第98話:熱が育む、新しい命
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫13日・光曜――
アスタリア大商会本部・審査用会議室――
翔風月に入ってから続いている審査は、この日も朝から始まっていた。
3名の審査官の前には、《魔導熱伝導路》の施工記録、企業群9商会との取引資料、農業・牧畜実証事業の管理記録、《アスタリア下水高度浄化処理場》の運転記録など、アスタリア大商会が同時に進めている事業の資料が積み上げられている。
第1審査官が資料の束へ視線を落とした。
「熱路、魔石、企業群との取引、農業、牧畜、下水処理……短期間に随分と事業が増えましたね」
「はい」
「これほど多くの事業を、あなた一人で把握しているのですか?」
シェリィは少しだけ考えてから首を横へ振った。
「すべてを私一人で把握しているわけではありません」
第1審査官の視線が上がる。
「会長なのに?」
「会長だからこそです」
シェリィは机上の資料へ手を添えた。
「すべての事業には責任者がいます。私は必要な報告を受けますが、日々のすべての判断を私一人で行っているわけではありません」
「会長が直接把握していない仕事があることに、不安はありませんか?」
「むしろ、私がいなければ動かない商会の方が不安です」
第2審査官が筆を止めた。
シェリィは穏やかな声のまま続ける。
「会長がいなければ動かない商会では、いつまでも事業を大きくできません。責任者が判断し、記録を残し、必要な報告を行う。それが私たちの仕組みです」
もちろん、好き勝手に任せているわけではない。
予算、契約、安全基準、検査基準、発注権限、決済権限、それぞれに境界があり、その境界を越える判断は上位責任者や独立管理部門へ報告される。
すべてを自分で決めることと、すべての責任を放棄することの間には、大きな違いがある。
以前のシェリィなら、自分で確認した方が早いと思ったかもしれない。
だが、事業が増え、人が増え、扱う金額も距離も大きくなるほど、一人の能力へ依存すること自体が危険になる。
自分が優秀であり続けることではなく、自分がいなくても正しく動く組織を作る。
それもまた、経営者の仕事だった。
第3審査官が別の資料を開いた。
「では、この施工記録についても、あなた自身が各工区へ出向いて確認しているわけではない?」
「はい。施工責任者、検査担当者、保守担当者から正式な記録を受け取ります。私が現場へ行ったから安全になるわけではありませんので」
第3審査官の口元が、ほんのわずかに動いた。
「そこは理解しているようですね」
「専門家の仕事を奪うつもりはありません」
シェリィはそう答えた。
審査官たちは再び記録へ目を落とした。
まだ評価を下す段階ではない。
それでも、彼らが見ようとしているものが、少しずつ変わってきていることをシェリィは感じていた。
◇
同日午後――
アスタリア大商会・施工管理室――
各工区から届いた報告が、施工管理室の大きな管理表へ反映されていく。
第21工区(第3期・第1工区)から第23工区(第3期・第3工区)まではすでに10.00 Mi(ミーレ/10.00km)へ到達し、第24工区以降では複数の施工部隊が残る区間を少しずつ縮めている。
C02は第24工区の残りを詰め、C03・C04・C06・C07・C08・C10も、それぞれの担当工区で施工を継続していた。
一方、第22工区を担当したC05はすでに敷設と正式検収を終え、第23工区を担当するC09も敷設を終えて次の手続きへ進んでいる。
シェリィは、帰還する施工部隊についての報告書を手に取った。
「また、長い赴任を終える人たちが帰ってくるのですね」
C01を迎えた時の光景が、自然と思い出される。
寒さの厳しい場所で長期間働き、工区を完成させ、検査と引継ぎまで終えてようやく戻ってくる。
帰還したその日に、次の現場へ送り出してよいはずがない。
「C05とC09についても、C01と同じ扱いにしてください」
担当者が顔を上げた。
「特別有給休暇と、特別功労金ですね」
「はい。同行料理人も含めて全員です」
これは気まぐれな褒美ではない。
長期赴任を終えた施工部隊に対する、会社としての正式な待遇だった。
誰か一人を特別扱いするのではなく、同じ条件で働いた者へ同じ制度を適用する。
制度とは、そういうものでなければならない。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫14日・火曜――
《魔導熱伝導路》第23工区(第3期・第3工区)――
すでに10.00 Miの敷設を終えている第23工区では、施工記録と現地設備を照合する確認作業が進められていた。
路体の接続状態、封入工程、制御系統、緊急遮断機構、検査記録。
一つでも確認できない項目があれば、先へ進めることはできない。
C09の班員たちは、自分たちが施工した設備を前に、最後まで結果を待っていた。
長い距離を敷設し終えた達成感よりも、いまは緊張の方が強い。
施工した本人たちが「大丈夫だ」と思うことと、正式な検査で「大丈夫だ」と確認されることは別だからだ。
やがて、確認を終えた担当者が書類を閉じた。
「第23工区、正式検収合格です」
張り詰めていた空気が、一気に緩んだ。
小さく息を吐く者、肩を落とす者、隣の仲間と目を合わせる者がいる。
それでも班長は、すぐに気を抜くことを許さなかった。
「まだ引継ぎがある。最後まで終わらせてから帰ろう」
同行料理人も、その言葉を聞きながら静かに笑った。
朝早くから湯を沸かし、冷え切って戻ってくる仲間へ温かい食事を用意し続けた日々も、ようやく終わりが見えてきた。
◇
同日午後――
アスタリア――
第22工区での仕事を終えたC05が、長い赴任を終えて帰還した。
シェリィは審査中だったが、施工部隊の帰還報告を受けると、3名の審査官へ事情を説明した。
「長期赴任を終えた施工部隊が戻りました。少し席を外してもよろしいでしょうか」
第2審査官がシェリィを見る。
「以前の部隊と同じ対応ですか?」
「はい」
「では、今回も我々が同行します」
「分かりました」
帰還した15名の前に、シェリィは立った。
土や雪の跡が残る防寒具、長期間の現場生活で使い込まれた荷物、そして疲労を隠し切れない表情。
それでも、全員が無事に戻っている。
シェリィはそのことに、まず安堵した。
「皆さん、長期間の赴任、本当にお疲れさまでした」
隊員たちが姿勢を正す。
「皆さんが造った熱路が、多くの人の暮らしを支えています。施工する方だけではなく、資材を管理する方、安全を確認する方、土を整える方、そして毎日の食事を支えてくださった方、その全員の仕事があって初めて完成したものです」
同行料理人が、少し驚いたように顔を上げた。
シェリィは用意していた命令書を開いた。
「帰還した今日は勤務日として扱います。明日からは連続して休んでください。期間中の闇曜は通常休日、それ以外の勤務日は特別有給休暇として扱い、通常の有給休暇残日数は減らしません」
班員の何人かが、思わず互いを見る。
シェリィは続けた。
「そして、同行料理人を含む全員へ、特別功労金として金貨1枚ずつを支給します」
後ろで見ていた第1審査官の視線が、すぐに命令書へ移った。
前回と同じである。
対象者を確認し、従業員記録と照合し、支払手続きを経て、帰還日に支給する。
会長が功労金の支給を決めることと、帳簿を自由に書き換えることは同じではない。
第2審査官は何も言わず、その手続きを最後まで見ていた。
制度が一度だけ守られるのは簡単だ。
同じ条件の者へ、同じ制度が繰り返し適用されるか。
そこにこそ、制度が本当に根づいているかどうかが表れる。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫15日・風曜――
アスタリア大商会本部・総務財務部――
この日は、公爵家に対する定例の魔石販売日だった。
販売数量は合計100 Sl(セル/100kg)。
その内訳は高純度魔石90 Sl、特級魔石10 Slであり、契約に従って当日の市場価格を確認したうえで、20%を加算した販売単価が適用される。
魔石は公爵家向けとして正式な手続きに従って引き渡され、その日のうちに販売代金の全額入金が確認された。
財務担当者から報告を受けたシェリィは、入金記録と取引内容を確認する。
「公爵家向け魔石100 Slの販売代金は、全額入金済みです」
「ありがとうございます。売掛金は残っていませんね?」
「はい。当日全額決済です」
すぐそばで確認していた第1審査官が、魔石の数量へもう一度目を落とした。
「これほど高品質な魔石を、毎月100 Slも販売しているのですか?」
「公爵家向けの定例販売です」
「かなり大きな収益になりますね」
「はい」
シェリィは否定しなかった。
しかし、その声に浮かれている様子もない。
「この収益があるからこそ、私たちは熱路を造り続けられるのです」
寒さをなくしたい。
最初の目的は、そこだった。
だが、事業は善意だけでは続かない。
材料を買い、人を雇い、設備を造り、保守し、事故に備え、次の投資を行うためには利益が必要になる。
魔石を売り、その利益を《魔導熱伝導路》や新しい事業へ戻す。
熱路が暮らしを支え、その暮らしの中からまた新しい事業が育つ。
利益を得ることと、人を助けることは、相反するものではない。
継続できる仕組みにするからこそ、助け続けることができる。
第1審査官はしばらく入金記録を見つめてから、静かに次の資料へ移った。
◇
同日午後――
アスタリア大商会・施工管理室――
施工報告を確認したシェリィは、魔石販売の記録と、現場から届く施工記録を並べて見た。
一方では資金が入り、もう一方ではその資金を使って造られた設備が、少しずつ距離を伸ばしていく。
帳簿上の利益だけを増やしても、アスタリアの寒さは消えない。
逆に、採算を無視して熱路だけを造り続けても、いつか資金が尽きる。
数字と現場の両方が続いて初めて、事業になる。
シェリィは静かに施工報告書を閉じた。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫16日・水曜――
アスタリア大商会本部・審査用会議室――
この日、第1審査官が取り上げたのは、増え続ける従業員数だった。
「施工事業だけでも相当な人数です。それに加えて、農業や牧畜でも採用を増やしていますね」
「はい」
「まだ本格的な売上が立っていない事業へ、人を増やす理由は?」
シェリィは資料をめくり、牧畜実証施設の人員計画を示した。
「必要な専門職だからです」
「既存の技術者では対応できない?」
「できない仕事があります」
シェリィは迷わず答えた。
「技術者だけでは、すべての仕事を担当できません。鶏を育てるには、鶏を育ててきた人の知識が必要なのです」
設備を造ることと、その設備の中で生き物を育てることは違う。
温度を維持する仕組みを造れても、鶏の体調、餌の状態、成長の変化、繁殖、疾病の兆候まで魔導設備技術者が理解しているわけではない。
「明日、新たに8名が牧畜事業へ正式入社します」
「8名?」
「鶏飼育担当4名、人工ふ化・育すう担当2名、食肉加工担当2名です」
第1審査官の眉が少し上がる。
「食肉加工まで? もう食肉を販売するのですか?」
「いいえ」
シェリィは即座に否定した。
「入社日と、事業の稼働開始日は別です。まだ食肉加工を開始する段階ではありません。衛生管理、必要設備、冷蔵保管、搬送方法など、始める前に考えなければならないことがあります」
「まだ生まれていない利益を、将来の売上として見込んでいるわけではない?」
「計画には入れますが、確定売上にはしません」
第1審査官が小さく頷いた。
未来を考えることと、未来の利益をすでに手にした金のように扱うことは違う。
シェリィは、その境界を曖昧にするつもりはなかった。
◇
同日午後――
アスタリア大商会・牧畜実証施設――
既存の牧畜実証班4名は、翌日から加わる8名を迎える準備を進めていた。
これまでは設備の運用と実証を中心に、若鶏100羽を育てる環境を整えてきた。
魔導熱による温度管理、給水、換気、飼料管理。
設備としての仕組みは少しずつ形になっている。
しかし、生き物を本格的に育て、繁殖させ、将来は食料生産へつなげるとなれば、設備だけでは足りない。
「明日から、鶏を実際に育ててきた人たちが来るんですよね」
既存職員の一人が確認すると、別の職員が頷いた。
「人工ふ化の経験がある人も来るそうです」
「それは助かりますね。私たちは温度を保つ方法なら分かりますけど、卵からひなを育てるところまでは専門外ですから」
自分たちの仕事を否定する声ではなかった。
むしろ、違う知識を持つ人間が加わることを楽しみにしている声だった。
設備を造る者と、生き物を育てる者。
その二つが組み合わされば、これまでとは違うことができるかもしれない。
その可能性に、この時点ではまだ誰も具体的な形を与えていなかった。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫17日・土曜――
アスタリア大商会・牧畜実証施設――
新たに8名が、アスタリア大商会の従業員として正式に勤務を始めた。
鶏飼育担当4名、人工ふ化・育すう担当2名、食肉加工担当2名。
既存の牧畜実証班4名と合わせ、12名の体制になる。
最初に案内されたのは、若鶏100羽を育てている鶏舎だった。
新入社員たちは説明を受けながら、鶏の様子、餌、水、床面、換気、室内温度を確認していく。
鶏飼育担当の一人が、壁際の温度管理設備へ目を向けた。
「寒い夜でも、これほど安定して温められるのですか?」
既存の技術者が頷く。
「ええ。外の気温を確認しながら、必要な熱量を調整しています」
「火を焚き続けなくても?」
「はい。《魔導熱伝導路》から受けた熱を使っています」
新入社員は、しばらく設備を眺めていた。
鶏を見る視線から、少しずつ何かを考える視線へ変わっていく。
「それなら……卵も温められるかもしれませんね」
「卵を?」
「はい。ずっと適した温度を保てるなら」
その場では、それ以上の話にはならなかった。
だが、人工ふ化・育すうを担当する2名が、その言葉に反応した。
既存の設備技術者もまた、何かを考えるように温度管理設備へ目を向けていた。
異なる経験を持つ人間が同じ場所へ集まったことで、それまで誰も考えていなかった線が、初めてつながり始めていた。
一方、食肉加工担当2名は、この日から食肉加工を始めるわけではない。
将来の稼働を見据え、衛生管理、洗浄方法、加工設備、冷蔵保管、搬送方法などの確認から仕事を始める。
まだできないことを、できることにしない。
しかし、始める前に準備できることは進める。
それもまた、新しい事業を育てるための仕事だった。
◇
同日午後――
《魔導熱伝導路》第24工区(第3期・第4工区)――
C02から、待っていた報告が届いた。
第24工区の累計施工距離が10.00 Miへ到達した。
敷設完了。
現場では歓声が上がったものの、班長はすぐに班員たちへ声をかける。
「まだ正式検収は終わっていない。最後まで施工責任は残っているぞ」
喜びながらも、班員たちは頷いた。
10.00 Miへ到達したからといって、すべてが終わったわけではない。
施工記録を整理し、検査を受け、正式検収を通過し、保守担当へ引き継ぐ。
その工程を終えて初めて、一つの工区が完成する。
シェリィも報告書へ記された「敷設完了」の文字と、「正式検収待ち」の文字を別々に確認した。
急ぐほど、その二つを混同してはいけない。
◇
同日夕刻――
アスタリア――
第23工区での引継ぎを終えたC09も、長い赴任を終えて帰還した。
シェリィは15名を迎え、C05の時と同じように一人ひとりの顔を見た。
「皆さんが無事に帰ってきてくださったことが、何よりもうれしいです」
その言葉を聞いた班員の一人が、張り詰めていた表情をわずかに緩めた。
シェリィは休暇に関する命令書と、特別功労金の支給命令書を渡した。
帰還日は勤務日として扱い、翌日から連続休養へ入る。
期間中の闇曜は通常休日、それ以外の勤務日は特別有給休暇として扱い、通常の有給休暇残日数は減らさない。
同行料理人を含む全員へ、金貨1枚ずつの特別功労金を支給する。
「施工に直接手を触れた人だけで、工事が続くわけではありません」
シェリィは同行料理人へも視線を向けた。
「寒い場所で温かい食事を毎日用意してくださったことも、同じ仕事の一部です。ありがとうございます」
同行料理人は驚いたように目を瞬かせ、それから深く頭を下げた。
会社の仕事は、目立つ者だけで成り立っているわけではない。
成果を出した時、その成果を支えた者まで忘れない。
シェリィは、それを制度として残したかった。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫18日・闇曜――
アスタリア大商会・牧畜実証施設――
闇曜のため、通常業務は休みとなっていた。
しかし、若鶏100羽の世話を休むことはできない。
当番となった職員たちは、給餌・給水・健康確認・清掃・温度管理を続けていた。
その中で、前日に交わされた一言が再び話題に上がった。
「卵を、魔導熱で温める話です」
人工ふ化担当者の一人がそう切り出すと、既存の設備技術者が興味深そうに顔を上げた。
「温度を一定に保つことなら、私たちの得意分野です」
「自然ふ化では雌鶏が卵を温め続けます。でも、人の手で必要な環境を再現できるなら、雌鶏に抱卵させなくてもふ化できる可能性があります」
「温度だけで大丈夫なんですか?」
その問いに、人工ふ化担当者は首を横へ振った。
「いいえ。湿度も必要です。空気も入れ替えなければいけませんし、卵を同じ向きのまま置き続けるのもよくありません。ふ化が近づいた卵は、別に管理した方がいいです」
話を聞いていた者たちは、必要な条件を書き出していった。
温度の維持・湿度の管理・換気・卵の転回・ふ化直前の卵の別管理・ひなが生まれた後の育成環境。
単に温かい箱を作ればよいわけではない。
「250個くらい入れば、将来数を増やす時にも使えると思います」
人工ふ化担当者の提案に、既存の技術者が紙の上へ簡単な構造を書き始めた。
「全部を同じ区画にしない方がいいですね。孵卵中の卵と、ふ化直前の卵を分けましょう」
最終的に、孵卵室200個、出生準備室50個、合計250個を収容できる構造が考えられた。
そこから先は、それぞれの専門が自然に動き始めた。
鶏飼育担当者は卵の出し入れと日々の確認方法を考え、人工ふ化担当者はふ化に必要な環境条件を説明し、既存の設備技術者は箱の構造と熱の伝え方を検討する。
食肉加工担当者も、将来の衛生管理を考えれば清掃しにくい構造は避けるべきだと意見を出した。
誰か一人がすべてを考えたわけではない。
それぞれが自分の知っていることを持ち寄り、足りない部分を別の誰かが補っていく。
その日のうちに、250個対応の保温箱本体が形になった。
完成した箱を前に、新入社員の一人が信じられないように笑った。
「本当に造れてしまいましたね」
既存の技術者が箱を軽く叩く。
「まだ箱だけです。温度を安定させる仕組みも、湿度調整も、自動で卵を転回する仕組みも、これから試験しなければいけません」
「でも、これなら会長に実物を見せられます」
その言葉で、全員が少し静かになった。
入社したばかりの者が、いきなり大きな提案をしてよいのだろうか。
そんな迷いが表情に浮かんだのだろう。
既存の牧畜実証班の職員が笑った。
「会長は、良い提案なら必ず話を聞いてくださいます」
新入社員は、もう一度完成した箱を見る。
「では、明日お話ししてみます」
まだシェリィは、この箱の存在を知らなかった。
◇
星環暦1285年・翔風月≪第4月≫19日・光曜――
アスタリア大商会・牧畜実証施設――
シェリィは、若鶏100羽の飼育状況と、新しく入社した8名の様子を確認するため牧畜実証施設を訪れていた。
入社してまだ2日しか経っていない。
仕事を覚えるだけでも忙しい時期だろうと思っていたが、鶏舎へ入ると、新しい職員たちは既存職員と自然に言葉を交わしながら作業していた。
若鶏たちが落ち着いて過ごしている姿を見て、シェリィは少し肩の力を抜いた。
設備を造ることはできても、生き物がこちらの計画どおりに育ってくれるとは限らない。
だからこそ、目の前で元気に餌をついばむ姿は、数字とは違う安心を与えてくれる。
その時、一人の従業員が声をかけた。
「会長。実は、見ていただきたいものがあります」
「私に?」
「はい」
少し緊張している様子に気づき、シェリィは首を傾げながらその後をついていった。
案内された先に置かれていたのは、大きな箱だった。
外見だけでは、何に使うものなのか分からない。
シェリィは箱の周囲を一度見回した。
「これは、何ですか?」
従業員が少し誇らしそうに答えた。
「卵を温めるための箱です。250個まで対応できるように造りました」
シェリィは箱から従業員へ視線を戻した。
「250個……? もう造ったのですか?」
「はい。昨日、私たちで造りました」
「昨日?」
思わず聞き返してしまった。
入社してから、まだほとんど日が経っていない。
説明を受けると、箱の内部は孵卵室200個と出生準備室50個に分けられていた。
人工ふ化担当者が、少し緊張しながら説明を続ける。
「まだ箱本体だけです。温度制御も湿度調整も試験していませんし、自動で卵を転回する仕組みもありません」
「では、まだ卵は?」
「入れていません」
シェリィはそこで安心した。
思いついたその日に、生きている卵を入れて試したわけではない。
必要な条件を考え、まず形を作り、これから試験する。
順番を守っている。
「どうして、これを造ろうと思ったのですか?」
鶏飼育担当者が答えた。
「昨日、鶏舎が寒い夜でも安定して温かいことを教えていただきました。それで、卵も同じように温められるのではないかと思ったんです」
人工ふ化担当者が続ける。
「雌鶏が抱卵しなくても、適切な温度と湿度を保って卵を管理できれば、人工ふ化ができる可能性があります」
既存の設備技術者も言葉を添えた。
「温度を維持する設備については、私たちが協力できます。ただし、卵に必要な条件は専門の方に教えてもらわなければ分かりません」
食肉加工担当者まで参加していた理由を尋ねると、清掃や洗浄のしやすさについて意見を出したのだという。
シェリィは、もう一度箱を見た。
自分が指示したものではない。
経営会議で決めたものでもない。
従業員たちが、自分たちの仕事の中で気づき、専門の違う者同士で話し合い、自分たちの手で形にしたものだった。
その事実が、箱そのもの以上にうれしかった。
◇
同日正午――
従業員たちは、さらにその先の考えをシェリィへ説明した。
現在育てている若鶏100羽が成長し、卵を産めるようになった時、そのすべてを販売するのではなく、一部を繁殖へ回す。
将来的には採卵用と繁殖用を分け、繁殖用として雌鶏10羽を選び、雄鶏1羽の導入も検討する。
採卵用の卵はアスタリアの街へ供給し、繁殖用から得られた有精卵は人工ふ化へ回し、増えた鶏の一部を将来の食肉事業へつなげていく。
もちろん、若鶏がまだ産卵を始めていない以上、今日から卵を販売できるわけではない。
人工ふ化も、まだ始められない。
それでも、従業員たちが見ているのは、その先だった。
シェリィは彼らの説明を最後まで聞いた。
「あなたたちは、鶏を増やしたいのですね?」
「はい」
一人の従業員が答える。
「もっと多くの食料を、街へ届けられるようにしたいのです」
その言葉に、シェリィはしばらく何も返さなかった。
利益を出したいから、ではない。
会社に命令されたから、でもない。
ここで働き始めた人たち自身が、この土地で何ができるかを考え始めている。
それは、シェリィが一人で計画を作るよりも、ずっと大きな意味を持っていた。
◇
同日午後――
シェリィは、完成した保温箱の前にもう一度立った。
「皆さんが考えて、皆さんが造ったのですね」
「はい」
答えた従業員たちの表情には、期待と不安の両方が浮かんでいた。
シェリィは箱の内部を見る。
まだ卵は一つも入っていない。
温度制御も、湿度調整も、自動転卵機構も完成していない。
だからこそ、いま承認すべきなのは「人工ふ化に成功した」という結果ではない。
その可能性を、安全に確かめるための開発計画だった。
「素晴らしい提案です。正式に進めましょう」
一瞬の沈黙のあと、従業員たちの顔が一斉に明るくなった。
だが、シェリィはそこで終わらせなかった。
「でも、命を預かる装置です。温度や湿度の管理は、十分に試験してから使いましょう」
「はい」
「温度がどこまで安定するのか、箱の中で場所による差がないか、湿度を維持できるか、換気に問題がないか、転卵をどう行うか。それを確認してから有精卵を入れてください」
技術者たちが真剣な表情で頷いた。
思いつきを否定しない。
しかし、良い発想だからといって安全確認を飛ばすこともしない。
発想を実験へ、実験を仕組みへ、仕組みを事業へ変えていく。
その順番を守ることが、長く続く仕事を作る。
人工ふ化装置の開発計画は、その場で正式に承認された。
完成済みの250個対応保温箱を基礎として、魔導熱を利用した温度制御、湿度管理、換気、転卵方法などをこれから整えていく。
シェリィは、まだ空の保温箱を見つめた。
《魔導熱伝導路》は、人々を寒さから守るために造り始めたものだった。
その熱はやがて建物を温め、農地を温め、家畜を育てる環境を作り、今度は新しい命を生み出すために使われようとしている。
最初から、そこまで考えていたわけではない。
自分一人では、思いつかなかったかもしれない。
けれど、新しい人が加われば、新しい知識が加わる。
異なる仕事をしてきた人たちが出会えば、それまで別々だった技術がつながる。
事業が育つというのは、設備が増えることだけではないのだと、シェリィは思った。
人が増え、その人たち自身が考え始める。
その時、会社は会長一人の発想を超えて成長していく。
◇
同日夕刻――
施工管理室から、その期間の集計報告も届いた。
第3期の残施工距離は23.60 Mi。
シェリィは数字を確認したあと、再び牧畜実証施設の方角へ目を向けた。
一方では、何百Miもの熱路を造っている。
一方では、まだ一つの卵も入っていない箱を造っている。
規模だけを見れば、比べものにならない。
それでもシェリィには、どちらも同じくらい大切に思えた。
長い熱路も、最初は一本の路体から始まった。
企業群も、最初から9商会がそろっていたわけではない。
ならば、目の前にある空の箱から、何が始まるかなど誰にも分からない。
いつか、この中から小さなひなが生まれる。
そのひなが育ち、さらに卵を産む。
卵が街の食卓へ届き、増えた鶏が新しい食料になる日が来るかもしれない。
寒さを防ぐために運んだ熱が、人の暮らしを守るだけではなく、新しい命を育てる。
シェリィは、保温箱を囲む従業員たちへ振り返った。
「皆さんのおかげで、また一つ、アスタリアの可能性が広がりました」
まだ空の箱の中には、何もいない。
けれど、そこには確かに、これまでになかった未来が生まれ始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、《魔導熱伝導路》の熱と新しく加わった従業員たちの知識が結びつき、人工ふ化という新しい可能性へつながる姿を描きました。
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