第四章
ユーリアが軍の任務に向かった翌日。自室で幾つかの妖精術を解体しながら弄んでいると、部屋の扉が叩く音さえなく唐突に開かれた。
またテオかと少し呆れつつ玄関を覗けば、そこに立っていた人物に疑問を落とす。
「あれ、アンネさん?」
「……っクラウス君、ユーリが…………!」
「え…………?」
随分と慌てた様子で呼吸の浅い彼女は、扉に寄りかかるようにして告げる。
「任務で、怪我、したらしくって……」
「……今何処に?」
「部屋で、寝てるっ…………」
予想を超えた……否、現実になって欲しくなかった僅かな想像が目の前に突き出され、知らず悔しくなる。
それはクラウスの所為では無いかもしれないけれど。だからこそ何も出来なかった事に悔しくなる。
今から何かを変えることはできない。だったら今行動を起こすべきだと。
すぐさま思考を入れ替えたクラウスは呼吸を一つ落としていつも通りを取り戻す。
「……分かった、教えてくれてありがと。とりあえずニーナ先輩達にも声を掛けてきてもらえる? 僕も直ぐに行くから」
「うん、寮に話は通しておくから」
彼女もまた、どこか悔やむように視線を落として呟くと、力ない背中でどうにか廊下を歩んでいく。
一体なんでこんな事にと。彼女の話ではそんなに危険な任務ではなかったはずだ。それに実力もある。そう簡単に躓くとも思えない。
ということは彼女の前に立ちはだかるだけの障碍がそこにはあったということか……。
嫌な想像が頭の中を巡る。
必死にその景色を振り払いつつ準備をして、それからテオとヴォルフに声を掛けると急いで女子寮に向かう。
寮母さんに話をすると静かに頷いて部屋番号を教えてくれた。
彼女の部屋に訪れるのがこんな折に、なんて考える暇は既になく。早足で進む足取りに逸る気持ちをどうにか押さえ込んで扉を叩く。
中から返ったのはアンネの声。一瞬の間を開けて覚悟を決めると静かに部屋へと入る。
そこは女の子の部屋。ユーリアらしい簡素で実直な家具と所々に彼女の趣味が見え隠れする一室。
けれどそんな細かいところまでを見回すより先に、クラウスは彼女の姿を探す。
そうして見つけたユーリアは、寝具に座ってニーナと話をしていた。
「ユーリア、体は……?」
「……なんで来たのよ」
開口一番それは酷いのではないかと。けれどその瞳の奥に安堵の色が宿るのを見て取って、クラウスもようやく心の平穏を取り戻す。
「心配だからね」
「言ってなさいよ」
力なく薄い笑みを浮かべるユーリアにクラウスもようやく笑顔を浮かべる。
どうやら話すだけの気力はあるし、別段大きな問題もなさそうだ。
「さて、単刀直入に訊くわよ。何があったの?」
クラウスとの会話を前置き代わりにして真っ直ぐに尋ねるニーナ。その瞳に糾弾の色は無い。
国軍での任務。ユーリアにだって黙秘する権利はあるし、言えない事もあるはずだ。それを分かった上で、言えることだけでも教えて欲しいと尋ねる。
ニーナの問い掛けに脚の上で組んだ手に視線を落とした彼女は、それからしばらく間を開けてその桜色の唇を僅かに開いた。
「…………少し、失敗しただけです。予想外の事が起きて、その対処が出来なかっただけの、私の不手際です」
告げる言葉に、きっと嘘は無い。けれどそれは嘘では無いだけで、真実の一欠片でしかないのだとそこに居る誰もが納得して飲み込む。
「目立った怪我は、ありません。死んでないですし、生きてます。だから、大丈夫です……」
それは彼女にとっての精一杯だろう。
これ以上の心配をさせない為の独りよがり。ただ自分を責め立てる己への叱責。
国の任務の事だ。クラウス達が口を挟むことではないのは分かりきったこと。その上でと納得を求める為にこうしてここに来た。
「だから心配しないでください。難しい相談かも知れませんけど、本当に何もないですから。だから必要以上に騒がないでください」
言って笑うその微笑に、クラウスたちは何も言えなくなる。
視界の端でアンネを窺うが、彼女も彼女で何か思うところがあるのかずっと下を向いたままだ。
沈んだ空気。降りた沈黙が居心地が悪くて何か言葉を次ごうと頭の中を旅する。それとほぼ同時、クラウスの肩から髪を引っ張る意思表示があった。
そこに居るのはアル。彼女は真剣な表情でユーリアの事を見つめて、それから小さく妖精術を行使した。
刹那クラウスの脳裏に言葉が閃く。それはアルの得意分野、記憶に干渉する妖精術の影響か。恐らくクラウスの頭の中に思っている事を直接刻み込んだのだろう。
そうして浮かんだ言葉にクラウスもはっとして視界を回せば、その姿が景色に足りない事に今更ながらに気付いた。
それを問おうとして、けれどそれより数瞬早く服の裾が後ろへ引っ張られる。振り返ってそこに居たのは縋るように俯くアンネ。
「……ユーリ、喉渇いてない? 何か買って来ようか?」
「え…………? あ、うん。……それじゃあ、お願い……」
前髪の奥に隠れてわからない表情。けれど服の裾を引っ張った指が僅かに震えている事に気付く。
その不安を押し殺すように、努めて笑顔でいつも通りに声にした彼女は、被った笑顔の仮面でクラウスの事を引っ張って部屋を出た。
扉の閉まる音を背後に聞きつつ、足を止めた彼女の背中をじっと見つめる。
「…………ほら、飲み物。買いに行かないと」
「……ん、そだね…………」
優しく諭すように促せば、小さく頷いて足を出すアンネ。その横に並び立って静かに歩く。
寮の玄関前の大広間まで来て売店で全員分の飲み物を買うと、その袋を持って休憩の為に置いてある椅子に腰掛ける。
袋から自分の飲み物を取り出して封を開け、それから一口含む。
その間、アンネは向かいの席で自分の飲み物を手の内で転がしていた。
待っていても進まなそうな雰囲気を読み取って小さく息を吐くとクラウスから尋ねる。
「……それで、どうしたの?」
びくりと震えたアンネの肩。そこにどれだけの覚悟が必要なのかを感じて口を閉ざす。
しばらくそうして彼女の次を待っていると、整理がついたのか小さく零し始めた。
「クラウス君は、本当の事を知りたい?」
「……そうだね」
「聞いて、後悔とかしない?」
「それはしない。ただまぁ、色々思うところはあると思うけどね」
答えを渋るように逃げ回るアンネに、けれどそれを口にするほかないのだと静かに諭せば、彼女はようやく静かに告げる。
「……今回の任務でね、ユーリは怪我をした。でもその怪我は事故みたいなものだったの」
「事故?」
「想像はしてた。けど誰も現実になるなんて思ってなかった。だってあれは、そういう存在だから……」
あれ。アンネのその言葉にそこに居る存在を強く睨みつける。
「…………首なし騎士、デュラハン」
言葉にすれば、彼女は聞きたくないとでも言う風に固く目を閉じて小さく頷く。
そうだというならば、確かにそれは事故だ。
「回帰種、その住処に接触して意思疎通を図るのが今回の任務だったらしいの。けど事前の報告ではそこに死神は居なかった」
「それが何の因果か偶然居合わせた、と。それでユーリアはその刃に触れてしまった……」
「任務自体は成功したらしいけどね。デュラハンも追い払って、戻ってきたユーリを色々な手を尽くして介抱した。けど結局理由は分からずに昏睡してたの。それがさっき目を覚まして……私から聞いたってユーリには言わないで。首を突っ込むこと止められてたんだから」
けれどその制止を振り切って尚、彼女は親友の為に真実を求めた。
それほどアンネにとって今回の出来事は大きかったに違いない。
「陛下は何て?」
「………………」
無言の言葉にクラウスは気持ちを固める。
クラウスは一昨日に任務の内容をユーリアから聞かされた。その際に彼女はクラウスに密告するのは保険だと言っていた。
その言葉の意味するところは、やはり何かあったときに頼るということだ。
現に今、ユーリアがその被害にあっている。きっとそれはヒルデベルトの考えるいざという時に該当する出来事だ。
けれどそうしてクラウスが首を突っ込む事を、アンネは許容できない。
もしそうなれば今度はクラウスが危険に晒されてしまうから。首なし騎士相手に何が起こっても不思議では無い状況で、クラウスが無事だという保証が何処にもないから。
だから彼女はその言葉を口に出来ない。心のどこかでそう思っていたとしても、気持ちを音に出来ない。
縋ってしまえば、全てを丸投げして自分の無力さを呪ってしまうから。
分かりきった危地に大切な何かを追いやるなんて、きっと彼女には酷な話だ。
元来心根の優しいアンネ。そんな彼女に責任を背負わせるのはクラウスだって望まないやり方だ。
「そっか……だったら仕方ないかな」
「仕方ないって…………」
「アンネさん、僕前に言ったよね。それがもし、僕の管轄に危害を加えるようなら、その存在を見過ごせないって」
クラウスが欲したクラウスの駒。その明確な形といえば校内保安委員会だ。
そこに選ばれた……クラウスの選んだ者達はクラウスの野望の為に必要な欠片に過ぎない。
そこにはいまやアンネも含まれていて、彼女は親友たるユーリアがそこに巻き込まれるのが嫌でその役割を取り上げた。
アンネが今演じている役割は、元はと言えばユーリアのものだ。
国への関係。クラウスを肯定し、その悪を断罪する正義の剣。
だからこそイレギュラーたる彼女の参入によって元々予定していたユーリアの立ち位置がなくなってしまった。
そこで新たに作り出したのがこれからクラウスが手にしようとする彼女の居場所だ。
別に春にアンネが首を突っ込んできた時点でユーリアのことは本当はどうでもよかった。もしそこに何の未練も感じないのならば、ユーリアの役割をアンネに任せて、折りを見てユーリアをクラウスの駒から外せばよかったのだ。
けれどいつしかそこには必要が生まれていた。
アンネはクラウスを肯定してくれる。肯定をした上で最後に否定してくれる。クラウスのしているそれは間違いだと。
けれどそれは最初にクラウスがユーリアに望んでいた役割ではない。
クラウスは必要だった。
いつもは否定し続け、道を正し。最後の最後で肯定してくれる役割。クラウスにとっての正義が。
アンネは親友と、そしてそれまで知らなかった恋と言う感情を突きつけてきたクラウスを、危険に巻き込みたくはなかった。
だからどこかで危険から遠ざけようとしてくれていた。これまでにデュラハンのことについても関係ないと遠くに置こうとしてくれていたのだ。その優しさには嬉しさと、それからそう言わせてしまうだけの小さな罪悪感もあった。
けれどそんな彼女の思惑とは裏腹に、クラウスは危険へ向けて邁進し、いつもアンネの期待を裏切り続けた。
分かっていて、その好意を跳ね除けた。
だからこそアンネはクラウスの中で便利な情報通止まりだった。何処までも危険から遠ざけ、平穏を守ろうとする彼女の思いが邪魔だった。それはクラウスが望んでいた正義ではなかったのだ。
そうして彼女の代わりに、どこかで道を違えたアンネに出来なかった事を、再びユーリアに望んだ。
……そんな言い訳を振り翳してユーリアを手に入れたかった。
有体に言えば、クラウスはユーリアに救われていたのだ。
どこまでも真っ直ぐに、間違いを正そうとするその姿勢に。クラウスが当初思い描いていた役割を、演じることなく素直に成し遂げてくれる彼女に。
いわばそれは──恋愛感情かもしれないと。
気付いてしまえば、それを否定する事はできない。
その時から既に、ユーリアはクラウスにとって最も大切な欠片の一つになったのだ。
「ユーリアは、今の僕にとって最も必要な存在だ。僕の傍に無ければならない駒だ。それは既に、僕の管轄内だ」
それは、怒り。
クラウスの所有物に手を出した、クラウスの独占欲。
巻き込んでしまった者に対する、クラウスなりの償い。
何処までも冷静で冷酷な感情が単純な解を指し示す。
眼鏡を押し上げ、小さな息と共に吐き出す。
「デュラハンは僕のものに手を出した。だったらその償いを求めるのは至極当然の結果だ。違うか?」
「……………………」
「ならそこにはちゃんとした理由がある。この気持ちを、アンネさんに左右される言われは無いよっ」
胸の内で燻っていた感情が行き先を求めて暴れ出す。
ただ個人的な報復を有り触れた理由で着飾って正義だと嘯く。
「……なん、で…………そこまで、するの……?」
「大切な人を守るのに理由が要る?」
聞こえのいい言葉を選べば、アンネはその真意を測るようにじっと睨んで来る。
あぁそうだ。クラウスにとっての大切な人と言うのは、ただクラウスにとって居れば都合のいい者に過ぎない。
そこに恋愛感情も、信用も信頼も存在しない。
ただ単純なるクラウス個人の問題だ。
デュラハンに近付けば命さえ危険に晒す。けれどその先にクラウスにも得るものがあるのだ。だったら無理を通すのが何よりも正しい選択。
無茶をしないで夢を叶えられると理想論を語るつもりは無い。それが必要ならば成し遂げるだけだ。
「アンネさんが僕に何を言おうと、もう決めた事だ。嫌なら関わらなければいいよ」
「っ…………! そんなの、できるわけ無いじゃんっ……!」
俯くアンネ。その手に握られた飲み物が僅かに拉げる。
「私は、ただっ、二人が無事ならって思って、その為にこうして警告までしてるのにっ! 何でクラウス君は私の言う事を聞いてくれないのっ!?」
「どこに聞く理由があると?」
「女の子の我が儘を聞くのはクラウス君の役目でしょっ!?」
「それに必要性を感じるならそうするよ。けど今回は違う。アンネさんのその言葉はただ危険を回避するだけの停滞の一手だ」
「それで構わないからここに居てって言ってるのっ!!」
何処までも感情論で我が儘に音をぶつけてくるアンネ。その目端に珠の雫が浮かんでいるのを見て、少しだけ気持ちが揺られる。
その涙が、本物なのか偽物なのかなんてどうでもいい。ただそうするしかないまでに彼女を追い詰めたという事実を胸に抱いて、静かに笑う。
「…………ごめんね、アンネさん。僕にはユーリアが必要なんだ。だから君の言葉には頷けない」
「おか、しいよ……。だって、だって………………」
まだ何か言いたげなアンネに、けれどもう振り返る気は微塵もない。
今まで付けてきた優先順位、その線引きを踏み越えて彼女を選ぶ。
「本当に死んでも、知らないから────」
それはまるで呪縛のようにクラウスの魂を縛り付けて。
恨むような旋律をしっかり刻み込むとそれを前へ向かう原動力に変える。
今まで肯定し続けてくれたアンネ。その最後になるかもしれない言葉に、否定を選んでくれるあたりクラウスは要らぬ愛情を背負ってしまったと。
彼女のその気持ちを無下にする事に達成感を覚えて足を出す。
そうしてユーリアの部屋へ戻る途中。前からニーナ達が歩いて来るのが見えた。
「もう帰るんですか?」
「えぇ、話は終わったし、安静にしておく方がいいでしょう?」
「そうですか……。あ、これどうぞ。好きなの飲んでください」
「ありがと。クラウス君も長居はやめなさいよ」
「分かってます」
いつもの仮面で答えて彼女達とすれ違う。
入れ替わりにヴォルフと共に女子寮にやって来たテオが、受付に確認をする傍らこちらに視線を送ってきたが気付かない振りで通り過ぎた。
全く、幼馴染と言うのは厄介だ。どれだけ取り繕っても最後には勘だけで真実に辿り着いてしまう。そんなにクラウスは分かりやすい性格をしているだろうか?
考えつつ扉を叩いて彼女の部屋へ入る。
寝具の上に座り込んだユーリアは自分の手のひらをじっと見つめていた。
気配に顔を上げた彼女。その仕草に、肩に掛かった長く綺麗な黒髪がさらりと落ちる。
「寝て無くて大丈夫?」
「……えぇ、あたしの気分はいいもの」
言いつつ何気なく頬を触りながら視界を回すユーリア。
そこに居ない事に少しだけ身構えて、傍に腰を下ろすと静かに尋ねる。
「……リーザは?」
「…………意識不明だそうよ。今は城で様子を見てもらってる」
どこか寂しそうに、はたまた悔しそうに零すユーリア。
今彼女の傍に相棒たるリーザの姿は無い。
それはアルに言われて気付いた事で、そうであるという認識がそうでないという認識を掻き消していた違和感。
妖精従きにとって契約妖精は唯一無二の存在だ。
だから特別な理由が無ければいつも一緒に居ることになる。
けれどその存在が今は無い。その歪な光景が事の非情さを物語る。
「先輩達には?」
「……聞かれなかったから答えてない。クラウスほど無神経じゃないってことでしょ?」
「心外だね。ユーリアのことを思っているからこそ心配してるのに」
いつものように告げば、ユーリアは鼻を鳴らして答えてくれる。どうやら居ない事を悔やんでいるというよりは、その原因をつくってしまった事に対して何か思うところがある様子だ。
「何があったか、聞いてもいい?」
「言ったところで現実は変わらないわよ」
「言わないとユーリアは塞ぎ込んじゃうでしょ?」
静かに諭せば視線を逸らす。そうして窓から見える景色を少しだけ眺めた彼女は、やがて小さく零し始める。
「…………任務先で、回帰種に遭ったわ。気性の荒い妖精達だったから、少し戦闘にもなった。その最中に、何処からともなく現れたのよ、あいつは……」
「デュラハンだね」
問うよりも先に確信して告げればユーリアも頷く。
「まるで私の影から出てきたみたいにも感じた。あの時、辺りは土煙に覆われてたから本当のところは分からないけど…………」
「本当に怪我は無かった?」
「………………傷は無かった」
沈黙の奥の言葉に思考を減速させる。
「心の傷?」
「違うっ。あれは…………」
言ってその柔らかい頬に指を滑らせるユーリア。先ほども同じような事をしていたと思い出す。
別にそれが彼女の癖と言うわけでは無いだろう。少なくともそうして言葉を告ぐ彼女をクラウスは知らない。……いや、一度だけ見た事があるか。
確かあれは屋上でアンネとその気持ちをぶつけ合った翌日。頬に絆創膏を貼って登校してきた彼女が、その傷をどこか慈しむように撫でていた事があった。
あの時と違うのはその表情にらしくない恐怖のそれが滲んでいること。
「──死の、刃…………」
零れた言葉に幾つかの類推を重ねながら尋ねる。
「その傷で、何か変わった事は?」
「……分からない。意識を失う前は、熱を、持っていたようにも、思う…………」
歯切れの悪い彼女の言葉。
その奥に隠された警戒するような色に気付いて、意を決して尋ねる。
「そう。……で、何か変わった事は?」
「……………………」
「言えない? それとも、言いたくない? 認めたく、ない?」
真っ直ぐに糾弾するようなクラウスのその視線に、ユーリアがどこか怯えるように肩を揺らす。
これほどまでに弱りきった彼女を見るのは初めてだと思いつつ、揺れる紫苑の瞳の奥を覗き込む。
やがて沈黙の後、彼女はまるでありえてはならない景色を紡ぐように音にした。
「…………リーザ、が、苦しんでた。怪我なんてしてない……斬られてない筈なのに…………」
「妖精に影響を及ぼす刃……」
「違う……そんな生易しいものじゃないっ。あれは……魂を裂く刃…………!」
要領の得ない言葉を想像で補って彼女の傷口を広げる。
「ユーリアが斬られて、リーザが苦しむ。二人の間にあるものといったら────契約、回路だ」
「やめてっ! お願い、やめて……。思い出させないで…………」
リーザもデュラハンも、魂に干渉範囲を持つ妖精だ。
そんな二人を繋ぐのがユーリアの回路で、それは黒き刃によって侵された。
神童と謳われる彼女だ。リーザとの仲も良好だっただろうし、無意識だとしてもクラウスが手にしたような妖精語、妖精力での会話にさえも手を伸ばしていたかもしれない。
魂に干渉範囲を持つという事は、妖精との繋がりの中でも最もその本質に密接に関わる事と同義だ。
だからこそ、魂に干渉範囲を持つ契約妖精の妖精従きは直感に優れる。それは決して根拠の無い直感などではない。
無意識に読み取る、妖精力の流れだ。
特に戦闘という景色において、妖精力は欠かせない。今この現代に、妖精力、妖精術を使わずに武力を行使する者は一握りだけだ。
ならば必然、他人の妖精力、妖精術の発現にも居合わせるし、そうなれば契約妖精の干渉範囲を刺激して、それが直感と言う形で妖精従きに影響を及ぼす。
その過程の上に語るならば、相手もまた魂に干渉範囲を持つ妖精、デュラハンだ。
リーザ……スプライトとデュラハン。二人の魂と共振する術を持つものが触れ合えば、そこには歪みさえ引き起こすほどに互いに干渉し、侵してしまう。
死の象徴、死神とも言われるデュラハンにリーザが巻き込まれてしまえば、その内に眠る殺意や暴虐と言った感情を乗せる妖精力で、その身を余すことなく貫かれるはずだ。
言わば他人に心の中を覗かれた上に、負にして苛虐な無惨で陰湿なる猛悪の非道を無慈悲に晒され続ける事に他ならない。
誰がそんな炎で指先からじりじりと焦がされるような陵辱に耐え続ける事が出来ようか。
ならば彼女が意識不明で気を失ったのも、防衛本能だと言うのならば仕方ない。
その一端がユーリアにもきっと影響を齎しているはずだ。きっとそれが先ほどの拒否反応。
現実の直視を避けることで己が身を守ろうとする仕方の無い反射だ。
「あれは、駄目よ…………。人間が手を出していい存在じゃない……生物であることさえ超越した、概念よ」
「死を制するにはそれよりも強い生が必要だ。死が怖いならきっと敵わないだろうね」
「死ぬ事が怖くない人間がいるはずが────!」
クラウスの言葉に反論をぶつけようとしたユーリアが、その上げた視界で言葉を無くす。
交わる視線。恐怖に支配された瞳の奥に、僅かに揺らぎを見つける。
「なら僕は大丈夫だ。死ぬことは怖くない。何も出来なくなる事が怖いんだ」
何処までも真っ直ぐに、感情の欠落した声で答える。
「死んで何もできなくなるなら、結局それが限界だって事。なら成し遂げるべき夢があるうちは死ねないし、死なない」
「やめてっ、お願い! 行かないでっ!」
泣き出しそうなほど切羽詰った声で縋るユーリア。袖の裾を掴むその手が震えていて、場違いにも少しだけ嬉しくなる。
「……今回ばかりは聞けない相談だよ。これはもう決定事項」
「…………ここに、いて……」
「もちろん。帰ってくるから」
きっとそういうことなのだろうと気付きつつ、けれどもうこの感情を押さえ込むのは不可能だ。
少しだけずれた答えを返せば、ユーリアは逃がさないという風に掴む手の力を強くする。その引っ張られる力の強さに、全ての意味を見出して笑う。
「ありがとう。…………でもね、駄目なんだ」
「何でっ!?」
「あいつはユーリアに手を出した。その落とし前をつけてもらわないと」
見上げたユーリアの頬に場違いな朱が差す。
次いではっとした彼女は顔を背けてその感情を否定しようとした。
けれどそれより数瞬早く、袖から離れた手を取ってその甲に口付けを落とす。
突然の事に声も忘れてこちらを見つめてきた彼女の瞳は、雰囲気にそぐわず驚愕に見開かれていた。思いつきなのだから身構えられては甲斐がないのだけれども。
「なっ、何を────」
「……約束。本当は今日言うつもりだったけど、やっぱり明日まで待ってくれる?」
「え…………?」
被ったいつも通りの仮面に、何の話をと言う風に疑問符を灯す。
そうしてしばらくの空白の後、クラウスの語ったその言葉が、彼女が任務へ行く前に交わした約束だと気付いた様子で、再びその視線を逸らす。
「それにほら、明日はユールアフトンだ。舞台は綺麗に整えなくちゃね」
「っ…………だったら、それが終わってからでもいいじゃない……!」
「ユーリアと僕、二つの問題が片付いたらって約束だよ。だからそれは出来ない。何より、この理不尽な感情を振り回す為には、帰らないといけない理由が必要だから」
デュラハンは死の象徴、死神たる理不尽の概念そのものだ。そんな存在に真っ向から策無しで立ち向かうのは愚策にも程遠い、愚劣で愚かな行為だ。
魂を刈り取る死の刃。それに歯向かう為に握る刃には、生の魂を刻み込まなければならない。
生きる為の理由……デュラハンでさえも殺しかねない理由。
理不尽たるかの存在には、こちらも理不尽の刃を打たねば対等とは言えない。
クラウスにとっての理不尽。それは初めて手にする────感情論と言う剣。
「まぁそんなことよりも、何よりも。ただこの感情を発散したいだけなんだけどね」
己の手のひらを見つめてその奥に眠る衝動を肯定する。
これまでずっと否定し続けてきた捨て置くべき存在。全てを暴く為に捨てた、たった個人ぽっちの感情。
その無視できないほどの昂りに、頭は至って冷静な解決策を導き出した。
この感情はユーリアが目の前で倒れている事に起因するもの。だとしたらその原因を作ったデュラハンを滅して、その生を持って償わせる事が後先考えない感情の刃だ。
だから嫌だったのだ。一度感情を肯定してしまえば、全てがその我が儘で片付いてしまうから。
理由なんて、必要ないから。
根拠も正論も過程も必要ない……あるのはただの────魔法だ。
「ってことで片付けて来るよ。デュラハンは──ユーリアの顔を曇らせるモノは、この世界にはいらないから」
理性の箍を外して、狂った感情の仮面を被ったクラウスは、その本質を剝き出しに悪魔の理を振り翳す。
クラウスの夢…………野望の妨げになるモノは必要のないものだ。それを決めるのは他の誰でもない、正しいことだと疑わないクラウスの感情だ。
ならば世界の行く末は、全てクラウスの手の中に。
その傲慢こそが、新たな世界の扉を叩く。
「わたし、クラウスさんの怒ったところはじめて見ました……」
「ん……あぁ、そうかもね」
「クラウス、あまり感情を表に出さないものね」
「武器としてはよく使ってますよね?」
「人間相手には最も有効な使い切らない手札だからね」
女子寮から戻ってきて、自室でデュラハンについての対策を立てながら話題はクラウスのことへ。
「まぁでも便利な反面いつも使うわけにはいかない。それじゃあ僕自身が納得できないからね」
「変な信条ね」
「感情論で全てが片付くならそうしてるよ。でも結局それは人望がものを言う。なら先に人望を築く事が先決で、それには実績が居る。だったら理知的に振舞って信頼を得るのが正しいでしょ? その上で感情論を振り回しても許されるなら、それだけの事をして来た証拠として納得できる」
「クラウスさんなりの他人からの評価の量り方ってことですか?」
「そうなるのかな……?」
いつものように平坦に言葉にしてそれから得られた感触を思い返す。
「二人には引き止められるくらいには期待されてたからね。まぁ上々ってところじゃないかな」
「……クラウスらしいけれど、もう少し自重したらどうなの?」
「自重するだけの頭があったらこんな夢物語を追いかけてないよ」
もう逃げられないのだと達観して決められた道程を望むべき結末へ捻じ曲げる。
「それに死ぬと決まったわけでは無いしね。やるからには生きて帰らないと」
「無事で済むなんて思ってない癖に……」
アルの心配そうな言葉に笑顔を浮かべてその頭を撫でる。
「思うならどうにか助けてくれる?」
「…………死にに行くのなら助けない」
死にに行くわけではない。そう言葉を重ねたところで彼女はそれを信じない。
死の権化たるデュラハンに牙を剥くと言うのは、彼女達にとって死も同然だ。
だからこそ感情論で幾らそうでは無いと語ったところで、その前例が無いからこそ信じられないのは仕方の無い事だ。
「やるならしっかりと作戦を考えないとですねっ」
「作戦なんてあってないようなものだよ。隙を突いて反転術式で存在ごと消滅させる……。理不尽に対抗するには理不尽に頼らないと」
「やっぱり死にに行くんじゃない…………」
「死ねないからこそ、その存在を覆すんだよ。少なくとも僕は死なない可能性をそこに見出してる」
「…………勝算は?」
「アルの協力如何によって変わる」
逃げるように言葉にすれば、アルは反論を失って黙り込んだ。
どうあっても曲げられない意思だ。ならばその可能性を潰す事をしたくない筈。
「……あぁ、もう! 分かったわよっ。で、何すればいいのっ?」
「とりあえず教えて欲しい事は、再契約について」
「は……?」
「例えば何らかの外的要因で妖精従きと契約妖精の契約を解除した場合、再契約は可能かなって」
「いや……まぁ、可能と言えば可能だけど」
「そっか…………」
アルの訝しむような視線が刺さる中、不躾にも心の中を覗いたフィーナが肩を揺らす。
「クラウスさんっ」
「大丈夫だよ。もしもの時の保険。そうなったら選択を迫られることにはなるけどね」
縋るような視線を向けてくるフィーナに宥めるような言葉を送れば、可愛らしく小さく唸った。
「何の話よ……」
「リーザが意識不明になってたよね? 多分あれは回路が影響を受けてる所為だよ」
言いつつ頭の中で説明の筋道を立てる。
「妖精は病気にならない。厳密には、人間の罹るような病気にはならない。なぜなら妖精は妖精力でその身を彩る、人間とは異なる存在だからね」
「そんなの当たり前じゃない。だから長生きをする為に……楽しい事を拾い集める為に妖精力の受け渡しに必要な回路を契約によって結ぶ」
「けどそれは妖精従きから妖精力を受け取ると同時に、妖精力に付随する色々なものも意図せず受け取る事になる」
「感情とかもその一つですよね。だから言葉もなく意思疎通が出来て、恵まれればクラウスさんみたいに妖精語での会話も出来るようになるんです」
妖精語の会話はおいておくとして、この辺りの事は学院でも習う基礎の基礎だ。
「だから妖精憑きには煩いほど言い聞かせる言葉がある。……契約妖精の心は妖精従きによって広がり、侵される」
これは契約が齎す唯一にして最大の問題だ。
繋がれた回路によって契約妖精に渡される感情。もしそこに憤怒や悲哀を初めとする負の感情が混ざれば、契約妖精の気分を害していく。
妖精が生きる為に必要なものは妖精力だが、その存在理由は妖性に左右される興味関心を満たすことだ。
だからこそ、契約妖精が求める感情とは逆のそれを意図せず供給し続けていれば、妖精達は憔悴してしまう。
長く続けばそのうち妖精の側は防衛本能として回路を閉ざし、妖精力の受け渡しができなくなって存在の消滅にも繋がる。
契約妖精との良好な関係とは妖精従きとしての実力向上だけでなく、その命を縛り付けた責務を果たすべき戒めなのだ。
「負の感情は契約妖精の心を曇らせる。それが積もれば関係の悪化に……最後には妖精の死にも繋がる。それを起こさない為に、妖精従きには出来る限り契約妖精に不安を与えない事が求められる」
それが妖精従きが根底に抱く妖精への尊敬にして畏怖。
彼女達を傷つけない為の最低限。
「それらの変化を引き起こすのは契約によって繋がる回路だ。……例えばその回路に何らかの外的要因で負の感情を流され続ければどうなると思う?」
「妖精の方は堪ったものじゃないわね」
「それを起こしているのがデュラハンで、その刃だ。ユーリアは多分その一撃をもらったはずだ。けどそれは回路に影響を及ぼす妖精力でできた実態のない刃だから、目に見えた傷にはならなかった。そしてユーリアはそれを熱として感じた」
「……そういえばよく頬の辺りを撫でてましたね」
クラウスを前に語ったユーリアの言動が一つの結末へと収束していく。
「デュラハンの刃に罹ると回路を侵される。だからリーザはその不気味な妖精力をできる限り受け取らないように回路を閉ざした。結果意識を保てなくなって昏睡した」
一つの結論を説明し終えて、それから更に想像を伸ばす。
「ここから先は想像の域を出ないけれど、多分そのデュラハンは回帰種としては中途半端なんだと思う。死の象徴である妖精が回路だけに影響を及ぼす災厄を振り回すとは考え難いからね」
「揺籃歌の影響って事?」
「それは分からない。ただ不完全だと仮定は出来るよ」
「……回路に影響を及ぼす。だからクラウスさんは先ほどあんな事を言ったんですよね」
フィーナの責めるような視線に、けれど撤回する気は無く当然のように口にする。
「例えその刃で死ななくとも、回路が侵されるなら契約が破棄されてもおかしくは無い。そこまでを考えるなら、再契約云々も考慮に入れないといけない」
当たり前のように言葉にすれば、アルが息を呑んだ。
そうして彼女が次ごうとした言葉を遮って続ける。
「問題は幾つかある。まず契約が破棄された場合に、そこにどれだけの影響が出るか分からないって事。それから契約だけでなく命まで消される可能性があるって事。他にも沢山。考えるだけ無駄な想像も山ほどある」
何処までも冷静に言葉にしていつも通りに音にする。
「それでも必要を感じるから死ぬ意味をなくして答えを求める」
「……狂ってるわよ」
「褒め言葉だよ」
笑顔で答えて呼吸を整える。
未知に挑む。そこに障碍があるからこそ、それは未知足りえる。
もし完全なる安全で作戦を遂行できるなら、それは未知ではなく経験で語ることのできる真実だ。
確率論で語れない生涯に挑まんとして何が未知だろうか。
クラウスの野望はその先にしか存在しない。
誰も手にした事のないものは、誰も到達したことの無い場所にしか存在しないのだ。
「さて、デュラハン相手に出来ることなんて高が知れてる。だったらもしもの可能性の対抗策を考える方が憂い無く戦えるってものだ」
「全力を出す為の下準備、ですよねっ?」
全ての意思を酌んでそれでも最後まで添い遂げようとしてくれるフィーナに嬉しくなる。
初めて会った時の彼女と比べれば随分と肝が据わったと、その変化に少しだけ驚きつつ準備に取り掛かる。
取り出したるは一つの方陣。中途半端に分解されて術式としては機能しないかもしれないそれは、少し前に発見した妖精古語交じりの命令式からなる、契約術式。
あの時は妖精語も読めなくて、更にはその原形とも呼べる妖精古語まで飛び出してクラウスの処理能力を超えていたが……今では妖精語の勉強もしている。簡単な文言なら読む事もできるだろう。
「契約術式ですか?」
「うん。これを術式ごと反転できれば契約の解除を任意に行えるようになる。……つまり、もしデュラハンにやられそうになったら、それより先に自分で解除しちゃおうと思って。その方がフィーナへの影響を考慮しなくて済むからね」
「…………再契約、できるんですよね?」
「アルの言を信じるならね」
もしもの可能性を考えて顔を曇らせるフィーナ。けれどそんな葛藤も数瞬、次の瞬間には覚悟を決めて頷いてくれた。
「分かりました。契約解除の術式ですね? お手伝いします」
「ありがと」
もし契約を解除すれば再契約を行える。その前提を信じるのならば、そうなった時にクラウスは今一度自分に問わなければならない。
フィーナとアル──どちらを選ぶのか。
今クラウスが持っている知識では多重契約は不可能だ。
だからどちらかと契約を交わしてその先で多重契約の方法を探すほか無い。
その時、クラウスはどちらを選ぶのか…………。
今自分の胸に問うてみても、そこに優劣はつかない。
「……わたし、信じてます。例えクラウスさんがわたしの事を信じてくれてなくても、わたしはクラウスさんの事を信じてます」
己が身を犠牲にするような献身的な言葉に少しだけ揺られる。
声に、音にしたはずの感情が、回路を介してまでその奥を揺さぶる。
単純に、どちらと契約したいかではないのだ。
クラウスの手にした妖精語の会話がある限り、契約は心を通わせる意味を持つ。
彼女達にとってみればクラウスの唯一になれる。
それさえも理解した上で、クラウスは求めなくてはならない。
過程にどちらを選び、結果に多重契約をするのか。
他の誰でもない、クラウス個人の采配で傾く天秤だ。
「それじゃあ始めましょうかっ」
けれどそんな不安を胸の奥へ押し込めたままフィーナは笑顔で紡ぐ。
彼女は疑わない。自分以外が選ばれる景色を認めない。
それは誰よりも強欲にして純粋な彼女が求める楽しさだ。
未来を左右するそのたった一つの妖精術の開発に真剣な瞳で取り組むフィーナ。その横顔を少しだけ見つめて、クラウスもようやく命令式の解読に手を伸ばす。
この契約術式は故郷を出るときに父親から教えられたものだ。
世界に広く普及し、妖精憑き、妖精従きは全員が覚える最初の妖精術。
それ故に特別な意味と出会いさえ感じる始まりだ。
その始まりを媒介にこれから作り出すのは終わりを導く新たな理。
今まで誰も手を伸ばさなかった……伸ばしても届かなかった新たな扉。
契約に、回路に、波長に干渉する妖精術。
意図して歪ませるその結果の探求に、クラウスはある種の終わりを幻視する。
「単純に反転する、だと契約術式の発動の消滅ってだけなんですよね?」
「反転術式はその命令式に真反対の文言をぶつけるものだからね。既に発動を終えてその術式の外で維持されてる妖精術には効果がないよ。契約術式はずっと維持し続ける妖精術ではないからね」
契約こそ契約術式を交わしたときに回路を結ぶが、その先はただ妖精力の循環によって維持される。つまり契約の保持に契約術式の持続は必要ない。
中には契約術式は身体強化のように半永続的に付与されるそれだという人も居るが、だとすれば常日頃から妖精術を行使している事になり、もっと早くに妖精語での会話を見つけた人も居たはずだ。
それにもし半永久的なそれであれば、気付いた人がそれを意識的に遮断すれば契約の破棄もできるはず。そうなれば今までにその方法論が確立されているはずで、そうなっていないという事はやはりその論は間違っているのだろう。
またユーリアの話では先の任務でも使われたように、妖精術と言う形を取ることで妖精との会話を成しえてはいる。
けれどそんな回りくどいやり方は本来の妖精語では無いだろうし、クラウスの手にしているこれこそが最も妖精達の使うそれに近いものだと自負している。
「既に展開し終えて成し得た結果に干渉し、それを破棄する。それは新たな術式で上書きのようにするしかなくて、当然妖精力に関連する事象だから妖精力……妖精術でしか左右する事はできない」
「でもきっと、既にある術式を逆に解いていけば出来るはず、ですよね?」
「それが解読できたなら、ね?」
フィーナの言葉に答えて脳裏を巡るのは妖精古語。
妖精に関することの中でも妖精の国の存在等に並んで殆ど研究の進んでいない分野だ。
けれど偶然か、クラウスの手中にはそれを解き明かす鍵がある。
「今までこの術式が完成しなかったのは元となるはずの契約術式に妖精古語が秘められてたからだと思うんだ。けれどそれさえ解読できてしまえば、後は時間の問題……」
「でもいいんですか? わたし読む事はできますけど意味なんて分かりませんよ?」
「音声言語になれば後は僕がどうにかするよ」
それが言葉なら、法則性を見出して解釈するだけだ。頭を使うのは得意分野、望むところだ。少し昔には興味本位で戦時中に使われた暗号の解読を試みたこともあったし。要領はきっと同じなはず。
そうして言葉を交わしながら目的を共有し術式を展開する。
前に弄っていた時より大規模に。まるで星空を見上げたかの如く部屋一杯に広がる、難解にして単純にして未知なるその扉に手を伸ばす。
その刹那────
「あぁっもう! そんな方法で直ぐに妖精術が完成するなら誰も苦労はしないでしょうがっ!」
響いたのは癇癪のようなアルの声。
宙を漂う文字列を指先でなぞりながら耳だけはその声に傾ける。
「いいからクラウスはデュラハンについて調べてなさいっ。そっちはあたしがどうにかするから!」
「……どうにかって、アルにはそれが出来るって事?」
「…………出来る。この際だから言うけど、妖精古語ならあたしも読める。その意味も理解できる」
返ったのはクラウスの想像の先を行く答え。
思わず手を止めてそちらを見れば、彼女は納得していないのか顔を逸らしたまま答える。
「ただあたしが作るとあたしの波長に合わせた妖精術になるから命令式の構成を教えるのが大変だし、第一に人間と妖精の関係を否定するような術式作りたくないし……」
「一人で出来るの?」
「…………方法論とか出来とか一切聞かずに任せてくれるなら作ってもいい。けど時間の関係上クラウスが行動に移すまでにクラウスのものとして教える事はできない。それからあたしの妖精術である以上、その使用の判断はあたしに委ねてもらう」
思いつく限りの言い訳を並べ立てて譲歩してくれるアル。
その間、一切こちらに視線を向けてはくれないが、その頬に朱が混じるのを見て笑みを浮かべる。
「それ全部誓約できるなら────って、何笑ってるのよっ!」
「いや……ごめん。……うん、いいよ。その条件は全部呑む。だからお願いしてもいい?」
「…………言っといて何だけど安請け合いは──」
「そんなんじゃないよ。ただアルのことを信頼してるだけ」
「っ……! つ、次調子のいい事言ったら作らないからっ!」
「分かった。全部アルに任せるよ」
笑顔でそう告げれば、肩を揺らした彼女は鼻を鳴らして、部屋の隅で一人妖精術の開発を始める。
彼女の気が散ってもいけないし、何より不用意に干渉する異物は取り除くべきだと。フィーナと幾つか言葉を交わして部屋一杯に広がった契約術式を元の方陣一つにどうにか戻す。
それからアルに言われた通りに、幾つかの書物を渡り歩いてデュラハンについて再び調べ始める。
これ以上何か新しいことを見つけるというよりは、正しい事を記憶に留める事に労力を費やす。
クラウスのやろうとしている事は今まで世界が築き上げてきた信用を壊す行為だ。
出来る限り穏便にと妖精と人間の関係は保たれてきたが、そんな暗黙の了解を一方的に破棄する裏切りだ。
けれどそんな事は知ったことではないのだ。
デュラハンはクラウスのものに手を出した。たったそれだけの理由があれば感情論振り翳して報復に踏み切れる。
感情には理不尽が付き従うからこそ、クラウスは今までそれに頼る事を否定して来たのだ。
これは必要なことではない。クラウスの野望の為に考えれば起こさない方がいい行動だ。今ここで結論を得なくても、後に別の形で手にしたって問題がない。
だがそれを曲げてでも突き通すだけの道理は存在するつもりだ。
それがクラウスの為というならば誰にも否定はさせない。
それに、一つの可能性を見つける事もできる。
本当に妖精の存在自体を反転して消滅させる事が出来るのか。
妖精力で構成されるという前提から考えれば可能な事象だ。けれど生物であるという観点から見れば難しいようにも思う。
世界によってどちらが優先されているか。魂の形か、肉体の束縛か……。
それが分かるだけでも妖精の事をまた一つ知る事が出来る。
そう考えればクラウスの野望にも僅かに近付くのだと嘯ける。
ただの私怨を世界の為と法螺吹く野望で着飾って。正論に似た何かで纏えば、それは立派な大義名分に。
聞こえのいい言葉を武器に悪行を成す。なまじ言葉を自由に扱えるが故の確信犯だ。
世界にとっては悪かもしれない。けれど僕にとっては──ただの正義だ。
そんな風に方便を振り回して準備を重ねての翌日。
いつも通りの朝、いつも通りの朝食、いつも通りの時間。有り触れたそんな経過に準備を重ねて、最後に昼食を口に運ぶと部屋を出る前に身形を整える。
後ろ腰には父親から貰った短剣を携え、服装は出来る限り動きやすい物を選ぶ。
それから腰につけた巾着に幾つかの鉱石を投げ込む。
これはクラウスが個人的に所有する術式封印石だ。殆ど妖精力に頼らず属性妖精術を使うことの出来る、クラウスにとっての使い捨て火力。
閃光、発音といった無力化の代名詞から、炎や風の威力を持った石ころを十数個。念の為の治癒を込めた水の術式封印石は、できるだけ使いたくない高価な品だ。
校内保安委員会での任務は国からの命もあった。必然報酬も出たし、それを幾つか使って買い貯めていたクラウスの矛だ。
属性妖精術に愛されないクラウスにはテオやユーリアのような強力な妖精術は使えない。そうなれば本格的な戦闘に巻き込まれた際に致命打も無く蹂躙されるのが目に見えている。
それを補う知恵にして戦略。
狡く小賢しい手にして、妖精術だけに頼る相手を欺く転換の一手。
力が無いのなら頭を使って戦うまでだと磨いた、クラウス独自の戦闘姿勢だ。
鉱石に込めることのできる術式には規模の限度がある。けれど妖精術の同時展開のように、幾つもの術式封印石を重ねて使えばある程度の戦いは演出できる。
その隙を、クラウスの持てる策で穿って道を開く。
いつもの事だと反芻して呼吸を整えれば、両肩に頼もしい相棒が二人も手を貸してくれた。
「アルの方は完成した?」
「あたしを誰だと思ってるのよっ。分かったら全部任せておきなさい」
「それじゃあ、れっつごーっです!」
陽気な掛け声に元気を分けてもらいつつ扉を開く。
すると廊下に出たところで視界に入った景色に思わず二の足を踏んだ。
「…………何、どうしたの?」
「ん。おう、はよう、クラウス」
「うん。おはよう」
そこに居たのは幼馴染たるテオ。彼は扉の横、壁に背を預けて廊下に座り込んでいたのだ。
綺麗な旋毛を見下ろしつつ挨拶を返せば、彼は欠伸と共に立ち上がりながら告ぐ。
「どっか出かけるのか?」
「……そうだね。少し野暮用で」
「ついて行っていいか?」
楽しそうに笑って告げるテオ。けれどその強い光を放つ黒い瞳の奥に、有無を言わせぬ決定事項が宿っていて溜息を吐く。
「……駄目って言ってもどうせついてくるんでしょ?」
「流石クラウス」
「答えが分かってるなら提案しないでよ」
言いつつ、けれど言葉にした彼の気持ちを類推して疑問を増やす。
どうしてクラウスが行動に移すと分かったのか……。幼馴染としての勘? 僅かに存在するヘルフリートの魂への干渉範囲が及ぼす影響での直感?
けれど考えたところで景色が変わるはずもなく、諦めて寮の外へと向かう。
そうして玄関広場まで来たところで、今度はヴォルフと出くわした。
「暇か、クラウス」
「暇では無いです」
「私は暇なのだ。だから君の都合に付き合うとしよう。同行するが構わないな?」
こちらもまた先ほどのテオ同様否定を許さない視線でクラウスを射抜いて告げる。
隣の幼馴染を窺えば、彼はどうするのかと質問以上の答えを返してはくれない。
募る疑問が不安へと進化しつつ頷けば。次にありえる景色を脳裏が描き出す。
どうしてこんな事にと考えたのも束の間、次は校門辺りだろうかという想像は寮を出たところで打ち砕かれた。
「いい天気ね。そうは思わない、クラウス君っ?」
そよ吹く風に揺れるマリンブルーの短髪に楽しそうな笑顔がついてくる。
穹色の瞳がクラウスの事を射抜いて音となり語り掛ける。
どうでもいいが空模様は曇り空。そこまで気乗りのする表情をしているとは思えない天の画布だが……。
「ご一緒してもよろしいかしら?」
「……はいどうぞ」
投げやりに答えて溜息を吐けば、彼女は嬉しそうに笑って一人先を歩き出す。
「何処へ行くんですか……?」
「何処って決まってるじゃない。理由を貰いに行くのよっ」
理由なら既にこの胸にあると振り翳そうとして、けれどそれより先にニーナが零す。
「貴方に人間をやめてもらっては困るの。だから人間で居られる理由と枷をつけさせてもらうわ。納得できないなら──今ここで止める」
笑顔のまま、笑わない声でそう言い切って僅かに妖精力を滲ませる。
同時、左右からも無言の圧力が振って降りて、抵抗する気を全て削がれた。
「……分かりました」
「それでいいのよ。謝られたらこの善意の意味がなくなるもの」
彼女達は何処まで知っているのだろうか。その入れ知恵をしたのは誰なのだろうかと。
脳裏を巡る悪戯な笑顔の少女を一人見つけて諦める。
全くどこまでも邪魔をしてくれる。それでこそクラウスにとっての悪だ。
両脇を抱えられたまま、連行されるようにニーナについて歩く。
そうして辿り着いた先はブランデンブルク城。その城門のところに既に見慣れた仕着せの少女が一人佇んでいるのを見つける。
「いらっしゃいませ、ご用件は何でしょうか?」
「カイ・グライド少佐に話があってきました」
「承りました。それではご案内いたします」
まるで綺麗な型の様に整ったお辞儀をするその少女。仕草にやわらかく波打つライトブラウンの頭髪が揺れる。
格式張っていつもの彼女を奥に隠したその姿に退屈さえ感じる。
そんな風に思いつつ彼女についていくと空き部屋に通された。
幾度か来た事のある部屋だと見回して気付くのと同時、カイの姿がない事に尋ねる。
「カイ少佐は?」
「少佐は今取り込み中です。もうしばらくしたらこちらに来られますのでしばしお待ちを」
言ってお辞儀をしたアンネは、それから無言で椅子を一つ引くとそこに座って上半身を机の上に投げ出した。なんと勤務態度の悪い女中だろうか。
「来るの早いよ……」
「待つ方も大概だと思うけどね」
アンネだけでなくテオやニーナに向けても言葉を放てば、示し合わせたようにそれぞれに視線を逸らしてくれた。アンネに至っては口まで尖らせてお手本のように拗ねた顔をしてみせる。
「悪いのはクラウス君だよー」
「僕に行動を起こさせたデュラハンだと思うけど?」
「そっちは仕方の無いこと。クラウス君のやろうとしてることは許されないこと。だから悪いのはクラウス君だけ」
言って水色の瞳がじっとクラウスを見つめる。
その瞳に宿るのは糾弾にして断罪の炎。クラウスを認めない彼女の正義。
「頭おかしいんじゃないの? 一人で死の権化と対峙しようとか」
「僕がおかしいのは始めからだよ。今までは人間らしく最低限の常識を振り翳してただけ。今回はそれが邪魔になったから捨てたまでだよ」
悪びれる事も無くそう言い放てば、部屋の空気が濁る。
幼い頃からクラウスの事を知っているテオまでもがその視線に忌避を混ぜる。
「それに、そんな危険な事に三人まで巻き込むアンネさんの方が僕は危ないと思うけど」
どうでもいいところに矛先を向けつつ考える。
今回のクラウス包囲網はアンネが手を貸したものだ。
今この部屋に居る者の中でクラウスがデュラハン相手に無謀とも思える行動を起こす事を知っているのは彼女だけ。それだけで類推は可能で、そこから彼女はクラウスを無法者の妖精殺しにしない為の策を巡らせた。
クラウス個人がデュラハンに危害を及ぼすからいけない。ならばその責任を国の所為にして任務という名の正当化をすればクラウスは悪人にならなくて済む。
問題はその無理難題をカイやヒルデベルトが許してくれるかと言うところだろうが、彼女は一体どんな魔法を使ったのだろうか?
「幾ら口が達者でも揺るがない正義の前には無意味だよっ」
その正義を乱用しているのはどちらかと視線で訴えれば、彼女は知った事かとばかりに視線を逸らしてくれた。
降りた沈黙に暇を持て余して色々つくりかけな妖精術を引っ張り出してきては弄り回す。
そうしてしばらく時間を潰していると扉を叩く音と共にカイが姿を見せた。
「悪い、遅くなった…………って、どうかしたのか?」
「いいえっ、何でもないです」
言って椅子から立ち上がった彼女は女中の仮面を被ってヴァレッターとして振舞う。逃げ道があって楽な事だと恨みつつ背筋を正す。
目の前に座ったカイは、一息置いてその目に強い光を灯すと非難するように告げる。
「話は聞いている。…………本気か?」
「冗談を言えるほど暇では無いので。本当なら今頃一人で町に出てた筈なんですけどね」
ちらりとお節介な者達を見やって零せば、重苦しく溜息が響く。
彼にとっては頭の痛い問題だ。一昨日その存在を間近で確認した死の権化に手を出そうという輩。立場からしてみれば止めるのが当然だ。
「……無理を言ってるのは分かってんだっ。けど頼む、どうにか話を通してもらいたい!」
どう言葉を次ごうかと数瞬迷った隙に紡がれたのは幼馴染の声。
クラウスからしてみれば少しだけ予想外な矛先の言葉にきっかけを見失う。
「テオ…………」
「俺たち向けに任務を出してくれ。討伐隊じゃなくてもいいっ」
何か理由を探そうと言葉を絞る幼馴染。その剣幕に、けれどカイは頷かない。頷けない。
「駄目だ。そこに必要性を感じない」
「……あたしの従軍試験。その前倒しとか」
「優遇も冷遇もできんっ……」
「国での動きに混ぜてもらうだけでも…………」
「いい加減にしろっ!」
ニーナ、ヴォルフの提案にその場を黙らせる一喝が響く。
震えた空気に飲み込んだ息。そうして出来上がった景色に奥歯を噛み締める。
カイはクラウスのことを知っている。知っている以上に知りすぎている。
だから生半可な言葉を掛ける事もできなければ、必要以上に厳しくもなるはずだ。
彼にとっては弟に幼馴染……小さい頃からの仲だ。そこには兄弟のような心配の念もあるのかもしれない。
それを思えば思うほど、クラウスは言葉を告げなくなる。
彼がクラウスの行動を否定するのはその命を守る為だ。
それはよく分かっている。分かった上で、ここに居る──
「デュラハンは未知とも言える存在だ。下手な手は打てない。国も対抗策を決めあぐねている。中途半端な理由で許せるはず無いだろうっ」
「……正しい理由があればいいんですかっ?」
カイの言葉に返ったのはそれまで黙っていたアンネ。
壁際に立っていた彼女は唇を噛み締めたまま一枚の書類をカイに向けて差し出す。
「これは……?」
「今朝私の伝で調べてもらったユーリア・クー・シー一等兵の契約妖精、リーザについての報告書です」
「それが何の理由になると?」
アンネが机の下で拳を握り締めてこちらを窺って来る。
何を企んでいる? 何を知っている? 何を言おうとしている?
その水色の瞳を見つめ返せば、彼女は一つ息を整えた後カイに向けて静かに紡ぎ始める。
「……彼女の容態はそこに書いてありますが、妖精力の供給不足による一時的な昏睡状態です。それは契約相手であるクー・シー一等兵にこそ理由があります。彼女に話を窺ったところ、傷は無いものの件の要請から攻撃に類する何かを受けたと聞きました。それが理由でリーザは昏睡……その理由は────」
言って、けれどそれから先の言葉を無くす。
そうして降りた沈黙にクラウスは気付く。
そうか、彼女は分からなかったんだ。例えそこまで情報が揃っても、その因果関係を根拠を添えて語れなかった。
だから言葉に詰まった。どう説明すればその理屈が通るのか過程を知らないから。
ならば知っている者がその後を次げばいい。
「昏睡の理由は回路です」
「……何?」
「死神は魂に干渉範囲を持つ妖精です。そしてその刃は、妖精力を循環させる回路に影響を及ぼします」
「根拠は……?」
「ハロウィン……ジャッキー殿の時を思い出してください。あの時ジャッキー殿の回路が不安定になったから外に影響を及ぼした。ならば逆に、外から回路に影響があれば同じような事が起きるはずです」
それはユーリアの部屋で重ねた推論。それが根拠の無い確信を持って剣になる。
「ユーリアが瘴気の刃に晒されたなら、その回路は蹂躙されます。そうなれば契約妖精であるリーザにも影響は出ます。死に纏わる妖精力……負の感情で満たされたそれで回路を狂わされれば、妖精はいずれその身を破滅させてしまいます。そうならない為の対抗策として、リーザは出来る限り回路を閉ざし、昏睡状態になってまでその身を守った。そうして今も眠っていると言う事は、永続的に回路へ攻撃を受けている事を示します」
「リーザ以外にも被害は出てますよね。話に聞きました。例の妖精を追い払った時、幾人かはその被害に遭ったと。その人たちの契約妖精もリーザと同様に昏睡状態に陥っているとっ」
それはアンネやカイたちしか知らないはずの情報。心配を掛けまいとユーリアでさえも知らされていなかった機密事項。
それを振り翳して、クラウスの援護としてアンネが撃ち放つ。
もしかすると彼女の居場所にも関わるかもしれない博打だ。そんな捨て身の援護を受けて、クラウスだってここで退くわけにはいかない。
「回路が侵され続けているのはかの存在がまだどこかで生きているからです。つまり死神を討滅すれば解決する問題です。これはユーリアやリーザだけでない……今も苦しんでいる妖精騎士の方達をも救う────」
「ならばそれはわたしたち軍でやるべき仕事だ。君達が口を挟むべき問題では────」
それを言われてはと遮ろうとした瞬間、部屋に響いた大きな音に誰もが口を閉ざす。音にした方に集まる視線、その先に居るのは机に腕を突き立てたアンネだった。
「ヴァレッター所属アンネ・ルキダがブランデンブルク国王ヒルデベルト・アスタロスの意向を代弁させてもらいますっ。クラウス・アルフィルク、並びに彼に賛同する者達はヒルデベルト・アスタロスの名の元に庇護された正当なる権利を持つ者である。この者達が有する権利には全て国の資産としての意味合いを持つっ」
「一介の女中風情が何の権利を持って────」
「私はヒルデベルト国王陛下より任命されたクラウス・アルフィルク個人の傍付きですっ。証拠としての書状が必要ならばどうぞこちらに目通しを願いますっ!!」
言って書状をもう一枚取り出した彼女は投げるようにそれをカイに突きつける。
そこに書かれている内容は前にクラウスも署名をする際に目を通した。
無条件で頷くには重過ぎる枷のついた免罪符だが、今だけはその存在に感謝する。
この国において誰もが否定する事を許されない最上位の強権。その名前を無視する事を許されない誰もが認める最高峰だ。
羊皮紙に綴られた文言に目を通して息を詰まらせるカイ。
彼の立場からしてみれば肯定せざるを得ない絶対だ。
しかしカイ・グライド個人からしてみればそれは違う。
「……カイさんが僕の事を思って止めてくれているのは分かります。間違ってることも分かってます。けれどすべて分かった上で、無理を通させてください」
幾ら過去に違えた仲だとは言えそれでも同郷の幼馴染だ。
僅かに残ったその思いやりに揺れるからこそ、最後で頷くことはできない。
「お願いします」
しかしそれさえも覆してしまうからこそ、理不尽の代名詞たる感情論だ。
理屈でさえも強引に捻じ曲げて結果を求めるその強欲に。やがてカイは深い溜息を吐いた。
「……分かった。話を通してみる。但し許可が下りなかったらそれまでだと思え」
「分かりました」
クラウスの考え得る最初にして最後の壁を突破して、一人胸の内で安堵する。
部屋を出て行ったカイの背中を少しばかり見つめて、その場に残った憂慮を取り払う。
「先輩達も、どうなっても知りませんからね。作戦なんて呼べるものはありませんし安全性なんて計算するだけ無駄です。自己責任でお願いしますよ?」
「……クラウス君風に言えば、これは利用しているだけよ。貴方の進む先にあたしが望むものもある。だから手を貸す。そこにニーナ自身の目的以外に理由が居るかしら?」
「約束したからな、力になると。それに言ったはずだ、君の目指すその先の景色が見てみたいと。見届けるには、最後までついて行かなければな」
「クラウスは、幼馴染を損得勘定で語るのか?」
三者三様の取ってつけた建前に少しだけ面を食らって。それから諦めと共に笑えば一つ視線が刺さった。
「クラウス君……」
「分かってると思うけどアンネさんにはやるべき事をお願いするよ」
「どうあっても最後の最後で巻き込んでくれないんだね……」
「イレギュラーなんだから仕方ないでしょ? それでいいって納得したのはアンネさん自身だよ」
どこか寂しそうな声に笑顔を向けて言葉にしなくとも伝わるお願いを音にする。
「ユーリアのことをよろしく」
「……もちろんっ」
そうすることでクラウスの憂いがなくなる事を知っているから。そうすることで誰よりもクラウスの為になれる事を知っているから。
そのたった一つの役割を大事に大事に胸に抱えて彼女はそれを自分の為に振り回す。
「だからお願い、死なないで────」
笑顔だけを返せば彼女は辛そうに視線を逸らした。
脳裏を巡るのはリアナンの言葉。
────魂に近づきすぎよ。生きている事を愛し、死なない事を祈りなさい
あの言葉をどれほど信じているかと問われれば、答えは返せない。
ただ分かる事は、今のクラウスがそれに真っ向から立ち向かっていると言うことだけ。
認めたくないと言うことはその可能性をどこかで考えているということ。
そんな弱気な自分に少しだけ辟易して既に不必要になった感情を捨てる。
過程と結果を都合よく。理想の未来を想像して心の中を整理する。
『わたしがそれを見届けます』
反響したフィーナの声に小さく笑えば。進むべき道は目の前に照らし出されていた。




