【第3話】:微糖のコーヒーと、忍び寄るノスタルジー
その後も特に大きなトラブルもなく時間は過ぎ、夕方6時に神田店長がお客さん対応を終えて店に戻ってきたところで、俺の初日のシフトは終了した。
事務所で着替えを済ませ、神田店長に挨拶をして店を出る。
外へ出ると、冷たい秋風がすっと頬を撫でて通り抜けていった。
「もう10月か……。異世界にいると、季節感なんて完全に狂ってたからな……」
そんな独り言を呟きながら、俺は歩道へと歩き出した。
ふと顔を上げると、道路の向かい側にぽつんと立っている水野葵さんと目が合った。
彼女はこちらに気づくと、パッと表情を明るくして軽く手を振ってきた。
俺も小さく手を振り返す。
横断歩道を渡り、彼女の元へと近づく。
「お疲れ様です! 水野さん、まだ帰られてなかったんですね」
俺が声をかけると、水野さんは少し恥ずかしそうに視線を泳がせながら答えた。
「うん……なんだかちょっと、誰かと話したくて……マモル君を待ってたの」
ドクンッ──!!
(……な、なんだこの少女漫画みたいな展開はッ!?)
女性経験の圧倒的に少ない俺の心臓が、破裂しそうなくらい暴れ出す。
「えっ!?」
裏返った間抜けな声が漏れてしまう。
「えっ!? いや……違うの! そんなんじゃないのよ……ッ!」
慌てて手を振る水野さん。
「ただ……さっきも話したけど、実家のことでずっと悩んでて……。学校のお友達は『内定もらったー!』とか『卒業までに遊ぶぞー!』って盛り上がってるから、こんな暗い相談もできなくて。でもマモル君なら学校の友達とも関係ないし……それに……なんだかすごく話しやすかったから……少し話を聞いてもらえたらなって。……ごめん、迷惑……だったかな?」
上目遣いで俺を見つめる水野さんの、うっすらと湿り気のある唇。
俺の心臓はドクンドクンッ!と引き裂かれそうなくらい高鳴っていた。
「め、迷惑なんて全然思ってないですよ! 俺もここに引っ越してきたばかりで友達もいないから……すごく嬉しいです!」
俺がぎこちなく笑うと、水野さんもホッとしたように「よかったぁ」とニコッと笑った。
(……お世辞抜きで、めちゃくちゃ可愛い……)
そう思った瞬間──脳裏に、あの異世界で出会った美しい少女・リゼッタの顔がパッと浮かび上がった。
(いかんいかんッ! 俺は何を調子に乗っているんだッ!!)
俺は慌てて首を激しく振り、妄想と雑念を無理やり消し去った。
「どうしたの……?」
水野さんが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「な、なんでもないです! ええと……じゃあ、この先の公園で缶コーヒーでも飲みながら話しましょうか!」
そう言って、俺たちは近くの小さな街頭公園へと足を運んだ。
ベンチの隣にある自動販売機で温かい缶コーヒーを二本買い、一本を水野さんに差し出す。
「ありがとう」
彼女は小さく微笑んで缶コーヒーを受け取った。
俺は水野さんの隣に腰を下ろし、二人で同時にプルタブを開ける。
プシュッ、カシャ。
吹き抜ける秋風が、火照った俺の頬を冷やしていく。
この季節独特の寂しげな空気が、必要以上にセンチメンタルな気持ちにさせる。
二人で薄暗くなった夕空をぼんやりと見上げながら、缶に口をつけた。
コーヒーの香ばしさと、ほろ苦い味が口いっぱいに広がる。
「……お父さんに、自分の本当の気持ちは言ったんですか?」
俺は空を見つめたまま、静かにそう尋ねた。
「うん……『卒業後もこの街で暮らしたい』って言ってみたんだけど……でも、全然取り合ってくれなくて……」
そう言って、水野さんは悲しそうに俯いてしまった。
(うわあああ抱きしめてぇぇぇえええッ……!!)
という心の奥底からの叫びを全力で抑え込み、俺はプロのカウンセラーのごとく平静を装って語りかけた。
「お父さんが『帰ってこい』って言っているのって、本当に『今すぐ旅館を継がせたいから』なんですかね?」
俺の問いかけに、水野さんは驚いたように目を丸くしてこちらを見た。
「え……だって、そう言っていたし……」
「もし『跡を継がせること』だけが理由なら、卒業と同時に帰ってこいなんて言いますかね? 水野さんの年齢を考えたら、お父さんだってまだまだ現役バリバリの年代ですよね? 今すぐ後を継がせる緊急性なんてないと思うんです」
水野さんは缶コーヒーを握りしめたまま、俺の話を黙って聞いている。
「俺には、何か別の理由があるんじゃないかと思うんですよ」
「別の理由……?」
「例えば……『若い女の子の一人暮らしが心配でたまらない』とか『変な悪い虫(男)がついてないか不安だ』とか。まあ、俺は男だからそんな心配をされたことは一度もないですけどね」
「たしかに……お父さんの本当の気持ちなんて、考えたこともなかったかも……」
「今度はその視点に立って、もう一度お父さんと話してみてはどうですか? 案外、何か道が開けるかもしれませんよ」
水野さんの顔に、ぱっと明るい差し色が戻った。
「そうね……! 卒業まではまだ時間があるし、もう一度、ちゃんと向き合って話してみる!」
晴れやかな笑顔を浮かべた後、水野さんはふと自分の腕時計を見て「ハッ」と立ち上がった。
「ごめん! 彼氏を待たせてるの忘れてた! 行くね、今日は本当にありがとうマモル君!」
そう言うや否や、彼女は一度も振り返ることなく、軽快な足取りで走っていってしまった。
一人残された俺は、夕闇の公園のベンチでポツンと佇み──
(……彼氏おるんかーーーーーいッ!!!)
と、心の中で盛大にツッコミを叫んだのだった。
──一人きりになった俺は、軽い失恋の傷を癒すべく、缶コーヒーをちびちび飲みながらベンチに深く身を沈めた。
薄暗くなった公園の空を見つめる。
その時──植え込みの茂みの向こう側の歩道を、一人の男が歩いていくのが見えた。
(ん……? あの後ろ姿……どこかで……)
見覚えのある、少し丸まった背中。
着古したヨレヨレのジャケット。
(あっ……!! あ、あああッ……!!?)
俺は勢いよくベンチから立ち上がった。
間違いない。
あれは……異世界のロー〇ソン一号店に、毎日のように買い出しに来ていたあのおじさんモブ客だ!!
「嘘だろ……なんでこんな所に……!?」
頭の中が真っ白になりながらも、俺はパニック状態で茂みを飛び出し、おじさんの後を追いかけた。
「待ってください! おじさん!!」
角を曲がり、路地裏へ駆け込む。
だが──そこに人影はなかった。完全に行き止まりの路地裏に、静まり返った風が吹いているだけだった。
「……消えた……?」
冷や汗が背中を伝う。
(たしかに……あのおっさんだった。間違いない……。いや、でも……こんな現実世界の住宅街にいるはずがない。……そうだ、これは異世界での極限状態が生んだ、ただの後遺症だ。そうに決まってる……)
俺は必死に自分に言い聞かせると、荒くなった息を整えてアパートへの帰り道を歩き始めた。
公園の出口にあったゴミ箱に空き缶をシュートし、家の近くのスーパーで半額シールが貼られたお弁当を買い、静かな夜道を一人歩く。
現実世界での『リハビリ生活』第一日目。
それは少し甘くて、だいぶほろ苦い、微糖の缶コーヒーのようなスタートだった──。




