第6話】:電話の呼び出し音と、喫茶レトロの角席
ブブブブ……ブブブブ……。
木製のちゃぶ台の上で、スマホが不気味にバイブレーションを響かせて揺れる。
俺は画面を恐る恐る覗き込んだ。
ディスプレイに表示された名前は──『千石』さん。
一瞬で、背筋に冷たい氷を押し付けられたような嫌な予感が走った。
「……もしもし……」
『マモル君、千石だ。元気にしているかね?』
「……ええ。おかげさまで、なんとかやっています」
『それは良かった……』
そこまで話すと、受話器の向こうの千石さんの声のトーンが、低く張り詰めたものへと一変した。
『……サカモト君のことなんだが……』
(……やっぱり、サカモトのことか……ッ!)
俺の声が無意識に固くなったのを、千石さんは電話越しに察したようだった。
『……見たのかね?』
「……はい」
『そうか……それなら話が早い。少し君と話したいことがあるんだが、時間は作れるかな?』
「え……あ、はい。明日は19時までコンビニのバイトが入っているので、それ以降でしたら……」
『分かった。では19時半に。君の家のアパートのすぐそばに、喫茶『レトロ』という店があるのは知っているかね?』
「あ……はい。バイトへ行く時に、いつも前を通っているので分かります」
『よし! じゃあそこで待っているよ。仕事が終わったら来てくれたまえ』
「……分かりました」
そこで通話はプツリと切れた。
俺はゆっくりとスマホをちゃぶ台の上に戻す。
公安の手を借り、ようやく自分の力で手に入れた四畳半の平穏な日々。それがガラガラと音を立てて脅かされていく恐怖に、俺の胸は激しくざわめいていた。
翌朝。俺はいつも通りに起床し、身支度を整えた。
今日は12時からの勤務なので、時間をかけてゆっくりと朝食を摂り、アパートの部屋を出る。
バイト先への道中、例の喫茶『レトロ』の前を通りかかった。
(今日の夜……ここで千石さんと会ってしまったら、この静かな日常が全部失われてしまうんじゃないか……)
そんな言いようのない不安に襲われ、俺は逃げるように足早に店の前を通り過ぎた。
──店に着くと、水野葵さんや神田店長がいつもの笑顔で出迎えてくれた。
(昨日見たサカモトの動画も、千石さんからの電話も……全部ただの悪い夢だったらいいのに……)
そんな現実逃避の思考を振り払うように、俺は黙々と目の前の仕事に打ち込んだ。
チラリと壁の時計を見る──時刻は18時30分。
(……もうすぐ、か……)
どこか暗い顔で時計を気にしていた俺に、後ろから神田店長がひょっこり顔を出して声をかけてきた。
「マモル君! 今日はやたらと時計ばかり気にしているねぇ。もしかして、仕事終わりに女の子とデートかい?」
神田店長のからかうような言葉に、隣で検品していた水野さんが思わず口元を押さえて声を上げた。
「えーーーーっ!? マモル君、彼女いたの!?」
俺は慌てて顔の前でブンブンと両手を振り、必死に否定した。
「そ、そんなんじゃないですよッ!!」
「えー、そうなのかい? マモル君なら彼女くらいいてもおかしくないと思うんだがねぇ」
神田店長がどこか残念そうに肩をすくめる。
その言葉を聞いた瞬間──俺の脳裏に、あの異世界の緑豊かな草原で、二人でピクニックをした時のリゼッタの眩しい横顔がパッと浮かび上がった。
(……リゼッタ……)
胸がキュッと締め付けられるように痛む。
もう……二度と会うこともないというのに。
「そうですよね! 私のお友達にマモル君を紹介したら、絶対ほっとかないと思いますもん」
水野さんがなぜか誇らしげに、胸を張ってそう言った。
「いやいや……本当に……いませんから! それに、今は仕事を一人前に覚えるので精一杯ですし!」
俺はそう言い捨てると、この不都合で甘甘な話題を早く終わらせようと、商品の前出し整理に没頭した。
二人はまだ話足りなさそうに何かクスクスと囁き合っていたが、俺の集中力に押されたのか、やがて静かにその場を離れていった。
──19時。退勤の時間となり、俺は制服を脱いで帰路についた。
店から目的の喫茶店までは、普通に歩けば徒歩10分ほどだ。まっすぐ向かえば約束の時間より早く着きすぎてしまう。
俺は鉛のように重くなった足を一歩一歩前へ踏み出し、わざと遠回りしながらゆっくりと喫茶店へと向かった。
カランコロン、とノスタルジックな鈴の音を立てて喫茶『レトロ』のドアを開ける。
入り口から店内をそっと見渡すと、一番奥の薄暗いテーブル席に、スーツ姿の千石さんが静かに座っていた。
彼はこちらの視線に気づくと、軽く手を上げて見せた。
俺は店員さんに「連れがいますので」と声をかけ、吸い寄せられるようにその席へと向かった。
「お久しぶりです……千石さん」
俺は千石さんの前に立ち、深く頭を下げた。
「久しぶりだな、マモル君。まあ、座りたまえ」
そう言って、千石さんは対面のソファー席を指差した。俺は指示に従って静かに腰を下ろした。
「こっちの暮らしは順調かね?」
「はい。おかげさまでコンビニのバイトも見つかりまして……店長もバイトの人たちもすごく良い人ばかりです。なんとかやっていけそうです」
「そうか。それは良かった」
千石さんは父親のような優しい眼差しで、深く微笑んだ。
──だが。
次の瞬間、彼の表情から温もりが綺麗さっぱり消え失せ、あの異世界の極限状態で見せていた、公安の冷徹で険しい顔つきへと一変した。
「……今日来てもらったのは……サカモト君のことなんだが……」
これから千石さんの口から語られる言葉は、きっと俺が喉から手が出るほど聞きたくなかった『現実』なのだと思う。
俺はゴクリと喉を鳴らして唾を飲み込み、静かに胸の奥で覚悟を固めた──。




