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1-1

「これが君への慰謝料だ」


 エドウィンのその言葉に、グレイスはハッとして窓から夫へと視線を戻した。


 エドウィンはちょうど近くに控えていた若い執事に指示を出しているところだった。

 執事は少し戸惑った様子を見せながらも、グレイスのもとへ近付き、『それ』を渡してくる。彼の手は僅かに震えていた。


 グレイスが執事の手元へ視線を落とすと、そこには小切手が握られていた。


「十年間、この公爵家のために尽くしてくれてありがとう」


 エドウィンはそう言って、慰謝料の内訳を事務的に述べていく。そして最後に、グランヴィル公爵家の刻印があるこの小切手は、この王国だけでなく近隣諸国でも銀行によっては問題なく使えるという説明で締め括った。


 グレイスは夫の説明を聞きながら、そこに記載された金額をじっと見つめていた。


 これまでグレイスは、真面目に誠実に公爵家に尽くしてきたつもりだ。

 初めからグレイスは、エドウィンが自分を愛していないと知ったうえで結婚した。それでも、結婚当初の彼は、グレイスを一人の妻として尊重してくれていたから……


 結局、その尊重も長くは続かなかったけれど。


 そう思うと、何もかもが急に馬鹿らしくなり、思わず笑ってしまいそうになった。


 エドウィンは慰謝料の金額だけは丁寧に説明するのに、離縁されたグレイスの今後の住まいや生活については一切尋ねてこない。


 金さえ渡せば、グレイスへの責任は全て果たしたとでも思っているのだろう。


 一体、人の人生をなんだと思っているのか。

 グレイスはエドウィンの冷淡さを知っていたが、ここまで身勝手な男だとは思ってもいなかった。


 けれど今は、そんなことさえどうでもよかった。


 小切手には、グレイスがこの先どれだけ働いても、きっと手にできないであろう金額が記されている……


(……なんて、素晴らしい金額なのだろう)


 思わず、ごくりと唾を呑み込んで、その小切手を受け取る。


 そんなグレイスの姿を見て、エドウィンは用件は終わったとばかりに彼女から顔を逸らすと、以降はユリスばかりを見つめていた。


 グレイスはお辞儀をすると、彼らに背を向けて部屋を出ようとした。


「別に執事を通して伝えても良かったんだが……」


 すると、まるでグレイスを引き止めるかのように、エドウィンがユリスを見つめながら言う。


「君はよくこの公爵家のために働き役に立ってくれたから……せめて私から労ってやりたかったんだ」


 グレイスは足を止めるが、特に彼に言うべき言葉もないので、最後にもう一度頭を下げて、今度こそ部屋を出たのだった。


 執事長もグレイスに続いて、ユリスの部屋から出た。


「奥様……」


 執事長も聞かされていなかったのだろう。その声には戸惑いが滲んでいた。

 グレイスに声をかけたものの、言葉をどう続けるべきか悩んでいるようだった。


 その時、扉の向こうから会話が聞こえてきた。


「エド、こんな風に勝手にグレイスとの離縁を決定してもいいの? あちらのご実家は納得しないんじゃない?」


 さっきまでずっと黙って、グレイスとエドウィンのやり取りを見守っていたユリスの声だった。


「心配いらないよ、ユリス。彼女のことは金でどうにでもなる。だから私は、実家に金も力もないグレイスを妻として選んだんだ」


 そう答える夫の声に迷いはなく、グレイスは足を止めた。


「そう……グレイスとは初めから離縁するつもりだったのね」

「避けられなかった結婚とはいえ、君が侯爵家に嫁いでしまい、私も公爵位を継いだからには体裁としての妻が必要だった。仕方がなかったんだ」

「エド、ごめんね……ずっと待たせちゃって……」

「いいんだよ。それよりも、やっと君を私の妻として迎え入れられることの方が重要だ」


 同じく会話を耳にした執事長さえも、顔を青ざめさせていた。


 グレイスは、ふと足元がぐらりと揺れるような感覚に襲われた。実際に肩が揺れて、咄嗟に執事長が支えてくれた。


「……ありがとう。このまま私の部屋に来てくれる? これからのことを、引き継いでおきたいの」


 グレイスは何とか姿勢を正すと、執事長からすぐに顔を背けて彼の前を歩き出す。


 さすがに今は、嘘でも笑顔を浮かべることなんてできなかった。


(……知らなかった)


 グレイスが信じていたエドウィンの当初の尊重なんて、初めから存在していなかったのだ。


 廊下を進みながら、エドウィンとの婚姻に至るまでのこと思い返していた。


 グレイスが二十歳の時、求婚してきたのはエドウィンだった。


 同年代の令嬢たちより遅れて迎えた社交界デビューで、パートナーもおらず壁の花となるしかなかったグレイスに手を差し伸べてくれた、巷で噂の素敵な貴公子。


 たった一度、ダンスを踊った間柄だったのだが、エドウィンはグレイスの何を気に入ったのか、多額の結婚支度金を携えて、彼女の両親のもとを訪ねてきた。


 グレイスの生家、ベルフォード伯爵家は金も力もない名ばかりの貴族だ。両親はエドウィンの金に目が眩み、彼の思惑なんて考えることなく求婚を受け入れた。


(思えば……私の結婚は金で始まり、金で終わったわね)


 握りしめた小切手に、わずかな皺が寄った。

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