2-1
数日ぶりに陸地へ降り立ったグレイスは、思わず足を止めた。
(……あら? 地面が揺れているわ)
もちろん、揺れているのは地面ではない。数日間の船旅で、すっかり平衡感覚がおかしくなってしまったらしい。
(慣れない船旅が、こんなに大変だったなんて……)
少し顔色を悪くしながらも、グレイスは大きな旅行鞄を抱えて、目的地の宿屋へ向かうことにした。
グレイスは肩に掛けたポシェットから、何度も読み返した跡がある一冊の本を取り出す。
(この本に出てきた宿屋に行ってみたかったのよね)
それは、グレイスの宝物でもある旅行記だ。筆者の視点が面白く、彼女はこれまで夢中になって読んでは、何度も想像の中で一緒に旅行した。
それが本当に、想像ではなく実際に訪れているなんて。彼女は楽しそうに口元を綻ばせると、旅行記を大事そうにポシェットへ仕舞った。
その宿屋の名は『黒猫の魚亭』。大きな港がある都フロレンヴィアは、魚介類も多く流通している街だ。
黒猫の魚亭も、他では味わえない絶品の魚料理を出す宿屋として、旅行記の中で紹介されていた。
さっそく向かおうと、グレイスは旅行鞄を持ち上げる。
大きな旅行鞄を手に持ちながらの移動は大変ではあったが、グレイスはどうしても馬車ではなく、歩きながら向かいたかった。
港には色とりどりの花が飾られ、潮風に混じって甘い花の香りが漂っていた。
街の方へと続く石畳の路地の先を見つめれば、遠くには、赤茶色の屋根が連なる街並みが見える。
グレイスは思わず目を細めた。
(……本当に来てしまったのね)
この景色を眺めながら、ゆっくりと歩きたかった。
フロレンヴィアは芸術と商業が発展した街だ。通り過ぎていく店先には絵画や彫刻が並び、そもそもこの街全体の建築こそが、最大の芸術と言えるだろう。
白亜の宮殿と赤茶の屋根が連なる美しい街。大通りには花売りや香水商、宝石商が建ち並び、街の中心には大きな噴水広場があった。
芸術家や貴族、裕福な商人が集う、華やかで自由な文化都市という印象を、グレイスは街を歩きながら感じた。
港に着いたのは朝だったのに、いつの間にか昼が近づいていた。予定していた時刻をとうに過ぎている。
街の中に見るべきものが多すぎて、何度も目を奪われてしまい、なかなか足が進まなかったからだろう。
とはいえ、この大荷物を抱えながらの観光は現実的ではない。グレイスは名残惜しく思いながらも、ようやく宿へ向かうことにした。
黒猫の魚亭へ入ると、昼時よりも早い時間だからか、店内にはまだ客がまばらだった。
「ごめんください」
グレイスが緊張しながらも、無人のカウンターの奥に続く部屋へと声を掛けると、現れたのは、艶やかな黒髪に豊かな黒髭を蓄えた大柄な男だった。
グレイスがこれまで接してきた貴族たちとは、まるで雰囲気が違う。随分と無骨な男だ。正直に言うと、接客向きではないだろう……
「あ、あの、部屋をお借りしたいのですが……」
圧倒されていると、男は黒い髭を指で撫でながら、グレイスをじっと見つめていた。
「……ここは、庶民用の宿ですよ」
追い返すというより、確認するような口調だった。グレイスの身なりを見て、彼女が貴族であると判断したらしい。
「はい、存じ上げております。それでも、ぜひこちらに泊まりたいのです」
グレイスは穏やかな笑みを浮かべて頷くと、男は気が進まない様子で宿泊日数と料金を確認し、そっと部屋の鍵をカウンターの上に置いた。
「はぁ……貴族様をもてなすなんて……少しでも高価なシーツや石鹸に取り替えた方がいいだろうか……」
男は公用語ではなく、オシャール帝国の言葉でぼやくように呟いていた。
「お気遣いいただかなくても大丈夫ですよ。私はありのままの黒猫の魚亭を楽しみたいのです」
グレイスが帝国語で返した。すると男は驚いて、グレイスを見る。
「驚いた……あんた、外国人だろ? そんなに流暢に帝国語が話せるんだな」
「語学だけは長く学んでいたもので。通じるか心配でしたけど、良かったわ」
本の中でしか触れられなかった言葉が、今、自分と誰かをつないでいる。それを実感したグレイスは、思わず感動していた。
グレイスの嬉しそうな笑顔を見て、男もやっと初めて笑顔を見せた。
「俺はここの店主のダンゼルだ。もし昼飯がまだ決まっていないなら、ここの料理を食べてみてくれ。俺が、この店自慢の魚料理を作ってやるよ」
ダンゼルはグレイスの人当たりの柔らかさに心を開いてくれたのか、親しみを込めた笑みを浮かべながら握手を求めてきた。
「えぇ、ぜひ。貴方の料理を目的に、ここまで来たんだもの!」
グレイスはダンゼルの分厚く太い手を握り、握手を交わした。
◆
とりあえず、一週間部屋を借りることにした。グレイスの部屋は宿の二階の角部屋で、陽当たりがとてもいい。
(きっと、気を遣ってくれたのでしょうね)
ダンゼルのさり気ない優しさに心を温かくさせながら、グレイスは笑みを浮かべた。
部屋の中で旅行鞄を開き、荷物の整理をしていく。すると、窓の外から人々の活気ある声が聞こえてきた。
グレイスは荷物整理の手を止めてベッドに上がると、すぐ脇にある窓を開いてみた。その瞬間、街の賑わいが一気に飛び込んできた。
(王国とは、随分雰囲気の違う街ね……)
窓の外には、ちょうど肘をついて寄りかかりやすい高さの石造りの手すりが設けられていた。グレイスはそこに両肘を預け、下に広がるフロレンヴィアの街並みを眺めた。
黒猫の魚亭は坂道の上に建っているため、二階の部屋からでも街を遠くまで見渡せた。
忙しそうに行き交う商人や、見回っている騎士たち……飴の瓶を抱えて走る子どもに、それを追いかける父親らしき人。
「……素敵な街」
頬杖をついてうっとりと眺めていると、温かな陽射しがグレイスを包み込んだ。
数日間の船旅で、思っていた以上に疲れていたのだろう。気付けば、瞼が重くなっていた。
(少しだけ……)
こんなに暢気に過ごすのは、いつぶりだろうか。
グレイスは手すりに両腕を預けたまま、心地よい微睡みの中へと落ちていった。




