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急に侍女長室に現れたグレイスの姿に、侍女長はとても驚いていた。
事情を説明したグレイスに対して、侍女長は申し訳なさそうに目を伏せる。
「……私に、荷造りのお手伝いをさせてください」
「気を遣わなくていいのよ。貴女も忙しいだろうから」
確かに侍女長は忙しかった。ユリスが公爵夫人になる上、身ごもっているのだ。使用人たちの入れ替えや再配置、指導、さらに新しい者達の雇い入れも必要になっていた。
それでも侍女長は、今の手元にある仕事を後回しにしてでも、グレイスへ申し出た。
「いえ、私が……どうか、奥様に最後までお仕えさせてください」
「……ありがとう。実は手が足りないと思って不安だったの」
グレイスの穏やかな笑顔を見つめながら、侍女長は悲しそうに眉をひそめたのだった。
◆
ユリスに付き添っていたエドウィンは、今しがた補佐官が持ってきた離縁の契約書を見つめていた。
(グレイスが追加した条件か……)
グレイスらしい丁寧で整った『相互不干渉』の文字を見つめながら、エドウィンは思わず考えに耽る。
グレイスは確かに、利用するために嫁いでもらった妻だった。
学生時代、利発で美しい後輩がいると、男子生徒たちの間で噂になっていたため、グレイスの存在は知っていた。
貧乏で、貴族でありながら自身で学費や生活費を稼ぐグレイスのことを、周囲の大半は笑っていたけれど、エドウィンはなんと芯の強い女性だろうと感心していた。
そのままエドウィンは卒業し、とくにグレイスと交流を持つことはなかったけれど。
それから、ユリスが政略結婚で自分から離れ他人の妻になり、親愛なる家族も事故で亡くなった。人生のどん底の中、爵位を継いだばかりのエドウィンの目に映ったのは、卒業以来、久しぶりに見かけたグレイスだった。
彼女は昔見たままの知的な美しい女性で、周りの目すら気にせず凛と立つその姿は、まるで気高い一輪の薔薇のように思えた。
グレイスの表情に悲壮感など微塵もなく、希望に満ちた輝きがあった。
彼女を眩しく思った。気付けばエドウィンはグレイスに声を掛けて、ダンスを一曲踊った。
利用する妻が必要とはいえ、誰でもいいわけじゃなかった。
確かにグレイスの実家には金もなく、権力もないため簡単に制御できると考えたのも、理由のひとつだ。しかし、それ以前に相手がグレイスだったから、エドウィンも行動に移せたのだ。
グレイスがエドウィンとの婚姻を受け入れたのもお金のためだと分かっていたが、それでもグレイスは妻としてよく公爵家のために働いてくれた。それはエドウィンの期待以上の働きで、彼も妻に感謝していた。
それでも、その感情が薄れていったのは……グレイスと結婚して三年目、再びユリスが現れてからだ。
グレイスが素晴らしい女性なのと、エドウィンが愛する女性は別だ。
元恋人の家庭はあまり上手くいっておらず、泣きながら辛いと頼ってくるユリスを、エドウィンはどうしても拒めなかった。
年々、グレイスの本来あった輝きが失われていったことには気付いていた。
それでも、やはりグレイスはエドウィンの妻なので、彼女との間に子どもができれば、少しは安心させられると思っていたが、結局、子どもを授かることはなかった。
一線を超えることはなかったが、ユリスと親密になっていくに比例して、グレイスと顔を合わせる機会さえ減っていった。
そしてユリスの離縁が決まり、公爵家に転がり込むようにして彼女が再びエドウィンの元に帰ってきた時、エドウィンとユリスは一線を超えて結ばれた。
その時からエドウィンは、グレイスに一切触れなくなった。
(……こんな簡単に署名してしまうとは)
もう少し、悩むかと思っていた。そもそも、離縁を切り出した時に、涙のひとつでも見せると思っていた。
エドウィンとグレイスの間には、確かに共有した十年という年月があるのだから……
(私はずっと、悩んでいたというのに……)
ユリスが離縁し、再び結ばれた時、グレイスとの離縁についてずっと悩んでいた。
ユリスも期待しているようだし、早く彼女を安心させてやりたい反面、グレイスを自分のもとから手放すのは……
エドウィンは結局、二年以上も決断を先延ばしにして、ユリスの妊娠をきっかけにやっと決断することができたのだった。
エドウィンは、これまで公爵家に尽くしてくれたグレイスになら、多少の我儘は聞いてやろうと思っていた。
グレイスが離縁したくないと言えば、ユリスは嫌がるだろうが離縁せずに第二夫人として公爵家にいてもらう道もあると考えていたのに……どうやらユリスへの説得材料も無駄になりそうだ。
「……この内容のまま、離縁の手続きを進めてくれ」
エドウィンは書類を補佐官に返した。補佐官は頭を下げて、部屋を出ていく。
「あら。グレイスはもう署名したの?」
「あぁ」
「やけにあっさり了承したのね。この物分かりの良さが、あの子の美徳よね」
ユリスは機嫌が良さそうに微笑んでいたが、エドウィンはふと窓の外を見つめた。
「……そうなのかな」
雨が降っている。曖昧な相槌を打つだけで、エドウィンの共感を得られなかったユリスは、わずかに眉を顰めた。
「……もしかしたら、グレイスが簡単に公爵夫人の座を手放せるのも、他に頼れる人がいるのかもしれないわね」
エドウィンは窓からユリスへ視線を移した。
暗に、グレイスにも恋人がいるのではと読み取れるユリスの言葉に、エドウィンは思わず吹き出してしまう。
「それはない。彼女は昔から芯の強い女性だから……グレイスに限ってそれはない」
端から信じていない様子で笑うエドウィンに、ユリスも可愛らしい笑顔を向けた。
しかし、布団の中では拳が握られていた。
(その言い方だと、まるで私はそうじゃないみたいじゃない……)
ユリスは笑顔の仮面を被ったまま、奥歯を噛み締めていたのだった。




