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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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96/99

第96話:予告なき審査と、動き始めた新たな月

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫1日・光曜(こうよう)――

アスタリア大商会本部・大会議室。

月が変わった最初の朝、《アスタリア経営者会議》にはアスタリア大商会の経営陣と《アスタリア企業群》9商会の代表者、総務財務部、物流商務部・市場対外商務課、各議題に関係する部門責任者が集まっていた。

シェリィは王都セレスティアに滞在しているため、業務用魔導通信を通して会議へ参加していた。

最初に報告されたのは、芽風月《第3月》の月次決算だった。

アルノルト・フェルナー(総務財務部長)が正式元帳を開く。

「芽風月分の会計処理は締め切り、会計検査も完了しています。翔風月は新しい月として開始し、3月末に確定した売掛金と買掛金、未払金だけを所定どおり繰り越します」

「3月の利益を、4月でもう一度売上に入れるようなことはありませんね?」

シェリィが尋ねる。

アルノルト(総務財務部長)は当然というように頷いた。

「ありません。4月3日の王国入金、5日の取引先決済と給与支給も、それぞれ発生原因と対象期間を分けて処理します」

「お願いします」

数字は月が変わったから消えるものでも、もう一度生まれるものでもない。

3月に成立した取引は3月の取引として締め、4月に支払われるものは4月の資金移動として処理する。

会計上は当たり前のことだが、事業規模が大きくなるほど、その当たり前を崩さない仕組みが重要になっていた。

◇

続いて、市場・対外商務課から世界魔石市場の報告が始まった。

星環暦1285年・翔風月1日の市場価格は、普通級が1 Sl(セル/1kg)あたり金貨1.273枚、中級が金貨6.435枚、上位級が金貨32.189枚、高純度級が金貨140.450枚、特級が金貨761.375枚となっている。

以前にシェリィが想定していた高純度級と特級の上昇方向とは一致していたが、予測値そのものと実勢価格には差があった。

市場担当者が説明する。

「高純度級、特級とも上昇傾向は続いています。ただし、以前の予測価格を完全に再現しているわけではありません」

「それでいいのです」

シェリィは迷わず答えた。

「将来の価格を当てることが目的ではありません。価格が上がる可能性がある時に、何を準備しておくべきだったかを判断するための予測です」

各商会代表が画面越しのシェリィを見る。

「今後も上がりますか?」

その問いに、シェリィは少し考えてから答えた。

「上昇要因はあります。ただし、上がると保証することはできません」

国家規模の調達。

戦略備蓄。

民間の先行購入。

供給量の制約。

いずれも価格を押し上げる要因になる。

しかし、政策変更や新規供給、需要減少が起これば市場は動く。

「だから、値上がりするから買うのではなく、それぞれの商会が本当に必要とする量を考えてください」

シェリィは企業群の代表たちへ言った。

「価格予測を、投機の理由にはしたくありません」

《アスタリア企業群》は10商会から成る企業グループだが、それぞれが法的には独立した法人である。

アスタリア大商会が、他の商会へ購入を命令する場ではない。

経営者会議は情報を共有し、それぞれの経営者が自社の責任で判断するための場だった。

◇

会議後半では、《魔導熱伝導路》第3期工事、公爵領方面への展開準備、保守班の配置、新規採用、農業・牧畜実証、高度浄水処理場、人工河川の運営状況が報告された。

ディートリヒ・ハーゲン(熱供給事業部長)は、芽風月末時点でアスタリア側300.00 Mi(ミーレ/300.00km)のうち253.90 Miまで敷設済みであることを報告した。

「残施工距離は46.10 Miです」

「完成が近づいてきましたね」

シェリィは嬉しそうに言ったが、ディートリヒ(熱供給事業部長)は続ける。

「ただし、第21工区以降は施工中です。距離が10.00 Miへ到達しても、検査、検収、保守引継、通熱開始までは別工程です」

「はい。そこは今までどおり分けてください」

計画と実績。

敷設と検収。

注文と売上。

能力と実測。

事業が増えても、シェリィが求める管理原則は変わらなかった。

◇

同日午後――

経営者会議で共有された市場情報を受け、早くも2商会から魔石の購入注文が届いた。

グローヴァー建設商会から上位級魔石0.250 Sl、ベルナート精製素材商会から高純度級魔石0.150 Sl。

用途は、それぞれ建設機械・施工機器と、精製素材の研究・製造だった。

オットマール・リンデン(物流商務部長)が注文書を確認する。

「受注として記録します。販売額、納期、正式受注番号は発注受注管理側で確定させます」

「今日の市場価格を見て注文が来たからといって、今日の売上にはなりませんね?」

「もちろんです」

オットマール(物流商務部長)は笑った。

「注文を受けただけですから」

シェリィも笑みを見せる。

「最近、その区別を聞かなくても皆さんが先に言ってくださるようになりました」

「会長が何度も確認なさるからです」

「それなら、聞き続けた意味がありました」

◇

同日午後遅く――

アスタリア大商会本部へ、王都ギルド組合から一通の封書が届いた。

担当者が封を確認し、所定の手続きを経て開く。

中に書かれていた文章は短かった。

「貴商会に今月審査に伺います。」

それだけだった。

日付はない。

時刻もない。

職員の一人が封書を裏返したが、当然ながら追加の記載はなかった。

「前回は通知後の3日に来られましたが……」

アルノルト(総務財務部長)は首を横へ振った。

「今回は今回だ。日程を推測して、その日だけ帳簿を整えるようなことはしない」

「通常どおりで?」

「通常どおりだ」

王都にいるシェリィへも、すぐに報告が送られた。

『訪問日は書かれていません』

「分かりました」

『王都側へ問い合わせますか?』

「いいえ」

シェリィは即答した。

「抜き打ち審査なのですから、こちらが日程を聞いたら意味がありません」

本部では審査に必要な資料の所在を確認したが、通常業務は止めなかった。

審査の日だけ正しく見える会社ではなく、いつ見られても同じ会社であること。

明日、その意味が試されることになるとは、まだ誰も知らなかった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫2日・火曜(かよう)――

アスタリア大商会本部。

午前。

受付から内線が入った。

「王都ギルド組合の審査官3名がお見えです」

アルノルト(総務財務部長)は時計を見ることなく立ち上がった。

「会議室へご案内してください。身分証明と審査権限の確認を先に」

昨日の通知から、わずか1日。

訪問日の事前通告はなかった。

3名の審査官は、それぞれ財務・内部統制、施工・設備・安全、事業運営を担当していた。

氏名については既存登録との照合が済むまで本文上の新規設定を行わず、第1審査官、第2審査官、第3審査官として審査が進められた。

第1審査官が最初に確認したのは、前回の審査記録だった。

「前回は、企業群内小切手制度について詳細な確認を行っています」

アルノルト(総務財務部長)が答える。

「はい」

「制度変更は?」

「重大な変更はありません」

「前回以降、不正使用や重大事故は?」

「確認されていません」

「では、制度そのものを最初から全面再審査する必要はないでしょう。ただし、独立統制が現在も機能しているかは確認します」

審査は、前回合格したものを無意味に繰り返すためのものではない。

合格後に制度が崩れていないかを見るためのものだった。

◇

審査官たちが案内されたのは、企業群決済管理室、会計監査部、法務監査部に関する審査区域だった。

ただし、審査官だからといって自由に中へ入れるわけではない。

認証資格のない者は管理区域へ入れず、メモ用紙や私物の筆記具なども持ち込めない。

帳簿や重要記録も原則として外へ持ち出せず、不正会計などの疑いが生じた場合だけ正式手続きに従って持ち出しが認められる。

第1審査官が確認する。

「会長なら入れますか?」

担当者は首を横へ振った。

「シェリィ会長も専用認証資格を持っていません」

「自社の会長が?」

「はい」

「会長命令で帳簿を出すよう指示された場合は?」

「通常の指揮命令としては従いません。正式な手続きが必要です」

審査官は少しだけ眉を上げた。

企業群決済管理室、会計監査部、法務監査部は、通常の経営指揮から切り離している。

経営者自身が不正へ関与した場合、その経営者を監視できなければ独立統制とは呼べない。

企業群内小切手で不正が確認されれば、該当商会の使用を停止し、企業群へ通告し、必要に応じて王都銀行へ積み立てられた補償金から償還する。

相手が企業群内の商会でも、経営者でも例外にはしない。

審査官たちは、制度説明だけではなく入退室記録、監視記録、権限一覧を照合していった。

◇

同日午後――

審査の最中にも、新しい注文が2件届いた。

ケストラー魔導機器商会から特級魔石0.020 Sl、ラインフェルト運輸商会から中級魔石1.500 Sl。

用途は高精度魔導機器の研究・製作と、運輸設備・業務用魔導機器だった。

担当部署は注文を受領し、この時点では売上へ計上しない。

夕刻、第1審査官から本部側へ要請が出された。

「会長本人にも確認したい事項があります」

アルノルト(総務財務部長)が答える。

「現在、王都セレスティアに滞在しております」

「いつ戻せますか?」

「本人へ確認します」

王都へ連絡が入った時、シェリィは少し驚いたものの、拒む理由はなかった。

「分かりました。戻ります」

『明日中の到着は難しいと思われます』

「無理な日程にはしません。翔風月4日の到着で手配してください」

審査官たちは、シェリィが戻るまで他部門の審査を続けることになった。

審査を止めて会長だけを待つ必要はなかった。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫3日・風曜(ふうよう)――

アスタリア大商会本部・総務財務部。

午前。

王国からの入金通知が届いた。

金貨12,000枚。

担当者は通知を受け取っただけで処理を終えず、送金元、契約、入金日、金額、銀行記録を照合した。

白耀月3日の金貨10,000枚。

芽風月3日の金貨11,000枚。

そして翔風月3日の金貨12,000枚。

既存契約に基づく定例の資金受領であり、新しい商品を売った売上として処理するものではない。

アルノルト(総務財務部長)が照合記録を確認する。

「4月資金管理へ反映してください。3月以前の入金と混ぜないように」

「はい」

多額の現金が入った。

それだけを見れば、会社が突然儲かったようにも見える。

しかし、金が入る理由は一つではない。

売上なのか。

前受なのか。

借入なのか。

契約に基づく概算前渡金なのか。

理由を間違えれば、利益も負債も資金計画もすべて歪む。

◇

同日午前――

アスタリアの街。

M21保守班の7名が、第21工区へ向けて出発した。

メンテナンス要員6名と同行料理人1名。

7名全員の正式入社日は、この翔風月3日となる。

移動には2日を要し、第21工区保守基地への到着予定は翔風月5日。

第21工区はまだ10.00 Miの敷設を終えていない。

それでも、完成してから保守班を出発させるのでは遅い。

検収合格後すぐに保守引継へ移れるよう、完成時期から逆算して先行赴任させる。

ディートリヒ(熱供給事業部長)が移動計画を確認していた。

「M22からM30も同じですか?」

担当者が尋ねる。

「各工区の完成見込みから移動日数を逆算する。全工区が完成するまで待って一斉出発はしない」

「了解しました」

保守体制に空白を作らないために、人を早く出しすぎることも、遅すぎることも避ける。

なお、M21の7名は翔風月3日入社であるため、芽風月分給与の対象には含まれない。

◇

同日午前から午後にかけて、企業群からさらに2件の魔石注文が届いた。

ヴァルデン倉庫商会から普通級魔石3.000 Sl、フォルスター車両製作商会から上位級魔石0.400 Sl。

倉庫設備・保管管理と、車両用魔導機器の製造に使う予定である。

注文は受領されたが、まだ納品も検収も行われていない。

◇

同日午後――

第2審査官は、《魔導熱伝導路》に関する施工・保守資料を確認していた。

第1工区から第20工区までの完成・検収記録。

第21工区から第30工区までの施工進捗。

倉庫からの資材出庫。

施工部隊の作業記録。

治癒魔法士の配置。

保守基地。

メンテナンス班の資格。

緊急時対応記録。

第2審査官が、ある施工表を指した。

「第21工区は、間もなく10.00 Miに達する見込みですね」

ディートリヒ(熱供給事業部長)が答える。

「はい」

「10.00 Miに達した日から、通熱運用へ?」

「いいえ」

ディートリヒ(熱供給事業部長)の返答は即座だった。

「それは敷設が終わっただけです。施工記録を整理し、完成検査、正式検収を経て、保守引継と通熱開始判断へ進みます」

「距離がそろっていても?」

「距離は完成条件の一つでしかありません」

第2審査官は記録へ何かを書き込んだ。

審査されているのは、施工速度だけではない。

完成という言葉を、どこまで厳密に使っているかも見られていた。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫4日・水曜(すいよう)――

アスタリアの街。

午前。

王都セレスティアから長距離を移動してきたシェリィが、アスタリアへ戻った。

本部へ入ると、休む前に最初の報告を受ける。

王国から金貨12,000枚が入金されたこと。

ギルド審査が続いていること。

M21保守班が第21工区へ移動中であること。

企業群から新しい魔石注文が続いていること。

そして、第21工区の敷設完了が近づいていること。

シェリィは一つずつ確認してから、3名の審査官が待つ会議室へ向かった。

◇

アスタリア大商会本部・審査会議室。

第1審査官がシェリィへ尋ねた。

「短期間で、ずいぶん事業が増えましたね」

「はい」

「魔導熱伝導路、企業群、農業、牧畜、高度浄水、人工河川。これだけを一人で管理しているのですか?」

「いいえ」

シェリィは首を横へ振った。

「私一人では管理できません」

審査官が少しだけ表情を変える。

シェリィは続けた。

「私は、何を優先するか、どこへ資金を配分するか、事業同士をどうつなぐかを判断します。でも、熱路の安全性は技術者が判断し、水質は検査担当者が判断し、農作物の生育条件は農業担当者が判断します」

「会長の判断より、専門家の判断を優先する場合がある?」

「もちろんです」

シェリィは穏やかに答えた。

「私が水を流したいと思っても、水質検査に不合格なら流せません」

第3審査官が尋ねる。

「では、会長とは何をする人なのです?」

シェリィは少し考えた。

「皆さんが正しい判断をできるように、数字と制度と責任の境界を整える人……でしょうか」

自分で口にしてから、少し恥ずかしそうに笑う。

「まだ、私自身も勉強中ですが」

◇

第1審査官は、企業群内小切手と独立統制へ話を移した。

「あなた自身が、企業群決済管理室や一部監査区域へ自由に入れないそうですね」

「はい」

「なぜ自分の権限を制限するのですか?」

シェリィは迷わなかった。

「私が間違えない保証がないからです」

室内が一瞬だけ静かになった。

「会長なら不正をしない、という前提で制度を作ったら、会長が不正をした時に止める人がいなくなります」

「あなた自身も監査対象?」

「はい」

「あなたが監査担当者へ、不都合な記録を消すよう命じたら?」

「従ってはいけません」

「解雇すると脅したら?」

シェリィは少し眉を寄せた。

「それを私がしたのなら、むしろ記録して報告していただきたいです」

第1審査官は、シェリィの顔をしばらく見ていた。

「会長にしては、会長を信用していない制度ですね」

「人を信用していないのではありません」

シェリィは静かに答える。

「人が間違えても、会社まで一緒に間違えない仕組みにしたいのです」

◇

第2審査官は、《魔導熱伝導路》について尋ねた。

「施工と保守を分けている理由は?」

「造る仕事と、何年も守る仕事では必要な経験が違うからです」

「施工部隊がそのまま保守すれば、人員を減らせるのでは?」

「一時的には減らせると思います。でも、施工部隊が次の工区へ行けなくなりますし、保守の専門性も育ちません」

シェリィは手元の工区表を示す。

「だから、工事が完成へ近づいた段階で保守班を先行赴任させ、正式検収後に責任を引き継ぎます」

「第21工区も?」

「はい。M21が昨日出発しました」

「まだ完成していないのに?」

「到着する頃に敷設完了が近いからです。ただし、到着しただけで正式保守開始とはしません」

第2審査官は頷いた。

「敷設、検査、検収、引継、通熱を分けているわけですね」

「はい」

審査官は再び資料へ視線を落とした。

◇

同日午後――

第3審査官は、農業、牧畜、高度浄水処理場、人工河川の審査へ移った。

農業実証施設では、まだ収穫していない小麦を生産実績として扱っていないか。

栽培区画ごとの温度、水量、作業記録が残っているか。

牧畜では、実際に管理している家畜148頭(羽)の購入記録、飼育状況、給餌、給水、健康、衛生、排泄物処理が一致しているか。

高度浄水処理場では、設計上の処理能力と、実際の試験・運転で確認された能力を混同していないか。

人工河川では、放流量、水質、流路、安全設備、周辺環境への影響が記録されているか。

第3審査官が農業担当者へ尋ねる。

「この小麦は、生産済みですか?」

「いいえ。試験栽培中です」

「収穫予定量は?」

「予測値はありますが、実績ではありません」

「売上は?」

「まだありません」

審査官は頷いた。

次に牧畜記録を確認する。

「148頭(羽)は、帳簿上だけの数量ではないですね?」

「現場の個体管理記録と照合できます」

新しい事業だからこそ、期待値を実績に変えないことが重視された。

◇

同日午後遅く――

さらに2件の注文が届いた。

ハインデル商業印刷・紙工商会から普通級魔石2.000 Sl。

モーゲン食品卸商会から中級魔石2.000 Sl。

用途は印刷・製紙設備と、食品保管・加工設備だった。

これで翔風月1日から4日までに8商会から8件の注文が届いたことになる。

だが、8件の注文が8件の売上になったわけではない。

納品も検収も、正式な販売計上もこれからだった。

◇

同日夕刻――

総務財務部では、翌5日の決済準備が始まっていた。

3月末に確定した債務と債権を、発注番号、請求番号、納品・検収記録と照合する。

同じ商会に支払う金額と回収する金額がある場合でも、相殺しない。

それぞれ別の取引として支払い、別の売掛金として回収する。

3月分給与についても、最新の正式給与台帳と照合した確定額だけを支給する。

古い試算額は使わない。

明日は多額の資金が動く。

そして、その場にはギルドの審査官もいる。

シェリィは帳票を見ながら思った。

審査の日に資金移動を延期することもできたかもしれない。

でも、それでは意味がない。

普段どおりに動く会社を審査してもらう。

それが一番正しい。

◇

星環暦(せいかんれき)1285年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫5日・土曜(どよう)――

アスタリア大商会本部・総務財務部。

朝。

3月末に確定した取引先への支払いと売掛金の回収が始まった。

会計帳簿上の決済額は次のとおりだった。

商会名支払額回収額

ベルナート精製素材商会金貨4,205.237枚金貨23.439枚

グローヴァー建設商会金貨1,306.990枚金貨9.466枚

ケストラー魔導機器商会金貨746.500枚金貨30.660枚

モーゲン食品卸商会金貨425.980枚―

ローデル農業資材商会金貨20.860枚―

ハインデル商業印刷・紙工商会金貨4.200枚金貨1.344枚

ラインフェルト運輸商会金貨1.800枚金貨2.688枚

ヴァルデン倉庫商会―金貨4.099枚

フォルスター車両製作商会―金貨2.746枚

シルヴァン繊維商会―金貨1.385枚

取引先への支払総額は金貨6,711.567枚、売掛金回収総額は金貨75.827枚で、差引資金流出は金貨6,635.740枚となる。

ただし、帳簿では差額だけを一件として処理するわけではない。

各商会への支払と各売掛金回収を、個別の債務・債権へ対応させて消し込んでいく。

モーゲン食品卸商会への支払には、家畜148頭(羽)分の金貨220.000枚と、初回食材4,026.720 Sl分の金貨205.980枚が含まれていた。

ケストラー魔導機器商会への金貨746.500枚には、一般建設資材の金貨745.300枚と、不正防止定例取引の金貨1.200枚が含まれる。

ヴァルデン倉庫商会からの回収金貨4.099枚についても、複数の魔石注文分を一件へ混ぜず、それぞれの債権へ対応させて処理した。

第1審査官は、その処理を横から確認していた。

「同じ商会へ支払うものと、回収するものがありますね」

「はい」

アルノルト(総務財務部長)が答える。

「差額だけ送れば簡単なのでは?」

「資金移動だけなら簡単です。しかし、どの請求を支払い、どの売掛金を回収したか分からなくなります」

「だから別々に?」

「はい。元の取引へ個別に対応させています」

第1審査官は決済記録と3月末残高を照合した。

3月販売分の売掛金75.827枚は、この日の回収によって消し込まれる。

4月に現金が入ったからといって、4月の売上としてもう一度計上することはない。

◇

同日午前から午後――

3月1日から30日までの勤務分について、従業員への給与支給も実行された。

支給対象者と金額は、最新の正式給与台帳を基準に確認する。

旧試算額は使わない。

給与支給によって、対応する未払給与を消し込む。

M21保守班の7名は翔風月3日入社のため、今回の3月給与には含まれない。

第1審査官は、給与支給記録、王国からの金貨12,000枚の入金記録、取引先決済、企業群内取引を順番に確認していく。

さらに、翔風月に入ってから受注した魔石注文についても確認した。

「これは売上に入っていますか?」

担当者が首を横へ振る。

「いいえ。受注記録のみです」

「納品は?」

「まだです」

「なら、そのままで結構です」

注文は注文。

売上は売上。

現金は現金。

審査官が見ているのは、会社がどれだけ儲けたかだけではなかった。

それぞれの数字へ、正しい名前を付けているかだった。

◇

同日午前――

最後の9件目となる魔石注文も届いた。

シルヴァン繊維商会から中級魔石1.200 Sl。

用途は繊維加工用魔導設備。

これで翔風月1日から5日までに、《アスタリア企業群》の9商会すべてから1件ずつ、合計9件の新規注文が入ったことになる。

シェリィは報告を受けても、売上表を作らせなかった。

「9件受注したことは分かりました。でも、まだ9件販売したわけではありません」

オットマール(物流商務部長)が頷く。

「正式受注番号、在庫引当、納期、納品、検収、請求を順に処理します」

「お願いします」

市場価格が上がっていても、帳簿の中だけ未来を先取りすることはしない。

◇

同日午後――

第21工区(第3期・第1工区)。

施工第1部隊(C01)は、最後に残った区間の敷設を進めていた。

施工員たちは、10.00 Miという数字を意識しないように、いつもと同じ手順を繰り返した。

地盤を確認する。

路体を敷設する。

接続状態を確認する。

固定し、記録する。

やがて、測量担当者が最終値を確認した。

「第21工区、10.00 Mi到達」

一瞬の静寂の後、施工員たちの間から小さな歓声が上がった。

第3期で最初の10.00 Mi敷設完了工区だった。

だが、施工第1部隊(C01)の仕事はまだ終わらない。

施工記録を整理し、正式検査と検収に備え、保守側へ引き継ぐための資料をまとめる必要がある。

通熱開始も未確定である。

中央管理室へ報告が届くと、ディートリヒ(熱供給事業部長)は確認した。

「敷設完了で登録してください」

「完成ではなく?」

「正式検収がまだだ」

「了解しました」

言葉一つで設備の状態を先へ進めない。

その原則は、施工距離が10.00 Miに届いた時ほど大切だった。

◇

同日午後――

第21工区保守基地。

翔風月3日にアスタリアを出発したM21保守班7名が、予定どおり現地へ到着した。

メンテナンス要員6名と同行料理人1名。

2日間の移動を終え、最初に確認したのは保守基地の設備だった。

保守工具、交換部品、魔導通信設備、生活設備、食材、緊急対応用品。

足りない物があれば、正式引継前に補えるよう記録する。

同行料理人も基地内の厨房と食料保管設備を確認し、生活支援の準備へ入った。

施工員の一人がM21の班員へ声をかける。

「今日から、ここをお願いします」

M21側の班員は笑いながらも首を横へ振った。

「まだです」

施工員が少し驚く。

「まだ?」

「正式検収前ですから。今日は引継ぎの準備です」

施工員もすぐに意味を理解し、笑った。

「そうだったな」

敷設が終わった。

保守班も到着した。

それでも、正式な責任移管はまだ行わない。

検収という境界を越えて初めて、造る側から守る側へ責任が渡る。

◇

同日夕刻――

アスタリア大商会本部・中央管理室。

翔風月1日から5日までの施工集計がまとまった。

第1期100.00 Mi。

第2期100.00 Mi。

第3期63.02 Mi。

アスタリア側300.00 Miのうち、263.02 Miまで敷設。

施工進捗率87.67%。

残施工距離36.98 Mi。

第21工区は10.00 Miの敷設を終え、第22工区も9.72 Miまで進んでいる。

シェリィは進捗表を見ながら、息を吐いた。

「あと36.98 Mi……」

ディートリヒ(熱供給事業部長)が答える。

「はい。ただし、第21工区もまだ検収待ちです」

シェリィは笑った。

「もう分かっています」

「失礼しました」

「でも、何度でも言ってください」

シェリィは表へ視線を戻す。

「完成が近づくほど、きっと先を急ぎたくなりますから」


挿絵(By みてみん)


その日の本部では、取引先への支払いが行われ、売掛金が回収され、3月分給与も支給された。

王国からは金貨12,000枚が入り、9商会から9件の新しい魔石注文が届いた。

第21工区では10.00 Miの敷設が終わり、M21保守班も現地へ到着した。

農業、牧畜、高度浄水処理場、人工河川も運営を続けている。

多くのことが進んだ5日間だった。

けれど、まだ一つだけ結果が出ていないものがある。

王都ギルド組合の審査だった。

◇

同日夜――

アスタリア大商会本部・審査会議室。

3名の審査官は、まだ資料を確認していた。

第1審査官の前には会計と決済記録。

第2審査官の前には施工・保守資料。

第3審査官の前には農業、牧畜、高度浄水、人工河川の運営記録が並んでいる。

シェリィは呼ばれた質問に一つずつ答え終え、自分の席へ戻った。

審査官は、まだ合格とも不合格とも言わない。

シェリィも尋ねなかった。

結果を早く知りたくないわけではない。

胸の奥には、もちろん緊張がある。

自分たちが作ってきた制度が、本当に外から見ても正しいのか。

急速に広げてきた事業に、見落としはないのか。

考え始めれば、不安はいくらでも出てくる。

それでも、審査の日だけ良く見せることはしなかった。

普段使っている帳簿を出した。

普段の決済を行った。

進行中の工事は進行中と答えた。

未収穫の小麦は、未収穫だと答えた。

まだ納品していない魔石注文は、売上ではないと答えた。

検収前の第21工区は、敷設完了であって正式完成ではないと答えた。

シェリィは窓の外へ目を向けた。

アスタリアの夜には、もう以前のような暗さはない。

熱供給を受ける建物の灯りが増え、その先には263.02 Miまで延びた熱路がある。

新しい月は、決算が終わった翌日に静かに始まったわけではなかった。

市場価格が動き、注文が届き、審査官が突然現れ、王国から金が入り、人が新しい保守基地へ向かい、大きな決済が行われ、また一つの工区が10.00 Miへ到達した。

会社が大きくなるということは、何か一つだけを見ていられなくなることなのだろう。

けれど、すべてを自分一人で見る必要もない。

シェリィは、昼間の審査官との会話を思い出した。

人が間違えても、会社まで一緒に間違えない仕組みにしたい。

それは、自分自身にも当てはまる。

だから専門家がいる。

監査する者がいる。

止める者がいる。

自分の権限へ境界を引く制度がある。

そして今、その仕組みそのものが審査されている。

扉の向こうで、まだ紙をめくる音がする。

結論は出ていない。

シェリィは静かに立ち上がった。

明日も会社は動く。

審査結果が出るまで、事業を止めて待つ必要はない。

「お先に失礼いたします」

審査官たちへ一礼する。

第1審査官が顔を上げた。

「結果を聞かないのですか?」

シェリィは少しだけ驚いた後、微笑んだ。

「まだ審査が終わっていないのでしょう?」

「ええ」

「でしたら、終わってからお願いいたします」

審査官は何も答えず、再び資料へ視線を戻した。

シェリィは会議室を出る。

合格を求めて制度を作ったのではない。

会社を守るために制度を作った。

その制度が、本当に機能しているのか。

答えは、もう少し先にある。

お読みいただきありがとうございます。

翔風月1日から5日にかけて、アスタリア大商会では3月決算後の新しい月次運営、世界魔石市場の分析、企業群9商会からの新規注文、王国からの金貨12,000枚の入金、取引先決済、3月分給与支給、そして王都ギルド組合による抜き打ち審査が同時に進みました。

会長自身が自由に入れない監査区域や、会長の不正な命令にも従わない独立統制は、会社が成長しても維持されています。

審査の最終結果はまだ出ていません。


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