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グレイスがこの花の都にやって来て、気付けばもう五日が経っていた。
黒猫の魚亭の宿は、一週間しか借りていないのだが……
(明後日には部屋を出ないと……でも、この街も宿もすっかり気に入っちゃったわ)
当初は一週間ほどフロレンヴィアの街を楽しんだ後、また別の街へ移ろうと考えていた。
この五日間、グレイスが毎晩書き留めている日記は、まるで旅行記のような内容だ。もともと文字を書くことは好きだし、気持ちが乗るとついつい筆が止まらなくなってしまった。
グレイスは、すっかりこの街に魅了されてしまっていた。文化や食の楽しみももちろんだが、黒猫の魚亭をはじめとした人々の温かみも、この街の魅力のひとつだと感じている。
(この街の四季も感じたいと思ってる私がいる)
この旅行記もどきの日記帳に、フロレンヴィアの四季の姿を書き留められたら、どんなに素敵なことだろう?
(どうせ、私を縛るものなんて何もないもの。今後のことで急ぐことなど何もないし……第二の人生を楽しむ気なら、とことん楽しまなくちゃよね!)
グレイスがここまで大胆な決断ができるのも、エドウィンから渡された慰謝料の存在が大きい。こうなったら、元夫の慰謝料でとことん自由に楽しもうと思った。
「そうなると……宿ではなく、家を借りた方が賢明かしら? お金はあるとはいえ、大切に使うに越したことはないわよね」
今日は当初予定していた街の食べ歩きではなく、部屋探しに切り替えよう。
グレイスは今日の予定を決めると、部屋を出た。
一階に降りると、ちょうどアンナとアーティの親子と鉢合わせた。
「グレイスさん、今日もお出掛けするの?」
今ではグレイスとアーティはすっかり仲良しだ。先日、アーティおすすめのクレープ店で食事をともにした仲なのだ。
「えぇ。今日は用事があって……」
すると、アンナがハッとした様子でグレイスに注意を促した。
「そういえば、来週から花祭りがあるから、最近観光客も増えているみたいなの。知人を装った盗難事件も起こっているようだから、グレイスさんも気を付けてね」
フロレンヴィアの花祭り。それは世界的にも有名なお祭りで、花で飾った女性たちの中から、その年の花の女神『フローラ』を決める習わしなのだとか。
フローラとなった女性は、女神に代わってフロレンヴィアの安寧を願い、街中に花びらを撒いていく。
それはひとつの大きなパレードで、若い女性たちはフローラになれることを夢見ているのだという。
結婚と離婚を経験した三十歳のグレイスにとっては、若者たちとは違い、花祭りはただ美味しい屋台を楽しむイベントなのだが……
「どこの店も混んでるみたいだね」
アーティがアンナに言った。
「アンナさん、ご忠告ありがとう。気を付けますね」
グレイスは肩掛けのポシェットを、守るようにぎゅっと握りしめてみせると、そのまま二人に手を振りながら宿を出たのだった。
外に出てみると、アンナの言った通り、さらに多くの人で賑わっているようだった。
騎士たちが忙しそうに見回っており、親とはぐれて泣いている子供をあやしたり、旅行客から道を聞かれたりしている姿を見かけた。
すると、グレイスの目の前にも一人、困った様子の騎士の姿が目に入った。
「えぇっと……なんですって? もう少し、ゆっくり話してもらえますか?」
甲冑姿の騎士の声は、まだ若そうだった。
彼の前では家族で旅行に来た外国人が、身振り手振りで何かを説明している。
どうやら言葉が通じずに、騎士は困っているようだった。
(あら、珍しい。ヒリヤ語だわ)
グレイスが通りかかる時に、彼らの会話が聞こえたため、思わず立ち止まる。
ヒリヤ語が使われる国は、この帝国から遠く離れており、あまり馴染みのない言語だろう。グレイスも勉強したから何とか聞き取れるが、帝国語ほど流暢には話せそうにない。しかし……
「突然すみません。どうかなさいましたか?」
グレイスが彼らに歩み寄り、ヒリヤ語でその家族に尋ねた。騎士は驚いた様子で、兜の目元から青い瞳を覗かせて、グレイスを見た。
その家族はどうやら、道を尋ねたかったようだ。幸いにもグレイスが訪れたことのある場所だったので、道順を教えてやると、家族は安心した様子で礼を言いながら、目的地へと向かっていった。
グレイスが家族と話している間、騎士は身動きもせずにじっとグレイスばかりを見つめているようだった。
「あの……もう解決しましたので。私、行きますね」
動かなくなった騎士を奇妙に思いながらも、グレイスは丁寧に頭を下げて彼に背を向けた。
そして、歩き出したところで、騎士がやっと動き出した。
「あ、あのっ、グレイスさんですか⁉︎」
「え?」
まさか、異国の騎士に名前を呼ばれるとは思ってもみなかったグレイスは、驚きのあまり立ち止まって彼を振り返った。
先ほど、あの家族に尋ねられ名乗ったから、それが聞こえていたのだろうか……
その騎士は、慌てた様子で兜を脱いでいた。
「お、俺です‼︎」
『俺です』と言われても……
兜の下から現れたのは、まったく見覚えのない、金髪の爽やかな若い男性だった。
グレイスには異国に昔からの知り合いはいないし、ましてやこんなに若い男の子と知り合う機会もない。
透き通るような青い瞳に見つめられても、心当たりのないグレイスは、ただ眉をひそめるしかなかった。




