヴォルフとはまた違った真面目さだとおかしくなりながら。
そうして辿り着いたのは生徒会室。
彼と初めて出会い、彼と初めて言葉を交わし、彼へ託した場所。彼に初めて着替えを覗かれた場所。……いや、覗かれたのはあれ一回限りだけれども。今更ながらに思い返せばやはり恥ずかしく思う。
後ろから入ってきたテオは、どこか懐かしそうに零す。
「……初めて話をしたのがここだったな」
「えぇ。そうして初めてあられもない姿を見られたのよ?」
「っ! あ、あれは事故で…………!」
言い訳がましい言葉に、まるであの時を再現するように右の手のひらを彼の頬へ。
叩かれると思ったのか、思わず身を硬くした彼に薄く笑って爪先立ちになる。
遠くに聞こえる生徒達の声を背景に、空気さえ止まった部屋の中で僅かに身動ぎをする。
やがて離れた唇には彼の感触。胸の内で暴れ回る感情が行き場を求めて体を突き動かす。気付けば目の前の胸に額を預けていた。
「……あたしが居ないからって、他の女の子に色目使わないでよ?」
「…………努力する……」
「だめよ、約束しなさい。じゃないともう一度────」
言って見上げた彼の顔が、いつの間にか近くにあって。塞がれた言葉の先を、真っ直ぐな瞳で彼が紡ぐ。
「……分かった。約束する。俺は、ニーナだけを愛してる」
「何に誓ってくれる?」
「俺自身に誓う」
「ん…………」
そうして、もう一度。
気を遣ったのか、ヘルフリートとディルクの姿はない。だからこそ、誰の目も憚らずに大好きな彼に溺れる。
少しの間離れ離れになる。その前借という風に求めれば、彼が姿勢を崩して扉に凭れながら座り込んだ。同じように膝を折って彼を扉と体で挟むように真正面からその瞳を覗き込む。
「……ねぇテオ、このまま時間が止まったらいいと思わない?」
「…………思わない、って言ったら嘘になるけど」
「けど?」
────もういいですっ
* * *
「えー、なんで……。クラウス君が聞きたいって言ったんじゃないの」
「どうしてそんな惚気話を延々と聞かされ続けないといけないんですか……」
思わず熱の乗ったニーナの語りに横槍を入れる。
一体何が悲しくて他人の恋愛の……それもこれ以上無いほどにに艶かしいところを語られないといけないのだろうか。クラウスが知りたいのはその先にある、何が起きたかだ。
「そういうのはテオと二人の時にお願いしますっ。卒業の話はもういいですから、スハイルに行ったあとの事を教えてください」
「ちぇっ……。はいはい、じゃー次ね…………」
二つほど声の調子が落ちた。全く、それが本題だろうに。
胸の内で呆れて溜息一つ。
そうして再び語りだしたニーナの話に耳を傾け始める。
* * *
そんな卒業式を終えて、話をつけていた通りにまずは従軍。それから特使としてスハイルへと向かう。
流石に竜籠の使用は降りなかったようで、馬に乗っての移動。
途中幾つかの宿を借りながら数日。ブランデンブルクとの国境として跨る大山脈、アルネブを越えた向こう側は眩いばかりの白銀の世界だった。
そろそろ雪解けが始まっていてもいい時節だがどうやら今年は冷え込んだようで。まだ数日降りそうだというのがニーナの見立てだ。
アルネブ山脈を越えるのに合わせて雪に強い馬を仕立ててもらって正解だったと、吹いた風に身を小さくしながら目的地に向かって進む。
それでも雪中の道行きの為か、十日以上掛けてようやく辿り着いたスハイルのお膝元である帝都。北の大国らしい厳しい寒さは、けれど人が溢れ、活気に満ちた都の入り口を見ただけで吹き飛んだ。
足取りや声に見える人の営み。鼻先に漂う生活の匂い。それから、この土地、この時期特有の、ニーナにとっては懐かしい嗅ぎ慣れたにおい。
幼い頃には母親と二人、ここで暮らしていたのだ。だからこそ冬が来るたびに寒い中を我慢して運ぶ足は浮き足立っていた。
そんな昔の記憶が蘇って知らず心まで暖かくなる。
そうして気付けば通っていた都の門。見せたブランデンブルクからの特使であるという証に、出入り口を管理する妖精騎士が生真面目な表情で挨拶を返してくれた。
「ニーナ・アルケス様ですね、お待ちしていました。伝令を預かっております。奉迎の者のところへ案内を致します」
そこまで敬われると逆にこちらが居心地が悪くなると。ニーナにしてみれば帰郷という意味合いの方が強い。客人扱いというのは不思議な気分だ。
と、そんな事を考えていると通された待合室に、見慣れた顔を見つけて微笑む。
同時、あちらも気付いて、駆け寄ってきた。
「ようこそおいでくださいました、ニーナ・アルケス様っ」
「やめてよっ、もう……」
「ふふっ。…………おかえり、ニーナちゃん」
「ただいま、ヘレナ」
ヘレナに案内されて辿り着いたのは、彼女が暮らす寮。友人として、国賓として。沢山の融通の上に手に入れたニーナの安心できる場所だ。
きっと一番力を貸してくれたのは隣に居る親友。彼女が身に纏うその装束に見覚えがある事に気付けば幾つもの納得がついた。
綺麗に整理整頓された部屋の中、差し出された温かい飲み物を受け取りながら言葉を向ける。
「その服……」
「あぁ、これ? ふふ、いいでしょ?」
踊るように身を翻す仕草には、長く緩やかに膨れた仕着せの裾が揺れる。黒と白の絶妙な均衡。頭の上に乗った白い装飾品がその職に就く証だと教えてくれる。
「ニーナちゃんのところだと……ヴァレッターだっけ? アンネが居るところ」
「…………なんでヘレナがあの子の事知ってるのよ」
「前にちょっとね。……で、これもそれと同じようなのだよ。特に決まった名前はないけどね」
「────主産巫でしょ?」
「っ…………!!」
彼女に決まった役割がないのは、既に別の意味合いがあるから。
主産巫。その名前はブランデンブルクを発つ前にとある筋から入手した彼女に関する情報だ。
それから調べてみれば、意外と知らなかった事が次から次へと出てきて、ここへ来る前にも少しだけ頭を悩ませた。
「代々仕えてるんだっけ? で、選ばれた」
「…………どうせあの子に聞いたんでしょ?」
「……さぁね」
誤魔化して、それから互いに不可侵とする。
ヘレナだってこれ以上踏み込まれるのは避けたいはずだ。どうでもいいと溜息を吐いて見せれば、少しだけ睨んできたヘレナだった。
「……何処まで知ってるかは知らないけど口外しないでよ? 形式上は国に仕える普通の使用人って事になってるんだから」
「しないわよ。ヘレナだって理由があってそこに居るんだろうし。あたしがここに来たのだってそれと同じだもの」
幾ら幼馴染と言えど踏み入っていい事情とそうでないものがある。それを弁える位は出来て当然だ。
そんなニーナに、反撃の如く予想外の音が返った。
「私も聞きたいことたっくさんあるんだよ? テオ君のこととか」
「なっ……んで、ヘレナがそれっ……!」
「心優しいお友達がいてね?」
脳裏に浮かんだアンネの顔に嘆息する。
……帰ったら何かおしおきをしてあげなければ。
「で、どうなの? どこまでいったのっ?」
「言わないわよ! だいたい、そんなに興味があるなら自分で────」
言って返した矛先は、知らずに彼女の何かを貫いたようで。
悲しくも不安そうな表情に彩られた親友の顔に告ぐべき言葉を引っ込める。
何かあったのだろうかと。覗き込んだその顔が、突然不敵に歪んだ事に驚かされる。
「ひひっ、騙された!」
「っ! ヘレナ!」
あぁ、そうだ、と。段々と思い出してきた彼女の邪悪な性格に軽く眩暈を覚える。
彼女はクラウスに近い存在だ。他人をからかう事に楽しさを見出し、その為ならばこちらの気持ちすら蔑ろにする。
クラウスと違うのは、その矛先が本当に仲のいい相手にしか向けられないこと。ニーナからしてみれば、正直いい迷惑だ。
「変わんないねー、危なっかしいねー。直ぐに相手を信用しすぎ。だから心配なんだよっ」
「うるさいっ」
「でもそんなところが好きなんだけどね?」
「…………はいはい」
「あー、冷たいんだー。全く、誰がわたしのニーナちゃん汚してくれたのかなー、うん?」
「誰がいつへレナのものになったのよ」
呆れたように紡げば、ヘレナと二人顔を見合わせて笑う。
そうしてようやく取り戻した昔の空気。間に幾つもの暗黙の了解を横たえたまま、見て見ぬ振りで今を噛み締める。
「いつまで居る予定?」
「さぁ。とりあえず許可貰いに来ただけだから、それが取れたら直ぐにでも帰ろうかしら?」
「そんなに彼の事が愛しい?」
「ヘレナと一緒が疲れるだけよ」
「素直じゃないなぁ、もうっ」
言って抱きついてきた拍子に飲み物を零しそうになりながら、彼女の体を押し返す。その際に偶然、親指が彼女の胸元に触れた。
刹那に、すぐさま距離を取って体を抱くように腕を交差するヘレナ。
半眼で睨みつけて、それから零す。
「……なに、また大きくなったの?」
「ひっ……!? へんたいっ! 何でわたしの友達にまともなのが一人も居ないのっ?」
「自業自得でしょうが」
こちらを上目遣いで見上げながら唸るヘレナに少しだけ嗜虐心を擽られながら。
そうして迎え入れられた彼女の部屋を拠点に、あたしのスハイルでの生活は始まったのだった。
「わたし何も悪い事してないもんっ!」
久しぶりに帰ってきた故郷は、昔のままだった。故郷といっても本来の、ではない。あたしが生まれた本当の生家は、あたしが一歳の頃になくなっている。
ここはその後にスハイルによって与えられた土地だ。
とはいっても幼い頃の記憶。曖昧で、ふんわりとした固まりきらない既視感にも似た思い出だ。
ただ確かに覚えているところも何箇所かあって、住んでいた場所や、子供心によく訪れた景色。それから尊敬する恩人の住まい……。
スハイル城には挨拶をして、とりあえず話が出来るだけの時間が空いたら連絡を入れてもらうようにしての午後。
特にすることといえば、居候の身たるニーナはここに居る間の働き口と、目指すべきもう一つの夢への勉強だ。
フェアリードクター。過去に少しだけ憧れた希望は、今や就きたい職業だ。
けれど難関とも言われる試験を通って、更に実地研修を済ませなければ一人前としては認められない。
厳しい道のりなのは分かっている。けれどそこに辿り着かなければ、あたしは前に進めないから。
見覚えのある故郷の中を歩きながら、目的地へ。
そうして足を止めた大きな建物の前で深呼吸一つ。木製の扉を開けて中に入る。
落ち着いた内装には清潔な薬品の匂い。ニーナにして見れば安心のする空気だ。
扉に掛かっていた札はここが小さな診療所だと教えてくれる。日も傾き始めたこの時間には既に問診待ちの患者も居ない。
記憶の頃より随分と高くなった背丈で、何も変わっていない……少しだけ色褪せた気のする廊下を進んで一つの扉を叩く。
中から返ったのはしわがれた声。懐かしい声に思わず笑みを浮かべて、あの頃のような心持ちで顔を覗かせる。
「お久しぶりです、オーラフ先生。ニーナです」
「おぉ……? あぁぁ、アルケス君の一人娘か! なんとなんと大きくなってっ」
「五年ぶり、ですかね?」
「そんなに経つかっ。ははっ、わたしも年を取るものだっ」
返った声は快活な老人のもの。
長く総やかな白髪に、皺の多い顔には白群色の瞳。下がった目尻が彼を優しく彩ってくれる。
薬の匂いが染み付いたこの老人はオーラフ・パナケア。あたしの尊敬するお医者さんだ。
「しかしどうしてここに?」
「少し所用で。故郷に帰ってきたついでに挨拶をと思いまして」
「そうかそうかっ。なに、仕事も先ほど終わったばかりだ。わたしも休憩をしようと思っていたところでね。よかったら一緒にどうかね? 話を聞かせてくれたまえよ」
「もちろんです、先生っ」
昔より少しだけ皺が増えただろうか。
寄る年波には勝てないのは誰だって同じ。妖精のように転生をしない、限りある命は一生のものだ。だからこそ何かを成す事に意味があるのだと。
考えながら、オーラフに寄り添いつつ奥の部屋へと向かう。
彼は足が悪い。歩けないわけではないが、動くのは辛いはずだ。
その手助けをして先に腰を下ろさせると、彼に聞きながら飲み物を用意する。
間に交わされるのは疑問。
「カテリーナさんは? 買い物ですか?」
「ふふっ、死んだよ。三年前になるかな」
「…………そうでしたか」
不用意な事を聞いた。
辛い事を思い出させただろうかと伺えば、彼はいつものように優しく笑う。
そんな彼に温かい紅茶を差し出す。
「どうぞ」
「悪いね。…………別に、君が落ち込む必要なんてないだろう? ただの老衰だ。責任なら、甘えていたわたしにあるのだから」
告げない言葉を喉の奥に留めて思い出す。
カテリーナというのはオーラフの妻だった人だ。医者としてここで村の人たちの面倒を見る彼を影ながら支える良妻。幼い記憶ですら喧嘩をしているところすら見た事がないほどに、穏やかな夫婦だったのを覚えている。
「君が出て行ってからね。少し元気がない時期があって……寂しさを紛らわせるように必要以上に世話焼きになってね。その無理が祟ったんだろう」
彼の言葉の端に思い返す。
あたしは、ここで暮らしていた時期がある。
それは先の戦争……第二次妖精大戦が終結してから数年の間だ。
あたしの母……エルゼ・アルケスが戦争を治める人質としてブランデンブルクへ向かった折に、あたしはここ、パナケア夫妻のところへと預けられたのだ。
今になって思い返せば、その理由も納得がいく。
あの頃は、今よりもまだエルフという存在に懐疑的で、批難の対象としてよく槍玉に挙げられていた時代だ。そんな折に、スハイルのように国を挙げて大々的にエルフを保護するだけの用意が整っていない他国へ向かえばどうなるか……。そんなのは火を見るより明らかで、その心無い視線や言葉に、当時まだ五歳くらいの子供だったあたしを晒すわけにはいかなかったのだろう。
だから安心できる者に預けた。それがここだったのだ。
それからあたしが母親を追い駆けてここを発つことになる十四歳まで、オーラフとカテリーナに育てられたのだ。
「若者は帝都の方へ出て行って、ここに住む者も年寄りばかりになった。体の弱い者も沢山居るし、わたしだっていつ迎えの来るとも知れない身。自分と、頼ってやって来る周りの世話で精一杯だった。…………言い訳がましいかね」
「いいえ」
そこだけは、きっちりと否定する。
誰にだって最期は来る。僅かな遠回しの措置くらいはあるかもしれないが、避けられるものではない。露草姫の一件で、それは痛いほどに知っている。
その時が、カテリーナには数年前に訪れたというだけだ。
けれどそれでオーラフが自分を責めるのは違う。彼は医者だ。愛妻の為に、出来る限りの手は尽くしただろう。
責任を問うなら、そんな二人に甘えたまま、何も返さずにここを発ったニーナにこそ…………いや、それも違うか。
悪者などいない。それは全て、あるがままのその通りだ。
少しだけ考えるような間を開けて、それからオーラフが紡ぐ。
「君は何をしに? 別に言えないことなら構わないけれどね」
「……はい。先生に、弟子入りしたくて来ました」
「弟子?」
「あたし、フェアリードクターになりたいんです。その為に、出来る事からと思って……」
偶然には感謝をし切れない。
ミドラースに足を踏み入れる為に、この国の主に許可を貰う。その目的地と、ニーナの故郷が重なったという運命的なものに、この期を逃すわけにはいかないと考えたのだ。
「目指す場所は少し違いますけど、知っておくべき知識は似てます。だからその為に勉強をしたいと思いまして」
「…………そうか」
少し長い沈黙は、やがて判別のつかない言葉になって零れる。
特使としてのやるべき事など、話せない事が沢山ある中で、けれど彼に嘘だけは吐きたくないから。
彼の考えを聞くのに、後何が足りないのかと考えたところでオーラフは告ぐ。
「……あぁ、いや。何か理由を考えていたわけではないのだ。少し思い出していてな」
「思い出す……?」
「君の父親の事だよ」
寂しい笑顔で口にしたオーラフは紡ぐ。
「彼の最期を看取ったのはわたしだ。助けられなくて済まなかった」
「いえ……。勇敢に戦って死んだと聞いています。それを疑おうとは思いませんし、誇りに思ってます」
それは幼い頃の記憶だ。軍属だったエルフの父親はその実力を買われてスハイルの一兵として戦場に赴いた。幾度かの戦いの後、片腕を無くして帰ってきたらしい彼は、そのまま治療の甲斐なく息を引き取ったらしい。
命の終わりなど、あっけないものだ。特に戦争では、幾らあっても足りないほどに血は流れる。
経験した事がないからこそ想像でしか語れないが、だからこそ忌避感と壮絶さは嫌に鮮明に刻まれる。
そんな父親の主治医……というか軍属時代の面倒を見ていたのがオーラフだ。彼も元々は軍属の軍医。戦争を経験した人物だ。
時折前線近くまで出向く事のあった彼はその中で足を怪我して、戦が決着するまではスハイル城勤務の名医として。その後はこの地で小さな診療所を切り盛りしている。
「彼はね、よく口にしていたよ。君には平穏無事な道を歩んで欲しいと。戦なんていう血生臭い場所とは違う世界で生きて欲しいって」
オーラフの言葉にディルクを見つめる。
彼はニーナの父親の契約妖精だった存在だ。彼の死後、一人消えるだけの存在だった彼に声を掛けて契約を交わしたのがニーナ。あたしにしてみればディルクは父親の形見でもある。
「────あなたはなにをまもっているの? だったか?」
不意に響いたディルクの声。彼の言葉に遠き過去を思い出しながら答える。
「……そうね」
「オレは……お前を守ってるんだ。それが勝手に先にいきやがったあいつの遺言だからな」
「…………ありがと」
相棒思いな契約妖精の頭を撫でて、それからオーラフに向き直る。
「あたしが誰かに守られてるのは知ってます。お母さんにも、沢山迷惑も掛けましたから。……だから今度は、いつかあたしが恩返しを出来るように、誰かを守る為にそこに行きたいんです」
彼の白群の瞳を見据えて告げる。
「お力を貸していただけませんか?」
「……昔から、こうと決めたら曲げようとしないのが君の性格だ。老いぼれ一人にどうにも出来るわけないだろう。少し先を生きる先達として、未来ある子供に託すのも悪くないかも知れんな」
「子供って……あたしもう19ですよ?」
「君は変わらんよ。だからいつまで経っても、わたしにしてみれば子供だ。だから子供らしく甘えてなさい」
声に答えたオーラフは、優しく笑って頷く。
どうやらニーナの願いは聞き届けられたらしい。ならば出来る限り学ばせてもらうとしよう。それがクラウスの……何より自分の為になると信じて。
そんな風にオーラフを師事しながらスハイルでやるべき事も並行して進めていく。
ここへ来て数日。とりあえずの働き口も見つけて環境に慣れ始めた頃、ヘレナを通して話が回ってきた。
「いきなりで悪いけどお呼び出しだよ。出られる?」
「ん、直ぐに準備する」
その日は丁度仕事も休み。オーラフの方はいつも彼の診療時間が終わってからで、今の時間はまだ昼過ぎ。
時間は無駄に出来ないとヘレナの部屋で医学書を読み耽っていると、仕着せに身を包んだ彼女が帰って来てニーナを呼び立てた。
どうやらラファエルの都合がついたらしい。彼も忙しい身だ。折角の機会を不意にする訳には行かないと。
彼女の言葉に頷いて服を黒いそれに着替えると、ヘレナに連れられてスハイル城へと向かう。
「分かってると思うけど粗相はしないでよ? 幾ら幼馴染でも庇えない事だってあるんだから」
「もちろん。ヘレナに迷惑を掛けるつもりはないわよ」
話をしながら辿り着いた氷の城。
大昔に氷のドラゴンの息吹によって出来上がったという、溶けることのない氷塊を刳り貫いて造られた、綺麗に輝く薄い青色の荘厳なお城。
子供の頃から見上げ、小さい頃にはエルゼについて幾度かここへ来た覚えもある。
去年の夏にも外交として委員会の面々で謁見もした。
そんな理想と現実の狭間に揺れるニーナにとって不思議な場所。
中に入ることに少しだけ緊張したが、慣れている様子のヘレナが許可ともいえない素通りで先導する。
「……随分慣れてるわね」
「一応職場だからね。陛下にもよくしてもらってるし、小さい頃から出入りしてるから庭みたいなものだよっ」
ニーナの知っている事で語ればアンネと近いところに居る彼女。ならば当然かと幼馴染を少し遠くに置く。
「小さい頃って、昔一緒に遊んでた頃から?」
「んー、確かに来た事はあるけど、その時はお母さんの後ろに隠れながらだからね。正式なのは二、三年前くらいから。ただ昔から目は掛けて貰ってたみたいで、その場所だけはニーナちゃんがいた頃から用意してもらってたみたい」
「優遇されてるわね。あたしとは大違いじゃない」
「生まれは選べないでしょー? わたしに責任押し付けないでよっ」
その気の無い中傷で過去の事を振り返りつつ肩を揺らす。そうだ、ヘレナが居てくれる。緊張する事なんてない。
「それに今の立場で言えばわたしよりニーナちゃんの方が上だよ? しがない使用人風情と、隣国より陛下の命を受けてやってきた国賓様」
「ただの幼馴染でしょうが」
肩書きに拘るほどニーナに野望があるわけではない。あるのはあわよくばの夢だけ。
それに幼馴染だって、何時までも変わらない彼女との繋がりだ。
そんな事を考えていると目の前に氷の分厚い扉。水晶のように光を曲げるその向こうに豪奢な造りを見ながら呼吸を整える。
「……よしっ、いつでもいいわよ」
「それじゃあさっさと済ませちゃおうか」
対照的な覚悟の様子にいつも通りを感じれば、少し前に立つヘレナの纏う雰囲気が変わる。
伸びた背筋。息をつめたような横顔と、そこに宿る使用人としての立ち居振る舞い。
まるで別人だと感じれば、開いた扉に足を出す。
綺麗な動作で出した足に音は響かない。たったそれだけのことなのに幼馴染の存在が薄弱に消えていく。
控えるべき者は誰の邪魔をすることもなく静かに事を成す。影に支える使用人としての正しいあり方。仕えるべき者の為に自分を殺す。そんな事、エルフである事に誇りを持つニーナには出来ないと尊敬をしながら。
やがて足を止めたヘレナの横に膝を突いて頭を垂れる。
「ブランデンブルク王国よりの特使、ニーナ・アルケス様をお連れ致しました」
「うむ。顔を上げよ、客人」
顔を上げれば交えた視線。全く衰えを見せない緑青色の瞳。強い光を放つ双眸を真っ直ぐに見返す。
言葉にならない力を秘めた眼力に、けれど退く事を許されないまま居座る。必要な事だ。不敬でなければ何処までも食らい付く覚悟はある。
「話はミドラースだったか?」
「はい」
「ふむ、許可だがな…………出せぬ」
返った言葉に思わず息を飲む。そう簡単に得られる結果ではないとは思っていたが、その中でも特に強い否定にこの先を重く感じる。
早速突き当たった壁にどうすればいいだろうかと思考を巡らせる。
分かりました、はありえない。それは許されない。ならば交換条件か? 何が武器になる?
発言を許されない身でありながら幾つもの事を考える。これが例えばクラウスであったなら、うまく切り抜けるのだろうと。
しかしニーナはニーナ。できない事はできない。
と、そんな事に葛藤していると続いた皇帝たるラファエルの言葉。
「しかしそれは今は、という話だ。ミドラースへというのであればスハイルとしても蔑ろにする訳にはいかぬ」
その音にニーナの及ばない領域で話が進んでいく。
「四大国の協調を考えても許可を出さないわけにはいかないが、それと私個人の考えは別だ。…………アルケス殿。君にミドラース立ち入りの許可を出す代わりに、その資格があるとその身を以って示してもらうっ」
力強い物言い。響いた感情のある声に肌を震わせながらその言葉を待つ。
「ナヴィガトリアの地に関する調査の任を命ずる」
「……謹んでここにお受けいたします」
ナヴィガトリア。ここスハイルの中で最も北に位置する土地で、古くには氷のドラゴン達が群れを成して住んでいたといわれる場所だ。
今では極寒の地で一年中吹雪に閉ざされ、人の住まない未開拓の地として放逐されているフェルクレールトの北の果て。罪人の流刑地とも噂される雪獄。
下手な準備で足を運べば遭難してもおかしくないほどに険しい場所だ。
そんな人の住まない土地に……文献にはエルフが住んでいたと言われる事がある。
もちろん真偽は不明。エルフの歴史を知るニーナだって詳しい話を聞いた事がないのだから、恐らく過去にエルフを批難した風潮が流行った時代に理由も無く北の地へ押しやって蛮族などとでっちあげたかったのだろうと。
スハイルですら自国の領地でありながらそう足を運ぶ事のない最果ての場所。そんな場所の調査と言われれば、単に死んで来いと言われているようなものだが。
けれど成さなければ許可はもらえない。それだけの対価が必要な許可だという証明にもなる。
ならば弱音は吐かない。何より全て噂。行ってみれば楽園でした、なんて可能性も無きにしも非ずだ。まぁありえないだろうけれども。
そんな色々を考えつつラファエルの御前からようやく解放される。
扉を閉めるまで維持していた緊張が、閉じると同時に恐怖へと変わる。
「ヘレナっ、こんな話になるなんて聞いてないんだけど!?」
「私だって今知ったんだよっ。それに私も同行しろって言われたし……」
「あぁ、ならいいわ」
「よくないよっ?」
根拠のない安堵と共に笑い話にする。幾ら必要だからとはいえ、ブランデンブルクからの客人をそこまで危険な任につかせるとは思えない。何より非力なヘレナが一緒についていくのだ。彼に庇護を受ける主産巫様はスハイルだって失いたくないだろうから、きっと安全なはずだと。
そんな希望的観測を胸に抱きつつ彼女の家へと戻る。
「で、結局何の調査をすればいいわけ?」
「んと……生態調査。生き物の保護観察だね」
暖かい部屋の中で座り込んでヘレナを軽く睨みながら訪ねる。彼女に渡されたのは指令書。どうやら先ほどニーナが謁見している最中に彼女に渡ったものらしい。
「生き物って……極寒の地なんでしょ? 何かいるの?」
「わたし達が住めなくてもその環境に適応した生物はいるよ? 緑豊かな森には動物が。ドラゴンの多くだって火山地帯。それと同じように寒いところが居心地がいい生き物もちゃんと居るんだよ」
「……想像が出来ないわね」
水の中で呼吸が出来なければ、一人で空を飛ぶことだってできない。
大地の上でしか暮らすことのできないこの身からすれば生息域の違う生き物なんて世界に山ほど居るけれど。中でも寒い場所となると余計に想像力が薄くなる。
生きるものは全て温度を持つ。それが失われた場所で生きていくなんて理解できない。それは生物と呼んでいいのだろうか?
「面倒な事押し付けられたぁ……」
「迷惑なのはわたしの方だよっ。巻き込まれたんだからね」
「そんなの最初からでしょうが」
溜息一つ。床に転がって天井を見上げ、僅かの逡巡の後に腹を括る。
「…………で、何時から?」
「いつでも? 期限はないよ。あ、でも早い方がいいかも。この時期から春が来るまでに寒波があるから……それに当たると本当にどうなってもおかしくはないよ」
「明日出るわよっ」
これから寒くなるという時期に北へ行けとか冗談じゃない。早く終わらせて再びこの家でまったり過ごすとしよう。
「……ねぇヘレナ」
「何?」
「帰ったらお願い一個聞いてくれない?」
「…………どうせまたあれでしょ?」
「幼馴染ってすごーい」
平坦な口調で言えば半眼で見つめてきたヘレナ。
それはスハイルへ来た時も彼女へ連れて行ってもらったこの土地特有の観光資源。特に冬の時期に増える客足は温かい安息を求める性。
特使としてこの国へやってきている都合上、何かしらの形で国の収益に貢献はしないといけないなどと、どうでもいい理由を並べ立ててもう一度連れて行って欲しいと彼女には再三催促をしていたのだ。
「……予定が噛み合えばね」
「ヘレナは嫌?」
「そういう意味じゃ……。もう、分かったから。ほら準備っ」
「はーい」
子供のように無邪気な瞳で訴えれば諦めるように零す。彼女が甘いのは子供の頃からの付き合いで十分に知っている。その気になれば強引に連れて行けばいい。押しには弱いのだ。
期待の持てる答えを聞いて肩を揺らせば、彼女に促されて準備を始める。
さて、面倒ではあるが同時にいい機会だ。早くに終わらせて得るべき答えを持って帰る。
ようやくその最初に足を掛けたのだと自分を奮い立たせればいつものように無駄口を紡いだ。
「寝泊りどうするの?」
「さぁ」




