第四章
その噂が耳に届いた事に驚かなかったのは、自分が少しでも知っていたからだろうか。
直ぐに冷静になった思考が真実を求めて足を動かす。そうして辿り着いた扉の向こうから返った入室を促す声に、知らず少しだけ乱暴に押し開いてそこにいる人物に視線を向ける。
「いらっしゃい。来ると思っていたわ」
「……真実ですか?」
「えぇ……」
確認の言葉を紡げば、視界の先の彼女は顔を上げてクラウスを見つめる。
真っ直ぐに透き通った黄金色の瞳。その目の奥に嘘がない事を確信して一つ息を零す。
覆らない事は知っていた。けれど今でも嘘であって欲しいと願ってしまう。
「…………それだけ? だったら早く出ていって。ワタシも暇じゃないの」
何かを期待するようにじっと見つめて、学院の長であるエルゼは零す。
それがどれ程愚かなのか……感情だけに頼った選択なのか。
分かってしまうから、理由を得られないクラウスは言葉にする事を躊躇ってしまう。
免罪符が欲しい。暴論を振り翳せる理由が欲しい。
けれどそれはクラウスの中には存在しない。分かっていて、ここに来た。
「……もういいわ。リリー、追い出して」
「クラウスさん。用がないのであれば今はお引き取りください」
頑として自分からは言葉にしない二人。そんな景色に呆れるようにアルが溜息を零す。
理由もなしに行動を起こす。それほど今回の話はどうしようもなくて、それ以上にどうにかしたい話なのだ。
なのにクラウスには何も出来なくて。だからこそ後悔が滲む。
後一つ、何かあればいいのに…………。
リリーの言葉に歯向かうように立ち尽くしてまだ理由を求めて彷徨う。
「いい加減にしなさい。その話は貴方にはどうにもならない。諦めておとなしく────」
「バンシー…………!」
足りない欠片でしがみ付こうとどうにか食らい付く。
「もし無関係でないのなら、そこには僕なりの理由が……」
「貴方だけの都合で学院が成り立っていると思っているのならばそれは自惚れよ」
足りないっ……! もう一つ、決定的な一手。
その猶予を貰っているのに、クラウスはそれを使いたくない。
相変わらず面倒臭いことだと呆れて決心する。
……そうか、駄目か…………。
どう足掻いてもクラウス個人の理由では足りない。大儀を振り翳しても、それは全てクラウスの都合に変換されてしまう。
だから彼女を動かせない。
「教室に戻って、何も知らない子供のように振舞いなさい」
大人と子供。どこにその差異があるのだろうと彼女のその言葉を恨む。
そうしてどこからか湧き上がってくる諦めの感情に必死に首を振っていると、背後から声が突き抜ける。
「彼個人が駄目なら、学院全体がその気になればいいかしら……?」
「……先輩」
振り返ってそこにいたのはニーナ。高潔なその生き様のように凜と胸を張って母であるエルゼをじっと見据える。
「何? もしかして生徒を纏め上げて学院に喧嘩でも売るつもりかしら?」
「……そうしないと勝てないなら、その手段も取る」
「生徒会長でもない貴女が?」
「彼を利用すればいいだけの話よっ」
クラウスの隣に並んで真っ直ぐに告げるニーナ。
ちらりとこちらを窺ってきた彼女は、薄く笑って言葉を繰る。
「どうせ学院が荒れるのが嫌なだけでしょ?」
「生徒の事を一番に考えるのは学院長としての務めですもの」
「だったら荒事にせずに纏めればいいのよね?」
さも当然のように答えるニーナ。
その意志の強さに、思わず見惚れる。
「……貴女にはそう出来るに足る根拠があるというのね?」
「…………考えがないならこんなことしてないわよ」
マリンブルーの透き通った眼。その中心に灯る炎。
それは誰譲りのものだろうか。少なくとも、今のクラウスに足りない最後の一欠片なのは確かだ。
「反論はあるかしら?」
「……えぇ、あるわ、沢山。けれど今それを言うのは無粋よね」
負けず嫌いと言うか何というか。二人は視線を外さないまま言葉を交わす。
「だからその目で見てくるといいわ。……そうね、これはワタシ自らが貴女に出題する────卒業試験としましょうか」
「……教師は解けない問題を出さない」
「今の貴女にはまだ解けないわ。だからこそ、卒業試験なのよ」
エルゼの言葉にニーナの肩が震える。
けれどそれを諌めたのは傍にいたディルクだった。
彼の呼びかけに、ニーナは拳を握って何かを飲み込むとそのまま踵を返して部屋を出て行く。
とりあえずクラウスもそれについて廊下に出れば、先を歩くニーナに追いついて零す。
「……ありがとうございました」
「礼を言われる筋合いは無いわ。クラウス君が一足先に来てただけだもの。それに盗み聞きをしたのはあたしの方だし」
「…………いいえ、そうではなくて。先輩のお陰で僕も免罪符を見つけられましたから」
「それはよかったじゃない。なら早速手を貸してもらうわよ」
「……考えがあるってそういうことだったんですね…………」
呆れたように言葉にすれば彼女は勝ち誇ったように笑みを浮かべる。
それでも理由は理由だ。クラウスはクラウスらしくいつも通りを取り戻して彼女の我が儘を肯定すればいい。
「こういうの、何だか久しぶりな気がしますね」
「そうかしら? あたしは至っていつも通りだけれども」
「本当、いつも通りですね」
皮肉を返せば彼女は小さく唸ったが、やがて笑って決意を口にする。
「さて、はじめるわよっ」
「無理でなければ現実にして見せます」
「この世に無理は無いわよ。やるかやらないか、ただそれだけ」
彼女らしいと笑えば、少しだけ恥ずかしかったのか大きく堰を落としたニーナだった。
アスタロス王妃殿下に関する噂。曰く、彼女の容態が傾いだと。
クラウスがその話を耳にしたのは学院でだった。アンネがいない分自由に過ごす時間の増えたクラウスは、幾つものやるべき事に少しずつ手を伸ばして自分の世界で生きていた。
そんな折に他愛ない話のように教室内で交わされていた声が耳に入ったのだ。
幸い、まだ噂程度。けれど火のないところに煙は立たず。煙が立つならばその火は誰かの興味を引いているということで……。
クラウスの耳に引っかかって、真実を問い詰めればそれは事実ではあった。
けれど学院を挙げて何を出来るわけでもない。そう否定されて、感情に走れないクラウスはどうすることも出来なくて。
そこに現れたニーナが肩を持ってくれた。
彼女にしてみればちょっとした反抗。不条理に対する反感。
信じたものを裏切らない強さを持つ彼女は、クラウスには少し眩しくて。彼女の大言に胸を借りて可能性を振り翳す。
「それで、先輩は何をしたいんですか?」
「出来ない事を言うつもりは無いわよ。幾ら妖精術でも彼女の病を治す事はきっと出来ないから」
「出来ているなら既にどうにかなってるはずですからね」
妖精術は万能では無い。
傷を癒すことや地を揺らす事は出来るが、死んだ人間を蘇らせたり人間を操ったりする事は出来ない。
……いや、操るだけなら出来るか。もちろんそこに意思は伴わないけれども。
病を治すこともその一つだ。
妖精術は無から有を生み出すものであって、有から無を作り出すものではない。
特にそれが人体に関わるところであれば妖精術はその干渉を極端に少なくする。
それは何故か。
単純に、人間を本質とする妖精がいないからだ。
妖精の操る妖精術はその本質……妖性に左右される。その殆どは自然に由来するものばかりだ。
炎の揺らめき、水の流れ、風の遍在、地の変動。
そこに人間が関わる事は殆どない。
だからこそ、人間に干渉する術式は存在しない。
過去に何度か、試みがあった。
人間に干渉する術式の開発だ。
けれどそれを可能にする事はなかった。
なぜなら、妖精を自然で説明する事は出来ても、人間を自然で説明することが出来なかったからだ。
妖精術とは言わば自然に干渉する術式でもある。その根源が自然にあるのだから当然といえばそれまでだ。
だから自然に根源を持たない人間と言う種に妖精術で干渉する事は出来ない。
唯一の方法として、間に自然を介す事でその効果の一部を人間に齎す事は可能だ。
空気の振動を伝えないことで音を遮断し。光を捻じ曲げることで錯覚を引き起こし。
同じように血の流れを操ることで治癒を早めるのが治癒術式だ。治癒と言う大層な名前が付いているが、別に傷口を塞ぐことができるわけではない。
血という、水の親戚のような物質に干渉しているだけに過ぎないのだ。
傷を治せないのだから病を治すことも出来ない。
だからこの世界には病気が存在するし、祭りのような儀式も生まれた。
もし妖精術でどうとでもなるならば、妖精を祭り上げる儀式が存在し、妖精と人間は対等ではなかったはずだ。
「医者でもないあたし達に病気を治す事は出来ない。けれど彼女の事を想う事は出来る……」
「想ってるだけで伝わるなら、世界に平穏はありませんよ」
ニーナの声にどうでもいい言葉を返しつつ形を探す。
「……つまりその想いをどうにか形にして王妃殿下にお届けしたい、と言うことでいいですか?」
「そうなるのかしらね……。で、問題はその形よ。どうするのが一番いいか…………」
気持ちを届けるというのは存外難しい。
手紙に認めれば全てがそこに宿るかといえばそうでは無いだろう。
面と向かって話したとしても全てを伝えられる自信は無い。
さて、何がいいだろうか。どうすれば彼女に届くだろうか。
考えて、考えて、考えて…………。
やがてニーナとの別れである階段まで辿り着くと、彼女は小さく息を落として告げる。
「……とりあえず話は放課後にね。それまでクラウス君も何か考えておいて」
「分かりました」
彼女の言葉に答えてクラウスも教室へ戻る。
とりあえず縁起のいいもの……。
そんな風に思考を伸ばして、これからの授業を模索の旅へと摩り替えたクラウスだった。
* * *
卒業試験。
彼女の語った言葉が脳裏を過ぎる。
卒業。確かに今年度であたしはこの学院を卒業する。
卒業して、どうするのか。その事を考えていないと言えば嘘になる。
けれどどうすれば自分を納得させることが出来るのかと自問自答したところでいつも足は止まるのだ。
将来の夢。その言葉に返せる確たる意志を、あたしは持ち合わせていない。
ただ、このまま過ごせば順当に軍属だ。それはほぼ約束された未来。一度手放した場所。
流されて生きるのであれば、それ以上に楽な事はなく、それ以上に自分を見失う事は無いだろう。
だからこそ、自分に問い掛ける。
それでいいのかと。
秋のこの時期になって今後の進路を決めていないというのはある意味希少価値だ。
担任からも早くしろと言われるのは流石に苦痛だ。
そろそろ本気で決めなければ後悔するのは自分なのに……。
分かっていても今の時間に甘えていたいのは、あたしがまだ子供でいたいから。
過去に憧れた大人と言うものになりたくない自分が今ここに居る。その事実に気付いて駄々を捏ねているに過ぎない。
それこそ子供やることだと分かっているのに。
いつまでも子供のままで居られたら────
「元気ないぞー?」
「ん、うん……」
級友の声に上の空で言葉を返す。
そんなあたしに、呆れたように笑って言葉を掛ける。
「……そう言えばニーナ、卒業試験どれ受けるの?」
「卒業…………あぁ……うん」
「やっぱり治癒系?」
「多分」
級友の言葉に思考を浮上させて答える。
彼女の語る卒業試験とはこの学院を卒業する者に課せられる最後の試験だ。
筆記と基礎の妖精術の他に、その者が得意とする種類を一つ選んで評価を受ける。属性ごとに選べる種類は異なり、ニーナの得意とする水の妖精術は攻撃系、治癒系など五つ以上に分かれている。
ニーナが自信を持っているのは言わずもがな治癒系等。一度それで軍にも在籍したのだ。試験の突破は簡単なものだろう。
「ってことはやっぱりそっち系の職に就くの? それとも従軍するの?」
「……………………」
友の声に黙り込む。
そんなニーナの様子に彼女は困ったように視線を逸らして呻る。
気を遣わせてしまうとは情けない。けれどそうして困らせてしまうほどに、自分の中でも整理がついていないのだ。
「……従軍しないとして、どんな道があると思う?」
「…………え、っと。……普通にお医者さんとか? あ、あとフェアリードクターとか」
フェアリードクター。その名の通り妖精の医者だ。
この世界には妖精が数多に存在する。数え切れないほどの異種族たちは、独自の文化と生態系を持っていて、今でも彼女達に関する研究は終わりを見せない。
そんな分からないことだらけの存在に関わる仕事として、フェアリードクターが存在する。
普通の医者が人間の病気や怪我を治すように、フェアリードクターは妖精の体調を管理する職業だ。
当然といえばそれまでで、人間がそうであるように妖精も病気や怪我をする。そんな時、妖精に関する深い知識、医療に関する知識を使い、原因究明と解決を図る。
それが妖精の医者、フェアリードクターだ。
その数は少なく、中でも名医と呼ばれる存在は他国から声が掛かるほどだ。
ブランデンブルクでも幾人か知っている名前は存在する。国軍にも雇われ専属として働く者もいる、妖精と歩むこの世界において欠かせない職業のひとつだ。
「話題にはなりそうだよね、エルフのフェアリードクターって」
何処か茶化したようにそう告げる友人に少しだけ頭を持ち上げて率直に疑問を言葉にする。
「あたしなれると思う?」
「うぇ……? あー、どうだろう。あれってなるのに難しい試験突破しないといけないんじゃなかったっけ?」
「…………ま、あたしは馬鹿だけどね」
「そんなこと言ってないってっ……!」
自分で言っていて面倒臭いやつだと自覚する。そんなニーナに付き合ってくれる彼女に感謝をしつつ思考を巡らせる。
あたしの夢は争いのない世界だ。
それは過去に口にしたこともある。子供騙しな理想論。
その実現の為に、国軍と言う実力を求める場所に懐疑的になって……。
ならばその逆として傷を癒す仕事はどうなのだろうか。
昔、言われたことがある。病や怪我を治す者は、その者の心まで癒していると。
裏を返せば、心まで癒せなければ本当の意味で医者では無いと。
例えば医者やフェアリードクターを目指したとして、本当にそんなことが自分に出来るのか……。
考えて、立ち止まる。
「…………何かごめん。嫌な気分にさせて」
「そんなことないよ。悩んでるなら話してよ。力になるからさ」
「……ありがと」
優しい言葉に笑顔で答えれば授業の始まりを告げる鐘が鳴る。
何のために、誰の為に……。
胸の内に燻る思いに振り回されつつ、自分が本当に求めるものをようやく探し始める。
何か見つけられるだろうか。納得、できるだろうか。
答えのない問いを自分に向けて行く先も分からぬまま足を踏み出す。
────今の貴女にはまだ解けないわ
頭の中で反響した声に真っ向から勝負を挑むように。
* * *
放課後、生徒会室に集まった委員会の面々は顔を突き合わせて呻っていた。
話題は当然アスタロス王妃殿下のこと。
既に学院中では噂の中心で、誰が最初に言葉にしたかと言う疑問は意味をなさない。
流石にこの状況で別のところに思考を伸ばせるほど余裕があるわけもなく、クラウス達は難しい顔で納得を模索する。
「……あたしとしてはこの現状を押さえつけるより、手助けして王妃殿下に何か気持ちを届けたいと思ってる。もちろんある程度学院の雰囲気を改善した上でね。許可も取るし」
その許可を取る役目はきっとクラウスに回ってくるのだろうと。
いつものことだと考えることも放棄して日常だと受け入れる。
「何ができるかしらね…………」
続いたのはユーリアの言葉。特に反論がなかったところを見るにテオやヴォルフも賛成のようだ。
思考を具体的な案に入れ替える。
「何か気持ちのこもった物を届ける、のが一番簡単なやり方でしょうか」
「可能なら学院を挙げて一つのものにまとめてみたいのだけれども」
ニーナの希望はまだ纏まっていない。もし何か案があるのなら、直ぐに言葉にして引っ張っていってくれている筈だからだ。
そんなに難しいことだろうか? それともまだ形で悩んでいるのだろうか?
邪推して、それから切り捨てる。
それは彼女が考えることだ。益もない事に頼られてもいないのに首を突っ込むほどクラウスは暇ではない。
「ある程度大規模でもいいということだろう?」
「そうなりますかね」
ヴォルフの言葉に答えて具体的な景色を想像する。
学院全体が動かせるならば千人近くになる。そんな大人数で一つのものを作ろうと思うと意思の統一が大変だ。
出来る限り分かりやすく単純で、形として残るもの……。
「流石に個人でお金をかけるわけにはいきませんからね。学生の領分でとなるとまた少し大変ですが……」
「……一ついいか?」
「何?」
テオが提案を投げかける。
「詳しくは思い出せないんだけどよ、何かこういうのなかったか? 快復を願って贈り物をするっていう…………」
「………………オリヅル」
「それだっ」
小さく零したヴォルフの言葉にテオが答える。
あぁ、そういえばそんな風習があったか。頷いて思い出す。
確かあれはスハイルの文化だったはずだ。作り方ならきっとニーナが知っている。
長寿の象徴である鳥を一枚の紙から折るものだ。
「あぁ、センバヅルね。確かにあるわよ。けどそんなものでもいいの?」
「余り大事にしても迷惑でしょうし大丈夫かと。それに手作りですからね」
ニーナの言葉に思考を巡らせて可能かどうかを判断する。
センバヅル。オリヅルを千羽束ねることで出来上がる快癒祈願の贈り物だ。
学院の生徒が千人弱。一人一つ折ればいいだけで、時間があるならもっと沢山作ってもいいだろう。
費用も紙だけでいい。これなら生徒だけでなく学院全体を巻き込める。
「どうですか?」
「……悩むだけ時間の無駄よね。そうしましょうか」
「生徒会も巻き込んだ方がいいよな?」
「今ならまだ学院に残ってると思うよ」
「よし、校内放送行ってくる」
即断即決。有言実行。
その身軽さで彼は彼らしく動き出す。
「……もっと時間掛かるかと思ってた」
「王妃殿下だからこそ、彼女を慕う僕達の気持ちは固まりやすいんですよ」
「さすがこの国の主の最愛ね」
ローザリンデ・アスタロス。
この国に住んでいる人の殆どは話すこともなくただ遠くから見つめているだけだろう。
だからこそ、彼女のために何かできるとあらばきっと何の見返りもなしに行動に移せてしまう。
それほど彼女は尊く、理想なのだ。
「……水を差すようで悪いが一ついいだろうか?」
「何ですか?」
「今年卒業の生徒の協力だ。これからの時期忙しくなるだろう……。そう簡単に力を借りられるか?」
ヴォルフの疑問は確かにその通りだ。
直ぐに視線をニーナに向ければ、彼女は疲れたように笑って答える。
「大丈夫よ。殆どの生徒は進路が決まってるようなものだし、今決まってないのはきっと将来大物になるような奴だから」
言って、椅子を回し窓から外を眺めるニーナ。その仕草に何か引っかかるところを感じたクラウスは何かを問おうとして、けれどそれより数瞬早く耳が呼び出しのテオの声を捉える。
「……お手洗い行ってくる」
溜息一つ落としたニーナが席を立つ。彼女の背中を見送ると隣から声が上がった。
「ねぇクラウス……」
「先輩のこと?」
「…………うん」
さすがユーリアの勘だ。頼りになりつつ恐ろしい。
彼女の言葉に疑惑が確信に変わって視線をヴォルフへ向ける。
「……ニーナ先輩から何か話を聞いていませんか?」
「聞いていれば先程のような疑問を口にするか?」
「僕なら聞きますけど……」
どうでもいい事を答えればヴォルフはクラウスをじっと見据える。あぁ怖い。けれどまだ人間を辞めるつもりはありませんよ。
「ふむ、そうですか……」
どうでもいい相槌を打ちつつ少しだけ考える。
ヴォルフが心配して、ユーリアが疑問に思って。違う意味で察しのいい二人が言うのだからクラウスの勘も捨てたものではないのだろうか。まぁ勘が候補に挙がっても、きっとクラウスは最後の最後までその感情論を納得の理由として口にはしないのだろうけれども。
何にせよ、ニーナが何かを抱えているのは確かだ。
そしてそれは将来や夢──進路と言った部分に関係するところだろう。
クラウス達が口出しをする問題ではない。が、彼女の背中を見て一緒に歩んできた者として、もし彼女が望むのならば力になりたいと願うのは、きっとおかしいことでは無いだろう。
「まぁ僕にはきっと関係のないことですから、相談されるまでは関与しませんけどね」
「相変わらず薄情なこと」
「だから人間らしくないと言うのだ……」
ユーリアとヴォルフの言葉に痛いところを突かれつつ、表面上はいつも通りを装って。
そんなクラウスを両肩に腰を下ろす二人の妖精は目を合わせて呆れたように笑うのだった。
そんな一幕があって、ニーナ達は教員にも掛け合い幾人もの力を借りてどうにか学院全体を一つの気持ちで纏め上げた。それが生徒会室での会議からたったの一日。いやはや全く、彼女の人望には驚かされる。クラウスには到底真似できない。他人の気持ちを考慮に入れないなら話は別だが。
今回はその気持ちこそが一番大切なものだ。それを欠いては意味がなくなってしまう。
クラウスも苦手な分野といえど、王妃殿下には沢山の尊敬を抱いている。それから少しばかりの迷惑と……。
渦巻く思いは彼女に対する敬愛へと収束してクラウスをも動かす原動力となる。
そうして学院全体がアスタロス王妃殿下の事を想って動き出したのと時を同じくして、クラウスとユーリアの周りではまた一つ景色が変化した。
アンネが予定していた日より早く学院へ顔を見せたのだ。
直ぐに考えが至って納得を生み出す。
王妃殿下の沙汰だ。一番に話が行くのはもちろん伴侶たるヒルデベルトだろう。クラウスの耳に流れ込んできた噂はそこから漏れ出た一部分に過ぎない。
世界の会議ではあるが、その世界を支えるのは四つの大国。その中で問題があったとすれば会議が中断されたとしてもおかしくは無い。
それに彼女に関することだ。露草姫の名前で民草に慕われるように、その名前は他国にも轟いている。
ヒルデベルトの愛妻として。卓越した妖精術の行使者として。二重の意味で彼女の名前は世界で有名だ。
そんな人物の身に何かあったとなれば他国も心配はする。そんな風に余裕があるほど、今はまだ平穏な証。
幾つでも理由は見出せるがそこの真実を模索するだけただの苦労だ。そういう過程があってアンネが帰ってきたという事実があればいい。
クラウス達の前に顔を見せた彼女は少しやつれた様に見えたのはクラウスの目の錯覚だっただろうか。……彼に着いて行った先で何かあったのだろうか?
少しだけ邪推しつつ、机に伏せる彼女に声を掛ける。
「おはよう、アンネさん。何だかお疲れ気味だね」
「ん~…………。うん………………馬鹿なこと、して来たからね」
「何したのよ……」
心配そうに尋ねるユーリア。彼女の声に徐に体を持ち上げた彼女は、机の上で組んだ手に視線を落として独り言のように呟く。
「……使用人としてあるまじき事。お陰でクルサさんにこれでもかと説教された…………」
アンネの口から零れたハンスの名前に少しだけ驚く。
彼は怒らない事で有名な人物だ。彼が声を荒げているところを見た人は居ないとまで言われるほどに。
そんな彼がアンネの言動に厳しく当たった。
一体何をしでかしたのかと好奇心と興味が胸の内で疼く。
けれど具体的に言わない辺り彼女としても納得していることで、反省もしているのだろう。流石のクラウスもこれほどまでに傷心で元気のない彼女に追撃をするのは気が引ける。
「その後王妃殿下にお目通りして少しだけ話をしてきた…………」
次いで口にした言葉に思わず気が引き締まる。
直ぐに視線を辺りに向けて誰にも聞かれていない事を確認するのと同時、ユーリアが糾弾するように尋ねる。
「王妃殿下の体調はっ……?」
「えっ? ……あれ、何で知って…………。あぁ、そう言う事か……」
瞳に光を戻したアンネがユーリアに視線を向けて、それから考える間を開けて納得を生み出す。
「想像通りだよ。ちょっと噂が流れてて。因みに今学院はその話題で持ちきり」
「もう一日休めばよかった……」
頭を抱える彼女に小さく笑えば、溜息の後に小声で話し始める。
「…………とりあえず落ち着いてはいるみたい。詳しい事は私もよく知らない」
「そう」
胸を撫で下ろすユーリア。クラウスもとりあえず一安心する。
同時に彼女の言い方に少し引っかかる。
とりあえず。言葉通りに受け取るならそれは一時の平穏と言うことだろう。
余り想像をしたくないがその可能性も考えなくてはいけないだろうか…………。
脳裏を過ぎる嫌な景色を出来るだけ振り払う。
「……それで、学院巻き込んでどうなってるの? 噂止めてないんでしょ?」
「王妃殿下にセンバヅルの贈り物ができたらってことで動いてる」
「…………あーっと、折り方分かんない」
「あとで説明の紙を渡すよ。僕はもう覚えたから」
「うん、ありがと」
弱々しく笑うアンネの顔にまずは彼女の無事を記憶して。それから視線でユーリアを見れば、彼女も数日前に口にしていた糾弾は一旦先送りにするようだった。
そうせざるを得ないというか、流石にこの状況でアンネを攻め立てるのは気が引ける。とりあえずは保留だ。
「あ、鐘……。えっと、それじゃあまた後で」
「また後で」
それから、鳴り響いた鐘の音に自分の席に腰を下す。
始まった授業はいつも通りで、だからこそその空気は王妃殿下の噂を助長して落ち着きのない雰囲気を作り出していた。
日常は非日常の合間に存在するものだと何かの本で読んだ事がある。ならば今のこの慌しい空気も非日常と言う変わり行く日常の形の一つかもしれない。
学院の空気がアスタロス王妃殿下への純粋な気持ちで満たされて、その一つの目的の下に全ての者が手を取る。
これこそある種の平穏だと。クラウスやニーナ、エルゼが目指した光景で、そこに不幸や悪がいなければよかったといらぬ事を考える。
「──うぅ、何か変になった…………」
唸るアンネに小さく笑みを零せば、彼女はクラウスを可愛らしい上目遣いで睨み返してきた。変な気になるからやめなさい。
「数をこなすしかないよ。それに沢山作るよりも気持ちを込めて。それが一番大切なんだから」
「なるほど、だからクラウス君のは参考にならないのか……」
「参考にしようとしたアンネが間違ってるのよ」
「…………容赦ないね、二人とも……」
放課後、沢山の顔が教室に残ってオリヅル作りに時間を割いていた。
目の前で一枚の紙と格闘するアンネ。どうやら彼女は随分と完璧思考のようだ。
翼は均等な大きさで、裏地の白色が見えないように、いらぬ折り目をつけないように。
こういう事に関してはクラウス以上に神経質になる質なのだろう。
そんな彼女に向けてユーリアは薄く笑いながら答えつつ手を動かす。
そう言えば彼女もこの頃よく表情を変えるようになったと。春の、クラウスと言葉を交わしたばかりの頃は無表情一徹。まるでクラウスにそれ以外の表情を見せることが悪だと言うように、徹底していたようにも見えたものだ。しかし今では時折顔を綻ばせる事もあれば、クラウスの言葉の端に意地悪に返すこともある。……その殆どがクラウスのこれ以上ないほど真っ当で模範的な人格に対する言葉なのが少し引っかかるが…………。
「いつまでだっけ?」
「とりあえず明後日。千個を一つに纏める作業もあるからね」
「めんどくさー……」
ぼやくアンネは、けれど何処か楽しそうで。
そんな彼女のやる気にクラウスも今だけは心の底から彼女の事を思って折る。
「そう言えば二人とも時間はいいの? 委員会とかあるんじゃなかったっけ?」
「……もうそんな時間?」
「みたいだね。それじゃあ僕達は行ってくるよ」
「大変だねー」
「それが使命だからね。教室の事はカペラさんに任せてあるから何かあったら彼女に」
「イーちゃんが? 珍しいね」
「アンネさんが居なかったからね」
「……ヤなこと思い出させないでよ…………」
アンネに伝えるべき事を伝えると、ユーリアと二人生徒会室へ向かう。
目的の扉を開けばそこには既に他の顔ぶれが揃っていた。
今回のこの学院を挙げての動きには生徒会もしっかりと絡んでいる。そのため生徒会室は学院祭のときのように少しだけ窮屈になっていた。
「揃ったわね。それじゃあ始めるわよ」
相変わらず指揮を執るのはニーナ。まぁ彼女が突っ走ってくれる分、クラウスとしてもやりやすくはあるので満足だ。
「進捗はどんな感じかしら?」
「軽く目を通した限りだと順調そうだな」
「問題が起きるほど難しい事はしてないからね」
話の内容は途中報告と今後の方針の決定。当初の予定と比べて帳尻を合わせつつ計画を書き直す。
今日から数えて五日後には完成予定だ。休日を跨ぐ分少しだけ管理が面倒だが、そこをどうにかするのがクラウス達の役目。
「なら予定通り進めるわよ。今週中でオリヅルの作成は終了。週末を使ってそれらを纏めて、来週の頭に話を持っていく。クラウス君はそれまでに先生方との連絡をお願い」
「いつものですね。相変わらず人使いが荒いですよ」
「で、生徒会は────」
無視ですよね、そうですよね。
呆れる暇もなく受け入れてどうにかするのだと着地地点を見出す。
そうして会議をつつがなく終えて、解散の折に一つ爆弾を落とす。
「以上で何か質問はあるかしら?」
「……一つ連絡が」
「何?」
「僕が耳にした話では、王妃殿下の体調は今は落ち着いているようです」
「真偽は?」
「限りなく正しいかと」
「そう。まぁ変更は無いわ。今の事は……話さない方がいいかしらね」
「あぁ、わざわざ雰囲気を壊すこともあるまい」
ヴォルフの言葉に頷いて話をここだけに留める。
そんな一幕を挟んで会議もようやく終わる。丁度、放課後の終わりを告げる鐘が鳴り響いて肩の荷を一つそこに下ろす。
「じゃあ帰るとするか」
テオの一言でそれぞれに廊下へと出て行く。話しながら昇降口のところまで行くとアンネとレベッカが肩を並べて待っていた。
「ご一緒してもよろしいですか?」
断わる理由もなく頷けばアンネがするりとクラウスの横を陣取る。そういう誤解を招く事を人前でするんじゃありません。
けれどきっとこれこそが正しい景色。有り触れた日常の有り触れた光景。
その輪の中に自分がいる事に目を瞑れば、いつものように変わらない日常を肌で感じることが出来たクラウスだった。
それからの日々は慌しくも充実していた。
休み時間の度にあちらこちらへ歩き回って話をつけ、舞い込んで来る問題に解決策を提示して……。
ともすると学院祭の再来のように忙しい時間は、けれど確かな手応えと共に時を刻む。
週末、学院の休みには許可を取り、有志を募って学院の一室でオリヅルを千個一纏めにする作業に取り組んだ。
流石にオリヅルを一人一個でセンバヅルを一組だけと言うのは寂しかったので、出来る限り沢山。その分、管理が大変だったが集めてみれば壮観な物量だった。
休日の作業には自由参加であったにもかかわらず生徒の半分以上が顔を見せ、ちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。
そんな週末。騒がしくも楽しかった時間の中で、どうにか二桁近い数のセンバヅルを完成させて一息吐く。窓から外を見れば陽は傾き、校庭を夕日色に染め上げていた。
冬が近づき日も短い。陽が落ちれば直ぐに寒くなるし暗闇の危険も出てくる。
今回の教室の利用許可もしっかりと時間制限が設けられているし、そろそろその期限を迎える。
今日の予定としては、この後寮に戻って頼んでおいた調べ物の結果をフィーナとアルに聞くだけだ。彼女達がいなかった分少しだけ寂しかった気がするのはここだけの話。
余計な雑音が少ない分集中できたのだからいいとしよう。
胸を満たす満足感に溜息を落とせば頬に冷たいものが当たって思わず肩が跳ねた。
「ぅがおっ!?」
振り向けばそこにいたのはアンネ。彼女はおなかを抱えて笑いながらクラウスを指差していた。そんなに笑われると少しだけ許せる気がする。
しばらく床に蹲るようにして笑っていた彼女は、目尻を拭いながら床にぺたりと座ると意地悪な笑顔で手に持った飲み物を差し出してくる。
「いやー、いいもの聞けた。……はいこれ、クラウス君の分」
「……僕だって人間なんだから驚きくらいするよ」
笑い疲れたように長い息を吐く彼女に言い返しはしてみたが、どうやらその根は深かったようで顔を逸らしてはまた笑い始める。どうやら彼女の笑いの沸点の弱点を突いたらしい。
笑い転げるアンネに呆れた視線を送りつつ受け取った飲み物を口にする。喉を通った清涼水は先程までの達成感を宥めつつ、クラウスの意識をいつもの世界へと引き戻してくれた。
やがて笑いの渦から戻ってきたアンネが、疲れたとでも言うように腰を下ろすクラウスの背に自分の背を預けてきた。
「いいね、クラウス君今すごく人間っぽい気がするよ」
「それはどうも。……で、こんなところユーリアに見られたら誤解されるけどいいの?」
部屋の中を見回してユーリアがいない事を確認する。席を外しているのだろう。
「…………そろそろもう一回誤解の火種でも蒔こうかなって」
「僕は手入れしないよ?」
「いいよ。…………これは私の我が儘だから……」
呟きに沈黙を返せば、更に深く彼女が体を預けてきた。
「それにほら、あの辺でも同じようなことしてるし」
「……あの二人は付き合ってるだけだよ」
「知ってる」
アンネの示す方に視線を向ければそこにはクラウスの級友である男女が二人。女生徒が男生徒に覆い被さり耳元で何かを囁いている。
仲睦まじいことだが、できればクラウスの目に付かないところでやって欲しいものだ。
「…………やってあげようか?」
「後で辛くなるのはアンネさんだよ?」
「言い訳は衝動的にでいい?」
言うが早いか、彼女はこちらに向き直る間を開けてクラウスの頭をその胸に抱き寄せた。
後頭部に柔らかい感触が伝わって身を硬くする。
逆さまの世界でアンネの顔を見上げれば、彼女は何処か嬉しそうに微笑んでいた。
「……クラウス君、顔赤いよ?」
「人の熱気で暑いだけだよ。それからそう簡単に自分を売らない。女の子がしていいことじゃないよ」
「紳士だね。勘違いしちゃいそう……」
「もう一回したでしょ」
先程の感触を脳裏から消そうと軽口を叩けば頬を引っ張られた。
「こんなことなら何も知らないままでいたかったなぁ……」
優しくて痛い笑顔。クラウスが何も出来ない事を分かっていて、こちらの気持ちを掻き乱すその表情は彼女なりの仕返し。
それはクラウスの心を嫌になるくらい掻き乱して、クラウスに似たような気持ちを言葉にさせる。
「何も知らないでいられたら、僕達はきっとこうして話をしてはいないよ」
「そうだね。だから遣り切れないんだよ」
頬を引っ張った指が優しくクラウスの頤を撫でる。
そんな小さな体で危うい魅力を武器にする彼女は、悪女と言うには純粋すぎて。
水色の瞳が少しだけ潤んだ事に驚いたのも束の間。耳がガタンという音を捉えて音のした方に視線を向ける。
見たのは部屋の出入り口。けれどそこには誰の姿もなくて、音の正体を探っては再び満ちた教室の喧騒に隠れていく。
「…………大きな誤解、だね」
「小さな秘密、でしょ」
アンネの声にくすぐったい言葉を返せば、彼女はくすりと小さく笑ってクラウスを解放した。
体を起こして座り込めばアンネがその背中に頭を置いて呟く。
「ごめんね。これが最後だから」
「女の子の最後は信用しないから大丈夫だよ」
「あはっ、格好いいね、それ。惚れちゃいそうだよ、バカっ」
クラウスの背中を拳で弱く殴った彼女は、それから立ち上がると廊下に出て行く。
入れ替わりで部屋に入ってきたニーナが解散の令を出すと一層大きくなった声と共に各々が片づけを始める。
クラウスもそれに習って腰を上げるといつの間にか近くに来ていたニーナが声を掛けてきた。
「さっきクー・シーさんとルキダさんが急いでどこかに向かってたけど何かあった?」
「……いいえ? 何も知りませんけど」
「そう。…………あぁ、後で話があるから少し時間ちょうだい」
「分かりました」
いつもの仮面で答えて廊下の方を見つめる。
アンネのことだ。きっと今以上にややこしくして大きな火種を作ってくれるに違いない。
巻き込まれる身としては面倒臭いことこの上ないが、彼女の用意してくれる舞台だ。その必要性だけは納得して目的の場所を手に入れるとしよう。
彼女の献身的な言動に甘えつつそれさえも利用して目的地を設定する。
可能性の未来が一つの景色に絞られていく時間の中で、クラウスはクラウスらしく自我を押し通すだけだ。
そんな事を考えながら片付けを終えて手伝ってくれた生徒を見送ると生徒会室へと向かう。
学院の使用許可を得るに当たり、しっかりと報告書を作成しないといけないのだ。とは言ってもそこまで堅苦しいものでもなく、どんな事をした、こんな問題があった等の日誌のような簡単な内容だ。
疲労感と満足感と。体の内側で鬩ぎ合う二つの気持ちに足を任せて扉を開けば、部屋の中にはニーナの姿だけがあった。
「テオたちはどうしたんですか?」
「用事があるんですって。クー・シーさんは捕まえ損ねたの。二人だけど充分でしょ?」
ヴォルフはコルヌ関連だろうか。テオの方はクラウスも聞いていない。個人的な事なのだろう。
ユーリアはアンネとの先程のことで取り込み中か。こんな事になるならマルクス辺りの手を借りればよかったと小さく後悔。
一つ息を落としてソファに腰を下ろすと書類に筆を走らせ始める。
「……それで、話って何ですか?」
今日の事を思い返しつつ体のいい言葉を選んで記していく。その傍ら、先程ニーナに掛けられた言葉を掘り返す。
すると、部屋に響いていた筆の音が片方止む。見ればニーナが顔を伏せて何かに悩むように手元を見つめていた。
僅かの沈黙の後、ニーナが呟く。
「……あの人の……学院長の言葉覚えてる?」
「どれをですか?」
「卒業試験」
あぁ、そのことかと。クラウスも文字を綴る筆を一度置いてニーナに視線を向ける。
「あれがどうかしましたか?」
「……あたし学院を纏めたわよね? あの人の言った出来ない事をやって見せたわよね?」
問い掛けは自分に向けてか。机の上で組んだ手が一層強く握られる。
「なのに、何でかしらね……。あの人の言う試験に合格する気がしないのよ……」
恐らく彼女は気付いているのだろう。気付いていて、それを言葉にしたくないから、別の納得が欲しいのだ。
けれど目を背けていい問題では無いと。エルゼの出した問いはニーナに必要な機会だと、彼女に告げる。
「……それは先輩が学院を纏め上げたわけでは無いからですよ」
「っ────!!」
真実は単純だ。
彼女はクラウスを頼った。
単純にして、避けられない彼女の我が儘だったのだ。
「これ以上は敢えて言葉にしなくても納得してもらえますか?」
「…………えぇ、痛いほどに」
悔しさを噛み締めるように言葉を吐き出すニーナ。
彼女の胸に蟠る感情に当たりをつけてそれを指摘する。
「でしたら一度諦めてください。目標と敵は同じものではありませんよ」
クラウスの言葉にディルクがニーナの事を見つめる。
彼もきっと心配なのだろう。いつ彼女が道を踏み外すかと。理想に溺れて現実を見失ってしまわないかと。
そこまで危うい場所に、彼女は自分を追い立てているのだろう。
流石に彼女をクラウスと同じ道に引きずり込むのは申し訳ない。これはクラウスの道で、クラウスの野望だ。
クラウスのやり方で──感情も無く他人を利用して何かを変えようなど、間違った道だ。
それを自覚しているから、クラウスはそれを自分の正義だと振りかざすことが出来るのだ。
「……一つ聞いてもいいかしら?」
「何ですか?」
声に答えれば、彼女はクラウスを見据えて糾弾するように尋ねる。
「クラウス君はどうして自分の考えが正しいと言えるの?」
真っ直ぐな問い。クラウスを揺るがしかねない疑問。
けれどその質問に対する答えを、クラウスは昔に捨てている。
「僕以外が全て正しいからですよ」
それはクラウスの野望の中核をなす言葉だ。
クラウス以外が正しいから──否、クラウス以外を正しくするために、クラウスは望んで悪役を演じているのだ。
「……そうね…………。あなたの答えはいつだって新しくて、間違っているわ」
「正しい間違いは、対外的な正義を生み出すんですよ」
笑顔で答えれば、ニーナは自分自身を信じられる。
クラウスが間違っているから、自分の気持ちは正しいと。
だからクラウスは最後まで悪役を演じるのだ。
それがいつの日か、世界に対する絶対悪になるようにと信じて────
「本当に僕が行かなくて大丈夫ですか?」
「えぇ。これはあたしの問題だもの。答えもしっかり用意したし」
生徒会室の鍵を閉めながら尋ねる。
返ったニーナの言葉は大きな自信と、ほんの少しの情けなさに彩られていた。
「ありがとね、それからごめん」
「僕は謝られるような事をされた覚えはありませんよ」
「……クラウス君はもう少し他人の気持ちを考えるべきだと思うわ」
「考えているからこそ、利用できるんですよ?」
言葉を重ねれば彼女はむっとして踵を返した。
これが正しい悪役です。そして、間違った正義です。
だからこんな風にならないでください。貴女はそれを選べる強さを持っているのだから。
去って行く背中にそんな事を思いながら最後の蹴りを入れる。
「先輩っ」
「何かしら?」
「先輩にとって、夢とは何ですかっ?」
クラウスがかつて一度だけ憧れた背中。
自分の世界を持って、自分が正しいと胸を張るその旅路。
彼女のその生き様に近付きたくて、クラウスも自分らしさと言うものを認識したのだ。
言わばニーナはクラウスの心の目標だった。その行く先は、今では少し違えてしまったけれど……。
彼女がクラウスを気に掛けてくれているように、クラウスだって彼女を気にしていたのだ。
そんなエルフな先輩の、生き様の中核。彼女の道を作る根底の理想。
それは何だと、純粋に問う。
「────あたしがニーナ・アルケスであることよっ」
その曲がらない信念に思わず心が震える。
こんな彼女だからこそ、僕は憧れて自分を見つけ、そしてそれが道を踏み外すことだと確信したのだ。
それが何より、彼女の理想を叶える事に繋がり、知らず貰った恩を返す道だと気付いて。
「格好いいですね。だから先輩は、間違えない──」
「当たり前じゃないっ。だって新しい道は間違った先にしかないのだから」
そうして、確信する。決定的に、違える。
彼女の望む理想──争いの無い世界は、クラウスの理想と交わらないと。
この胸にある景色こそが、クラウスが目指すべき夢なのだと。
この世界は、間違っている。
* * *
彼に語った言葉は、揺るがない真実だ。
あたしはニーナ・アルケス。エルフであり、あたし個人だ。
何を迷うことがあるだろう。
自分を信じるのは、当然のことだ。
だからあたしらしく無様な生き様を描いていけるのだ。
自分の道は自分で拓くもの。よく言われる言葉で、使い古された言葉で。だから正しい言葉だ。
ではその本当の意味とは何だろうか?
あたしはその問いに、胸を張って答えることが出来る。
自分の意思で、他人に頼ることだ。
この雁字搦めな世界で、一人ではきっと何も出来ない。
だから無意識に他人に頼って、他人に認められて生きていく。
けれど他人に頼ることと、他人が手を差し伸べてくれる事は違うのだ。
結果ではない。そこに自分の意思があるかと言う過程。
その気持ちが無ければ、その人が歩んできた道をその人の物だとは決して言えない。認められない。
だから選ぶのだ。
正しいと信じて、間違いのない間違った道を。
いつだって新しい道は未開の中にしか存在しない。
未開に足を踏み入れる事を間違いだと言うならば、この世に正しい事は存在しない。
だからこそこの世界には間違いが存在するのだ。
「失礼します」
変わらない声音で扉を押し開いて彼女を見据える。
エルゼ・アルケス。
あたしの母親にして、この学院の長。あたしの道に疑問を突きつける者。
「学院長にお話があって来ました」
「何かしら?」
「学院を挙げて、アスタロス王妃殿下への進物をお届けしたく、その許可をいただけませんか?」
その壁に、信じる答えを持ってぶつかる。
「……卒業試験」
「不合格だと分かるからこそ、こうして話を持ってきているの……」
黄金色の瞳が見開かれる。
次いで彼女は視線を落とすと言葉を紡ぐ。
「無理だったでしょう」
「……うん。あたしは逃げてたんだ。甘えてた。頼めば力を貸してくれる人がいたから」
答えれば悔しさと共に納得することが出来た。
「でもだからこそ、気付いたよ。これはあたし達の自己満足で、我が儘だって」
「生徒の我が儘を一々聞いていたらきりが無いわ」
「知ってる。だからこれはあたしのお願い。……お母さん……に、する…………娘としてのお願い」
怖かった。たった一人の親に、拒否されることが。
だから今まで、素直に振舞えなかった。
けれどそうすることが正しいのだと。そうして頼る事は、何も恥ずかしいことではないのだと。
だって一人で生きていく事は出来ないのだから。
「王妃殿下に届け物がしたいのっ。力を貸して、お母さんっ!」
愛情無しに、生きていく事は出来ない。
「──子供の願いは、親の夢。昔一度だけ話したときに、リンダに言われた言葉よ。今になってようやくその意味が分かった…………。母親失格ね」
「だったらあたしは、娘失格よっ」
「それは一大事ね、貴女はワタシの娘なのに」
「だからこうして頑固に育ったんだよ……!」
笑顔で伝えれば、彼女は嬉しそうに笑って頷いた。
「任せなさい。お母さんが何とかしてあげる」
いつまで経ってもあたしは彼女に勝てないだろう。
なぜなら──母は強し、だからだ。
* * *
「ただいまー……」
「お腹がすきましたっ!」
扉を開け、挨拶をすれば最初に返って来たのは聞き慣れた相棒の声だった。
「……妖精って食事の必要性無いよね?」
「わたしクォーターですからっ」
それを答えとして胸を張るのはどうなのだろうか。
考えつつ直ぐに夕食の準備に取り掛かる。そうして手を洗ったところでもう一人の声が無い事に気がつく。
「アルは?」
「本読んでます。声かけたんですけど聞こえてないみたいで……」
「フランって耳元で言えば答えてくれるよ」
どうでもいい解決方法を提示しつつ記憶を旅する。
そう言えばアルは昔から集中力は高かった気がする。考え込むと周りが見えなくなるというか、その世界だけで自分の中を満たしてしまう、彼女の癖のようなものだ。
決めたことには一直線。
そんな姿を思い出して少しだけ懐かしく思う。
こうして過去の事を思い出せる自由。当たり前のことが少しだけ嬉しい。
アルのお陰──所為──でクラウスは記憶に封印を施されていた。その封印の中に、アルと過ごした時間全てが入っていて、だからクラウスは少し前まで自分の過去でさえ正しい事を知らなかった。
彼女が封印の際に選んだ断片的な記憶。
交わした言葉と思い出せない影を求めて、クラウスはアルを探していた。
そうして取り戻した記憶。幼い頃の、故郷での記憶。
思い返せば────嫌なことばかりだ。
「クラウスさん、今日は何を作るんですか?」
「何が食べたい?」
「何ができますか?」
嫌な事を望んで思い出すのは愚か者のやることだ。
それに既に終わった過去のこと。その時に戻ることも出来ないのに悔やんだって仕方ない。考えたって、仕方ない。
脳裏を過ぎった幾つかの光景に直ぐに蓋をして頭の奥にしまい込む。
いっその事アルに辛い記憶を封印でもしてもらおうか。
考えて、けれど直ぐに頭を振る。
そんなことしたって、過去が消えるわけでも現在が変わるわけでもない。
クラウスはクラウスのままで、ただ嫌な事を忘れようとしているだけだ。
だったら足掻くだけ無駄。そういうものだと達観して、できる限り思い出さないようにするだけだ。
少しだけ故郷の景色を思い出して、親の顔を思い浮かべる。
そういえば夏は顔を見せに帰らなかった。忙しさを理由に逃げたのだ。
その理由も、今なら納得できる。
自分の知らないクラウスを知るのが怖かったから。
クラウスの行動の理由は、いつだってアルが関わっている。それほど彼女の存在は大きい。
そんな彼女と再会して、幾つもの話をして。記憶の釜を開けて……。
だったらもう、故郷から逃げる理由も無い。
近いうちに……冬の休みにでも顔を見せに行くとしよう。
「あれ、クラウス帰ってたんだ?」
「さっきね。何か面白い本でもあった?」
「……少しなら」
そんな風に個人的な予定を立てていると、いつの間にか近くに来ていたアルが声を掛けてきた。
手元はフィーナの希望で鍋物の準備。確かにそろそろ冬も近づき寒くなってきた頃合だ。今年はこの辺りでも雪が見られるだろうかと、その景色を楽しみにしつつ雑談に花を咲かせる。
「何読んでたの?」
「…………クラウスの持ってる小説」
「任せておいた調べ物は?」
「したわよっ。暇だったからちょっと手を伸ばしたら……予想外に面白くて…………」
答えるアルが恥ずかしそうに頬を染めて視線を逸らす。
そんなに気にすることでもないだろう。娯楽は彼女達の栄養源だし、クラウスだっていつも気を張っているわけではない。気分転換だって立派な時間の過ごし方だ。
「よかったら少しの間貸そうか?」
「……クラウスが、いいなら…………」
「それで今日のお返しになるなら」
「ならないわよっ!」
怒った風に口にしたアルは、けれど何処か嬉しそうに笑って本の方へと飛んでいく。
その小さな背中が少しだけ羨ましくて見つめる。
「──クラウスさん、お魚…………どうかしましたか?」
クラウスの手伝いをしていたフィーナが尋ねて来る。
「…………何でもないよ。次はそっちの野菜を頼める?」
「分かりました」
笑顔で答えれば、彼女は深くは追求せず手伝いへと戻る。
そう、何でもない。
ただ単純に、何事にも縛られない妖精という種族が、羨ましかっただけだ。
そう納得すればいつも通りに戻れた気がした。
「そう言えば調べ物の報告、どうしますか?」
「食べ終わってからでいいよ。お腹すいてるんでしょ?」
「そうですよねっ。何は無くとも腹ごしらえですよ!」
そんな彼女達の笑顔が見たいから、クラウスはこの夢を叶えたいのだと。




