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馬車に揺られながら、グレイスは目的地へと向かった。
しばらくして、馬車は一軒の屋敷の前で停まった。
「奥様。到着いたしました」
「ありがとう」
御者が恭しく頭を下げて馬車の扉を開き、傘を差してくれる。
公爵夫人の外出だというのに、グレイスの側には御者が一人いるだけだった。
夫人付きだった侍女たちは、今頃『真の女主人』の世話でもしているのだろう。
この傘も、御者は不慣れな手付きで差してくれていた。
グレイスは彼に柔らかく微笑みかけ、感謝の気持ちを伝えた。御者は恐縮そうに、さらに頭を下げていた。
グレイスが雨に濡れた地面に降り立つ。もう、ドレスの裾を整えてくれる者はいない。
それでもグレイスは背筋を伸ばして、一輪の薔薇のように凛とそこに立っていた。
「この先は一人で向かうわ。また、時間になったらお迎えをよろしくお願いね」
「はい、かしこまりました!」
グレイスが御者から傘を受け取り、そう告げると、彼は何度も頭を下げて馬車へと戻っていった。
グレイスは振り返り、目の前の屋敷を見上げる。そして、呼び鈴を鳴らした。
「姉さん⁉︎」
まもなくして、屋敷から飛び出してきたのはグレイスの実妹サーシャだった。妹の夫グレン・バーグレイヴ子爵までいる。
「こんな天気の中……急にどうしたの?」
ここは、バーグレイヴ子爵家の屋敷。妹の嫁ぎ先だ。
「連絡もなく訪ねたりしてごめんなさい。どうしても貴女に会いたくて……」
「そんなの、姉さんならいつだって歓迎よ! でも……侍女たちはどこ? なぜ、姉さん一人なの?」
姉の肩が濡れていることに気付いたサーシャは、慌てた様子でグレイスを屋敷の中へ引き入れた。
応接室に通されると、グレイスの前に温かな紅茶が運ばれてきた。グレイスは冷えた身体を温めるように、紅茶を一口飲んだ。
姉が落ち着くのを待ってから、サーシャが尋ねた。
「公爵家で何かあったの?」
「うん……実は私、夫と離縁することになったの」
サーシャとグレンは驚きのあまり、言葉を失っていた。
グレイスは穏やかな笑顔を浮かべたまま、エドウィンからもらった小切手をサーシャたちの前に差し出す。
「今日、貴女たちを訪ねたのは、これを渡すためよ」
妹夫婦は呆然と小切手に目を落とし、そこに記された金額に顔色を変えた。
「エドウィン様からいただいた慰謝料なのだけれど……どうせ私が持っていても両親にむしり取られるだけだろうし、それならいっそのこと、私の愛する妹家族のために使いたいわ」
グレイスはそう言って、膨らみ始めたサーシャのお腹に優しい眼差しを向けた。
「サーシャ、グレン、そしてこれから生まれてくる私の姪か甥。貴女たちには必ず幸せになってほしいの」
サーシャはやっとの思いで声を上げた。
「ま、待って……! 理解が追いつかないわ……慰謝料? それよりも、離縁ってどういうこと⁉︎」
「ユリス様がエドウィン様のお子を身ごもったそうよ。だから……」
グレイスの説明はまだ終わっていなかったが、グレンが突然テーブルに自身の拳を叩きつけたことで、驚き思わず口を閉じてしまった。
「あ、愛人が妊娠したから、離縁しろと言われたんですか……⁉︎」
グレンを見れば、彼の顔は怒りで赤く染まり、額には青筋が浮かんでいる。
「そんな身勝手な話……いくら公爵家でも、許されるはずがない! 十年間も支えてくれた妻に、この仕打ち……あんまりだ!」
まさか、普段は穏やかな義弟がここまで怒りを露わにするとは思ってもみなかった。
グレイスは自分の代わりに怒ってくれる彼に感謝しながらも、小さく笑って自身の本音を彼らに伝えた。
「いいのよ……それに、私ももう、あの公爵家からは解放されたかったの。こんなにお金をくれるって言うんだもの。貰って、潔く去る方が私にとっても合理的よ」
あの不毛な結婚生活を終えられる上に、お金までくれると言うのだ。グレイスにとっても、悪い話ではない。
「それでも、それでもっ……あの人たち、どれだけ姉さんのことを馬鹿にすれば気がすむの⁉︎」
サーシャは真っ赤になった大きな目を見開いて、ぼろぼろと大粒の涙をこぼしていた。
「姉さんは、ずっと我慢してきたじゃない! 自分のやりたいことも、欲しいものも、全部後回しにして……それなのに、どうして最後まで姉さんだけが我慢しなきゃいけないの⁉」
しかし、そんな文句を目の前の姉にぶつけても、姉を困らせてしまうだけだ。
サーシャはさらに続けたかった言葉を飲み込む代わりに、ソファーから立ち上がり、グレイスのもとへ駆け寄った。
そして、姉の細い体を強く抱きしめる。
「さ、サーシャ……?」
「姉さんが納得しているなら、私ももう何も言わない。でも……このお金はもらえないわ」
サーシャは腕を解いて体を引くと、グレイスの深い緑色の瞳を見つめた。
するとグレイスは「ふふ」と小さく笑って、涙を浮かべる妹の頭を優しく撫でてやった。
「大丈夫。サーシャはこれからの私の生活を心配してくれているのよね? 実は私、公爵家に嫁いでからも語学の勉強は続けていたの。だから、これからは翻訳の仕事をしてみようかと考えているのよ」
サーシャは涙をこぼして、顔を横に振った。
「違う、私が言いたいことはそうじゃなくて……もう姉さんに、自分を犠牲にしないでほしい」




