使い捨ての妻
グレイス・グランヴィルは、公爵家の二階にある自室の大窓から、空を見上げていた。
「……もうすぐ雨が降り出しそうね」
読書の手を止めて、鈍色に染まりゆく空を見つめながら、ポツリと呟く。
そこに、一羽の鳥の姿を見つけた。鳥は、風に乗って空高く舞い上がっていく。
グレイスは頁を捲るのも忘れ、眩しそうに目を細めながら、その姿を追いかけた。
やがて鳥は、空の彼方へ消えていった。
グレイスは手元にある本へ再び視線を落とすと、何の感情も見えない瞳で文字を追う。
その本は外国で出版された旅行記だった。馴染みのある公用語には翻訳されておらず、外国語が連なっている。
かつてグレイスは、貧乏な伯爵令嬢ではあったがその境遇に卑屈になることはなく、『世界を旅したい』という夢を見て、熱心に語学を学んでいた学生だった。
そんな夢に満ちていた時代がグレイスにもあったなんて、今では本人さえ忘れてしまいそうになるけれど。
「私って、意外と未練がましいのね」
広げられた旅行記の隣には、グレイスが本の内容を丁寧に翻訳して書き綴ったノートがあった。
十年経った今も、こうして時間を見つけては少しずつ語学の勉強をしている。
そのひとときだけが、グレイスが現実から逃げられる時間だった。
グレイスがこのグランヴィル公爵家に嫁いできたのは十年前になる。
出会って間もない夫の隣で美しい花嫁衣装に身を包み、グレイスには想像もつかないほど盛大に執り行われた結婚式。
当時は、貧乏令嬢から公爵夫人に成り上がったグレイスの結婚について、周囲は『シンデレラ・ウェディング』だなんて面白おかしくはやし立てていた。
あの頃のグレイスは、事情があり夢を諦めて結婚を選んだけれど……純粋だった過去の自分は、まだ結婚への希望を抱いていた。
でも、それも……
「奥様」
その時、部屋の扉がノックされ、すぐに執事長の声がする。
「旦那様とユリス様がお呼びでございます」
――あぁ、来てしまった。現実の時間が。
グレイスは静かに本を閉じると、席を立ち、扉の向こうにいる執事長へ返した。
「そう。わかったわ」
そう言って、扉を開ける。するとそこには、申し訳なさそうに眉尻を下げる執事長が立っていた。
「……公爵家の執事長ともあろう者が、そのような表情をしていては、下の者に示しがつきませんよ」
グレイスが困ったように柔らかく微笑んで注意すると、執事長はハッとした表情を浮かべ、慌てて頭を下げていた。
「申し訳ございません!」
「いいの。お二人をお待たせできないわ。向かいましょう」
執事長に案内されたのは、三階にあるユリス・ウィンスレットの部屋だった。彼女は夫であるエドウィン・グランヴィルの『客人』である。
そして、主寝室と繋がった隣の部屋を使用している、夫の最愛の愛人だった。
ユリスがこの公爵家に転がり込んできたのは、一昨年の春の頃……彼女が嫁いでいた侯爵家と、離縁してからだった。
伯爵令嬢だった時に、グレイスもこの二人の話を聞いたことがある。
もともと幼馴染で、恋人だった二人。けれど、ユリスの政略結婚によって引き裂かれた悲恋の二人。
「旦那様。奥様をお連れしました」
執事長がユリスの部屋の扉をノックする。中から、聞き慣れた低い声が返事をした。
扉が開かれた先には、グレイスが予想していたよりも多くの人がいた。それは、使用人だけでなく、医者や薬剤師などの医療従事者も数名いたからだ。
エドウィンは薄桃色のベッドの縁に腰掛けたまま、グレイスが来たというのにこちらに顔を向けることはなかった。
ベッドには……白金髪が美しい、薔薇色の瞳をした美女が横たわっている。ユリスだ。エドウィンは、心配そうな面持ちでユリスの手を大事そうに握っていた。
グレイスが入室すると、医師たちは彼女に深くお辞儀をした。そして、痛ましそうな表情を浮かべて彼女を見つめた後、部屋から出て行った。
「……エドウィン様。お呼びでしょうか?」
呼ばれて来たというのに、いつまで経ってもその場に立たされていたので、仕方なくグレイスから用件を尋ねる。
見たところ、ユリスが体調不良らしい。きっとそのことで呼ばれたのだろう……
グランヴィル公爵夫人の仕事には、愛人の世話も含まれているからだ。
エドウィンの紫色の瞳に、やっとグレイスの姿が映し出された。
「ユリスが私の子を身ごもった。だから、君には公爵夫人の座を明け渡してもらう」
夫の用件は、離縁の決定を告げることだった。グレイスは僅かに目を大きく開くと、静かに息を呑む。
窓を何かが叩く音がした。
グレイスが音に反応して窓へ視線を向けると、窓硝子を雨粒が伝っていた。
どうやら、雨が降り始めたらしい。




