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グレイスが公爵家に嫁いだとき、サーシャはまだ十三歳だった。
貧しい伯爵家に生まれた姉妹。両親は金に卑しく、グレイスは自分の学費さえ働いて稼いでいた。
そんな姉が、多額の結婚支度金を携えた公爵家の求婚を受け入れた理由を、サーシャは知っている。
大人しく公爵家に嫁いだのも、愛人を住まわせる冷淡な夫にも耐えながら、最後まで公爵夫人を全うしようとしていたのも……全ては自分に、何不自由なく教育を受けさせるためだった。
当時はただ、姉の犠牲を受け入れることしかできなかった。
けれど、今は違う。
「姉さん。私はもう、あの頃のような子どもじゃないよ」
サーシャの言葉に、グレイスは目を伏せる。
「だからこのお金は、姉さんにこそ必要なのよ!」
続く妹の言葉に、グレイスはすぐに顔を上げた。
「姉さん。私が子供の頃、寝る前によく外国のおとぎ話の本を読み聞かせてくれたよね」
サーシャは涙に濡れた目を細めて、笑顔を浮かべる。その笑顔は、グレイスが昔よく見つめていた、妹のあどけない笑顔そのままだった。
「私、知ってるよ。姉さんの本当の夢。昔、こっそり姉さんの日記帳見てたから」
「えっ。貴女、何してるのよ……」
グレイスは目を丸くして、恥ずかしそうに頬を染めると、サーシャがぎゅっと手を握り締めてきた。
「今度こそ、自分のために人生を使って」
サーシャの、グレイスよりも明るい黄緑色の瞳が明るく輝いていた。
「そのお金で、今度こそ姉さんの夢を叶えるのよ!」
グレイスの夢……それは、外国を、世界中を回ること。
「もう、自由になっていいんだよ!」
その言葉を聞いた瞬間、遠い昔に諦めていた夢が、鮮やかに蘇った。
(そうね……私……)
エドウィンの裏切りに心は冷えて、愛人の世話をしながら心は擦り切れていった。長年の不毛な結婚生活は、グレイスの心を踏みつけ続けていた。
「もう、自由なんだわ……」
ハッとしたように声に出してみると、グレイスの胸の奥に長年積もっていた重たいものが、少しずつほどけていくようだった。
サーシャは力強く頷き、グレンもまた嬉しそうに笑っている。
グレイスは潤んだ瞳で心からの笑顔を浮かべた。
グランヴィル公爵家に戻ると、エドウィンの補佐官がグレイスの帰りを待っていた。
「おく……グレイス様。離縁手続きにあたり、こちらの書類をご確認の上、ご署名をお願いします」
グレイスは、自室に戻って一息つく間もなく、補佐官より手渡された書類に目を通していく。
そこには、離縁するにあたっての条件が記されていた。
『第一条・婚姻の解消。双方の合意により婚姻関係を解消する』
第一の条件から、グレイスは驚かされた。
(双方の合意、ね。私は今日初めて離縁すると聞かされたのだけれど……)
皮肉を込めながら、口元に小さな笑みを浮かべる。
他にも、グレイスへ慰謝料を一括で支払うこと、グレイス個人の衣服や宝石などの持ち出しを認めること、離縁成立後は七日以内に退去することなどが書かれてあった。
この書類一枚にしても、エドウィンの傲慢さがよく透けて見える。
グレイスは、書類を軽くめくり、署名をするために羽根ペンを手に取った。
その時、補佐官が気まずそうに言葉を付け加えた。
「……退去期限についてですが……旦那様が、グレイス様が希望するのであれば、この屋敷の侍女として雇い入れると申しております。その場合、退去期限は適用されないとのことです……」
ペン先をインク壺の中に浸したところで動きを止めて、グレイスは思わず補佐官を見上げた。
「……ど、どうやらユリス様が、離縁なさった後のグレイス様の生活を心配されて、旦那様にご助言をなさったようです……」
「……はっ」
これにはさすがのグレイスも、鼻で笑うしかなかった。
「……ひとつ、この条件に加えさせていただきたいのですが」
新人の侍女が懸命に結ってくれたが、やはり結び目が甘かったのか、グレイスの顔の脇に、艶やかな薄茶色の髪が一房こぼれていた。
グレイスはその髪を耳に掛け直し、いつも温かみのある深緑色の瞳を冷たくして、書類に条件を書き足した。
『相互不干渉。離縁後、双方の私生活について干渉しない』
そして、グレイスは迷うことなく自分の名前を署名欄に記すと、補佐官に書類を返したのだった。
補佐官は受け取り、グレイスの書き足した条件を見つめていた。
そして彼は目元をわずかに赤く染めながら、唇を噛み締めていた。最後にグレイスに深々と頭を下げて、部屋を後にしたのだった。
グレイスはそのまま部屋を出て、近くを通りかかった二人組の侍女を引き止めた。
「荷造りをするから、鞄を持ってきて欲しいの」
「はい。わかり……」
「ごめんなさい。私たち、新しい奥様のお仕えに忙しいので、必要であればグレイス様が直接取りに向かっていただいてもいいですかぁ?」
見れば、その侍女はユリスが直接連れてきた侍女だった。彼女はグレイスを見下した目で真っ直ぐに見つめている。
グレイスは柔らかな笑顔を浮かべる。
「そう、わかったわ。忙しいところ、引き止めて悪かったわね」
そして、笑顔のまま続けた。
「それにしても、仕えるべき侍女が貴族の目を無遠慮に正面から見つめてくるなんて……ユリス様はきちんと侍女の教育をなさっていないのね。あなたも今後、公爵家の者としての振る舞いを今からでも身に付けなさいね」
そう言うと、グレイスを馬鹿にし得意げな顔をしていた侍女は、自分の振る舞いが主人の顔に泥を塗っていることを理解したのか、顔を真っ赤にしていた。
グレイスは心の中で、ふんと鼻を鳴らし、侍女たちに背を向けて侍女長室へと向かった。




