第五章
翌日、教室へ向かうとリリーが待っており、便箋が一封渡された。何事かと書かれた内容に目を通せば、そこには手書きで放課後の予定が綴られていた。
筆の調べは上々。記された文言は、アスタロス王妃殿下への面会の日時。
どうやら昨日あの後、直ぐに約束を取り付けられたらしい。
想像して、その景色と同時に未来が形作られる。
放課後。それも今日だ。
早いに越した事はないが流石に気持ちを纏める時間は足りないか。
急いた気持ちが形を求めて暴れ出す。
もう言い訳はいい。今できる事をやるだけだ。
荷物を下ろすとその足を職員課へ向ける。扉を叩いて無理を承知で頼み事を口にすれば、教員達は笑顔で頷いてくれた。
後は何ができるだろうか…………。
巡る思考は際限なく遣り切れなさを生み出して形を求める。
何をどれだけ集めたってきっと気持ちのはんぶんも伝わりはしない。
けれど少しでもその量を増やすことが出来るなら、ただ我武者羅に求めるのも悪くは無いのかもしれない。
何も出来ないことが悔しいと自分の無力さに歯噛みして足を出す。
せめて後一つ────
思いは時間を忘れさせて体を動かす。
「……クラウス。少し落ち着きなさい。そろそろ授業が始まるわよ?」
そんな風に足りない時間を恨めば、肩上からアルがどうでもいいことのように呟く。
今日ほど学院の授業が鬱陶しく思った事はないと。
渦巻く気持ちを詰まった息でどうにか整理して教室へ向かう。
足を踏み入れた教室はざわめきと噂と真実がごちゃ混ぜになって、落ち着きの無い煩雑な空気を作り出していた。
クラウスの姿を見つけた級友が数人、声を掛けてきたところで教員が入ってきて声を飛ばす。
返った生徒の不満の声に困ったような笑みを浮かべる教員も、やはり何処かいつも通りを欠いていて。
仕方の無いことだと割り切ればどうにか席に座る自分を見つけることが出来た。
そうして時間は刻々と未来を過去へと書き換えて。
授業が手につかないのは誰もが一緒。中には担当する教科を投げ出して生徒との会話に授業全部を割いた気前のいい教員もいたほどだ。
教師としてそれはどうなのかと少し疑問に思ったが好意であるならば何も言うまい。何よりクラウスにとっても気持ちを整理にするには必要な時間だった。
何ができるか、何をしたいか。
歯止めの利かなくなった空気が箍が外れる一歩手前まで競り上がって、言葉と音と思いを重ねる。
それまで委員会や生徒会が押さえつけてきた生徒達個人の気持ち。
それらがどうにか形になりたいと暴れて混ざっていく。
この国を象徴する人物への敬愛だ。
何か一つに纏めることなど、きっと出来はしない。
センバヅルと言うやり方が間違ったというつもりは無いが、この纏まりの無い気持ちの本流もまた正しいあり方なのだろう。
届けたい気持ちと言葉が溢れて。
誰かが示し合わせたわけでもなく、昼休みには全校生徒が多目的会館に集まっていた。
全く、人の感情と言うものは理解なら無い。
だってそれが人間一人では制御できないのだから……。その怖さがクラウスが抱く否定に繋がったのだと。
けれど全てを否定するのも間違いかもしれないと。
クラウスは常々考えていた。
悪がいなければ正義を掲げられないと。だから悪役になろうとした。
けれど悪など無くても、本当に信じられるものが心の中にあるのなら、そこには正しい行いが……正義が存在するのだ。
そんな存在は、一握りに過ぎない。
一握りに過ぎないからこそ、悪にならない何かがそこには確かにあるのだ。
「あー、お前ら。ちょっといいか?」
拡声の術式封印石を通したテオの声が会館内に響き渡る。
全ての生徒が同じ気持ちを胸にテオの声に視線を向ける。
「これ以上騒がしくなると色んな所に迷惑が掛るからな、そろそろ収拾つけるぞ? いいか?」
嫌だという声は、偶然か一つも挙がらなかった。
静まり返った館内を見渡して頷いたテオは真摯な声音で告げる。
「……色々やりたい事はあるだろう。俺だってそうだ。けど全部にかまってたらきりがない。だから一つ形を用意した」
幼馴染のよく通る声に館内が一層緊張する。
「……色紙だ。寄せ書きだ。これから色紙を回す。一人一言ずつでいいからな? ……って言っても聞きゃしねぇだろうけどよ。出来るだけ短く、全員分な。頼むぞ?」
行き場を求めて彷徨った千人分の気持ちが咆哮となって響き渡る。
煩いほどの雄叫びに肩上の相棒は思わず目を瞑って耳を塞いだ。
何をやったって満足はしない。けれど納得のいく形を求めて各々が筆を取る。
「……すごいですね」
「楽しいでしょ?」
「……はいっ!」
フィーナの嬉しそうな声に笑顔を浮かべれば、心の底から笑えた気がしたクラウスだった。
当初の予定より一日ずれて事が運ぶ。
予定の変化はクラウスにとって対処しなければいけない問題だが、必ずしも悪い方向へ転がるとは限らない。
ニーナのお陰で学院との交渉が一日早く終わり、国への日程の確認を早めることが出来たことで、直ぐに開いていた日程に予定を入れることが出来た。
それが丁度今日。最初の予定通り行動していれば、学院に最後の確認を取っていた時間。前倒しになって開いた時間が、丁度国の予定と噛み合って直ぐに行動に移せることとなったのだ。
こればかりは僥倖と言うほか無い。
きっとフィーレスト以外の学び舎や、多くの人物が彼女の身を案じて動いていることだろう。そんな多忙で余裕の無い時期に偶然時間を得られたことにはただ感謝だ。
もしこの機会を逃していたらと思うと少しだけ怖くなる……。
そんなこんなで、昼休みに生徒全員で書き上げた寄せ書きの色紙とセンバヅルを持って、僅かの時間を貰う為にクラウス達はブランデンブルク城を訪れていた。
どう気を回してくれたのか、何の目的があってか……。届けるのは学院伝、よくても学院長が代表して持っていくものだと思っていたクラウスは、今でもまだ何故自分がここにいるのかが理解できない。
「……流石に緊張するわね」
「緊張しない方が失礼だろ」
隣に立つユーリアとテオが少しだけ震えた声で零す。
今回は国の方から呼び出しがあったわけでも、何か命を貰ったわけでもない。
純粋に厚意の気持ちだけで行動を起こして、我が儘を大人達に聞いてもらったに過ぎないのだ。
言わばこれはクラウス達生徒の独断。
ただお客様として──彼女を敬愛する者として今ここに立っているのだ。
「さて、準備はいいかしら? とは言っても、時間に限りがある以上腹は括って貰わないとだけど」
「……一ついいですか?」
深呼吸一つ。それからニーナに向けて渦巻く疑問を問い掛ける。
「何?」
「どうして僕達が直接? 学院長は何か言ってました?」
クラウスの言葉に、ニーナは考える間を開けて答えてくれた。
「…………あの人は、会わせる顔がないかららしいわよ」
「……そうですか」
欲しかった答えでは無いと胸中でぼやいてとりあえずの納得をしておく。
学院長──エルゼ・アルケスは過去に一度世界を変えようとした。
エルフと言う存在を世界に知らしめ、そこから世界を覆そうとした。
けれどそれは幾つもの障碍によって成されなかった。
そうして彼女は、夢を諦めた。
国賓としてこの国に生きるエルゼは発言力こそ強い。けれど戦争の幕引きに関与した客であって、人質であるから、ブランデンブルクとしては幾ら納得できたとしても認めてはならないことが存在する。
彼女はその、国の為と言う理由で、世界に対する言葉を封じられた。
諦めた、と言うよりは諦めざるを得なかった、と言った方が正しいだろうか。
世界はいつだって正しい事を求めている。その正しい事を証明しようと彼女は尽力して、その中できっとローザリンデとも言葉を交わしたのだろう。
片や世界の理を覆したくて。片や国を……世界を支える者として。どこかで共感した二人は共に同じ夢を掲げたのかもしれない。
けれどそれは叶わなくて……。
ローザリンデを巻き込んでまで失敗した彼女は、きっと今でも負い目を感じている。
だからニーナの語った言葉も、確かに真実なのだろう。
その彼女が歩んだ道を、今度はクラウスが進んでいる。
彼女の手助けを借りて。幾つもの融通を味方につけて。
失敗したエルゼが力を貸すのだから、クラウスは失敗してはならないと、彼女自身の生き様さえも教訓にして見せて、クラウスに助力をしてくれている。
今回のこれも、きっとその一部。
「……何だか利用されてるみたいで僕は余りいい気分ではありませんけど…………」
「今まで利用してきたその報いだ」
「僕は悪い事なんて一つもしてませんよー」
「当たり前よね。それが悪いとは思わないのだから」
ヴォルフの言葉にアルの追撃。
心地いい糾弾に正しい悪役のあり方だと胸を張れば隣のユーリアがいつものように溜息を零してくれた。
お陰でクラウスも胸の痞えを取り払う。
「んじゃ、行くとするかっ」
テオの言葉に頷けば自然と足が前へ出た。
門を守る妖精騎士に用件を伝えて城内へ入ると。城の出入り口に見慣れた顔を見つけて思わず胸を跳ねさせた。
「あれ、アンネ?」
「案内係だよ。皆さんも、よろしくお願いします」
随分とあっさりした挨拶に腰を折る仕草が加わる。
驚きはテオ達に限らずクラウスにも。
まさかアンネの方から行動を起こして来るとは思わなかった。
アンネのヴァレッターとしての地位は、クラウスとユーリアしか知らない。
知られていないから役立っていた立ち位置だ。それをニーナ達の前で公言するという可能性は、クラウスが提案しない限りないものだと思い込んでいた。
迂闊だったと叱咤すればそれまで、直ぐにクラウスの頭は使える駒として彼女の立ち位置を再配置していた。
「その腕章……確かヴァレッターだったかしら?」
「はい。まだまだ未熟者ですけど、ヒルデベルト国王陛下の元にお仕えしております」
崩さない姿勢は使用人のもの。
水色の視線が何処か楽しそうにクラウスを盗み見る景色にやられたと溜息を零す。
隣を見ればユーリアが瞳に炎を灯してアンネを睨んでいた。これはクラウスも巻き込んで説教だろうか。面倒臭い事になった……。
けれどそれもまた、アンネの思惑かと。
クラウスに対する仕返しと、最大限の助力。
怒るに怒れない彼女の強かさに尊敬の念を送る。
「積もる話はまた今度に。ご案内いたします」
悪戯に、小悪魔に。
踊るようにしなやかな仕草で踵を返した彼女は、随分と様になっている気がしたクラウスだった。
彼女の案内について豪奢な廊下を歩く。
その最中、クラウスの脳裏を過ぎるのはアンネの役割だ。
アンネは委員会にとって秘匿された立場の人間だった。
だからこそクラウスも使いやすかったのだが、それがこうして姿を見せるという事は意味がなくなってしまうのだ。
クラウス個人の人脈から、学院、国を巻き込んだ人物へ。
彼女の視点からしてみればその変化は言葉以上に大きい。
まずクラウス個人への肩入れが難しくなる。
国から命を任されればそちらを優先させなければならなくなるし、彼女の行動をクラウスが制限すれば今度はクラウスが問題になる。
つまりクラウス個人の飛び道具として利用できなくなったのだ。
なってしまったものはしょうがないが、少しだけ惜しい。
何せクラウスが暗躍をし辛くなるのだから。
きっとそれをアンネは知っていて武器にした。クウラスを否定する為の正義として振り翳した。
ようやく彼女としての立ち位置が確立した……。
そういう意味ではクラウスにとっても得だが、まだ満足していなかったクラウスとしてはやはり勿体無い気がする。
けれどいつかはこうなった景色だ。彼女が言い出さなければクラウスがそうしろと言っていた筈の未来。
それが少し早くなっただけに過ぎない。
それに彼女も何か理由があって自分の存在を誇示したのだろう。
ならばそこを理解して、利用するのがクラウスに出来る唯一。
全てはクラウスの野望の為に────
「……失礼します」
そんな事を考えていると扉を叩く音が廊下に響く。見れば既に扉が押し開かれていた。
気持ちを入れ替えて一歩を踏み出す。
踏み入った部屋の嗅ぎ慣れない病のにおいに少しだけ嫌悪感を抱きながら彼女の傍に跪く。
「いらっしゃい。よく来てくれたわね」
頭を垂れるその上から、アスタロス王妃殿下の柔らかい声が紡がれる。
気のせいか、その音は前に彼女に会った時より弱くなっている気がした。
「顔を上げて楽にして頂戴。折角のお客さまだもの、おもてなししないとね」
楽しげに笑って告げる王妃殿下の声にゆっくりと顔を上げる。
そうして目にする、彼女の姿。
変わらない白縹の長髪に線の薄い輪郭。今にも崩れ落ちてしまいそうなほど儚い姿に、思わず息を呑む。
どうして彼女でなくてはならないのか。
そんな疑問が渦巻いては、答えを求めて暴れ出す。
「……さて、今日はどういったお話を持ってきてくれたのかしら?」
「国立フィーレスト学院より王妃殿下への贈り物でございます」
ローザリンデの言葉にアンネが答えてニーナに向けて頷く。
一歩前に出たニーナは王妃殿下の手元にセンバヅルを置いて下がった。
「……これは…………。ふふっ、ありがとうね」
感触でそれが何なのか気付いたらしい彼女は何処か懐かしそうに笑う。
聡明な彼女の事だスハイルの文化でも知っていることはあるのだろう。
もしかすると過去にエルゼと何かあったのかもしれない。もしそうならば、学院長の手のひらの上で踊っていた事になるが……。今更そんな事を考えても仕方ないか。
「それから、こちらは学院の生徒達からの寄せ書きです」
一言挟んで、今度はクラウスから色紙を渡す。
文字で書かれたそれは、彼女の目には届かない。
けれどそこに込められた思いは本物だ。言葉では伝わらないものが、そこに存在する。
「……今日ほど目が見えない事を悔しく思った事はないわ。ほんとうにありがとう」
優しい笑顔を浮かべて、色紙の束を胸に抱く王妃殿下。
その光景は、まるで愛する子を優しく抱きしめるようにこちらの心までを動かす。
「よかったら少しお話を聞かせてくれるかしら?」
「もちろんです」
やがて掠れた声で零した彼女の言葉に思いつく先から言葉にしていく。
学院でどんな事を聞いたか。どれ程王妃殿下の事を敬愛しているか。
言葉にした先から意味をなくしてしまいそうなほど、有り触れて心の篭った音を。彼女に伝えられる限り紡いで重ねる。
そんな風に今だけはこの空間を彼女への敬愛で満たして埋める。
そんな事をしていると不意にユーリアがクラウスの肩を叩いてきた。
何事かと視線を向ければユーリアは部屋の隅を指出す。
そこには大きな焼き菓子を手に持ったアンネが悪戯に微笑んでいた。
蝋燭の灯された丸い菓子。その意味に気付いてクラウスも笑う。
あぁ、そうだ。そういえば今日は────
「アスタロス王妃殿下」
「……何かしら?」
会話の途切れた数瞬にクラウスは割って入る。
呼びかけに答えた王妃殿下に出来る限り最高の笑みを浮かべて告げる。
「お誕生日、おめでとうございますっ」
「あらっ……?」
呆気にとられるローザリンデに、アンネが手に持った焼き菓子を差し出す。
「私たち使用人一同からのささやかなお祝いです」
「……朝から何か隠してると思ったらそんなことしてたのね? 全く……でも、ありがとう。喜んでいただくわ」
それから少しだけ照れを見せた彼女は恥ずかしそうに笑う。
そこからは全てアンネの綴った台本通りだった。
次いで響いたのは扉の開く音。
クラウスも予期していなかった到来に思わず出入り口へ振り向けば、そこには沢山の使用人の姿。手にはローザリンデの身を案じて送られた品々が数多く並んでいた。
その物量が、怒涛の勢いで寝具に座る彼女の手元に、周囲に──部屋いっぱいに並ぶ。
視界を埋め尽くさんばかりの贈り物の数。
これが全て彼女個人に向けて集まったものだと思うと、壮観を通り越して最早呆れさえ込み上げて来る。
たった一時にしてローザリンデの周りが色鮮やかに彩られる。
その中心で困惑したように笑う彼女は、やがて一つ息を吐くと顔を上げた。
「……ありがとう。アンネ、火はどこかしら?」
「こちらに。よろしければ一息で」
「そうね、頑張ろうかしら」
名前で呼ばれたアンネは、けれど慌てることなくローザリンデの目の前に誕生日を祝う焼き菓子を差し出す。
その匂いと暖かさに、また一つ笑った王妃殿下は、胸いっぱいに空気を吸い込み、立てられた蝋燭の炎を吹き消した。
湧いた拍手の波に大きな笑顔の花一つ。
それから凝乳を指に乗せて舐める。
「今日はいいのよね?」
「はい。許可も頂いております」
「では取り分けてもらえるかしら?」
「畏まりました」
王妃殿下の言葉に頷いたアンネが静かに準備を始める。
その姿に居ても立っても居られなくなり足を出す。
「手伝うよ」
「ありがと。飲み物の用意頼めるかな?」
クラウスの行動に続いてニーナ達も動き出す。
そうして、少しだけ慌しくなった景色の中で、ローザリンデは楽しそうに笑みを浮かべていた。
王妃殿下の誕生日をささやかにお祝いして。改めて言葉にならない思いをどうにか伝えると、クラウス達は彼女の聖域を後にした。
何ができるわけでもない。未来が変わるわけでもない。
けれど何かをしないではいられなかった思いは形を求めて暴れて。
まだまだ胸の内に蟠る感情の本流が飼い慣らせないまま、帰途に着く。
その景色の中、不意に視界に入ったニーナが何かを考えるように顔を伏せながら歩いている事に気がつく。
「……どうかしましたか?」
「…………うん。余り言うべきではないと思うんだけどね……嫌な想像しか出てこないものだから」
「何がだ?」
ヴォルフの問いに、考える間を開けたニーナが静かに零す。
「…………部屋に入れてもらったときにね、嫌なにおいがしたのよ。……気付かなかった?」
「血、ですよね」
誰よりも早く、誰よりも端的にユーリアが言葉にする。彼女の言葉に静かに頷くニーナ。
普段嗅ぎ慣れないクラウスとしては別段気にしたことではなかったが、二人が言うのだから間違いないのだろう。
あんな密室で、血のにおい。その言葉が示すところは、一つしかない。
クラウスだって想像していた。
そうなるかもしれないという想像を。そうなって欲しくないという願望を。
けれど人の命は有限で、いつかは消える灯火だ。
だから早くに何かを残したくて、その未来を先送りにしたくて、クラウスとニーナは学院長に無理難題を突きつけたのだ。
どうにかしたいと。
どうにもならない問題なのは、分かりきっているのに。
「……誰もが通る道、と考えればそれまでですよ」
言葉にはしてみたが反論さえ響かず。
やがてそれは拭いがたい違和感となってクラウス達を取り巻く。
だったらどうしろと言うのだろう。
誰にだって出来ない。
ずっと生き長らえさせることも、死者を蘇らせる事も。
その理は覆せない……覆してはいけない世の常だ。
「いつかは僕達の身にも降りかかる災いです。死だけはこの世界で唯一平等なものですよ」
嘆いて、諦めて、後悔して。
けれど変わらない未来に歯噛みすることも間違っていると気付く。
それは誰もが直面する事実で、平等な宣告なのだから。
「それで納得できるなら、人は死なないわよ」
「……そうですね」
ニーナの言葉に意味なく同調して渦巻いた黒い感情を捨て去る。
出来ない事を考えても仕方ない。
今できる事をやるだけだ。
全ての情報を一度払い落として、それからクラウスに必要な疑問を道の壁として据える。
それが今、クラウスに出来ることだと信じて。
* * *
部屋に充満する満足の匂い。
甘く芳しい厚意の匂い。
色と形の無い世界は、この一時だけを鮮明に彩っていた。
胸いっぱいに空気を吸い込めば先程までの喧騒を鮮やかに思い出せる。
有り触れた一幕。有り触れた日常。ありえたはずの景色。
自分が失ってしまった世界のはんぶん。
幾ら手を伸ばそうと届かないその景色は、けれど誰にも理解できないほど充足感に満ち溢れていた。
思い返すほど現実味を欠いてそこにあった事を認識する。
私は、生きている。
生きて、存在して、まだ留まっている。
何ができるわけでもないこのちっぽけな身で、出来る限りの幸福に手を伸ばす。
あとは何をしよう。何が、したい……?
問い掛けて、浮かんだ想像を現実にする為に頭を回す。
「……面白いことが書いてあるわね」
そんな横から、相棒の声が響く。
意識を向ければ彼女が何をしているのかが直ぐにわかった。
「寄せ書きかしら?」
「えぇ。読み聞かせましょうか?」
「充分よ。貴女の感じたものが流れ込んでくるもの」
静かにブリギッテとの回路を意識すれば、彼女の感じた気持ちがローザリンデの胸の中に溜まっていく。
これはローザリンデのもう一つの感覚。
見えないものを補う、もう一つの瞳。
「……何か見たいものはあるかしら?」
「…………センバヅル」
呟けば、彼女はそちらを見つめて胸の中に色々な感情を湧き上がらせる。
いつもはそんなことしてくれないのに。何のつもりだろうか?
「……先程の、二人ほど気付いてたわよ?」
「知ってるわ。けれどどうしようもないじゃない。それに私にはあなたが居てくれる」
言葉にすると、少しだけ擽ったそうにブリギッテが身をよじる感じがした。
肩を揺らして笑うと彼女を近くに呼ぶ。
伸ばした手のひら。その上に乗った軽い感触に向けて話しかける。
「いままでありがとう……」
声に、彼女が視線を逸らすのがわかった。
そんな仕草に笑えば、長年の友があの頃のままだということに気付く。
「ねぇ────」
「なぁに…………?」
彼女の問い掛けに笑顔で答える。
こちらのそんな振る舞いに、手の上の彼女は少しだけ居住まいを正して言葉を重ねる。
「楽しかった?」
「もちろん」
本心だ。
「嬉しかった?」
「もちろん」
真実だ。
「あたしで、よかった……?」
それだけは間違いなく断言できる。
「……えぇ、もちろんっ」
単純で、簡素で、言葉以上の言葉。
文字や音。色々な伝える術を持っていても、感情を直接伝えられる以上に便利で嘘の吐けないものは存在しない。
それも含めて、ブリギッテとの契約は唯一無二だ。
「ありがとうね……」
「うん、ありがとうっ」
それ以外の言葉なんて出てこない。
それ以外の言葉なんて、いらない。
ただ彼女と一緒に居られて、私は満足だ。
「満足でいっぱいの、人生だったわ」
何も出来ないこの小さな体で、一体何ができたのだろうか。
それを考えるたび、自分と言う存在を小さく思う。
けれど一つだけ誇れるものがあるとするならば、それは彼女の相棒で居られたことだろうか。
妖精従きと契約妖精の契約は一生だ。
互いのはんぶんとしてずっと添い遂げるというその強い意思。隠し事の出来ない、たった一人の理解者。
それを全て飲み込んで、出会い、契るのだ。
だからこそ、言葉通りに彼女は私のはんぶん。
私に足りない色を足してくれる私の裏側。
妖精従きにとって契約妖精とは、もう一人の自分だ。
足りないものなど、そこには存在しない。足りているから、次を求めるのだ。
私の次は、何だろう────
そんな事を考えていると扉が叩かれた。響く音。その強さと間の開け方で、そこに居る人物が誰なのかを知る。
「どうぞ」
促せば顔を見せたのは想像通りの現国王。私の、人間としてのもうはんぶん。
「気分はどうだ?」
「絶好調よ」
絶好調に下っている。
「……ん、この匂いは…………」
「さっきフィーレストの子達が来てくれてね。一緒に誕生日まで祝ってもらったわ」
「そうか。それはよかったな」
柔らかく優しい笑顔。私の最愛が見せる、最愛に向ける笑顔。
そうして彼は、後ろ手に持った花束をそっと差し出した。
「先を越されてしまったが──誕生日おめでとう、リンダ」
鼻先を擽る匂い。緑と花の、暖かな香り。
「意地悪ね、ツユクサなんて」
ツユクサ。ツキクサとも呼ばれる鮮やかな青色の花だ。
この時期にはもう自然のものは咲いてない筈だが、温室管理の下育てられたものだろうか。
「わしが個人的に育てていた花だよ」
「花言葉は、尊敬、変わらぬ思い、懐かしい関係、密かな恋、小夜曲……」
「すべて君とわしにぴったりだ」
彼との出会いを思い返す。
私はしがない研究生。彼は王位を継ぐ身の王族。
どうあったって相容れないはずの、二人。
その頃、色男だと噂されていた彼に、けれど当時の私は目の前の研究しか見えていなくて。声を掛けてもらうまで近くで覗かれていることにも気付かなかったほど、無関心で。
「……話を聴いた。優秀な人材が一人入ったと。無愛想で、無頓着で、信じるものと研究には一筋な少女。話に聞いた時は立派な研究者だと思ったものだ」
最初に彼を目にしたのは城内の通路で。調べること、真実を求めることが好きだった私は沢山の情報が集まる王立の研究機関に就職して、それから城内の勤務に移って。
その初日に先輩から任された書類を取りに資料室向かった帰り道に、彼とすれ違った。
きっとそれが、私の覚えている最初の出会い。
「そんな彼女を一目見たくて、わしはあの日無駄に城内を歩いていたものだ。そうしてすれ違った君は、白衣を翻し、書類を胸に抱え、一心不乱に歩みを進め、礼すらもせず横を通り過ぎて行った」
「あら、そうだったかしら?」
惚けてみるが彼の意地悪な視線は外れない。
少しだけ居心地悪くなる。
あの頃は憧れの国仕えとして働けることが嬉しくて、周りを見ることが疎かになっていた。今思えば不敬だと罰せられていても文句は言えない。
「その時に彼女だと気付いて。横目に見た、その真っ直ぐな瞳に────ツユクサ色の双眸に心を奪われた」
温かい気持ちを包み込むように語るヒルデベルト。
それこそが、彼と私の邂逅で、逃れられない出会いだった。
「王の座を継ぐ者としては正しかったのだろうな。わしは始めて、恋をした」
彼には王の座と言う逃れられない運命があって、もしかすると嫌気が差していたのかもしれない。
だからその反動として、疼いた感情は火種となって燃え盛った。
「事あるごとに研究室に来ていたわね」
「これでも勉学はできた方だった。何も悪いことでは無いだろう?」
「与えられる教育と学ぼうとする姿勢を一緒にしないでくださいませ」
「学ぼうとはしていたさ。知らない感情ではなかったからね。……一度断られて確信したものさ」
胸の内が少しだけむず痒くなる。
そういえば昔から彼はこうだった。恋愛の経験なんか無いくせに無駄に口が軽くて。学び舎に通っている頃は何に惹かれてか声を掛けてくる男共は多かったけれど、終ぞ彼のように誠実で軽薄な人物は居なかったと思い返す。
だから自分は折れたのかもしれないと。彼の王としての器……その豪胆さと真摯さに間違いでも惚れてしまったのかもしれないと。
「昔から何かに縛られるのが嫌で反抗的でね。その末に身についたこの諦めの悪さで君を射止めて見せたのさ」
「面白い事を。射止めたんじゃ無くて強引に攫っただけでしょ?」
「楽しかっただろう?」
まるで恋に遊ぶ伶人のように。変わらない無邪気さと呆れるほどの真面目さで、当たり前のように恥ずかしい言葉を綴る彼。
そんな姿が、少しだけあの物分りのよすぎる少年と重なって可笑しく思う。
「えぇ、面白かったわ。次にどんな醜態を拝めるのかと思うと心が躍ったものよ」
「…………その綺麗な目で、ずっと見ていて欲しかったものだがね」
「その点だけは感謝しないとね」
意地悪に告げれば彼の纏う雰囲気が困惑のそれに変わる。もう五十年近いだろうか。ずっと一緒にいるはずなのに飽きないのは、きっと惚れた弱みなのだろう。
「けれど今ばかりは少し残念に思うわ……。あなたのその誠実さに、私は一度たりとも答えを返した事は無かったから。目を見てあなたに答えられないことを許して頂戴」
「構わないさ。こんな老いぼれの姿を見せるのは忍びない」
きっと笑っているはずだ。困った顔で、悲しい顔で、皺だらけの顔で。
そんな彼の姿を目に出来ないこの身の不幸を少しだけ嘆いて、手を伸ばす。
「……その花、貰えるかしら?」
「この花も、わしも……全てあなたのものだ、ローザリンデ」
「当たり前じゃない。私を奪ったのは他でもないあなたなのだから、ヒルデベルト」
彼が奏でる追憶の小夜曲。変わらぬ思いを重ね、王としては間違った密かな恋。出会いの頃の懐かしい関係を思い出せば、あの時以上に目の前の人物を尊敬できている気がした。
「……最後に一つ、お願いしてもいいかしら?」
「何?」
「彼に────クラウス・アルフィルクに賭けてみようと思うの。だからお願い、彼を助けてあげて」
「分かった。君の名前に誓おう」
真っ直ぐな声に微笑を返せば、それだけでも満足できた気がした。
「約束の術式。それから面倒事にならない為の覚え書きよ。……後の事は任せるわ」
「…………あぁ。任せて、君はゆっくり休むといい」
静かに頷けば、不意に唇に柔らかい感触が触れた。
全く、年齢を弁えればいいものを。一体いつまで少年のつもりでいるのだろうか。
……それくらいでなければ私の伴侶にはなれなかっただろうし、国の主も務まらないのかもしれない。
「おやすみ。よい夢を」
「えぇ、おやすみなさい」
思った以上にあっけない別れの言葉は、いつものように響いて溶ける。
彼が部屋を後にして。寝具に体を預ければ、心地よい満足感と微睡が一気に押し寄せて頭の中を攪拌していく。
こんなものかと。
ただただ納得と安心の渦の中に落ちていけば意識は遠く埋もれていく。
何ができるわけでもない。何をするわけでもない。
ただ流れに身を任せるのが嫌で、そこに自分がいる事を知っていたくて。
結局そんな自分を最後まで好きにはなれなかったと自嘲すれば、自然と笑みが零れてきた。
「……ブリギッテ、そこにいるかしら?」
「…………何?」
洟を啜る音と共に掠れた声が響く。
静かにしていると思えばこれだ。全く、どれ程私は恵まれれば済むのだろう。
「あぁ、よかった……。言伝を、頼んでいいかしら…………?」
恵まれているから納得しなくて。その先の恵みを欲して。
欲望に忠実なのは変わらない。それが私と言う存在の根幹だ。
だからこれも、数多ある未練の一つ。
できることなら────世界を見てみたかった。
* * *
数日後、クラウスは抗い難い予感を胸に目を覚ました。
渦巻いて、色も分からないほど混ざり合った感情が、したくない景色の想像を脳裏に描き出す。
何がどうなっても変わることのない未来。いつかは直面する真実。
それがこうして現実になろうとしているという予感。
どうにもならない歯がゆさは、やがて諦めを通り越して怒りへと変化する。
怒ったところで何かが変わるわけでもない。けれど声を大にして叫びたい。
どうして、と。
「クラウス……」
空模様はクラウスと同じ灰色。
今にも雨が降り出しそうな道を学院へ向かう途中、肩上のアルが呼びかけてくる。彼女の細い指が示す方に視線を向ければ、この予感が覆らない現実だと認識する。
長い黒髪に緑色の服。灰色の外套を身に纏い、その奥の瞳は燃えるような赤い色。
バンシー。
泣いていなければその姿を視認することができると言われる、人の死を予告する妖精だ。
どうやらその言い伝えは本当のようで、今のところ彼女の泣き声は聞こえない。
けれど、バンシーが居るという事は近々誰かが亡くなるということ。やはり家でなくこんな路肩に姿を現すのは疑問になり得るが────いや、だからこそかと納得を見つける。
「……一応聞くけど、やっぱりあの姿は妖精変調の影響を受けてるよね?」
「そうですね。きっと野良ですし、受けていなければわたしたちと同じ小さな人型をしているわけですから」
クラウスの疑問にフィーナが答える。
クラウスが見据えるバンシー。外套から覗く顔の輪郭や腕は筋張って骨のように細くなり、垂れ下がる長い髪はあちらこちらへ跳ねていた。
一言で言えばみすぼらしい。まるで物語の中に出てくる魔女のようだと錯覚する。
そんな人間大の痩せ細った女性。
彼女の出現が、妖精変調に起因しているかと言われれば難しいところだが、少なくともその影響を受けている事は確かだろう。
そして、妖精変調とは妖精の本質の具現化……妖精本来の姿を詳らかにする現象だ。それは同時に個々が持つ妖性を強く示す結果であり、ならば内に秘められた種としての役目に突き動かされたとしても不思議ではない。
同時に、バンシーという存在が深く知られているのもまた、妖精変調以前から死の予告者としての意味合いを持つからだ。
妖性としての行動が先か、妖精変調による使命の遂行か……。どちらも五分と言ったところで、その行き着く景色は変わらない。
「どちらにせよ結果は同じ、か……」
こちらを見つめる赤い瞳から視線を外して歩き出す。
きっと足掻くことさえ間違っている。
人の死は平等で、いつかは訪れる宿命だ。だから人は悲しむのだろうし、バンシーと言う存在は昔から忌み嫌われてきた。
死を告げる者という本来の姿は、人間の勝手な主観で書き換えられ。いつからか死へと誘う者として謳われる。
バンシーは人の生を邪魔する存在だと。
けれどクラウスはそれは違うと言いたい。
人間の風習にもあった泣き女。葬儀に呼ばれ死を悼み泣くその者達を根源とするバンシーは、生まれたそのときから死を悼む者であって死を告げる者ではないのだ。
バンシーが現れるから誰かが死ぬのではない。誰かが死ぬからバンシーが現れて一緒に泣いてくれるのだ。
それはもしかすると自分達の親かもしれない。
人間は転生しない。けれどもし妖精力を持ったまま死ぬのだとしたら、その妖精力は……魂はどこへ行くのだろうか。それは誰が拾う生きた証だろうか。
妖精の死を拾うのはジャック・オー・ランタンだ。ならば人間の死を悼み、魂を慰める為に泣くバンシーは、その魂の救済者ではなかろうか。
過去に死んだ者の魂の気持ちを受け継ぎ、あちらの世界からその者の生涯を称える。その為に死を予見しては家族の元に現れて魂を慰む。
バンシーと言う存在は、きっと人間が思う以上に人に依存した存在で、人の死を悲しむ妖精だ。
だから沢山のバンシーが泣く葬儀は、その者の生前が勇敢や聖なる者だったと言われるのだろう。
妖精に泣いてもらえるのは正しく大きな道を歩いた者だけ。
ならばクラウスの参列にはきっと妖精など一人も並ばないことだろうと想像する。
「……クラウスさんは、誰かの為に泣いた事はありますか?」
「…………ないよ。だってそれは、僕に笑ってくれた人に失礼だと思うから。僕に泣いてくれた人に、失礼だと思うから」
泣けない理由は、きっとそんなことでは無いけれど。
可能ならば、涙のない道を歩んでみたいと。自分が泣かなくて済む道を歩んでみたいと。
そうすれば近い道を歩く人たちも笑っていてくれるから。笑って、クラウスは異端だと指を差してくれるから。
だからクラウスは泣かない。泣くことが、出来ない。
「……だったら、わたしももう泣きません。わたしは、クラウスさんに泣いて欲しいですから」
「あたしは泣いてあげるわよ。それでクラウスが泣けなくなるなら、あたしはクラウスの代わりの分まで、泣いてあげる」
二人の対極に位置する優しさに、嬉しくも悲しくもありながら告げる。
「だったら、笑顔も涙も捨てて道化の道を歩み続けないとね」
クラウスはいつだって間違った道を行く。第三の選択肢を歩み続ける。
それがきっと間違っているから。間違っていることが正しいことだと思うから。
間違いは、クラウスにしか歩めない道だと思うから。
それでバンシーの涙を減らせるならば、簡単なことだ。
クラウスは、クラウスの認めた者達に救われればそれでいい。
そんな事を考えながら教室へ向かうと、出入り口のところでアンネと鉢合わせをする。
彼女はすぐに謝ろうとして、けれどそれがクラウスだという事に気付くのと同時、口を噤み視線を外すと胸に紙の束を抱えて入れ違いに教室を出て行く。
早足に去って行くアンネの後姿を少しだけ見つめて、それからようやくクラウスは自分の席に腰を下す。
朝から嫌な想像が続くと。
そしてそれはきっと想像では終わらないのだと悔しくなる。
窓から眺める陽の差さない暗い色の景色は、まるでこの世の終わりを示すようで。胸の内に拭いきれない蟠りが募る。
どうにも出来ないが、どうにかしたかった。
考えても、ただの人間に他人の決められた運命を変える事は出来ず、だからこそ不甲斐なく思う。
例えそれがどれだけ敬愛した人物であっても、どれだけ大切に思っていても──救えないものは救えない。
そう悔やんでしまうほど、彼女の存在はクラウスの中でとても大きかったのだ。
この世界のはんぶんである妖精。妖精が持つ異能、妖精術。その扱いに彼女ほど長けた人間は、今この世界にはいないはずだ。
妖精術行使者の最高峰といってもいいだろう。
世界にとっても失うには惜しい存在だ。
そんな彼女が、何の因果かクラウスに一欠片を託してくれた。
きっと彼女は気付いていた。クラウスが目指すもの、その為に必要なものを。
ならばやはり、その目的を達成した景色を彼女にも見せたかったと。
「考え事……?」
不意に掛けられた声。振り返らずとも声で分かる。そこにいるのはユーリアだ。
「……そんなところ。ユーリアだって気付いてるでしょ?」
「……………………」
問いに答えは返らない。それは無言の肯定。聞くだけ野暮だったと改めて自分がいつも通りで無い事に気付く。
「納得できなくても、認めるしかないでしょ」
「そう簡単に認められたら、こんなに自分を苛んでないよ」
「……人間らしいわね」
彼女の呟きに一拍空けて静かに笑みを浮かべる。
確かにその通りだ。自分にはまだこんなにも人間らしい部分が残っていたのかと。
「…………人間だからね」
「クォーターでしょ」
覇気の無い言葉の応酬はやがて沈んだ空気に溶けて意味をなくしていく。
ユーリアだって何も出来ない事を悔しく思っていることだろう。彼女にとっては捧げた剣で、誓った忠誠だ。
今まで受けてきた恩恵に、何も返せない苦痛。一体どれ程自分を責めれば気が済むのだろうか。
きっとそれは後悔でも諦めでもなくて、達観さえも通り越した真実。
理不尽な事実に対する怒り。
「クラウ────」
「だめだよ、ユーリア。それは人間の力でも、妖精の力でも……ましてやエルフの力でもない。純粋で、悪質な──魔法だ」
クラウスの言葉にユーリアが肩を跳ねさせる。
魔法。それはこの世界で口にしてはいけない言葉だ。
魔法は、読んで字の如く、悪魔の法。
この世界における悪魔とは、人智の及ばない悪質な存在だ。
人の身では、知識では、成すことも解明することも出来ない未知の事象。転じて──根拠の無い真実だ。
魔法を使えば、その言葉を借りればどんなことでも説明がついてしまう。
魔法という概念は悪魔の法だから。悪魔の存在を肯定も否定も出来ないから、根拠がいらない。魔法には結論に対する過程も理由も必要ない。
人間は魔法によって生み出された。そんな一言で世界は狂ってしまう。
妖精術には過程が存在する。出来ないことが存在する。
それは人間の積み上げてきた歴史や知識となんら相違は無い。だから異能として認識されている。
けれど魔法は違う。理由が要らない、過程が要らない。出来ない事は──存在しない。
人を殺すことも、生き返らせることも造作もない。
そこに理由は無い。結果だけだ。
そんな世界の理を壊す存在を、許すわけにはいかない。
だから魔法は存在してはいけないし、言葉にするのも憚られる。
妖精術と、魔法は違う。妖精術を、この世の全てを、魔法と形容してはならないのだ。それは決して交わることのない悪魔の理だから。
その言葉の重みを、クラウスは嫌と言うほど知っている。
「まぁ僕は悪魔憑きだから、魔法が使えてもおかしくは────」
「クラウスッ!」
空気を裂くユーリアの叫び。その剣幕に言葉の先をしまう。
悪魔憑き。その名の通り、悪魔に憑かれた異変を齎す、人の輪から外れた存在の蔑称だ。
クラウスはクォーター。世界に数少ない半端者。
幼い頃から、そう呼ばれる事には慣れている。
「……二度と口にしないで。二度と自分の事を、悪魔だなんて言わないでっ!」
「…………分かったよ。約束する」
度の過ぎたクラウスの言葉を咎めるユーリア。
彼女のその真っ直ぐな気持ちに静かに答える。
彼女がクラウスの事を悪魔でないと言ってくれるから、クラウスはまだクォーターとして──人間として、この世界に生きていられる。
「……雨、降り始めたね」
耳に届いた雨音。大地を打ち付けるその静かな音の波に、クラウスは窓の外をじっと見据える。
灰色の景色は雨粒で濁り、降り注ぐ天の涙となって大地を濡らす。
学院の授業は午前最後の教科に差し掛かったところで静かに教科書を閉じた。
朝一の授業からそうだった真実と虚構の言葉の網。教員でさえも授業が手につかないほど現実味を欠いていた時間が、ようやく終わる。
授業終了間際、教壇に立つ人物へ耳打ちをしにやって来たのは、正装に飾った凛とした姿の騎士だった。
彼が小さく告げると、教員が噛みしめるような間を開けて、呟くように告げる。
終止符を打つ、たった一言。
「────先程、アスタロス王妃、ローザリンデ殿下が……崩御なされた」
焦燥の終わり。そして喧騒の始まり。
教室の中は直ぐに声で満たされ、その上から教員の諌める声が重なる。
窓際最前列に座るクラウスはいきなり慌しくなったその景色と音に加えて、隣の教室からも雰囲気が変わった事を察する。
仕方ないこととは言えこれは避けられない混乱だ。
クラウスは予めこうなる事態を予測していた。その為の対抗策も、準備してある。
慌しく動く景色の中で窓を少しだけ開けたクラウスは、それからユーリアの方に視線を向け一つ頷く。頷き返した彼女は、それから右手を高く掲げると指を鳴らした。
刹那、乾いた音が風に乗り増幅されて辺りに響き渡る。
単純な理屈。音を遮断できるなら増幅させるのも容易だ。音の波は風に乗る。ならば風を操る者が意図すれば、それは人の注意を引く発信音になる。
これをもっと大規模にして、広範囲に聴覚失調を引き起こす技術が先の大戦では使われたとも聞く。使い方次第ではとても有用な武器だ。
反響する甲高い音が窓の外へとその羽を伸ばす。彼女の技量なら今の一発でこの南棟一杯くらいまでは響かせることが出来るだろうか。もちろん風の属性を扱えないクラウスには出来ない芸当だ。
ユーリアの響かせた音に教室内がしんと静まり返る。集まる視線の中、彼女はいつも通り冷静に上げたその手を今度は教員に向けて差し出す。
「どうぞ、お話を」
「……あぁ、ありがとう。とりあえず皆、席に着いてくれ」
溜息一つ。
それから景色が落ち着く間を開けて教員が話し始める。
「私も余り冷静とは限らないがな、反面教師とでも受け取ってくれたまえ。これから皆には多目的会館に向かってもらう。そこで学院長から話がある。詳しい話はその時に聞いてくれ。さて、理解が追いついた者から、すぐに移動だ」
言って教壇から降りる教員。それに続いてユーリアが立ち上がると、続々と生徒達が廊下に出て行く。
最後にクラウスが教室を出ると、目の前にはアンネとユーリアが立っていた。
「……随分と落ち着いてるわね」
「覆しようがないからね。諦めた、って言うのとはまた少し違うかもだけど」
「いこ? 置いてかれるよ」
アンネの笑みは、やはり寂しくて。その泣きそうな表情にユーリアが彼女の手を取る。
びくりと肩を震わせたアンネだったが、やがてその手を握り返すと静かに俯いて歩き出す。
それが正しい。当たり前の、感情だ。
並んで歩く二人の後ろ、その景色は真実だと視界に収めながらクラウスは歩を進める。その肩の上から小さく呟きが零れる。
「…………クラウス」
「何?」
アルの声に顔を上げれば彼女は先程クラウスが空けて閉め忘れた半開きの窓。そこに腰掛ける灰色の外套を羽織った女性の後姿を見つける。
その背中は、降り続く雨雲に覆われた空をじっと見つめていた。
バンシー。
その死の宣告は、変わらず絶対の理か。
人間の死を知らせる彼女達は、一体どんな気持ちで人の天命を読み上げるのだろうか。
勇敢な者には賛美の調べを。
聖なる者には哀悼の一節を。
ローザリンデは勇敢に生き、聖に満ち溢れた生涯を送った。
そんな彼女の死と言う歴史に、彼女は泣いてくれるだろうか?
…………もし、出来ることならば。その参列には多くのバンシーが並ぶ事を願う。多くの導き手によって、安らかに魂が救済される事を祈る。
それがクラウス個人の、敬愛する彼女に送る最後の忠誠だ。
学院長、エルゼからの話はとても単純で、淡々としていた。
教育者として、大人として正しい振る舞い。エルゼ個人としては、間違った振る舞い。
彼女はスハイルの人間で、この国の生まれでもなければ、先の大戦で利用された交渉用の人質だ。
だから割り切ってしまえば他国の出来事。それ以上でも以下でもない。
だがクラウスは知っている。ローザリンデとエルゼの関係を。エルフと言う存在を巡って交わされ築かれただろう繋がりを。
何より、王妃殿下は一人の妖精従きとしてとても名のある人物だった。
そんな人物に、敬意を抱かない人はこの世界に居ない。
長くを生きた先達として。沢山の道理を知った智慧の権化として。
この世界は妖精と共にある。そのあり方を変えるのは妖精との関係であり、妖精術の新しいあり方だ。
その道の先を行く賢者として、妖精術を操る者にとっては目標であり、妖精の見えない者にとっては研究者として世界を変える希望であり。
そして何より、世界に敬愛される露草姫だ。
クラウスは彼女の露草色と呼ばれる鮮やかな縹色の瞳を見た事がない。その愛称の最初の理由であり、転じて光を失った彼女の瞳に、いつか色が着くようにと準えて呼ばれた月草、着草のその本当の色を。
話に聞いた限りでは、青い空に地平線まで続く緑の高原がよく似合うと言われたそうだ。
風に靡く白縹の長く緩やかな髪。遠くを見据える理知的な縹色の双眸。華奢で、女性らしくて、魅力的な淑女。
それがローザリンデと言う人物だったと、学院の授業でも幾つもの書物でも読み聞いた。
その真実のところを、クラウスは疑うわけではないが。一目視界に収めることさえ叶わなかったと悔しく思う。
それほどまでに民と、そして世界に愛された人物の──死。
単純で、簡単で、軽易で。現実味もなく空虚で喪失感に苛まれる自然の理。
あまりにもあっさりしすぎていると。それこそが──人の死なのだと。
今でもそれが真実だと信じたくない自分が心のどこかにいる事に気付く。
けれど縋ったところで世界は逆行しないし、物語の中のように全てが都合よくは運ばない。
理不尽な事実は、確かに存在する。
それが敬愛したローザリンデの死となって押し寄せて、嘘であればいいとこの胸を突き動かすのだ。
「──黙祷」
何処か別の世界のように響くエルゼの声が不意に耳に入ってくる。
静かに目を閉じて、彼女の事を思い浮かべる。
静まり返った多目的会館には、小さな布擦れの音と、それから微かな嗚咽の泣き声が響いていた。
彼女は、憧れだった。
追いつけない憧れは、いつしか幻想となるだろう。
けれどそれは全て、真実を受け止めた先の未来だ。
ならば受け止めること。心に留めて前を向くことが、何より彼女の手向けになると信じて。
敬愛の心を忘れずに静かに認める。
「…………目を開けなさい。……色々ね、思うところはあると思うわ。それを今すぐに整理しろとは言わない。けれどその手助けになるならと、彼女の言葉をここで代読させてもらうわ」
エルゼの声に顔を上げて見据える。その手には白い書簡。
それを開いて一呼吸。エルゼの声が響く。
「『私は私の為に悲しんでくれる事を嬉しく思うわ。けれどその気持ちは他の誰でもない、貴方のもの。貴方が感じた貴方だけのもの。それは誰にも侵されていいものでは無いわ。誰かに左右されるものでは無いわ。だってそれは貴方が生み出した答えなのだから。正しい事は沢山あるけれど、常識がいつも正しいとは思わないで。貴方の感じた事は本物で、それはいつしか新しい正しさに変わるかもしれない。人はそれを間違いと言うかもしれないわ。けれど言葉に騙されないで。信じたものを信じ抜いて。疑う事を忘れずに、努力を積み重ねて。信じたものを最後まで信じられなかった人にはならないで。出来ることからでいい。やりたいことからでいい。貴方がそれが正しいと思うなら、声を大にして叫べばいい。間違いに気付ければそれでいいなんて、それで満足するような大人にはならないで。積み重ねた知識で、信じた良識で、間違いだと思うなら正しいことだと証明して。新しい正しさを見つけて。全ては貴方の中に眠っている。この世界は、私の中にも眠っていた。だから貴方の世界は貴方が作りなさい。貴方が正しいと思う事をぶつけなさい。世界は貴方以外で作られているから、気に入らないならその世界を変えてしまいなさい。変え方が分からないなら学びない。変える為の方法を学びなさい。習うのではなく学びなさい。学ぶ事は誰にでもできるわ。学ぼうとする意志を持ちなさい。それが貴方達が最初に学ぶべき教科よ。それを覚えたなら、学びたいものを見つけなさい。何を知りたいのかを知りなさい。知ったら学んで、行動に移しなさい。行動には必ず結果を得なさい。成功。失敗。何も得られなかったという結果。全て貴方が望んだもので、貴方だけが得た正しい答えよ。本気で望んだなら、その答えに嘘は無いわ。答えを嘘にしないで。望んだ答えが得られなかったなら過去に得た答えをもう一度学びなさい。その正しい答えを疑いなさい。疑う限り、学ぶ限り、答えが尽きない限り、貴方の世界は完成しないわ。そうして、後悔しかない人生を送りなさい。学ぶしかない人生を送りなさい。……学ぶ事を知っている貴方達にこの言葉を送るわ。────学ぼうとする事は真実で、それにはいつだって答えが存在する。そうして間違いだらけのこの世界に一つでいいから正しいことを残しなさい。それが貴方の生きた証であり、貴方の世界になるわ。それが貴方を作るわ。貴方が作った貴方の世界を見て、誰かが泣いてくれるなら、その時に最後の答えを得られるはずよ。人に泣いてもらえる様になりなさい。人の為に泣けるようになりなさい。私は貴方達のその涙で、終わらない世界が終わりを迎えたから。貴方の世界は貴方以外の人に認めてもらいなさい。誰かの世界に繋がりなさい。その世界はきっと、貴方の直ぐ隣に居る筈だから』」
長い文面を読み終えて、エルゼは一度目を閉じるとそれから告ぐ。
「これが貴方達の導となり王妃殿下が望んだ景色を作る手がかりになればとワタシは思うわ。それから、貴方達はいつでも学べるという事を忘れないで。学ぶ事は、貴方を作る事に繋がるから。その他大勢になる前に、貴方達は自分を見つけなさい」
彼女は教育者として。模範となるべく一つの疑問を最後に零す。
「自分に問いなさい。その胸の感情は、貴方のものかしら? 答えが出たら、やるべき事をしなさい」
言って、彼女は舞台の上の演説台から下りると、そのまま多目的会館を後にする。
学ぶべき事は多い。王妃殿下の事は心喪に服しつつ、クラウスは自分を求めて見つめなおす。
それがクラウスに出来る、学ぶことの第一歩。
午後からの授業は閉講となり、生徒には帰宅の指示が下った。
例に漏れずクラウスも寮へと戻り自室で静かに過ごしていた。
少し遅めの昼食を食べて。何をするでもなく床に転がって。
窓から見える灰色の空と降り続く天の涙を見つめながら。
耳に届く重なる泣き声に一人思考を伸ばす。
この泣き声はバンシーの声。世界に名を轟かせ、世界に認められた妖精従きの死を悼む悲しみの叫び。
思えば、全ては彼女の死へと帰結する。
この大地に現れたバンシー。他の者の目にも映る形で多数報告されたその噂。
本来、バンシーは家に出る妖精だ。家人の死を嘆く妖精だ。
そんな存在が何故道端に現れ、複数目撃され、泣いていたのか。
それは彼女が──ローザリンデが世界に敬愛される人物だからだろう。
言い換えれば、この世界は彼女の住まう箱庭でもある。
あのちっぽけな一室に横たわる彼女は、そこから世界を望み。世界はあの一室にいる彼女に尊敬と愛を願った。
あの部屋には、世界の全てが詰まっていた。
世界全てを詰め込んだ場所に生きていたのだ。それはつまり世界が彼女の家だと言ってもいい。
ならば彼女が作り出した世界……その元となったフェルクレールトと言う大地全体にバンシーが姿を現したのは、何もおかしくない必然の道理だ。
彼女の死の匂いを、音を、感触を、逸早く察知したバンシーがその死を悼み、世界に知らせた。
だから彼女達は場所を限定せず姿を現した。
勇敢な者、聖なる者の死には数多のバンシーが涙を流すという。
話を思い返せば普通に至る結論。クラウスが最初にバンシーを見た頃、既に各所でその噂は広がり始めていた。
野良の妖精は自由度が高いが、そう積極的に人前に現れるわけでもない。つまり一人のバンシーが全ての噂の元凶と考えるのは難しい。
ならば単純に、バンシーは複数居るという結論。勿論、バンシーに限らずジャック・オー・ランタンやゴブリンと言った種も複数存在していることだろう。
この論も、ローザリンデの死に帰結するならば筋は通る。
彼女は偉大な人物だ。その者の死には相応しい弔いを。
世界に認められた彼女の為に、数多ものバンシーが涙を流す。
全ては決まりきっていたローザリンデの死。それに連なる景色の変化に過ぎないということだ。
また、結論はもう一つ。
この論ならば、ローザリンデの死が近付かなければバンシーは姿を現さない。
つまりは、彼女の死はバンシーの干渉ではない、彼女自身の運命だったということだ。
バンシーが泣いたから、彼女の灯が消えたのではない。彼女の天命に終わりが来たから、バンシーが泣いたのだ。
そこに偶然妖精変調が重なって情報が錯綜したに過ぎない。
結論はいつだって単純で。特に今回に限れば、クラウスには何も出来なかったということ。
クラウスはただの四分の一で、特別な力を持っているわけではない。生まれが異質な世界の爪弾き者だ。
今回は、ただ事実に振り回されて、彼女の死を悼んだだけ。
要らぬ苦労だったと割り切ればそれまでで、クラウスにとっては改めて自分のちっぽけさを認識した出来事だった。
人の生死には他人が何を言うべきではない。それはただ、その者にとっての最期の時間と言うだけだ。
どうしようもないことと言うのはいつだって存在する。
だからこそ、どうしようもない事を認めるのが嫌で、どうにかしたいと願うのだと。願って、今のクラウスのように途方に暮れるのだ。
世界はいつだって理不尽だ。その理不尽にどうやって納得を生み出すか。彼女の望んだ答えは何か……。
考えて、考えて、考えて────
そんな風に頭の中の世界に溺れていると、不意に扉を叩く音が響く。
誰だろうかと重い体を持ち上げて扉を開けば、そこに立っていたのはアンネだった。
「……少し、いいかな?」
「…………今度からちゃんと寮母さん通してね」
寮への来訪は寮母を通せば目的の人物へ話が伝わる。いくら約束をしていても、他人の家に行けば呼び鈴を鳴らすのが常識だろう。事前に通達をしておくのが礼儀だろう。
こちらもその時に居るかどうかも分からない。……今日に限って言えば確実ではあるが、いきなり尋ねてこられるとこちらとしても少しだけ驚くのだから。
考えつつ、飲み物を用意する。その途中で視界に映る影が一つ多い事に気付く。
「……あれ? ブリギッテ殿?」
「殿はいらない。前に言ったでしょ? 妖精には階級制度なんてないって。特に今は……彼女も居ないわけだし」
「それはごめん。ようこそ、ささやかだけど歓迎させてもらうよ」
花色の背中に掛かる頭髪に、花葉色の瞳。
アスタロス王妃殿下の唯一無二の相棒であり、彼女のはんぶん。
そんな彼女がどうしてこんなところにと思いつつ、とりあえず彼女の分も用意して腰を下ろす。
「それで、どうしたの?」
「……さっき彼女が家に来てね。クラウス君に会いたいって言うから。……私も話したいことがあったし」
「伝言を頼まれたの。リンダからね」
尋ねた言葉に返った名前。その意味合いをよく考えて、それから少し姿勢を正す。
「どっちから話す?」
「……じゃあ私から」
クラウスの声に返ったのはアンネの物。彼女の話は大方見当がついている。
「…………ごめんね、勝手なことして」
「ヴァレッターのこと?」
「……うん。クラウス君はもう少し隠しておきたかったんじゃないかって」
視線を落として告げる彼女に考えつつ答える。
「どうだろうね……。そろそろかなとも思ってたし、いっその事ずっと隠しててもよかったかもとも思ってた。何せヒルデベルト陛下との間接的な繋がりだからね」
アンネはヴァレッターに所属している。
それは彼女の意志で、クラウスが望んだものではない。
ただ彼女は愛する親友の為に……それからあわよくばとクラウスとの繋がりの為に、ずっとその場所を武器にしてきた。
それを分かっていて、クラウスも可能な限り便利な駒として動かした。
けれどずっと思っていたように、どれだけ密接に関わり、どれだけ利用し利用されたとしても、彼女はどこまで行ったってクラウスの描く景色から見ればイレギュラーだ。
いつでも切り捨てられるし、いつでも利用できる。
同時に、いつも彼女の自由にさせてきた。
クラウスからはいつも頼み事。彼女の自主性に任せた、ただの独り言。
だから根本的なところでクラウスには決定権がなかった。幾ら切り捨てたとて、彼女が縋りつけばそれを決定的に突き放す手段はクラウスには無い。それどころか、牙を剥いて来る可能性だってありえた。
その未来を、クラウスは良しとしていた。
「幾つもお願いはしてきたけど最後は全部アンネさんに任せてきたからね。だからこれもその一つだと思ってる。……何か理由があってそうしたんでしょ?」
彼女のヴァレッターとしての行動理由はただ一つ。ユーリアのことを想ってだ。
彼女のことが大切だから、自分が一度依存した相手だから。切れない関係にどこかで終止符が欲しくて、そこにクラウスの野望が噛み合って利用した。
全てはユーリアの為だ。
「理由……うん、そうだね……。これは、私のとても個人的な理由」
そうして顔を上げた彼女の水色の瞳がクラウスを射抜く。
そうか、これはクラウスの事を思っての決断か。
「今後こっちの方がクラウス君は動きやすいかと思って。一々私を介すのは面倒でしょ?」
いつもとは違う、どこまでも真剣な色の目。
その強さに止まっていた一部の歯車が音を立てて軋む。
「…………何か、委員会を動かさないといけないほどの予兆があるって事?」
「詳しくは言えないよ。そこは口止めされてるから。でもクラウス君の想像は大体当たってると思う。私のご主人様は、クラウス君の考える以上に非情だよ?」
思わず息を呑む。
彼からしてみれば、委員会は一つの手段に過ぎない。学院から優秀な人材を引き抜く為の建前。その建前は、きっと建前で終わらないということだろう。
思考に彼女の言葉が重なる。
「それからこんなのも貰ってる」
言って一枚の書類を差し出すアンネ。受け取って目を通せば、そこには少しだけ頷き難い文面が綴られていた。
書いていることそのままを要約すれば、アンネをクラウス専属の女中にするという話だ。
けれどこんな言葉、そうですかと鵜呑みにする者はそうそう居ないはずだ。
紙には書かれていない彼の思惑を探す。
簡単なのはお目付け役。クラウスを監視するということだろう。春の時もユーリアに監視をされていたしそれがアンネに変わるだけ。表向きには委員会と国の繋がりを強化するというところだろうか。
しかしクラウスはそれは納得しない。監視のそのまた裏。筆に滲む彼の本心を見つける。
信用していないのだ。
クラウスはエルゼの論文のことも知っているし、事ある毎に首を突っ込んで騒動に関わっている。加えて、今まで存在しなかった委員会も作り出し、国との繋がりも欲して……。
彼からしてみれば胡散臭いことこの上ない存在というわけだ。
同時に気付く。
その信用は、クラウスの描く野望にも向けられていると。
全てを知っているわけでは無いだろうが、クラウスが何を考えているのかは少なからず想像しているはず。
その想像はきっと当たっていて、それは今のままでは不可能だと突きつけているのだ。
だから国に貸しを作れと。
もしクラウスがブランデンブルクと協力して事に当たったとしよう。クラウスにとってアルとの約束は絶対の理だ。だから失敗するという未来は許されない。
成功したなら、ブランデンブルクはその功績を独り占めできるということだ。
クラウスは道具にされようとしているということだろう。
大人の……迂遠で狡猾なやり口だと評価して、その上で飲み込む。
「署名すればいい?」
「……いいの?」
「考えられるだけの事は考えたから。それに別に悪い話ってばかりじゃないからね。利用するかされるかしかないなら、最後まで利用するだけだよ」
いつの間にかいつも通りに戻っていたクラウスは、止まらない思考で可能な限りの想像を巡らせる。
流石にそろそろ委員会と言う建前だけでは動き辛いと考えていたところだ。そんな折に舞い込んできた話。疑わない方がおかしくて、その上で納得するならまだ止まるわけには行かない。
何より元々彼女はこちらの人間だ。幾らイレギュラーと言えどクラウスの野望には欠かせない駒。それを国が扱うというのがそもそも間違っているのだ。
いわばこれは国に対する布告。ブランデンブルクを転覆させるとまでは言わないが、クラウスの私物に手を出したその罪だ。
「クラウスさん、悪い顔してますよ」
「残念だったね。そっちが本物だよ」
フィーナのからかいに答えつつ、流暢な筆跡で自分の名前を記す。
これでアンネは名実共にクラウスの所有物だ。彼女もきっと嬉しいことだろう。
「これからよろしくね、アンネさん」
「わ、私の最優先事項はユーリだからっ」
勿論分かっているとも。
何よりその為の、この契約だ。
笑顔で答えて、それから長い息を落とす。
ここが分水嶺。これからはただ、クラウスの都合の為だけに踊ってもらう。
もう悪役の仮面も要らない。
なぜならクラウスは────
「悪魔降臨ね」
「翼がないのが残念だね」
アルからもお墨付きを貰う。
ここからはクラウスの道。全ては野望の為に終息する。
……まずは最後に残った懸念を消し去るところからだ。
クラウスが見る世界の色が反転する。
次いで今まで目を背けてきた世界の理に触れる。
「それで、ブリギッテのそれは彼女の置き土産ってことでいいのかな?」
「……そうね。幾ら貴方でも流石に妖性剥き出しで話は出来ないでしょう?」
「まだ妖精語が喋れないからね」
「……………………」
ブリギッテの糾弾するような視線が刺さる。
クラウスはクォーターだ。その身には妖精の血が流れている。ならばいつか妖精同士で交わされる妖精語が使えたとしても不思議では無いだろう。
可能性は、皆無ではない。
「その話は置いておくとしようか。……彼女の残したその妖精術。何か名前はついてる?」
「多分まだなんじゃない?」
「こういうのは意外と見栄えってのは大事だからね……。それでいて分かりやすく、人間の驕りも交えて…………」
「外連味って言ったかしら?」
随分と難しい言葉を知っていると黒い相棒の知識に驚きつつ、一つ見つける。
「回帰の揺籃歌……。妖性の暴走を眠らせる子守唄」
わざとらしい名前は一周回って大きな衝撃となって浸透する。
既にあるもので言えばヘルフリートの極炎法衣……極炎闘衣や、冷炎の遺物である凱淵騎士団などだ。
これらは噂から広がって出来上がった名称で、別段ヘンリック・アヴィオールがそう振り翳していた名前では無いらしい。
けれど名前が付くほど有名と言うのは、その名が出るだけで影響力があるということ。名前には、目に見えない力が存在するのだ。
「私の最初の役目はその噂をばら撒けばいいって事?」
「……いいや。今のこの景色なら陛下に直接認めてもらえばいいと思うよ。話をすればきっと納得してくれるから」
アンネの言葉に最も効率的な方法を提示する。
妖精変調以降世界は慌しくなっている。そんな混乱の中でどの国も結果を出したいのは同じで、競いつつ研究を進めているはずだ。
気の抜けないのはどこも一緒。そんな折に対抗策が一つでも出れば、その国は主導権を握ることが出来る。
特に今回の妖精術はあのアスタロス王妃殿下が作り出したものだ。その権利はブランデンブルクに帰属する。
現状は開発した者勝ち。それに彼女の作り出したものならという信頼もある。
ならば他国の手が伸びる前に、こちらから打って出るべきだ。
「お願いできる?」
「出来る限りやってみる」
頼もしい声に一つ頷くと、話を進める。
「で、ブリギッテの纏ってるそれは揺籃歌な訳だよね?」
「そうね。これは妖性の覚醒を防ぐ彼女の作り出した理」
ブリギッテは既にローザリンデとの契約を失っている。供給される妖精力もなく、彼女の中に残留するそれで体を維持しているに過ぎない。
そんな不安定な彼女が妖精変調の変化を受けていないのには理由が存在する。
彼女が自身に掛けている妖精術。それが先程の回帰の揺籃歌だ。
その妖精術の効果で、彼女は未だ妖性を暴走させずにこうして小さな人型で存在していられる。
「……その術式、もしかして完璧では無いんじゃない?」
そんな事をクラウスが考えていると、唐突に肩上のアルが告げる。燃えるような真紅の瞳がブリギッテを射抜き、やがて彼女葉は小さく零す。
「……えぇそうよ。これは不完全。尤も妖精術としては成り立っているけれどもね」
「アル、詳しく」
妖精の妖精術に対する感覚だ。それを無視できるほどクラウスは抜けていない。
「簡単なことよ……。彼女の纏ってるそれ……揺籃歌は一度妖性を開放した者には効果がないって事」
アルの言葉に冷静な思考がその事実を認識する。
揺籃歌は妖精と言う存在に干渉する術式だ。まず人間は妖精の事を全て分かっている訳では無い。
そんな中途半端な知識でよくここまで結果を出したと言う方が正しい評価だろうか。
王妃殿下は聡明な方だった。分からない事は分かることでどうにか説明して来ただろうし、どうにもならないこともしっかりと知っていた。
だから彼女は、きっと最初からそのつもりで術式を作っていたのだろう。
妖精が人型を保てるのは人間に似せる人化の術が掛けられていたからだ。妖精変調は、その繭に何かしらの不都合が生じて解け、姿を変え、妖性の衝動に突き動かされる現象だ。
ならば単純に、人化の術を解けないようにしてしまえば、今以上の変化は抑える事は出来る。
けれどそれは未だ変化をしていない妖精に対しては効果があっても、既に妖性が詳らかになった存在には効果を発しない。
即ち、彼女の作り出した回帰の揺籃歌と言う妖精術は、改めて人化の妖精術を掛けるのではなく、今ある人化の妖精術を延長するだけの術式と言うことだ。
それでも、これ以上の世界の混乱を防げるのだから大きな一歩だとは思う。
「なるほど。……まぁ今の人間が持つ知識から考えればその辺りが理想なんだろうね。何にせよ、王妃殿下の功績には感謝しないと。彼女のおかげで妖精たちの多くは安心できるし、きっとどの国も動きやすくなる。本格的に妖精変調への対策を考えられる」
彼女の遺した世界を変える理に否定や非難をぶつけるものはいないだろう。
それほどの大業と言うのは確かなのだ。
「……それからリンダからの伝言だけど」
「うん、そっちが本題だね」
ブリギッテはこの為だけに自分に揺籃歌を掛けてここまで来てくれたのだ。そろそろ彼女の存在できる時間も少ないはず。
今一度居住まいを正して彼女の言葉に耳を傾ける。
「……『あなたは間違っている。だからそれが正しいと証明しなさい』だそうよ」
思わず笑みを浮かべる。
あの王妃殿下に認められたと。この胸に抱く大志は振り翳してもいい暴論なのだと。
彼女がその言葉を遺した心境までは流石に汲み取る事は出来ない。けれどもし少しでも期待を込められているのなら……彼女に認めてもらえるのなら。クラウスはクラウスらしく自分の道を進むだけだ。
「…………そっか。……うん、ありがとう。ブリギッテも、そろそろ疲れたでしょ? ゆっくり休んできたら?」
「えぇ、そうさせてもらうわ。……悪くない生き様だった」
クラウスの声に答えて窓際まで飛んでいくブリギッテ。彼女の歩んだ道を労いつつ、目の前の窓を僅かに開く。
これから彼女はどこへ行くのだろう。どこへ辿り着き、どこで果てるのだろう。
いつ転生するかも分からない時間を彷徨って、またどこかで彼女は妖精として生を受ける。それが妖精の転生の理。
その旅立ちを見送ることが出来る喜びと悲しみに胸を打ちつつ、静かに零す。
「君の事は忘れないよ、ブリギッテ」
「……いつかまた、貴方に会える事を期待しているわ」
転生しても、きっと彼女はクラウスの事を忘れていて。クラウスもきっと無数の中から彼女を見つける事は出来ないだろう。
けれどその奇跡を意図して手繰り寄せられたなら、その者こそがきっと妖精の国を担うに相応しいのだと。
だからやはり、クラウスはその景色にいないのだ。
未だ途方もないほど未来で、きっと直ぐ傍にある夢に思いを馳せながら一人決心する。
この世界に不必要なものは存在しない。
ただ足りない色があるから、世界はこうも不安定で煩雑なのだと。
その足りない色をクラウスは切に求める。
それが露草に捧げる小夜曲になると信じて。




