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グレイスは小切手を見つめて、ふっと小さく鼻で笑う。
利用されるために支度金で花嫁として買われ、役目を終えたと慰謝料で公爵家を追い出される。
今日のことを想定して動いていたのだとしたら、エドウィンは身勝手な男だけでなく、とても狡猾な男だとグレイスは思った。
執事長とともに自室に戻ったグレイスは、本棚から帳簿や管理簿を取り出して机の上に重ねていった。
「全て年度ごとに整理をしているわ。帳簿については、品目別に分けてあるから……」
「奥様」
グレイスが帳簿を広げながら説明しようとしたところで、ずっと黙っていた執事長が、説明を遮るように声をかける。
「どうして、何も仰らないのですか?」
エドウィンに、ということだろう。
グレイスより執事長の方が悔しそうにしている。
先ほどよりは心が落ち着いたグレイスは、どうしようもないといった諦めを滲ませた笑みを浮かべた。
「……この公爵家では、私が何を言ってもエドウィン様のお考えは変わらないわ。貴方もよく知っているでしょう?」
何を思おうと、どう感じようと、グレイスには受け入れる以外の選択肢なんてない。
執事長のように、グレイスとともに公爵家を支えてきた一部の使用人たちは、彼女を女主人だと認めてくれるが、そうでない者たちはユリスこそが真の女主人であるかのように扱っていた。
それだけグレイスは、このグランヴィル公爵家において発言権は弱い。
「それでも……それでも、これではあまりにも奥様が……」
執事長の目の奥で何かが光った。
「貴方がそう言ってくれるだけでも、私の心は救われるわ」
自分のために泣いてくれる人がいる。グレイスはこの公爵家で過ごした十年間のすべてが、無意味だったわけではないと思えて、小さく笑った。
執事長は、机の上に置かれた小切手に少し視線を留めた。そして、丁寧に両手で持ち上げると、彼はグレイスに手渡してきた。
「これは、離縁に対しての慰謝料という不名誉なお金ではありません。奥様が、十年間、この公爵家にご自身で証明してきた能力への報酬です」
そう言われると、グレイスの目の奥がじんわりと熱を帯びてくる。
「ふふ……そうかしら?」
グレイスはニコリと柔らかく笑い、目の端に滲んだ涙を軽く拭った。
執事長から改めて小切手を受け取る。何だか、エドウィンから受け取った時よりも、心が軽くなったような気がした。
そのまま窓へと目を向けた。外は雨が本降りで、雨煙にけぶり景色が白く霞んでいた。
「……今から外出しようと思うの」
「では、侍女たちに準備させましょう」
執事長は側に控えていたメイドに声を掛ける。メイドは頷き、グレイスの部屋から出て行った。
部屋の中には、グレイスと執事長二人だけになった。
「……今だけ、私の本音を言わせてください」
グレイスが外の雨を見つめていると、執事長が小声で呟くように言った。
「奥様が……グレイス様がこの屋敷に嫁いで来てくださった時、グランヴィル公爵家はとても不安定な状態でした」
グレイスは少しだけ彼に顔を向ける。
「前公爵様と大奥様、そしてご長男様が事故で亡くなられた後、急遽次男のエドウィン様がお継ぎになりました」
そう、十年前はとても大変だった。グレイスも執事長も、エドウィンを支えるのにとても苦労したものだ。
「それでもエドウィン様が公爵として苦労なく社交界に受け入れられたのも、ひとえに奥様の気遣いの手紙や贈り物のおかげだと思っております」
グランヴィル公爵家と名を並べる貴族、友好的な貴族、利害関係で繋がる貴族……その関係は様々だったが、グレイスは毎年、彼らへ丁寧に書き留めた手紙と、贈る相手を思い浮かべながら、自ら選んだプレゼントを贈っていた。
「公爵家の中がこうして安定したのも、奥様が細やかに気を配り、使用人たちにとっての指針となってくれたからです」
突然、公爵夫婦と後継者を亡くしたグランヴィル公爵家。残ったのは、家族を亡くした上にユリスが嫁いだことで自暴自棄になり、酒に溺れていた当時のエドウィンだけだった。
それでもエドウィンが立ち直り、公爵として立派に振る舞えるのは、グレイスのおかげだったと執事長は言う。
「だから、私は……今回のことが、旦那様のことが、本当に嘆かわしくて、許せないのです……」
グレイスが何かを言おうと口を開く。その時、二名の侍女が部屋に入ってきた。
「? どうして新人のあなたたちが来たのですか? これまで奥様に付いていた侍女たちは……?」
執事長は眉をひそめて二人の侍女に問いただすように尋ねる。侍女たちは困惑した表情を浮かべ「旦那様より、これまで奥様に付いていた侍女は全てユリス様に付くようお達しがありまして……」と気まずそうに答えた。
執事長の顔が、一気に赤く染まる。
「いいのよ。貴女たち、髪は結える?」
怒りに震える執事長を制して、グレイスは優しい声色で新人の二人に尋ねた。
「あ、えっと……簡単なものでしたら……」
「そう、良かった。では、お願いできるかしら」
そう言って、グレイスは執事長に目配せする。
「これから準備があるから……帰ってからまた改めて話しましょう」
執事長はぐっと拳を握りしめると、すぐに解き、そして丁寧に深く頭を下げて、部屋から出て行ったのだった。
グレイスは再び窓の外へと目を向けた。
(少しでも早く、私は公爵家を出て行くべきね)
そんなことを考えながら、グレイスは新人の二人とともに外出の準備を進めていったのだった。




