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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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第97話:会長の命令が届かない扉

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫6日・闇曜(あんよう)――

アスタリア大商会本部――

普段なら朝から職員たちの足音と書類を運ぶ声が途切れない本部も、この日は静かだった。

闇曜は通常業務の休日であり、総務財務をはじめとする各部署の通常勤務者は休み、《魔導熱伝導路》の施工部隊も通常施工を止めている。

ただし、休日だからといって、すべてを止められるわけではない。

農業実証施設では給水・土壌温度・ハウス内温度・生育状態の確認を交代勤務者が続け、牧畜実証施設では給餌・給水・健康確認・清掃・温度管理を行い、《アスタリア下水高度浄化処理場》では生活排水の受入れ・処理・水質監視・異常対応を継続し、人工河川でも流量・水質・凍結状態・安全設備の監視が続けられていた。

保守班も同様に、設備監視と緊急対応に必要な勤務だけを維持している。

休日とは、必要な仕事まで停止させる日ではない。

止めることのできない仕事を必要な人数で維持し、それ以外の者をきちんと休ませる日だった。

アスタリア側300.00 Mi(ミーレ/300.00km)の《魔導熱伝導路》では通常施工が行われず、累計施工距離は前日の263.02 Miのまま動かない。

一方、《企業群決済管理室》・会計監査部・法務監査部の独立管理3部門では、不正決済や異常処理の監視を止めないため、最低限の当番職員だけが勤務していた。

その事実に気づいた王都ギルド組合の第1審査官が、《企業群決済管理室》の当番職員へ声をかけた。

「職員がいるのであれば、昨日までの決済監視記録について詳しく確認したいのですが」

当番職員は一礼したものの、資料を取りに向かうことはなかった。

「申し訳ございません。本日は決済監視を継続するための最低限の勤務体制です。通常の監査説明は、光曜以降にお願いいたします」

「我々は王都ギルド組合の正式な審査官です」

「承知しております。しかし、本日の私どもの任務は監視業務の維持です。詳細資料の検索や責任者への確認を行えば、本来の監視に支障が生じます」

第1審査官の眉がわずかに動いた。

「休日でも監視は止めない。しかし、審査官が来ても通常勤務へ戻さない、と?」

「はい」

職員の声に迷いはなかった。

少し離れた位置でやり取りを聞いていた第2審査官が、手元の書類を閉じた。

「今日は、すでに正式な手続きで受領した資料だけを整理しましょう」

王都ギルド組合の審査官3名は翔風月2日からアスタリア大商会の審査を続けており、シェリィ・ヴァルモントも4日に王都から戻っているが、本格的な聞き取りは翌7日から始めることになっていた。

審査官が来ているという理由だけで、休日の職員を呼び戻すことはしない。

その一方で、人の命や都市機能、会社の信用を守るために止められない仕事は、休日でも交代勤務で維持する。

規程に書かれているだけではなく、本当にそのように運用されていることを、3名の審査官は静かに確認することになった。

それを好意的に評価したのか、それとも単なる確認事項として記録しただけなのかは、まだ分からなかった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫7日・光曜(こうよう)――

アスタリア大商会本部・審査用会議室――

翌朝、シェリィの正面には3名の審査官が座っていた。

第1審査官は財務・会計・信用管理、第2審査官は法務・企業統治・不正防止、第3審査官は施工・設備安全・事業運営を中心に確認している。

形式的な挨拶が終わると、第2審査官がすぐに本題へ入った。

「現在の《アスタリア企業群》は、アスタリア大商会と9商会によって構成され、それぞれの事業規模も急速に拡大しています」

「はい」

「各商会が法的には独立した法人であることも確認しています。しかし、あなたの影響力が極めて大きいことに変わりはありません」

シェリィは反論せず、次の言葉を待った。

「会長であるあなたが、不正な決済を命じた場合、誰がその命令を止めるのですか」

会議室の空気がわずかに張り詰めた。

シェリィは一瞬だけ視線を落としたが、質問そのものに驚いたわけではなかった。

むしろ、そこまで踏み込んで確認されることを前提に作った制度だった。

「《企業群決済管理室》、会計監査部、法務監査部です」

「あなたの部下でしょう?」

「通常の組織上は、アスタリア大商会に所属しています。ただし、監査判定・不正検出・決済停止に関する判断は、通常の指揮命令から独立させています」

第2審査官は間を置かなかった。

「あなたが『この決済を通しなさい』と命じた場合は?」

「手続き上認められない決済なら、通してはいけません」

「会長命令でも?」

「はい」

「監査結果を書き換えろと命じたら?」

「従ってはいけません」

「あなた自身に不正の疑いが生じたら?」

「私も監査対象です」

第2審査官は、シェリィの表情から何かを読み取ろうとするように黙って見つめた。

「ずいぶん簡単に答えますね」

「そのために作った制度ですから」

「では、独立管理区域へ入りたいとあなたが言えば?」

「自由には入れません」

「自分の商会なのに?」

「はい。私は独立管理区域の入室認証カードを持っていません」

今度は第1審査官が口を開いた。

「発行するよう命じればよいのでは?」

「私一人の命令では発行できません」

「帳簿を確認したい場合は?」

「正式な閲覧手続きを取ります」

「帳簿を外へ持ち出したい場合は?」

「通常は認められません。不正会計や違法行為の証拠保全など、正式な手続きに基づく例外はありますが、それも私の単独命令だけでは発動できません」

「筆記具などの持込みや持出しも管理している?」

「はい」

第2審査官が椅子へ深く座り直した。

「つまり、あなた自身を信用しない制度だと?」

シェリィはすぐには答えなかった。

信用していない、という言葉だけを受け取れば少し違う。

しかし、自分が善良であり続けることを会社の安全装置にしてはいけないという意味なら、答えは決まっていた。

「私が誠実かどうかと、私が不正をできない制度になっているかどうかは、別の問題だと思っています」

3名の視線がシェリィへ集まった。

「人は間違えます。判断を誤ることもありますし、立場や状況が変われば、今と同じ判断を続けられる保証もありません。ですから、会長がずっと正しい人間でいることを前提に会社を守るのではなく、会長が間違えた時でも、会社全体まで一緒に間違わない仕組みにしたいのです」

第2審査官は褒めなかった。

ただ、その言葉を記録した。

人物を信用できるかではなく、その人物を信用できなくなった時でも、不正を止められるのか。

審査官たちが見ているのは制度だった。

◇

同日午前後半――

アスタリア大商会・物流商務部――

物流商務部では、モーゲン食品卸商会との食料供給包括契約について、正式な変更合意の締結作業が進められていた。

オットマール・リンデン(物流商務部長)は、契約書の追加条項を一つずつ確認している。

アスタリア側に配置する備蓄倉庫W01からW10には、基本的に備蓄倉庫長・資材在庫管理担当・受発注発送担当・一般資材馬車の常駐御者の4名を置く。

ところが、既存の食料供給包括契約では、各備蓄倉庫に常駐する職員4名分の食料が十分に組み込まれていなかった。

そのため、既存契約を廃止して結び直すのではなく、変更条項に基づく追加合意として、4名用の専用食料パックを供給対象へ加える。

「6日分と8日分の両方に対応する、で間違いありませんね」

オットマール(物流商務部長)の確認に、モーゲン食品卸商会側の担当者が頷いた。

「はい。保守班向けと同等の栄養・品質基準とし、光曜の定例配送だけでなく、必要に応じた臨時配送にも対応します」

「価格体系も既存契約と同じ考え方を維持する」

「そのとおりです」

「そして、各備蓄倉庫へ自動的に4名分を送り続けるのではなく、実際の配置人数・施設開設日・着任日・必要量を発注書で確定する」

「はい」

オットマール(物流商務部長)はそこで初めて署名欄へ視線を落とした。

契約へ供給方法を追加することと、実際の商品を発注することは別である。

まだ職員が着任していない施設の食料まで先に買えば、食材を余らせるだけになる。

必要な場所へ、必要になる時点で、必要な量だけを届ける。

その原則を確認したうえで、双方は正式な変更合意を締結した。

同じ日、M22保守班7名は第22工区保守基地B22へ向けて移動を開始した。

到着予定は9日であり、現地到着時に食料が不足しないよう、8日分の供給を到着日に合わせる形で手配が進められる。

《魔導熱伝導路》の通常施工も再開され、この日の施工実績は全施工部隊合計1.83 Miとなり、累計施工距離は264.85 Miへ伸びた。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫8日・火曜(かよう)――

アスタリア大商会本部・審査用会議室――

聞き取りが始まって2日目、第2審査官の質問はさらに踏み込んだものになっていた。

「昨日、あなたは自分も監査対象だと言いました」

「はい」

「しかし、あなた自身が誠実である間は、大きな問題にはならないでしょう」

シェリィは静かに頷いた。

「そうですね」

「問題は、将来あなたが変わった時です」

その言葉に、シェリィは答えず続きを待った。

「会長が誠実であることと、会長が不正をできない制度になっていることは、別問題ではありませんか」

「はい。そのとおりだと思います」

第2審査官の瞳がわずかに細くなった。

反論されることを予想していたのかもしれない。

シェリィは手元の資料へ目を落とした。

「会社が小さいうちは、経営者がすべての決済を確認し、働く人の顔も覚え、取引先との関係まで把握できるかもしれません。でも、規模が大きくなれば必ず限界が来ます」

《アスタリア企業群》では、9商会それぞれの取引量が増え、商会同士の取引も拡大している。

だからこそ、企業群内小切手の振出しと決済、異常取引の検出、不正発生時の使用停止、補償・償還までを、経営者個人の善意から切り離していた。

第1審査官が資料の一枚を指先で押さえた。

「企業群内小切手の制度そのものは、以前の審査で確認されています。今回我々が見ているのは、その後も同じ制度が実際に機能しているかです」

「はい」

「もし、あなたと親しい経営者の商会で異常な取引が検出された場合も、止めるのですね?」

「同じ基準で止めてください」

「あなたが止めるなと言っても?」

「その命令には従わないでください」

第1審査官は返事をせず、資料へ線を引いた。

「制度上、本当にそうなっているか確認します」

「お願いします」

シェリィの声にためらいはなかった。

◇

同日午後――

アスタリア大商会・農業実証施設――

第3審査官は、小麦栽培ハウスの内部をゆっくりと歩いていた。

区画ごとに播種日・土壌温度・水分・熱供給状態・発芽状況・生育記録が管理されており、まだ実証段階であることが一目で分かる。

第3審査官は芽が出始めた一区画の前で足を止めた。

「これは収穫予定量へ入っていますか?」

農業担当者が首を横に振った。

「いいえ。まだ発芽と初期生育の確認段階です」

「生産実績は?」

「まだありません」

「売上は?」

「ありません」

「では、現時点の成果は?」

「発芽状況・土壌温度・水分量・熱供給条件・区画ごとの生育差です」

第3審査官は記録表と実際の区画を見比べた。

「昨日の闇曜も管理していた?」

「はい。通常作業は休みですが、給水・温度監視・生育確認など止められない作業は交代勤務で続けています」

第3審査官は何も言わずに頷いた。

実証事業で必要なのは、成功したと早々に宣言することではない。

どの条件で何が起きたのかを、後から再確認できる状態で残すことだった。

◇

同日午後――

《魔導熱伝導路》第21工区(第3期・第1工区)――

翔風月5日に10.00 Miの敷設を終えていた第21工区では、正式検収が進められていた。

施工記録・接続状態・制御設備・安全設備・検査結果・保守引継資料が順番に照合され、必要条件を満たしていることが確認される。

「第21工区、正式検収合格」

その報告によって、設備管理はM21保守班へ正式に引き継がれた。

5日に現地へ到着していたM21保守班は、これで準備段階から正式な保守担当へ移る。

施工第1部隊C01も、敷設だけではなく検査・正式検収・保守引継までを終えたことで、ようやく第21工区での役目を完了した。

長い現場を離れ、アスタリアの街へ向けて帰還を開始する。

到着予定は10日だった。

同じ日、施工第5部隊C05が担当する第22工区も10.00 Miへ到達したが、こちらは敷設完了であり、正式検収まで終えたわけではない。

この日の全施工部隊による施工実績は1.70 Mi、累計施工距離は266.55 Miとなった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫9日・風曜(ふうよう)――

アスタリア大商会本部・審査用会議室――

第1審査官の前には、翔風月に入ってから実際に発生した資金移動の記録が並べられていた。

翔風月3日に王国から金貨12,000枚を受領し、5日には芽風月分給与として金貨8,118枚・銀貨86枚・銅貨30枚を支給し、買掛金・未払金として金貨6,711枚・銀貨56枚・銅貨70枚を支払い、さらに売掛金として金貨75枚・銀貨82枚・銅貨70枚を回収している。

第1審査官が見ているのは、金額の大きさではなかった。

それぞれの資金移動が何に基づき、どの証憑によって確認され、どの帳簿へ記録されているかだった。

「この金貨12,000枚は、翔風月の新規売上ではありませんね?」

「はい」

「こちらの給与、金貨8,118枚・銀貨86枚・銅貨30枚も、翔風月5日に新しく費用が発生したのではない?」

「芽風月1日から30日までの勤務に対応する給与です。翔風月5日は支給日です」

「つまり、支給時にもう一度給与費用を計上していない?」

「はい」

第1審査官は次の記録へ目を移した。

「売掛金として回収した金貨75枚・銀貨82枚・銅貨70枚も、回収した日を売上日にしてはいない?」

「芽風月に発生した債権の回収です。翔風月の新規売上にはしていません」

第1審査官は小さく頷き、記録を照合していった。

急速に規模が拡大する企業ほど、入金と売上、支払と費用、発注と仕入、契約と履行を混同すれば数字は簡単に崩れる。

審査官が見ているのは、帳尻が偶然合っているかではなく、取引の意味が正しく分類されているかだった。

◇

同日午後――

アスタリア大商会・牧畜実証施設――

第3審査官は、家畜舎と牧草地区画を順に確認していた。

購入記録上では合計148頭・羽が導入されているが、第3審査官はその数字だけで現在頭数を判断しようとはしなかった。

「購入時の148頭・羽と、現在ここにいる頭数は別に確認していますね?」

「はい。現在数は個体管理記録と日々の確認記録で管理しています」

「飼料は?」

「受入れ・使用・残量を記録しています」

「温度、換気、健康状態、疾病対応は?」

「毎日確認しています」

「糞尿処理も?」

「はい」

第3審査官は家畜の状態を確認しながら、帳簿上の購入と、実際に飼育を継続できていることを別々に確認していく。

購入しただけで牧畜事業が成功したことにはならない。

繁殖実績も、乳量も、食肉生産も、売上も、まだ確定していないものを成果として扱うことはできなかった。

「闇曜も給餌は続けている?」

「はい。給餌・給水・健康確認・清掃・温度管理など必要作業は交代勤務です」

第3審査官は記録へ視線を戻した。

生き物を扱う以上、休日制度と業務停止は同じ意味にはならない。

その区別が、ここでも守られていた。

同じ日、M22保守班7名が第22工区保守基地B22へ到着した。

ただし、第22工区はまだ正式検収前であるため、この時点では正式な保守引継は行われない。

一方、M23保守班7名は第23工区保守基地B23へ向けて出発し、11日の到着を予定していた。

第22工区では敷設完了後の完成検査が行われ、《魔導熱伝導路》全体ではこの日1.65 Miが追加され、累計施工距離は268.20 Miとなった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫10日・水曜(すいよう)――

アスタリア――

朝から降り続いた雪によって、新たに積もった雪は5 Ln(リーネ/5cm)に達していた。

通常施工は継続されたものの、現場では安全確認を優先したため、この日の施工実績は全施工部隊合計0.43 Miにとどまった。

だが、アスタリア大商会本部で審査を受けていたシェリィにとって、この日もっとも心を動かされた報告は施工距離ではなかった。

「C01が、アスタリアへ帰還しました」

報告を聞いた瞬間、シェリィの指が机上の書類の上で止まった。

第21工区の施工、検査、正式検収、引継までを終えた施工第1部隊C01が戻ってきた。

長期間、寒さの厳しい現場へ送り出していた者たちだった。

シェリィは審査官たちへ視線を戻した。

「申し訳ございません。少しの間、席を外す許可をいただけないでしょうか」

第2審査官の眉が上がった。

「理由を聞いても?」

「長期間、現場に出ていた施工部隊が帰還しました。私自身の言葉で、お疲れさまでしたと伝えたいのです」

3名の審査官は短く視線を交わした。

第2審査官が答えた。

「我々も同行するのであれば、認めましょう」

シェリィは一瞬だけ驚いたが、すぐに頷いた。

「構いません」

審査官へ見せるために予定したものではなかった。

C01が帰還する日には、自分で迎えるつもりだった。

ただ、それを審査官が見るというのであれば、隠す理由もなかった。

◇

同日午前――

アスタリア大商会・施工部隊帰還受入場所――

雪を払った隊員たちが並んでいた。

C01は通常施工要員11名・土系魔法士3名・同行料理人1名の15名で構成されており、現場から戻った者たちの表情には疲労が浮かんでいたが、それ以上に、一区切りをつけて戻ってきた安堵があった。

シェリィはその前まで歩き、立ち止まった。

用意していた言葉があったはずなのに、目の前に並ぶ顔を見ると、胸の奥に先に浮かんだのは数字ではなかった。

寒い場所へ送り出したこと。

長い距離を敷設し続けてもらったこと。

事故なく戻ってきてくれたこと。

そのすべてが、今になって一度に押し寄せてきた。

シェリィは静かに頭を下げた。

「皆さん、お帰りなさい」

隊員たちの表情がわずかに緩んだ。

「長い間、本当にお疲れさまでした。厳しい寒さの中、長期間にわたって《魔導熱伝導路》の建設を支えてくださったこと、心から感謝しています」

誰もすぐには声を上げなかった。

「皆さんがいてくださったからこそ、これだけの距離を敷設することができました」

シェリィはそこで一度息を整え、持ってきた書類を手にした。

「皆さんには、明日から休暇を取っていただきます」

隊員の一人が思わず顔を上げた。

「ですが、まだ全線は――」

「いいえ。これは会長命令です」

声は強くない。

それでも、断る余地を残す言い方ではなかった。

「11日から17日まで、連続して休んでください。12日の闇曜は通常休日ですので、それ以外の6勤務日を特別有給休暇として扱います。通常の有給休暇残日数は減らしませんし、給与も減額しません」

現場から戻ったばかりの隊員たちが、互いの顔を見る。

「まずは、しっかり休んでください」

シェリィはもう一枚の命令書を開いた。

「それから、皆さん全員に特別功労金を支給します」

今度こそ、明らかなざわめきが起きた。

「金貨1枚ずつです」

同行料理人が驚いたように自分を指した。

「私も、でしょうか?」

シェリィは迷わず頷いた。

「もちろん、毎日温かい食事を用意してくださった方も同じです」

現場で働く者が長期間力を発揮するためには、施工する者だけがいればよいわけではない。

食事を作る者がいて、資材を届ける者がいて、治療や安全を支える者がいる。

シェリィは15名を見渡した。

「皆さんの働きに、役職の上下はありません。誰一人欠けても、ここまで来ることはできませんでした」

同行していた3名の審査官は、その光景を黙って見ていた。

第1審査官はシェリィが持つ命令書へ視線を向け、第3審査官は現場から戻った者たちの人数と構成を確認している。

そして第2審査官は、シェリィ自身を見ていた。

少なくともここでは、会長は命令していた。

休め、と。

功労金を支給する、と。

先ほどまで聞いていた「会長命令が届かない制度」とは、正反対の光景に見える。

しかし、第2審査官は何も言わなかった。

◇

同日午後――

アスタリア大商会・審査用会議室――

席へ戻ると、第1審査官がすぐに尋ねた。

「先ほどの特別功労金も、会長の命令だけで支払われるのですか」

シェリィは質問の意図を理解した。

「支給を決定するのは私の権限です。ただし、実際の支払いと記録の確認は、定められた手続きに従います」

「つまり、命令書を出しただけでは現金は動かない?」

「はい。対象者の確認、従業員記録との照合、支給額の確認を行ったうえで、経理担当部署が正式な支払処理を行います」

「会長が『すぐ払え』と言えば?」

「正規の確認を飛ばして支払う理由にはなりません」

第2審査官が口を開いた。

「では、先ほどの休暇命令は?」

「従業員へ特別有給休暇を与えることは、会社側が従業員に不利益を与えない範囲で、正当な権限に基づいて決定できます。ただし、その記録や給与処理まで勝手に書き換えてよいという意味ではありません」

「会長命令が届くところと、届いてはいけないところを分けている、と?」

シェリィは頷いた。

「はい」

第2審査官はそこで初めて、ほんの少しだけ表情を変えた。

会長の権限を弱めれば健全になるわけではない。

必要な場所では決断し、止めるべき場所では自分自身も止められる。

問題は、権限があるかないかではなく、その境界が制度として定められているかだった。

◇

同日午後後半――

《アスタリア下水高度浄化処理場》――

第3審査官は、原水の受入れから前処理・沈殿・固形物分離・高度浄化・処理水検査・放流までの流れを確認していた。

さらに、汚泥や残渣の扱い、異常検知時の停止・隔離・再循環・再処理手順まで記録と照合する。

「ここは、すでに全面的な正式運転へ移行しているのですか?」

担当者が首を横に振った。

「いいえ。芽風月23日に限定的な放流を開始していますが、試験結果と正式運用の範囲は分けて管理しています」

「以前、水質検査で不合格になった試料がありましたね」

「はい。該当水は外へ放流せず隔離し、再循環と再処理を行いました。その後、再検査で基準を満たした水だけを放流しています」

第3審査官は処理記録を追った。

「闇曜も施設は動かしている?」

「はい。生活排水そのものは休日だから止まりませんので、処理設備の運転・水質監視・異常対応は交代勤務で維持します」

第3審査官は静かに頷いた。

試験中だから安全基準を下げるのではない。

試験中だからこそ、問題が見つかった時に外へ出さず、正式運用へ移る前に処理方法を確認する。

それが実証段階の意味だった。

この日の施工実績0.43 Miを加え、《魔導熱伝導路》の累計施工距離は268.63 Miとなった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫11日・土曜(どよう)――

アスタリア大商会・人工河川管理区域――

第3審査官は、人工河川の上流・中流・下流それぞれの測定記録を確認していた。

流量・水質・凍結状況に加え、転落防止設備・緊急遮断設備・周辺地盤・漏水や浸透の有無、《アスタリア下水高度浄化処理場》との連携まで確認対象となる。

「水が流れているから完成、ではないわけですね」

「はい。現在は限定的な運用です」

担当者の答えに、第3審査官は視線を上げた。

「闇曜は?」

「流量・水質・凍結・安全監視など必要業務だけを交代勤務で継続します」

人が造った河川だからこそ、人が責任を持って管理し続けなければならない。

流れているという事実と、安全に正式運用できるという判定は別だった。

◇

同日――

《魔導熱伝導路》第22工区(第3期・第2工区)――

8日に10.00 Miの敷設を終え、9日に完成検査を受けていた第22工区では、正式検収が行われた。

施工記録・検査結果・安全設備・制御設備・保守引継資料が確認され、必要条件を満たしていることが確定する。

「第22工区、正式検収合格」

その時点で、9日から現地待機していたM22保守班へ正式な管理引継が行われた。

敷設が終わった日ではなく、完成検査を行った日でもなく、正式検収を通過したこの日から、M22保守班が正式な担当となる。

同じ日、第23工区(第3期・第3工区)では10.00 Miの敷設が完了した。

ただし、第23工区はまだ正式検収を終えていない。

敷設完了と正式検収を混同することなく、次の工程へ進む。

M23保守班7名も第23工区保守基地B23へ到着したが、正式な管理引継は検収後となる。

一方、公爵領側では保守基地・備蓄倉庫などの建設が継続しており、VB001やVW001についても11日はあくまで工程上の完成目標日であるため、検査記録と正式検収が確認されるまでは完成扱いにはしない。

この日の《魔導熱伝導路》施工実績は1.59 Miとなり、累計施工距離は270.22 Miへ到達した。

全300.00 Miに対する進捗率は90.07%。

残る施工距離は29.78 Miとなった。

◇

同日――

アスタリア大商会――

C01の15名は、この日から特別有給休暇へ入っていた。

11日から17日までの7暦日を連続して休養に充てるが、そのうち12日の闇曜はもともとの通常休日であり、特別有給休暇として扱うのは11日と13日から17日までの6勤務日である。

通常の有給休暇残日数は減らさず、給与も減額しない。

前日まで現場で働いていた者たちにとって、仕事をしないことを命じられるのは、かえって落ち着かないことだったかもしれない。

それでもシェリィは、休むべき時に休ませることも会社の責任だと考えていた。

長く働いた者へ「まだ動けるから」と次の現場を与え続ければ、いつか必ず無理が表へ出る。

疲労は本人の気合いだけでは帳消しにならない。

だから休暇は褒美であると同時に、次の仕事へ安全につなぐための制度でもあった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫12日・闇曜(あんよう)――

アスタリア大商会本部――

再び闇曜を迎え、本部は静けさを取り戻していた。

施工部隊の通常施工は休止し、《魔導熱伝導路》の累計施工距離は270.22 Miのまま動かない。

農業実証施設では給水・温度・生育確認、牧畜実証施設では給餌・給水・健康確認・清掃・温度管理、《アスタリア下水高度浄化処理場》では処理設備の運転・水質監視・異常対応、人工河川では流量・水質・凍結・安全監視、各保守班では設備監視と緊急対応が、それぞれ必要人数による休日シフトで続けられていた。

《企業群決済管理室》・会計監査部・法務監査部も最低限の監視体制を維持している。

しかし、通常の外部監査説明のために職員を呼び戻すことはない。

3名の審査官は、この日もすでに正式に受領している資料だけを使い、これまで確認した事項を整理していた。

会長の命令が届かない独立管理制度。

企業群内小切手の運用と異常決済の停止。

急速に増える取引の会計処理。

農業実証施設。

牧畜実証施設。

《アスタリア下水高度浄化処理場》。

人工河川。

《魔導熱伝導路》の施工・検査・正式検収・保守引継。

そして、C01へ命じられた特別有給休暇と特別功労金。

第1審査官は、C01に関する書類を見ながら呟いた。

「会長命令で支給を決める。しかし、会長命令だけでは支払処理は完了しない」

第2審査官が答える。

「逆に、休暇を与えることまで監査部門へ決めさせれば、それは経営ではありません」

第3審査官は施工記録を閉じた。

「第21工区と第22工区は正式検収済み。第23工区は敷設完了ですが、正式検収待ちです。ここも区別されています」

短い沈黙が流れた。

3名とも、まだ最終判断を口にしない。

審査は終わっていなかった。

シェリィも、それを急かすつもりはなかった。

窓の外には、冷たいアスタリアの景色が広がっている。

この土地へ来た頃なら、270.22 Miという数字は、あまりにも遠いものに見えただろう。

だが、その距離はシェリィ一人が造ったものではない。

設計する者、製造する者、資材を運ぶ者、地面を掘る者、接続する者、検査する者、保守する者、食事を作る者、治療する者、帳簿を管理する者、安全を確認する者。

数え切れない仕事がつながり、ようやく270.22 Miという一つの数字になる。

シェリィは施工報告書の最後に記された数字へ視線を落とした。


挿絵(By みてみん)


終わりは、確かに見えてきている。

けれど、数字が100%になればすべてが終わるわけではない。

造った設備を守り、働く人を守り、取引を正しく記録し、権限を持つ者自身まで制度の中へ置く。

それができなければ、どれほど長い熱伝導路を造っても、その先に続く未来は脆い。

シェリィは静かに報告書を閉じた。

自分の命令が必要な場所では、迷わず命じる。

自分の命令が届いてはいけない場所には、最初から届かない仕組みを置く。

その両方が必要なのだと、今ならはっきり分かる。

王都ギルド組合がどのような判断を下すのかは、まだ分からない。

それでも、審査のためだけに制度を作ったわけではなかった。

明日も、その次の日も、この商会が自分一人の判断だけで壊れないようにするために作ったものだった。

静かな闇曜の本部で、止めてはいけない仕事だけが、今日も動き続けていた。

お読みいただきありがとうございます。

今回は、会長として正当に行使する権限と、その会長命令さえ届かない独立管理制度の両方を描きました。《魔導熱伝導路》も270.22 Mi、進捗率90.07%まで到達しています。


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