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フェアリー・クインテット  作者: 芝森 蛍
蜂蜜酒に踊る即興曲(アンプロンプチュ)
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84/138

第六章

「ナヴィガトリアですか……。やっぱり一面白銀の世界ですか?」

「どちらかと言えば氷の方が多かったわね。氷の湖もあったわよ」

「それはそれで見てみたいですね」


 クラウスも知識だけの北の最果ての地。流石に自分の命までは賭けたくないが、叶う事なら一度目にしてみたい景色ではある。夏に行けばまだ安全だろうか?

 しかし冬にもまた魅力はある土地だ。話には、冬の晴れた夜の空に虹の布がたなびくという。確かにそんなものが見られるのであれば幻想的で素敵だとは思うが、気候に左右される以上余り期待できない話か。


「先輩寒いのは苦手ですか?」

「まぁ、そうね……。嫌と言えば嫌だけど、仕方のないことなら飲み込むわよ。それに寒さがあるからこそ際立つものもあるでしょう」

「あぁ、そういえばスハイルでは有名でしたね」


 先ほどの話の中にも出てきたスハイルの観光資源。特に冬の時期には集客が伸びるスハイル観光の代名詞。

 ブランデンブルクでは殆ど楽しむ事が出来ないのは、土地の所為もあるだろうかと。


「また今度皆さんで行きませんか?」

「別にいいけれど、言い出したのはクラウス君なんだから丸投げするわよ?」

「構いませんよ。興味を満たす為なら僅かな労力は厭いませんから」


 流石に冬も終わるこれからはもう無理だろう。来年に期待だ。それまでに準備も進めなければ。

 観光というだけあって人が集まれば宿を取るのも一苦労。早めに動き出さなければ直前になって慌てる事になるだろうと。

 期待に胸を膨らませながら朧気な計画を立てつつ話題を戻す。


「それで、折角ですからその後の事も聞きたいです。まだ一年も語っていないでしょう?」

「全てを語り尽くすなんて出来ないわよ。けれどまぁ、クラウス君に楽しんでもらえる程度の余興もあるから、今度はそれも聞いてもらおうかしら」

「できることならその場面に立ち会いたかったですけどね」


 冗談を重ねて笑えばニーナは一つ呼吸を整えて再び紡ぎ始める。


「……これから語るのは、あたしだけの物語じゃない。あたしに意味を見出してくれた、彼女に捧げる小夜曲(セレナーデ)。そんな気持ちの整理に、少しだけ付き合ってくれるかしら?」




              *   *   *




 ナヴィガトリアでの任務は過酷だったけれども楽しくはあった。

 そう語って済ませられるのは、隣に幼馴染たるヘレナが居てくれたからだろう。

 彼女が身の回りの細かい世話をしてくれて、その為にもあたしだって助け合って。

 雪と氷に彩られた北の最果てでの調査は、面倒こそ感じたけれどいい経験だとは思った。

 豪雪の中で生きる大きな白い熊。降り積もった白い景色の中で保護色になったその巨体ですら見つけるのに苦労したり。冷たい風を掴んで空を飛ぶ大きな鳥に、巣をつくりその中で暮らす小動物もいたりと、意外と多種多様な生き物を目にする事が出来た。

 寒い気候という事もあってか毛深い種が多く、こんな土地でなければ少なくない狩猟の得物になっていたのだろうかと思うと、彼ら自然動物にとっては敵の少ない楽園のようなものなのかもしれないと。

 そんな中で驚いたのは高く聳える幾本もの茶色い幹だった。

 陽光ですら意味を成さないほどに冷気立ち込める気候の中で、立派に根付いて背を伸ばす樹木。これから寒波という時期だからか、特に寒くなるこの地域では既に葉など枯れ落ち、寂しい幹と枝だけが天に向けて伸びていて。

 けれど確かに植生が存在するというのが個人的な新たな発見だった。

 深く積もった雪の大地も、興味本位で掘り返してみれば僅かに見えた草の名残。

 人の住まないその土地ですら適応した植物は確かにあるのだと感心しながら、冷たく痛い風除けとしてその茶色い幹の恩恵を受ける場所に居を構えたりと。

 まるで自然に許された中で生きる……大地を身近に感じる経験が出来たのは面白かったかもしれない。

 もちろん、寒いなんていう言葉では足らないほどの気候の中で、という前提ではあるのだか。

 そんな極寒の地で数日滞在し。調査を命じられた生物を分布地図を元にどうにか見つけてスハイル帝都への帰途へ着く。

 道なのかどうかも分からない帰路の途中、何処からか雪崩のような低く震える音を聞いたのは気のせいだっただろうか。雪崩など、あんな地形なら珍しくもないのだろうが。

 滞在中に巻き込まれたりしなくてよかったなどと今更ながらに思いつつ、やっとの思いでスハイル近くまで戻れば、肌を刺激する温かさと風に乗って漂ってくる食事の匂いにヘレナと二人お腹を鳴らしたり。

 どうでもいいけれど食事は日持ちのする燻製などの保存食が主だった今回の任務で、改めて温かい食べ物のありがたみを感じたりと。二度と味わいたくないような経験も今となってはいい思い出。

 そんな風に戻ってきたスハイルの地で。せめてもの恩情か一日の休息を挟んでラファエルへと報告すれば、彼はどこか驚いた風に黙り込んでいた。

 後からヘレナに教えられた事だが、どうやら目録の内半分の調査をしていれば良かったらしく、けれどそれを教えてくれなかった意地悪な幼馴染に騙されて、全ての生き物の調査をこなした事に彼は呆れ半分だったらしいと。

 それから数日へレナとまともな会話をしなかったのは当然の道理。可愛らしく必死に拝み倒してくる彼女に交換条件を提示すれば、渋々と言った様子で彼女は頷いてくれたりもしながら。

 そうしてようやく取り戻した人の温かみある日常を謳歌していると、今度はアンネから回ってきた依頼。曰くミドラースについてスハイルで分かる事を調べて欲しいと。

 調べ物が続くなどと億劫になりつつラファエルに報告すれば、思いの外あっさりと協力をしてくれる事になった。

 どうやら先のナヴィガトリアでの功績を鑑みて出来る限りの協力をしてくれるとのこと。彼にしてみれば目録全てを埋めてくるというのはそれほどに大業だったらしい。

 彼の信頼と、それから必要な協力も手に入れられた。そう考えれば辛かった調査任務もどうにか救われた気がしたニーナだった。




 ラファエルの厚意はどうやら随分なものというか……元より厳格に見えるのはその見た目だけらしく、ヘレナ曰く誤解を受けやすい人らしい。

 その話は本当のようで、ニーナですら予期していなかったほどに得られた好待遇は以下の通り。

 スハイル国立の図書館……その中でも重要文献を収めた区画への自由な出入りを可能とする権利。

 並べ立てられた理由としては、ニーナが元スハイル国民であり、第二次妖精大戦で活躍した父親の一人娘で、ブランデンブルクへ向かった戦争終結の為の人質たるエルゼの事も鑑みて、それ相応の権限は持っていてもおかしくはないという話。堅苦しいが、簡単に言えばそれに見合う後ろ盾と今回の任務の特別報酬ということのようだ。

 もちろんそれのほかにも幾つか便利な融通もしてもらった。中でも一番嬉しかったのは有名な食事処の一日貸切権利。もちろん嫌になるほどお腹の中に詰め込んだ。

 ラファエルの厚意。こちらにしてみれば願ってもない申し出。ならば断る理由もなく受け取れば、国立図書館に出入りする日々が始まった。

 ミドラース。このフェルクレールトの大地で中心近くに位置する廃都。四大国によって保護管理される秘密の多く眠る場所だ。

 今までにも研究は積み重ねられているが、共有財産として扱われている以上、その土地の中ではこれ以上無い協調性が求められる。

 下手をすれば新たな火種すら眠る土地。そもそもが第二次妖精大戦で慌しくて、それ以降に数度四大国合同の探索班が足を踏み入れただけの謎多き秘境だ。となればミドラースについての情報など限られている。

 幾らラファエルの厚意で見せてもらった重要な蔵書と言えど、足を運んだ回数が少ないのだから真偽も定かでなければ情報自体も少ない。

 そうなれば必然、ニーナの苦手な古い文献に頼る事が多くなる。

 そもそもニーナは純血のエルフ。一応人間に対する理解はあるし、人が作った理(ことわり)の中で肩身の狭い思いをしながらどうにか暮らしているに過ぎない。

 言ってしまえば文化の違う隣人で、ならばその者たちの過去の事など知る由もなく。

 歴史の中で変化した言語の所為で、人間の使う言葉……特に昔に書かれて現代語に翻訳されていない原書はニーナにとって大きな壁だ。

 エルフの文化で綴られたものならともかく、人の古い歴史までをニーナが知っているわけもなく。ヘレナだってエルフと妖精の混血……エルフィムで、人間の文化にはそれほど詳しくない。

 結果は既に語るべくもなく。遅々として進まない調べ物に嫌気を差して脱線する目的。

 気付けば手元に並んでいたのは医学、薬学書で。城での仕事終わりにヘレナがニーナのところへ顔を見せては呆れる日々が続いた。

 そうして数日。とうとう本を見るのも嫌になったニーナが向かったのはオーラフの診療所。気晴らしに実技で何かを教えてもらおうと尋ねれば、どうやら忙しそうで。

 声を掛ければ客人として奥の部屋に通されたが、我慢ならずに腰を上げる。


「っ先生。何かお手伝いする事ありませんか?」

「んむ? ふむ……そうだのう…………。とはいっても医者でない君に患者を診ろとは言えぬから……。どんな仕事でもよいか?」

「お役に立てるのでしたら」

「だったら待合室にいる彼らの話し相手になってはもらえんか?」


 言いつつ差し出されたのは診断書。

 話し相手……その言葉を額縁通りに受け取るほど、ニーナは彼との絆を結んでは居ない。


「分かりましたっ」


 言ってしまえば事前調査。診断は一人ずつしか出来ないが、その前段階で待つ人たちがどうしてこの診療所にやってきたのか……どんな問診や治療を欲しているのかを予(あらかじ)め聞いておけばいいのだ。

 それを書面に記して手渡し、診察室に入ってオーラフがそれを見れば、無駄なく問診の時間へと移る事が出来る。

 ニーナはまだ未熟だ。軍にいた頃治癒術を買われて仕事を貰っていたが、それだって傷を塞ぐ程度の軽い処置だけ。

 大きな病気を治した事もなければ、前線近くまで行って戦線を支えるなんていう仕事をした覚えもない。

 それは単に、ニーナがまだ学生で危ない事を任せられないほかに、医師としての資格を持たないから。

 頼りにされていないなんて思ったことはないけれど、早く認められたいとは思っていた。

 その壁が、国家試験。特にニーナが目指すのはフェアリードクター認定試験。

 学院も卒業して、やるべき事は見えている。ならば今更その道を疑いはしないし、必要な努力を惜しむつもりはない。

 オーラフだって協力してくれている。それを期待だと自惚れてもいい。

 やるべき事をするだけ。あたしにしか、出来ない事だ。

 やりたい事とするべきことと目の前を繋げて、次々に待合室の中を巡っていく。

 多いのはお年寄り。オーラフも言っていたが、この辺りには子供が殆ど居ない。夢見る若者は自分と未来を信じて帝都に向かったのだ。

 そうして大人たちが残れば、弱くなる体に小さな風邪だって這い寄る。ニーナ達なら薬を飲んで一日二日安静にしていれば直ぐに治る病気でも、彼らにとっては命さえ脅かしかねない病だ。

 それに村自体も小さく、人も少ない。そうなれば必然繋がりも濃くなって、村全体がひとつの家のようになる。

 助け合いは人を呼び、結果たまり場が出来る。

 彼らにしてみれば、この診療所が大切な寄り合い所なのだ。

 例えばそんな中にニーナが入っていって、オーラフの知人だと誰かに知られれば広まる話の輪。気付けばニーナの周りには幾人もの人集りが出来ていて、彼から任された仕事が出来ないほどに声で溢れる。

 けれどしかし、そんな繋がりも時には必然などと呼んだりもして。ニーナの話に古い言語に対する愚痴のようなものが零れれば、この村の生き字引達が知恵を貸してくれる。

 それは年の功ともいうべき見識の広さ。ニーナの至らない境地にして、それが複数人集まれば分からないことなんて存在しないと証明するように、彼らが楽しげに語って聞かせてくれる。

 やがて誰かが言い出したおせっかい。


「そんなに困ってるなら頼ればいいじゃろう」

「……けど、それは」

「遠慮なさんなっ。こうしてわたし達を心配してくれているお礼もしたい」


 温かい好意に返答を困る。

 頼りたい気持ちは確かにある。彼らの知識を借りれば、直ぐにでも得たい答えは見つかるだろう。

 けれどこれは、ニーナに課せられた使命。今は眠る眼鏡の彼を助ける為に、ニーナがしたいことなのだ。

 そんな個人的な都合に、彼らを巻き込むわけには…………。


「けど…………」

「いいんじゃないかな? 陛下にはわたしから言っておくからさ」


 考えて、折角の好意だが縋るわけにはいかないと突き放そうとしたところで、背後から投げかけられた言葉。聞き馴染んだ幼馴染の声に思わずその先を見失って振り返る。


「ヘレナ…………」

「あんまりわたしが言えたことじゃないんだけどさ、ミドラースって四大国で管理してるからこそ、抜け駆けができないの。そうしたら勝手に調査も出来なくて、分からない事を分からないままにしておく事しかできない。だから、今回みたいな機会がないとそもそも研究の進まない分野なんだよ」


 それは、ブランデンブルクだってそうだ。

 下手に干渉をして世界に火種を撒き散らしては争いが起きてしまうから。その為に許可を取って来いと言われてスハイルくんだりまで来ているのだ。

 もし自国の決断だけで何かが出来るのならば、妖精についてもっと知っていてもおかしくはない。


「だから表向きは嫌な顔をしてても、そこに新たな一歩が見えてるなら……他の国がそこへ行くって決めて退かないなら、他の国も遅れを取るわけには行かない。結果に、協力するほかなくなるんだよ」


 ヘレナの言葉に違和感を覚える。

 それではまるで、最初から許可を出す事が前提に聞こえると。


「あ、気付いた? 言っておくけどクラウスさんってみんなが思ってる以上に色々なところから注目されているんだよ?」

「っ……!」

「反転術式に、ヘルフリート……。噂には露草姫で、わたし個人だとニーナちゃんたちエルフ。これだけ節操無しに手を出しておいて注目されないわけないんだよ。もちろん表には出ないけどね。そうなるように色々噂を流してる人がいるって事」


 言って差し出されたのは便箋。どうやらブランデンブルクからまた書簡が届いたらしい。だからこの診療所までニーナを追いかけてきたのだろう。

 差出人はヒルデベルトになっているが、中を開けてみれば見覚えのある丸い筆跡に誰が書いたのかを知る。確かに、ヴァレッターである事を利用すればそれくらいの噂は流せるか。けれどそこまでして、彼女は……否、彼は何がしたいのだろうかと。


「あの中途半端な眼鏡君はさ、ニーナちゃんが思ってる以上に危ないよ? だから心配なの」


 書簡の内容は折り返し調査の進捗報告が欲しいとのこと。視界の外で紡がれる幼馴染の言葉を鑑(かんが)みれば、時間がないのは分かりきったことだ。


「それでも、ニーナちゃんが彼の力になりたいって思うなら、わたしだって協力したい。それがスハイルの為になるって言うなら、尚更ね。ニーナちゃんは、それだけの覚悟がある?」


 ブランデンブルクは全面的にクラウスを連れ戻そうと協力してくれている。そこにはきっとアンネの働きかけもあるだろう。けれどそれ以上に、自国の利益も見ている。

 例えば彼が戻ってきて、その末に何か新しい結果を得たのなら、それはブランデンブルクの手柄も同じだから。

 それほどに期待をされているのだから、他国から一目置かれるのも無理ないことだ。

 そうして、ブランデンブルクがミドラース遠征の話に乗り気だからこそ、他国もそれを見過ごせなくて、協力するほかなくなる。

 そもそもすべてが計算ずくだ。ニーナがスハイルに許可を取りに来たのだって、元々あたしがこの国出身だから。その上過去の大戦で功績を挙げた者の一人娘で、更にはエルゼの一人娘で。

 そんな肩書きを持つ少女の希望を跳ね除けたとあれば、スハイルの名に傷がつく。だからニーナが選ばれて、許可を出すほかなくなる。

 そうしてスハイルが協力的になれば、隣国にしてスハイルとよく言い争っている印象の強いトゥレイス騎士団国が動く口実にもなるだろう。

 カリーナは、そもそもがブランデンブルクと友好的。是非もなく協力するはず。

 何処から見ても逃げ場なんてないやり口。これを考えたのが誰かなんて想像したくないけれど……少なくともクラウスの名前を利用して出来上がった策だというのは分かりきった事だ。

 最初から答えの見え透いた結末に、特使という肩書きをつけて直接出向けば否定するだけの理由は残されていない。

 気付いてしまえば癪な事だ。だからこそ、利用され続けているのはニーナ自身が許せないから。

 せめてもの仕返しにニーナはニーナに必要な答えを手繰り寄せなければ。


「……あるわよ、覚悟は。だから力を貸して。それからここに居る間に得られるものは全部貰っていくから。そっちにも協力して」

「そういう顔のニーナちゃん、わたし好きだよ?」


 幼馴染のからかいに鼻で答えて書簡をしまうと頭の中を整理する。

 まずは目の前から。

 生ある者の先達に頭を下げて乞う。


「…………不躾なのはわかってます。お力を貸していただけませんか?」

「かまわんよっ。しかし教鞭を執るのは久々だのう」

「何年前の事を言ってるのよ。それに教えてたのは自然科学でしょう?」


 どうやら中には昔教職に就いていた人もいるようで。期待以上の答えに呆気に取られながら、交わされる冗談に肩を揺らせば、ニーナも呼吸を整えてやるべき事に向き直る。


「それで、今日はどうされましたか?」


 まずはオーラフに任された仕事を。これだってフェアリードクターという夢の為には必要な事。地道ではあるが、経験は確かに糧になるのだと。

 随分と温かくなった気がする待合室の空気に安堵を覚えながら。ニーナもいずれはこんな風に温かい仕事場を持ちたいと理想を描くのだった。




 そうして目まぐるしい日々を過ごして、ニーナは溜息を吐きながら居候たるへレナの部屋で寝転がる。

 ミドラースに関する調査とフェアリードクターになる為の勉強。それに加えてこの地で得た個人的な仕事。一年という短い期間だったが、雇ってもらった飲食店ので奉仕。先ほどまでその最後の仕事をしていたのだ。

 ヘレナの部屋を借りているというだけでも十分な好待遇。しかしそれに甘んじたくなかったというか……できる事なら世話になった礼として幾つかお返しもしたかったし、自由に使えるお金も持っておきたかったというのが本音。きっとヘレナは押し付けたところで受け取らないのだろうけれども。接客といういい経験をできたのも儲けの一つ。

 ラファエルからの許可も貰って、後はブランデンブルクへ帰るだけという帰国間近な近況。後何日ここにいるだろうかと天井を見上げながら思いを馳せて、視界に入った時計に想像を重ねる。

 もうしばらくしたらヘレナも帰ってくるだろうか。窓から差し込む夕日の色に照らされながら瞼を閉じる。

 僅かに沸きあがってくる睡眠欲。重く熱い疲労感は、やるべき事を殆どやり終えた事に端を発する達成感か。

 夕食を食べてお風呂に入って……まだ今日やるべき事は沢山あるけれど、今寝られるなら寝てしまってもいいかもしれない。ヘレナが帰ってきたら起こしてくれるだろうし。

 幼馴染たる彼女の部屋の真ん中で、我が物顔で寝転がってその暗闇に溺れていく……。


「ほら寝ないっ」

「……何で分かったのよ」

「いつもそんな格好で寝ないでしょ」


 寝相……というか寝る際の癖。意識していないが、どうやら仰向けで寝ることはないらしい。

 遠くに聞こえていた足音。エルフであるお陰か少しだけ優れた聴覚がヘレナの足音だと気付いていたから、からかってあげようと思っていたのに。

 問答無用で居候を叩き起こす幼馴染にむくれながら上体を持ち上げる。


「で、何……?」

「……準備して」

「やったっ」


 どこか諦めたようなヘレナの物言い。胸に抱えた手提げ鞄にこれ以上無いほどの笑みを浮かべる。

 それは少し前からヘレナに強請っていたニーナの希望。一年が経ってスハイルにて二度目の冬。去年来た時は歓迎会と称して連れ立って向かったこの地の特産物。流石にこの時期、スハイルくんだりまで来て観光資源に貢献しないのはブランデンブルクの特使としての面目が立たないとかどうとか……そんなどうでもいい理由を散々吹っかけておいた功績だ。

 すぐさま立ち上がって準備したるは浴衣。必要なものを小さな手提げに投げ入れて外で待つヘレナに合流すれば、彼女は半眼で呻き遊ばされる。


「…………変な事したら突き出すから」

「あれはあの時だけだからっ」


 唇を尖らせるヘレナの横に並んで二人歩き出す。

 この時間帯、仕事も終わって家に戻る者とすれ違う行く先は雪傘をかぶる山の麓。冷えた温度との差に、冷やされて小さな水滴となった沢山の白い湯気が立ち上る一角。

 この地区は温泉街。雪解け水が活火山に近い地下に溜まり、温められて吹き出た源泉。それを商業利用した公衆浴場施設が沢山並ぶ地域だ。

 少し遠くに見える立派な山は活火山。とはいっても最後に噴火したのは大戦中で、もう四十年ほどは沈黙しているらしい。

 そんな北の雪降る冷えた大地に出来上がった、心を暖めてくれる憩いの場所。遡ればエルフが最初に見つけたらしいその場所は、もともとそこまで栄えた場所ではなかったらしい。

 歴史の中でスハイルが帝国の領土として吸収するにあたり、僅かながらの資金と人材援助によってここまで発展したとのことだ。

 目立った戦のない今では国外からの旅行者が観光目的でよく訪れる場所だ。

 少し引っかかるところがあるとすれば、営利目的の施設で、お高い事。専ら富裕層が好んで使用する観光地だ。

 ニーナ達にとっても簡単に訪れることの出来ない場所だが、スハイルへ来た初日にはヘレナが気を利かせて融通してくれた時に堪能したのを覚えている。

 それから何度となくヘレナにせがんではみたが、最初の一回だけが特例だとの一点張り。そんなに入りたければお金を貯めて一人で行けばいいと随分な突き放され方をしたが、今回は自費で、ヘレナの仕事が早く終わる日に予定を合わせてこうして二度目の温泉街への遠征だ。

 ヘレナも、口では随分とそっけない事を言っていたが、裏で密かにお金を貯めていた事を知っている。全く、素直じゃない幼馴染だ。


「何だかこうして二人だけで来ると得した気分になるわね」

「ニーナちゃんと一緒じゃなかったらもっと羽を伸ばせるのに……」


 ヘレナのこの減らず口は元来のもの。加えて前に来た時に懐かしくてニーナが彼女を振り回した事を根に持っているらしい。別に女の子同士なのだから減るものではない気もするけれども。

 一年前にここへ来た時の記憶が脳裏に蘇る。

 鼻を突く異質なにおい。温泉特有の、硫黄や鉄の混じった強烈で独特な臭気が辺りを埋め尽くす。

 幼い頃、オーラフやカテリーナに連れていってもらった山奥のひっそりとした温泉ともまた違う、管理のされた温度。

 クラウス達とここへ来た時はもっと南の……スハイルとっては一番大きな玄関口に当たる場所から入った為にここへはこなかったし、あの頃はまだ夏。避暑地としての意味合いが強い夏のスハイルではここまで案内するだけの意味も余裕もなかった。

 そのうち彼らも連れてここへ来たいと。密かな野望を胸に抱きつつ目的地の宿へと辿り着く。

 旅館の名前は『閑安(かんあん)』。ここらで最も大きい温泉宿だ。


「いい思い出になるといいね」

「……そうね」


 下手をすれば明日にはブランデンブルクへ帰る身。更にニーナ個人の用事で言えば、フェアリードクターになる為の試験も間近に控えている。

 その最後の休息。ヘレナとの大きな思い出作り。


「今度はテオ君と二人で来るといいよ」

「うるさい売れ残り」

「違いますぅ。ニーナちゃんみたいにお花畑じゃないだけですぅ」


 喧嘩別れなんてしたくないけれど。

 それが彼女との間に築いた関係だと笑顔を浮かべれば、ヘレナは一人早足で旅館へと入っていくのだった。




 それから数日後。…………何? え、嫌よ。なんで好きでもない男に女の秘密を教えなくちゃならないのよ。これ以上長くなると聞く方も大変でしょう? まだ体調が万全じゃないんだから。

 ……だったらもっと前の話を削ればいいって? そんなに女同士の睦言が聞きたいわけ? 変態。

 それに聞きたいのは何があったかだけで別にあたし個人の事を詳しく教える意味はないわよね? 元々これはそういう話でしょ?

 大体目が覚めて直ぐにそんな刺激が強い話を聞いたらまた寝込むでしょうが。思いやりよ、感謝しなさい。

 で、ヘレナとの思い出を紡ぎ、ラファエルからは一年費やした意味のある結果を貰ってブランデンブルクへと戻る。

 スハイルを発つ時期を、雪解け後に合わせたお陰で帰路は恙(つつが)無く。

 スハイルの東に位置するブランデンブルクだが、真東というわけではなく、正確にはスハイルから見て南東に位置する国だ。だから平均気温もスハイルと比べて高ければ、季節の入りや終わり、植生も異なる。

 ブランデンブルクへと戻って来る道中には既に緑の葉をつけた木々が春風に揺らめいて。道端に咲く色取り取りな花が顔を覗かせる。

 そんな春らしい色に、新たな始まりの音を聞きながら戻ってきた今の居るべき場所。あたしが帰りたい場所。彼が待ってくれている場所……。

 脳裏に思い浮かんだ顔に少しだけ浮かれながら、そうして見慣れたブランデンブルクの城下町へと帰ってきた。

 久しぶりの景色に歩いて回りたくなり、馬を預けて自分の足で石畳の目抜き通りを進む。

 ところどころ一年前とは変わった装いの町の顔に、時間の流れを感じながらやがて辿り着いたのはブランデンブルク城。

 その外観に、それまで感じていた懐かしさとはまた別種の感慨深さを感じる。

 あたしにとってこの場所は、認められた場所だ。

 エルフでありながら……学院の生徒でありながら軍属として両立をしていた時期。まだ猜疑と嫌悪が燻る中、エルゼの愛娘として……ある種の国賓扱いのように好待遇で迎えられたその場所は、けれど僅かの後に剥奪された身分。

 今では、少しばかり感謝をしているかもしれない。

 あのまま、批難を受け止めて軍属の椅子に座り続けていれば、こうして自分の目指したい夢に向かって足を伸ばすという事もせず、ただ少し治癒の妖精術に秀でた妖精騎士(フィリット)としての使命に溺れていたのだろうと。

 自分を振りかざす事もなく、見失っていたかもしれないと。

 少なくとも、彼に声を掛けてもらって、こんな風に未知に向けて進んでは居なかっただろう。

 だから感謝だ。今は、自分でも分かるほどに充実しているから。その先にまだ足りない夢があるから。足りない欠片を追い続けていられるから。

 だから彼には、帰って来てもらわなければ。この胸に押し付けられた野望という名の種が芽吹いて、その先にどんな色の花弁を開かせるのかという期待に、しっかりと結実を知りたいから。

 その為の今回の特使としての無理を通したのだ。

 どれくらいそうしていたのか。纏まった思考で足を出せば、目の前に見覚えのある顔が現れて足を止めた。


「……おかえり、アルケス」


 記憶の片隅にしまってあった思い出が、紡がれた音で鮮明に蘇る。


「随分と久しぶりね、ミア」


 目の前に立つ胡桃色の癖の強い短い髪に、灰茶色の双眸。印象の一つとも言うべきそばかすを散らした素朴な雰囲気の目の前の女性は、ミア・リリウム。元フィーレスト学院の生徒で、ニーナ個人で言えば降級騒ぎの時に一緒に生徒会を作り上げていた、元副会長その人。

 そして恐らく、その降級騒ぎの原因を作った────元凶。


「……着いて来て」


 そっけない物言いは逸れた視線から。踵を返した彼女の背中を追い駆ける。

 僅かに丸まっている歩き姿は昔からの彼女の癖。いわゆる猫背なのだろう。

 懐かしい後姿に声を掛ける。


「その服、使用人として?」

「……………………今年から」

「そう」


 返った音に、拒絶するような響きを聞いて必要最低限の感想を零す。

 互いに、怖いのかもしれないと。

 あの騒ぎが起きるまでは、特に仲の良かった友人として学院生活を共にしていた彼女。その間を引き裂いたあの騒ぎの、加害者だろうミアと、被害者のニーナ。

 既に終わった事で、あたしは別に今更何かを責め立てようとは思わない。彼女にだって、理由があったのだ。その詳しいところまでは、さすがに知らないけれど。

 だがそれはニーナの言い分で、彼女は違う。負い目のような何か。想像するだけ、彼女を傷つけると分かっていながら、どうすればいいかと悩む。

 出来る事なら、ミアが背負っている責め苦を、どうにかしてあげたいと思う。……いや、違うか。自己満足だ。彼女を助ける振りをして、あたしが救われたいだけだ。

 復讐でも報復でもない。けれど胸の中に刺さった棘を、彼女を知らず追い詰めた自分への苛立ちを、払拭したいのだ。

 しかし手を伸ばせば、彼女はきっと拒絶する。だから何も出来ないで居る。


「…………アルケス、何処に行ってたの?」


 その声は前を歩くミアから。いつの間にか俯いていた顔を上げれば、彼女が肩越しにこちらへ視線を向けていた。


「……スハイル」

「帰郷?」

「違う」

「じゃあ────本当の親との再会?」


 一瞬、ミアが何を言っているのか分からなくなる。

 本当のオヤ? それは一体────


「……そっか、知らないんだ」

「……っ何、どういうこと。何知ってるの、ミア……?」

「あぁ、そっか……揉み消したんだ…………」


 足を止めたミアが、虚空を見つめて零す。そんな訳の分からない事を唐突に言い出した彼女に詰め寄って、こちらに振り返らせる。


「ミア、何言ってるの? 本当の親って────」

「二年前っ」


 そうして問い質そうとしたニーナの言葉の先を、僅かに大きくした声で遮ってミアが語る。


「アルケスはちょっとしたことから軍属の地位を失った。そこに至る為に、幾つもの誹謗中傷や出任せ、噂が飛び交った」


 彼女の声に、嫌に鮮明にその頃の事が脳裏に過ぎる。


「アルケスだって気付いてるでしょ? あの時の火付け役が私だってっ」

「そ、れは…………」

「だから自主退学って言う体裁で、私はフィーレストから追い出された」


 彼女が語るのだから、それは真実なのだろう。胸の内には認めたくないという思いが渦巻く中で、耳だけは彼女の言葉を追い駆け続ける。


「根も葉もない酷い噂、沢山あったね……。学院長の伝(つて)で入学したとか、試験を不正してるとか、上級生下級生問わず遊んでるとか。私も空気に流されて幾つか嘘は口にしたよ」


 もちろん全て噂で、事実無根だ。彼女だってそれを分かって言っている。

 何処にでも有り触れた噂だ。エルフへの批難があるように、世界には他者を見下すことでしか自分を確立できない者がいる。そんな者達が紡ぐ誹謗中傷。その一端が、エルフという概念を伴ってニーナへと向いた。……あの過去は、その程度の事でしかない。


「そんな中にね、こんなのがあったの知ってる?」


 けれど噂は所詮噂。知らぬところで勝手に広がる話で、ニーナにだって届かない言葉も沢山ある。その一つを、彼女が知っているのだろう。

 何かに飲み込まれるように黙り込んで、その先を待つ。

 そうして、勝手な言い分を耳に聞く。


「アルケスは、スハイルからの要人。戦争を終わらせる為の人質として、ブランデンブルクにやってきた。普通に考えれば、それだけ価値があったって事だよね?」


 それはその通りだが……しかし彼女は何を言おうとしているのか…………?


「でも高がエルフに、幾らスハイルといえどそんなに意味があるとも思えない……。だから出て来た話────」


 そうして、灰茶色の視線がニーナを射抜く。


「エルゼさんは、先代スハイル皇帝の寵愛を受けてた愛人で────その間に生まれたのが貴女だってね」




 何が起きたかなんて、あたしにも分からなかった。

 気付けば見慣れない部屋の中にいて、優しい感触の毛布の中に包まれていた。

 頭を巡るのはミアの言葉。理解のし難い言葉の羅列に認めたくないと考える事を否定した頭が、ただ純粋に答えだけを求める。その先に否定を振り翳す。

 そんなのは嘘だと。あたしは確かに、彼女の娘なのだと。

 何かから逃げるようなそんな納得は、胸の内を掻き回したまま考える事を放棄して記憶に鍵を掛けてしまいこむ。

 それは、あたしの知らない事だと。あたしには関係のない事だと。

 その内何に悩んでいたのか分からないほどにぐちゃぐちゃになった頭が、何かの日付だけを記憶の奥で鳴らす。

 あれ、今日、何の日だっけ……。何か、あったような気がするけど…………。


「試験、行かないの?」


 試験…………。あぁ、そうだ。フェアリードクターの、試験日だ。なりたくて、これまで勉強してきたんだ。だったら受けに行かないと。

 何かに引っ張られるように立ち上がって服を着替える。傍で、誰かが何かをしていた気がする。

 けれどそれが誰か分からないままに家を後にして、試験会場へと向かう。

 いつの間にか辿り着いていた会場。知らぬ間に脇に抱えていた鞄から受験票を取り出して受付に見せれば、受理されて案内板に従って建物内を進む。

 なんというか、当たり前の事だけれども、他の受験者もいて、あたし一人ではないんだと。

 どこか張り詰めた空気の中、緊張した面持ちの並ぶ部屋で自分の席を探して腰を下ろし、小さく息を吐く。

 ……何しに、来たんだっけ?

 うまく纏まらない頭の中を旅すれば、少しだけ思い出す。

 ブランデンブルクに帰って来て。ナニカ、あって。……記憶がない。

 今日が試験日なら、帰って来てから何日かあったはずだけれど、その間の記憶が抜け落ちている。何してたんだっけ、あたし。何処にいたんだっけ……?

 考えてみるが、記憶の視界には何もない。時折、人影のようなものが近くを通り過ぎた気もしたけれど、気がしただけかもしれない。

 何だっけ、何すればいいんだっけ?


「それではこれから筆記試験を開始する。筆記試験終了後には受験番号順に面接を行い────」


 あぁ、そうだ。試験。解かないと。


「それでは、始めっ」


 用紙をめくる音が一斉に響く。その音につられるように手元の紙束を一枚開けば、いつの間にか手に持った筆が滑り始める。

 問一、妖風性炎症と診断される症状に対し適切な処置を以下から選べ。

 簡単だ。答えは二番目。次。

 どこか視界が曖昧なまま、問題用紙に綴られた設問の答えを、解答用紙に綴っていく。

 殆ど勉強した通りだ。引っ掛けのような問も時折あるが、よく読めば間違えない。緊張にさえ足を取られなければ、意外と簡単な問題ばかりだ。……難しいと聞いていた試験だが、受けてみればこんなものかと。

 止まらずに進む筆は着々と空欄を埋めていく。問題数こそ多いが時間内には埋め終わる。見直しをする時間は余り取れないかもしれない。どこか上の空で答えていたから書くのが遅かったか。……上の空? 何に?

 何か大事な事を忘れている気がしてふとその疑問に手を止める。けれどその何かを追いかけるよりも、まずは目の前を。今は試験中だ。

 途切れそうになった意識を持ち直して再び手元に視線を落とす。

 時間は、もう少し。残り問題数は二問で、空欄は三つ。

 ────あれ、三つ……?

 何かに警鐘を鳴らした疑問が、どこか不安定に揺れていた視界の焦点を結ばせる。そうして、気付く。

 問題は、二つ。解答欄は、三つ……。


 どこか、ずれてる…………。


 気付いた時には指先から温度が消えていた。首筋を撫でる室内の空気が嫌に鮮明に冷たく刺さる。耳に聞こえる辺りの気配は筆を持たないものばかり。


「……ぁ…………」


 小さく漏れた声に、近くに座っていた試験監視官の一人が視線を向けてくるのが分かった。

 いや、違うっ、そうじゃないっ。ずれてる、回答が……どこからっ?

 思わず上げた視界で時計を見直せば、試験終了まで残り数分。音が聞こえるほどに息を呑んで、それから直ぐに訂正を探しに掛かる。

 どこだ、何処が違うっ。震える指、定まらない焦点で問題用紙を遡っていけばすべてが一個ずつ前の問の解答欄に答えを書いていた。一問目を飛ばした?

 直ぐに一番最初に戻って確認すれば確かに記した回答は見つかった。けれどそこは本来の解答欄の上に設えられた────名前記入欄。

 あぁ、そうか…………なんて、落ち込んでいる暇はない。直ぐに我に返って、とりあえず名前だけは書くと、それからずれているならばと回答を一つずつずらしに掛かる。

 必死に、書いては消して、書いては消してを繰り返す。


「そこまでっ。受験者の皆さんは解答用紙を机の上に置き、筆記用具を持って控え室に移動してください」


 そうして直ぐに来た終わりの号令。途端に溢れた緊張の解ける音に指先の感覚がなくなる。

 訂正できたのは僅かばかり。


「…………ははっ……」


 やがて指先の震えを見つめて湧き上がってきたのは、愚かな自分への嘲笑だった。

 本当に、馬鹿ではないかと。これまで積み重ねてきた時間と努力が、水の泡だ。

 それを実際に経験してみれば、本当に呆気ないもので。後悔よりもただ、放心と諦観が強く残る。

 あたしは一体、何をしているのだろうか。

 気付けばいつの間にかやってきていた控え室。周りの受験者達は軽食や弁当を広げて静かに、はたまた気の合う者同士で顔を突き合わせて話をしながら食事を始めていた。


「ねぇ、よかったら一緒に食べない?」


 あぁそうだ。あたしも食べないと。そんな事を考えていると、後ろから掛けられた声。振り返ればそこにいたのは、優しい顔をした柔らかい雰囲気の女の子。今回の受験者では少ない、同性の競うべき相手。

 初対面でエルフのニーナ相手に躊躇いながらも声を掛けてくる勇気と、その瞳の奥に眠る筆記試験の労いの色に。思わず直視する事が出来なくて席を立つ。


「…………ごめんなさい。一人で食べたいの」

「そっか。ごめんね」


 何で君が謝るのだろうかと。折角の誘いを断って好意を無碍にしたのはこちらなのに……。

 彼女が零した優しい微笑みに返すものが見つからなくて、鞄と共に部屋を出る。

 早足に館内の廊下を進めば向こうからやってきた大人の男性。首に名札を下げているから、今回の試験の監査役の一人だろうか。

 傍を通る際、彼は不思議そうにこちらを一瞥して、けれど何も言わないままにすれ違う。

 あぁ、駄目だ。どこか人目につかないところにいきたい……。

 唇を強く噛んで足が向いた先は建物の外。敷地内であれば食事は何処でしてもいいと言われていたので、何人かは陽光降り注ぐ下で健康的に昼食をとっていた。

 けれどニーナは彼らと同じような気分になれず、一人陰へ向かって歩く。そうして辿り着いたのは建物の裏手。丁度陽光を遮って深い黒色の頒布を広げたその場所には、先客たる小鳥が数羽、餌を求めて芝生の上を跳ねていた。

 ……とりあえず、相手が人型じゃないから、いいとしようか。

 ここ以外に行く当てもなくて影になった木の幹の傍に腰を下ろせば、視線と顔が空を見上げた。

 どうして、こういうときに限って空模様は晴れやかなのだろうと。落ち込んでいるのだから雨が降るとか、曇り空に変わるとか。そんな天の気まぐれが起きてくれればいいのに。……雨に降られたらそれはそれであの人ごみの中に戻らないといけなくなるから嫌だけれども。

 どうやら物語の中の主人公のように、あたしには世界の運が味方してくれるということはないらしい。己の生まれすら見失った誰かにはお似合いだろうか。

 落ちた溜息はどこか自分のものでないような気がしながら体の中に問い掛ける。こんな時でさえ、空腹感は平等に食欲を刺激する。

 少し自分を見つめなおせば、いつも以上にお腹の求める空腹は強いようで。そう言えば昨日の夜どころか昼も食べていない気がすると。最後に食べ物を口に入れたのは何時だっただろうか。

 今日の朝出てきたあの部屋で、毛布に包まった殻の中の世界で随分な時間を過ごしたように思う。

 いつまでそんなふうにいじけていればいいのだろうか。どこかで冷静に俯瞰したもう一人の自分が頭の中でそんな叱咤を零す。

 いつまで、なんて……それが分からないからこんな事になっているのだろうと。

 考えて、それから答えを放棄しながら開いた弁当の蓋。この弁当箱も、自分で作った覚えはない。だって鞄を提げてここまで来たのすら曖昧なのだ。だったらこれは誰が作ったものなのだろう……。

 僅かな疑問は、それから目にした色鮮やかでおいしそうな、温かい優しさの篭った中身を見て霧散する。

 目を引くのは麺麭(パン)で野菜や肉切れを挟んで少し濃い目の調味料で味付けされた主食。それから可愛らしい串に刺された一口大の野菜に、青菜の和え物。それから当然のように眩しく輝く黄金色の甘そうな卵焼きと、食後の果物。

 なんだか、少しだけ均一感の欠けたような料理の一覧。節操も纏まりも皆無な、ただ知っている食べ物を詰め込んだだけに見える……ニーナにとってこれ以上無いほどに贅沢な昼食。

 そうだ。そこに見た目や食べ合わせの均整が感じ取れないのは、ただその食べ物達が、単純にニーナの好きなものばかりだからだ。

 余り好き嫌いはない方だけれども、それでも苦手な食べ物はあって。けれどそれを全て避けて、更には学院にいた頃好んで購買で買って食べていた惣菜麺麭に似せて作られた主食。それ以外も好物ばかり。まるで精緻な采配で形作られたニーナの為だけの宝石箱。

 誰が作ってくれたのだろう……なんて疑問は、どこかで気付いているその影を当て嵌めて手元の弁当箱をじっと見つめる。


「ぁれ……なんで…………」


 そんな視界が歪んで、それから麺麭に落ちて表面を滑った雫が一つ。思わず顔に手を当てれば、その水滴が自分の目から零れている事に気が付いた。

 ……いや、なんで、なんて。そんなの分かりきった事だ。

 寂しかったのだ。心細かったのだ。

 彼女から聞かされた話に、認めたくない言葉に追い詰められて。誰かに頼れば巻き込んでしまうから。迷惑を掛けてしまうから、そんな事もできずに。

 そうして殻に篭っていた自分が嫌で嫌で仕方なかったのだ。

 けれど、そんなあたしにだって、傍に居てくれる人がいる。償いでも、隣で世話を焼いてくれる人がいる。そんな温かさが、嫌になるくらいに嬉しくて。

 ほんと、何をしているんだろうか。

 昔から、何をやったってうまく行かないのは分かりきった事。そうだと知っていたのに夢を見て、少しだけ理想に溺れていただけ。

 ニーナ・アルケスなんて、それだけの存在だ。

 誰よりも自分を持っていないと前に進めないから。誰かに否定されてようやく自分がそうだと気付く事ができる。とても一人では生きていけない、誰かに縋り続けただけの道。

 今だって、手元の温かさに救われている。

 こんなところで泣き崩れたところで、何にもならない。まだやるべき事が……やりたい事が沢山ある。

 色々なところで落としてきた自分の欠片を、集めて回らなければ。何がしたいのかを、もう一度考えなければ。

 纏まりきらない頭でどうにか納得を生み出して立ち上がる。

 もう一回、最初から。本当の事を探さなければ。

 足に力を入れて立ち上がれば、弁当箱を鞄に入れて歩き出す。館内で職員を捕まえて、受験を辞退する旨を伝える。少ししつこく確認をされたが、全て貼り付けた笑みで答えて試験会場を後に。

 温かい陽光降り注ぐ下、行き交う人の間を抜けて辿り着いたのは今のニーナが帰るべき場所。玄関横に書かれた家主の名前に安堵しながら中へと入る。


「……ただいま」

「え……あ、アルケス…………試験は?」

「辞退してきた」

「なんでっ」

「それよりご飯食べた? まだだったら一緒にどう?」


 都合の悪い質問から逃げて慣れ親しんだように尋ねれば、何かを飲み込んだ少女はそのまま奥へと踵を返した。そんな仕草に揺れた胡桃色の短い後ろ髪。少し丸まった背中は、昔のままだと懐かしさを覚えながら部屋の中へ腰を下ろす。

 机を挟んで向こう側に座るのはミア・リリウム。今ニーナが居ついているこの部屋の主で、元同級生。そばかすが印象的な、素朴な見た目の女の子。


「……弁当ありがとう、ミア」

「…………別に暇だったから作っただけ」


 そっけない言葉は昔と変わらない。学院にいて、一緒に生徒会役員をやっていた頃からの、彼女の性格だ。


「……それで、なんで試験投げて帰ってきたのよ」

「筆記で失敗したの。解答欄一個ずれてた」

「はぁ?」

「ミアの所為だから」

「……………………」


 何の話をしているのか。それに至ったのだろう彼女は食べる手を止めて視線を逸らした。


「それで、面接受けてもどうにもならないから逃げてきた。……逃げて、とりあえずミアと話でもしようかしらって」


 飾らない今やりたい事を音にすれば、こちらを見つめてきた灰茶色の双眸と視線が交わる。


「話って……」

「そうね……ほら思い出話。学院の頃楽しかったわね、とか。そういえばミア仕事は?」

「休み」

「だったら時間沢山あるわね」


 口をつく他愛ない言葉には張り詰めたようなニーナ・アルケスはいない。それはただ、昔話や童話の読み聞かせを待ち望む子供のような純粋さで。


「話、したくない?」

「…………別にいいけど」

「ならしてよ。久しぶりに会えたんだから、昔を懐かしむのは王道でしょう?」

「何の王道なのよ……」


 続けて零れた呆れたような口調。そこに、昔のままなミアを思い出して笑う。

 そうして、他愛ない過去の事をとりとめもなく話し出す。

 出会いは……確かドルフに上がった時だっただろうか。

 教室が一緒になり初めて話をして。エルフであり、既に契約妖精を持つ異端として、大多数から扱いに難色を示されていたあたしに、勇気を持って声を掛けてきてくれた少女。席は、あたしの二つ前だっただろうか。

 それから時折話すようになって。彼女が零す音にはニーナ個人に対する忌避は聞いて取れなくて。だから心許せる友達に、いつの間にかなっていたのだ。

 その年の生徒会役員選挙には、二人して立候補。あたしは書記で、彼女は会計。あたしの立候補に対して、生徒達は随分と怪訝な様子だったが、他に対抗馬も現れなくて席を空ける事も出来ずにそのまま当選。その頃の生徒会長は先輩の男子生徒で、眼鏡をかけた長身の身形の整った生徒だった。

 彼は絵に描いたような優等生で、生徒会の業務も難なくこなし、生徒達の信頼も厚く。そんな頼れる先輩だった。

 人気もあったらしく、よく女生徒に囲まれているのを見かけては、ミアと二人またやってると笑いを零した。どうやらそちらの方面に関しては苦手分野なようで手を焼いている様子ではあった。

 そんな彼と、それからミアと一緒に過ごした中で、いつしかあたしは生徒会長に憧れを抱くようになった。彼に、という話ではなく、生徒会長という役職に、だ。

 もし彼のように勉学も運動も、そして生徒会長という役職も全て綺麗にこなせたなら、少しは自分に自信が持てるだろうかと。誰かに認めてもらえるだろうかと。

 そんな考えはどうやら顔に出ていたようで、いつも隣で手を貸してくれていたミアには筒抜け。けれどそんな気持ちを笑うことなく、彼女は応援してくれて。もしあたしが生徒会長に立候補するなら、ミアは副会長になって助けてくれるとも言い出して。

 逃げ道を見失った……というか彼女の後押しを受けて、トーアに上がった次の年には生徒会副会長に。それについて回るようにミアが書記に。

 更にハーフェンに上がった年には念願叶って生徒会長の座を射止め。約束通りにミアが副会長に収まって。加えて書記にはヴォルフが顔を揃え、あたしにとっての楽園が完成したのだ。

 他の役員も優秀で、あたしが何か言うより先に仕事を見つけては解決してくれていたりと順調に回っていた業務。その裏で、けれど確かに募っていた不満はあたし個人に対する非難。

 生徒会長になってから日増しに大きくなっていく声は、その内あたしの耳に届くようになって。エルフの生徒会長という肩書きはやがてあたしを苛む言葉の矛となって、幾つも突き刺さり始めたのだ。

 その隣で、それでも必死に力になろうとしてくれていたミア。あたしを助けようと幾つかの無理難題を勝手に背負い込んでいたと知ったのは、全てが終わった後になってから。

 どこかで頼ってしまっていたその当たり前に気付かないまま、そうして時は運命の分岐点を迎える。

 それはその年の卒業式を間近に控えたある日に。いつも通りに業務をこなしていたら、途中で処理済の書類の内容と、実際の処理が食い違っている事に気がついたのだ。

 その問題自体は、直ぐに職員課に掛け合ったことでどうにか被害は最小限に抑えられたのだけれども。確かに残った噂は生徒会業務におけるあたしの失敗。誰が吹聴したかも分からない、事実の一人歩きが勝手に大きな話になり火が点いて。

 それまで燻り続けてきたあたしに対する批難のそれとどこかでぶつかって交われば、気付いた時には既に止められないほどに肥大化していた生徒の主張。

 誰が悪かったか、なんて今更掘り返すつもりはない。ただ僅かな軋みから発生した皹が大きくなって、教員達を相手取り大きな騒動になったのだ。

 『ニーナ・アルケスを生徒会長の座から引きずり落とせ!』。『ニーナ・アルケスは穢れたエルフの血を引く悪魔の末裔だ!』。関係のある事、ない事が一気に膨れ上がり収拾がつかなくなって。

 生徒達が掲げた責任追及はやがてあたしを生徒会長の座から下ろすという目的に変化した。

 けれど学院側からすれば生徒会長不在というのは学院の機能を損なう事に繋がる。そしてそれ以上に、あたしは学院長たるエルゼの一人娘で、下手な処遇を下す事も出来ずに。

 そうして有耶無耶に巻いた矛先は、あたしの二階級降級と軍属の剥奪という事実に収まったのだ。

 けれどそれに生徒達が納得しないのは当たり前。要求と違う制裁に憤った彼らは学院に対する反抗として、幾人もが自主退学をしたのだ。

 それを止めようと裏で動いていたのがミア。ニーナは悪くないと主張しながら、けれど裏ではあたしと一緒にいることで悪評の耐えなかった彼女が罪を被ろうとして、責任の幾つかを抱えて学院を去ったのだ。

 それがミアの自主退学。彼女も前に語ったが、この騒ぎの一番最初の原因は彼女にもある。彼女だって、一人の少女。溜まる鬱憤だってあるだろうし、それを吐き出したい時だってあるだろう。

 それがどこかで噛み合って一気に燃え盛ったというのも、数ある騒動の原因の一つ。

 だから彼女は全てを背負って、もしそれでどうにかなるのならとニーナに殆ど何も告げないままに学院を後にしたのだ。

 しかしそれでも止められなかった勢いで、何人かは学院を辞めて。その中にヴォルフ以外の生徒会役員もいて、三つの空席が出来上がったのだ。

 やがて卒業式が催され、短い春期休暇が訪れた。その休みの間に、教員達も悩んだそうで、とりあえず空席が三つもあっては学院が機能しなくなると下した結論は、臨時の生徒会役員を登用する事で話が落ち着く事になる。

 そこでミアのいなくなった副会長席に就いたのが眼鏡の彼。会計にはハーフエルフの後輩、エミ。残りの副会長席一つは空席のまま、とりあえず夏季休暇明けの生徒会選挙までどうにかしようという事になったのだ。

 合わせる様にニーナのところに回ってきた話が一つ。それはクラウス・アルフィルクの名前で進言された校内保安委員会設立の案。表向きには学院の治安を守る為の組織で、ニーナの一件や不完全な生徒会機能を補う為という名目を連ねたそれに、あたしは似た夢を覚えて代表者として名を貸したのだ。

 言ってしまえばそれもまた失敗だったのかもしれない。その後に起こった彼を中心に渦巻く面倒事は今更語らなくてもいいだろう。

 ユーリアやテオも顔を揃えた実力行使部隊。抑止力という名目では確かに機能したその組織に、確かに救われた部分はあった。それが彼の思惑だったと言えば、最初からニーナに決定権なんてなかったのだと諦められる。

 委員会に生徒会の実務の幾つかを押し付けながらどうにか成り立った学院。裏で渦巻いていたニーナへの批難の感情は、何時しか鳴りを潜めて。代わりに台頭したのはクラウスに対する浮評。

 それが偶然だったのか、それとも彼の思惑だったのかは今では分からないけれど。彼に注目が集まった事でニーナへの批難は小さくなって、ある程度自由に動く事が出来た。

 結果に降級騒ぎで生まれたエルゼとの溝は埋まって、一度手放したハーフェン級としてのニーナ・アルケスを取り戻し、ずっと想い続けていたテオの気持ちも射止め。そうして新生徒会役員も決まり学院を彼らへ託して。

 生徒会が持ち直し委員会の助けが必要なくなったからか、代わりに大きくなった委員会の仕事内容。国から下された幾つかの命。それさえも期を計ったようで、ニーナにしてみれば余り面白くない話ではあった。

 ようやく生徒会業務からも開放され自由になれると思ったのに……。抱いた夢に前向きに向き合えると思ったのに。

 けれど巡り巡って覚悟に至ったフェアリードクターという将来は、少し前に一度停滞した。停滞しただけで、諦めたわけではもちろんない。

 そんな風に周りに振り回されながらどうにか過ごしていた日常は、けれどユールアフトンの日に一度景色を止める。

 デュラハンによるクラウスの昏睡。そこから始まった、彼を取り戻す為の長い時間。彼がいないだけで崩れかけた輪は、けれどどうにか今形を保っている。保っているだけで、今ニーナがそこにいるとは思わないけれど。

 だって今、ここにいるから。元級友で、生徒会役員の頃はあたしの右腕とも呼ばれていた彼女の部屋で、昔話に花を咲かせながら、逃げるように自分を閉じ込めているから。

 真実を知るのが怖くて、何も出来ない自分が悔しいから。

 あたしが誰の子かなんて、そんなのは知っている者に聞けばいいだけのこと。ミアに言われたその言葉の真実を確かめればいいだけのこと。

 けれどそこに、想像を重ねた嫌な未来が重なってしまうから……そうなってしまった時、あたしという存在がどうなるか分からなくて怖いから、逃げ続けて閉じこもっているのだ。

 いつだって卑怯なのはあたしだ。

 その気もないのに周りを利用して。不都合な事からは目を背けて、誰かが助けてくれる事を期待している。

 本当にあたしがして来たことなんて、数えられるだけ。いてもいなくても何も変わらない…………。


「ん、預かってきたよ」


 日にちの感覚も分からなくなるほどに閉じ篭って。ニーナ・アルケスという存在はきっとそこにいたのだと過去を吐き出しながら時を過ごせば目の前に差し出された封筒。表に書いてある内容はフェアリードクターの試験の通知。見なくとも分かる、不合格通知。一応開けてみたが、当然想像通りの文面が綴られてあっただけだった。


「…………次の試験夏だったかしら……」

「受けるの?」

「……えぇ。その結果で色々決めようかしら」


 ミアの問い掛けに曖昧な気持ちを整理するように答える。

 もしそこで望む結果が得られたなら、真実と向き合おうと。


「だからごめん。それまでここにいさせて?」

「……………………」


 返らなかった声を了承だと勝手に解釈する。

 迷惑を掛けているのは分かっている。けれどこんな状態のあたしを、誰にも見せたくはない。

 だから心に整理がつくまで……少しの間だけ、あたしは誰でもない、ニーナとしてここにいたいのだ。

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