第95話:熱を運ぶ道に、人を守る仕組みを
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫24日・闇曜――
アスタリア大商会本部・中央管理室。
前日までに、アスタリア側300 Mi区間の《魔導熱伝導路》は244.00 Mi(ミーレ/244.00km)まで敷設されていた。
第1期100.00 Miは完成・検収済みで通熱運用中、第2期100.00 Miは全10工区の敷設を終えて検収確認を継続し、第3期では第21工区から第30工区まで全10施工部隊がそれぞれの担当区間で工事を進めている。
だが、この日の施工予定表には、すべての工区に同じ文字が記されていた。
休日。
施工第1部隊(C01)から施工第10部隊(C10)まで、普通施工要員、各部隊3名の土系魔導士、同行料理人を含む全150名が休む。
同行料理人は前日の土曜までに闇曜分の食事を準備しており、施工拠点では温め直しや簡単な配膳だけで食事を取れるようになっていた。
保守部隊も、治癒魔法士も原則休日である。
もちろん、《魔導熱伝導路》そのものが休日になるわけではない。
設備は動き続ける。
監視設備も止まらない。
異常があれば、当番の連絡体制から必要な者が出動する。
シェリィは中央管理室の運用記録を見ながら、少し不思議な気持ちになっていた。
工事を始めた頃は、少しでも早く熱を届けなければならないという思いばかりが強かった。
極寒の土地に暮らす人々がいる。
公爵領へ熱を届ける長大な工事もある。
一日休めば、その分だけ完成は遅れるように思えた。
だが、300 Miもの設備を造り、その後何年、何十年と守り続けるのなら、人間の方が先に壊れてしまう働き方では続かない。
「今日は、本当に全施工部隊がお休みなのですね」
シェリィが確認すると、ディートリヒ・ハーゲン(熱供給事業部長)が頷いた。
「はい。緊急対応を除き、通常施工はありません」
「施工距離は?」
「0.00 Miです」
その数字を聞いても、シェリィは焦らなかった。
むしろ、予定どおり0.00 Miであることに安心した。
「休むことも、工程の中に入ったのですね」
ディートリヒ(熱供給事業部長)が小さく笑う。
「長期施工では、それが必要です」
シェリィが返事をしようとした、その時だった。
中央管理室の警報表示の一つが点灯した。
短い警告音が響く。
「第8工区です」
監視担当者の声で、室内の空気が一変する。
「温度差警報。熱路本体の運転は継続中ですが、点検設備周辺で通常と異なる値が出ています」
ディートリヒ(熱供給事業部長)はすぐに監視記録へ視線を落とした。
「本線温度は?」
「基準範囲内です」
「圧力、遮断設備、通信は?」
「正常です」
「では、本体を止める前に現地確認を。第8工区のメンテナンス班から必要人数だけ出してください」
休日だから放置することはできない。
だが、休日だから全員を呼び戻す必要もない。
第8工区のメンテナンス要員から3名が緊急出動することになった。
現地へ向かう準備が始まる中、シェリィは確認した。
「治癒魔法士は?」
「現段階では事故報告はありません」
ディートリヒ(熱供給事業部長)が答えた。
「ただ、寒冷地での緊急点検になります。必要になれば担当区域の治癒魔法士へ連絡します」
「お願いします」
◇
同日午前――
第8工区。
緊急出動した3名の保守員は、監視設備周辺の積雪と凍結状態を確認しながら点検を進めていた。
熱路本体の温度、設備接続、遮断装置、監視端末に大きな異常はない。
一方、点検設備の周囲には前夜からの雪が吹き寄せられ、一部が厚い雪氷に覆われていた。
その影響で局所的な温度差が生じ、監視装置が警報を出した可能性が高い。
保守員たちは設備本体へ損傷がないことを確認しながら、周辺の雪氷を除去した。
途中、1名が軽い体調不良を訴えた。
無理をして点検を続ける状態ではない。
担当区域の治癒魔法士H02、ヨハン・ヴェルトナー(治癒魔法士)が緊急出動し、現場で状態を確認する。
「設備より先に、こちらを休ませます」
ヨハン(治癒魔法士)は迷わなかった。
保守員が苦笑する。
「あと少しで終わります」
「だからといって、あと少し無理をしてよい理由にはなりません」
周囲の保守員も頷いた。
設備は3名で確認しなければならない仕事ばかりではない。
役割を組み替え、体調不良者を暖かい場所へ移す。
その後の確認で、熱路本体に損傷はなく、交換部材も必要ないことが判明した。
原因は点検設備周辺に積もった雪氷の影響だった。
既存設備の確認と周辺除雪だけで復旧できる。
中央管理室へ報告が届く。
「第8工区、熱路本体に異常なし。交換部材使用なし。通常監視へ戻します」
シェリィは、胸の奥に入っていた力をゆっくり抜いた。
「よかった……」
だが、その直後に別のことへ気づく。
今日は休日だった。
「ディートリヒ。この4人のお休みは、どうなりますか?」
ディートリヒ(熱供給事業部長)はすでに勤怠管理側へ連絡を入れていた。
「明日25日を振替休日とします」
「3名の保守員と、ヨハンも?」
「はい」
シェリィは安堵したように頷いた。
「お願いします」
少し考えてから、静かに続ける。
「休みの日でも、必要なときには誰かが出動しなければならないわ。でも、出動した人の休みまで消してはいけないの」
働く者を守る制度は、問題が起きない日にだけ守ればよいものではない。
緊急時にこそ守れるかどうかが、その制度の本当の価値だった。
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫25日・光曜――
アスタリア大商会・中央管理室物流受入区画。
朝。
モーゲン食品卸商会から、包括供給契約に基づく食材が到着した。
穀物、肉類、保存食品、野菜、調味料などが品目ごとに確認され、納品記録と現物数量を照合していく。
今回から正式に運用するのは、各拠点に通常使用6日分と非常用2日分、合計8日分の食料を維持する方式だった。
施工部隊C01からC10までは、普通施工要員11名、土系魔導士3名、同行料理人1名の各15名、合計150名。
それに正式配置済みのメンテナンス部隊について、各基地の配置人数、現在庫、直近の使用量を照合して必要数量を算定する。
昨日緊急出動した第8工区のメンテナンス要員3名とヨハン(治癒魔法士)は、この日を振替休日としていた。
オットマール・リンデン(物流商務部長)は、中央管理室で受入記録を確認していた。
「8日分を毎回新しく送るわけではありません」
担当者が頷く。
「各拠点の現在庫を確認して、不足分だけ補充します」
「はい。それと、移動中の施工部隊へすでに払出している分を忘れないでください」
食料を8日分維持するという制度は、毎回8日分を買う制度ではない。
残っている食料。
すでに配送した食料。
現地で消費した食料。
これから必要になる食料。
それらを分けなければ、同じ食料を何度も必要数量として数えてしまう。
シェリィは物流報告を読みながら、施工そのものとは違う数字が工事を支えていることを改めて感じていた。
人は、資材だけでは働けない。
食べて、休んで、また働く。
それを途切れさせない物流も、長距離施工の一部だった。
◇
同日午前――
第3期各施工区域。
前日の休日を終え、10施工部隊すべてが工事を再開した。
第21工区ではC01が0.26 Mi、第22工区ではC05が0.24 Mi、第23工区ではC09が0.23 Mi、第24工区ではC02が0.21 Mi、第25工区ではC03が0.20 Mi、第26工区ではC04が0.18 Mi、第27工区ではC06が0.20 Mi、第28工区ではC07が0.18 Mi、第29工区ではC08が0.17 Mi、第30工区ではC10が0.16 Miを進める。
当日の施工増加は合計2.03 Mi。
アスタリア側300 Mi区間の総施工距離は246.03 Miとなった。
休日明けだからといって、前日分を取り戻すために速度を上げたわけではない。
各部隊は地盤、天候、施工状態を見ながら、それぞれの通常工程で進めていた。
◇
同日午後――
農業実証施設・小麦栽培ハウス。
4棟のハウスでは、室内温度、土壌温度、給水量、熱供給量の記録が並べられていた。
この日から、小麦の試験播種が始まる。
4棟すべてを同じ条件にはしない。
同じ小麦を、異なる温度条件と水量条件で育て、発芽や成長にどのような差が出るかを比較する。
マレーネ・クルーガー(生産開発部長)は、農業担当者が用意した試験計画へ目を通していた。
シェリィも土の入った栽培区画を見つめる。
「一番暖かいハウスが、一番よく育つわけではないのですね」
マレーネ(生産開発部長)が頷いた。
「植物にも適温があります。土壌水分も多ければよいわけではありません」
「では、私たちが探すのは最大の熱量ではなく、安定して育つ条件なのですね」
「はい」
シェリィは小さな種を見つめた。
魔導熱伝導路では、何Mi伸ばしたかという数字が成果になる。
農業では違う。
同じ熱を使っても、その結果が分かるまでには時間がかかる。
種をまいたから収穫したことにはならない。
当然、売上もまだない。
「焦らずに調べましょう」
シェリィは微笑んだ。
「ここで育つ条件が分かれば、その方がずっと大切です」
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫26日・火曜――
アスタリア大商会本部・大会議室。
朝からヴァルモント公爵家との業務用魔導通信会議が開かれていた。
シェリィの正面には、父であるローランド・ヴァルモント公爵の姿が映っている。
今日の議題は、アスタリア側300 Mi区間の続きとして建設される、公爵領側の長大な《魔導熱伝導路》そのものではなかった。
本格的な熱路施工に先行して整備する、保守基地と備蓄倉庫だった。
「お父様。公爵領側の熱路本体は、アスタリア側300 Miとは別の工区体系で管理します」
『承知している』
「まず第1期100 Miを10 Miずつ10工区、第2期100 Miも同じように10工区へ分けます」
ローランド(ヴァルモント公爵)が資料を見る。
『先に200 Mi分の保守体制を用意するのだな』
「はい。各10 Mi工区へ保守基地1施設と備蓄倉庫1施設を整備します」
第1期10工区で20施設。
第2期10工区でも20施設。
合計40施設。
熱路が到着してから保守拠点を探すのではなく、熱路施工に先行して、守る場所と備蓄する場所を準備する。
第1期側の建設計画人員は240名。
第2期側は120名。
合計360名となる。
ただし、360名はアスタリア大商会の従業員ではない。
外部建設会社が請負契約に基づいて配置する建設人員である。
アルノルト・フェルナー(総務財務部長)が契約上の整理を説明した。
「建設作業員の給与、食事、宿泊、現地までの移動、工事中の労働安全管理は請負会社側が負担します」
ローランド(ヴァルモント公爵)が尋ねる。
『大商会は完成代金だけを払うのか?』
「契約上の工事料金として支払います。ただし、その金額には請負会社側で必要となる人件費等を含める前提です」
アルノルト(総務財務部長)が答える。
「同じ費用を大商会側でも個別に計上することはしません」
シェリィも頷いた。
「そして、建物が立っただけでは支払いません」
『検収か』
「はい」
支払単位は10 Miの1工区。
例えば公爵領側第1工区なら、その工区に設ける保守基地と備蓄倉庫の両方が完成し、建築検査、設備検査、総合検収を終えた時点で、その工区分の施設建設料金を支払う。
途中まで出来た施設を完成資産として扱わない。
完成していない工区へ完成代金を支払わない。
「施工会社を信用していないからではありません」
シェリィは父へ説明した。
「完成条件を最初に明確にしておいた方が、請負会社側も『どこまでやれば契約を果たしたことになるか』で揉めなくて済みます」
ローランド(ヴァルモント公爵)は、少しだけ口元を緩めた。
『相変わらず、争いになる前に逃げ道を塞ぐな』
「争わなくても済む道を作っているのです」
シェリィが真面目に返すと、通信画面の向こうで父が笑った。
◇
同日午後――
牧畜実証施設。
家畜舎4棟と牧草地4区画について、温度管理、井戸からの給水、人工水路の自動水温調節、地下加温設備の運転記録が確認されていた。
家畜糞尿については、農牧側の専用処理設備で発酵・衛生管理を続けている。
シェリィは処理記録を見ながら尋ねた。
「これを農業用の肥料にできるのですよね?」
牧畜担当者は慎重に答えた。
「可能性はあります。ただし、まだ完成肥料として使用できる段階ではありません」
「衛生検査が必要ですか?」
「はい。発酵状態や安全性を確認し、品質基準を満たしてからです」
「分かりました」
捨てるものを減らすことは大切だ。
けれど、「もったいない」という理由だけで畑へ入れることはできない。
使えるかもしれないものを、安全に使えるものへ変えるまでが事業だった。
この日の本線施工は2.04 Mi進み、総施工距離は248.07 Miとなった。
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫27日・風曜――
第26工区(第3期・第6工区)。
朝。
風雪が強まっていた。
施工第4部隊(C04)の現場は岩盤区間に入り、視界と足場の両方が悪化している。
土系魔導士3名を含む施工員たちは、掘削予定箇所を前に待機していた。
部隊長は現地の状況を確認し、中央管理室へ連絡する。
「岩盤掘削時の飛散と足場の安全が確保できません。本日は施工停止を申請します」
ディートリヒ(熱供給事業部長)は天候情報と現地報告を確認した。
「承認する。今日はC04の休日へ切り替える」
「30日は?」
「闇曜だが、振替施工日とする。同行料理人も同じ勤務日程だ」
「承知しました」
C04だけが休日となる。
ほかの9施工部隊は、それぞれの現場で安全確認をした上で施工を継続した。
天候が悪いから全工区を止める必要はない。
同時に、ほかが動いているから危険な工区まで動かす理由もない。
この日の本線施工増加は1.84 Mi。
総施工距離は249.91 Miとなった。
◇
同日午前後半――
ヴァルモント公爵領。
保守基地と備蓄倉庫の設置候補地では、外部建設会社の担当者とアスタリア大商会側の確認担当者が、地盤、土地利用、資材輸送経路、将来の熱路施工位置との干渉を確認していた。
まだ建物は造らない。
位置を間違えれば、後から本線施工と保守基地が互いの邪魔をする。
備蓄倉庫も、大型資材を運び込める道路がなければ意味がない。
請負会社側の担当者が工程表を示した。
「施設本体の施工に入れば、人員を順次増やします」
大商会側担当者が確認する。
「完成検査は建築、設備、総合検収の3段階です」
「承知しています」
「工事料金の支払は10 Miの1工区単位で、保守基地と備蓄倉庫の両方が総合検収へ合格してからです」
「問題ありません」
建設人員360名という計画があっても、この日に360名全員が現場へいるわけではない。
必要な工区から順に人員を投入する。
その初動が、2日後に始まる予定だった。
◇
同日午後――
《アスタリア下水高度浄化処理場》。
通常運転中の処理水から採取した試料の一つが、検査基準を満たさなかった。
品質検査担当者は結果を確認すると、放流側へ回さず、再循環経路へ切り替える。
シェリィも報告を受けて現場へ向かった。
「どの工程まで戻しますか?」
「第4段階の浄化魔石網から再処理します」
「原因は分かっていますか?」
「まだ特定していません。まず処理水を外部へ出さないことを優先しています」
シェリィは頷いた。
粗網・沈殿、魔導熱による加温、微小生物処理、浄化魔石網、105 °Gr(グラーデ/105℃)で10分間の密閉加熱殺菌、検査貯留・冷却・熱回収。
処理場全体の工程が壊れたわけではない。
すでに施設そのものは検収に合格し、運転を開始している。
今回、一部の処理水が基準を満たさなかった。
だから、その水だけを外へ出さず、再処理する。
「施設全部を停止しますか?」
担当者が尋ねる。
シェリィは首を横へ振った。
「安全担当者が全体停止を必要と判断していないのであれば、不合格の水を隔離して再処理してください」
そして少し間を置く。
「検査に合格した水だけを放流する。この原則は変えません」
失敗が一度起きたから、施設全体を失敗扱いにする必要はない。
だが、一度の不合格を「たまたま」として外へ流すことも許されない。
安全な設備とは、常に完璧な設備ではない。
異常を見つけた時に、危険を外へ出さず正しい経路へ戻せる設備だった。
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫28日・水曜――
農業・牧畜実証区域。
シェリィは朝から現地を歩いていた。
小麦栽培ハウス4棟では、播種後の土壌温度、水分、熱供給量が記録されている。
まだ目に見えるほど大きな変化はない。
それでも、担当者たちはわずかな温度差や水分量を残さず記録していた。
「この4棟は、同じ条件にしないのですよね?」
シェリィが尋ねる。
マレーネ(生産開発部長)が答える。
「はい。比較できるよう温度条件と給水条件を変えています。ただし、作物を傷める極端な条件は使いません」
「どの条件がよかったかは、収穫まで見ないと分からない?」
「途中経過も見ますが、最終的には生育、収量、品質、消費熱量、水量を合わせて判断します」
シェリィは頷いた。
一番速く芽が出た条件が、一番良いとは限らない。
多く収穫できても、必要な熱量が大きすぎれば事業として続かないかもしれない。
農業にも、技術だけではなく経営が必要だった。
◇
同日午前後半――
牧畜区域。
家畜舎4棟では室温、給水、排水、清掃動線を確認し、牧草地4区画では地下加温設備の地温分布を測っている。
家畜糞尿処理設備では、衛生管理を行いながら発酵状態の記録を続けていた。
シェリィは農業担当者と牧畜担当者を同じ場所へ集めた。
「将来、ここで育てた作物の一部を飼料にして、家畜から出るものを安全に処理して農地へ戻せたら、外から運ぶ量を減らせますよね?」
農業担当者が頷く。
「条件がそろえば可能です」
牧畜担当者も続ける。
「ただ、飼料として必要な栄養を満たせるか、糞尿由来の肥料が安全かは別に検証する必要があります」
「はい」
シェリィは即答した。
「今できることとして扱わず、将来の連携候補にしてください」
今は実証段階。
肥料はまだ完成商品ではない。
小麦もまだ収穫していない。
家畜由来の生産物も販売していない。
事業間で売上が発生したことにもならない。
未来の循環を思い描きながら、現在の実績まで先回りさせないことが大切だった。
◇
同日午後――
本線施工は10部隊すべてが稼働し、1.99 Miを追加した。
アスタリア側300 Mi区間の総施工距離は251.90 Miとなる。
シェリィはその数字を聞きながら、前日休んだC04も通常施工へ戻っていることを確認した。
休んだから遅れたのではない。
危険な日に止まり、安全な日に再開しただけだ。
長い工事では、その判断を積み重ねた方が、結果として最後まで進める。
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫29日・土曜――
ヴァルモント公爵領。
朝。
公爵領側第1期の第1工区と第2工区、第2期の第11工区で、保守基地と備蓄倉庫の初期造成が始まった。
3工区。
各工区に保守基地1施設と備蓄倉庫1施設。
合計6施設。
初動人員は、外部建設会社から60名。
第1期側へ48名、第2期側へ12名が配置された。
計画上の360名すべてを最初から投入するのではなく、着手可能な現場から段階的に人員を増やす。
作業員たちは位置出し、表土処理、基礎地盤確認、施工範囲の確保といった初期造成を進めている。
保守基地の壁も、備蓄倉庫の屋根も、まだない。
当然、完成施設は0。
検収済み施設も0。
この日に支払う完成工事料金もない。
シェリィは魔導通信で届いた現地映像を見ていた。
「ついに公爵領でも工事が始まったのですね」
ローランド(ヴァルモント公爵)が通信越しに答える。
『建物の基礎準備だけだがな』
「はい。でも、熱路が届く前に守る場所ができていくのは、とても大切だと思います」
『施工部隊そのものはまだ入れないのだな』
「公爵領側の熱路本体は別計画です。今日始まったのは施設建設だけです」
熱路本体の公爵領側施工距離は0.00 Mi。
アスタリア側の253 Mi近い施工実績へ、公爵領の造成工事を距離として足すことはしない。
違う工事は、違う数字で管理する。
◇
同日午前後半――
公爵領側施設建設の担当者たちは、請負会社へ改めて検収条件を説明していた。
最初は建築検査。
建物、基礎、防寒構造などが設計を満たしているかを確認する。
次に設備検査。
保守基地なら通信、暖房、安全設備、保守作業環境。
備蓄倉庫なら保管棚、温度管理、搬入搬出設備、安全設備を確認する。
最後に総合検収。
実際に保守基地、備蓄倉庫として使用できる状態かを確認する。
3段階すべてを終えて初めて完成扱いとする。
さらに、10 Miの同じ工区にある保守基地と備蓄倉庫の両方が総合検収へ合格して、初めてその工区分の建設料金を支払う。
請負会社の担当者も頷いた。
「完成条件が明確であれば、こちらも工程を組みやすいです」
大商会側担当者が答える。
「完成を急ぐために検査を省略することはありません」
「承知しています」
建設会社と発注者は、相手を疑うために契約するのではない。
どこまでが誰の責任なのかを同じ文章で確認するために契約する。
◇
同日午後――
《アスタリア下水高度浄化処理場》。
27日に不合格となり、第4段階へ戻された処理水について再検査が行われていた。
担当者たちは処理履歴、再循環時刻、浄化魔石網の状態、殺菌記録、採水記録を照合する。
検査結果がまとまり、品質担当者が書類を確認した。
「再検査、基準を満たしています」
シェリィは報告書へ目を落とした。
「昨日まで不合格だった水ですね?」
「はい。再処理後の試料です」
「原因の記録は?」
「運転記録と合わせて保存します。今後同じ傾向が出るかも監視します」
シェリィは頷いた。
「では、今回合格した水だけ限定放流へ回してください」
水門が少量開く。
再処理された水が、合格した水として人工河川へ送られる。
不合格が出た。
戻した。
処理した。
検査した。
合格した。
その全てが記録として残る。
最初から一度も問題が起きなかったという物語よりも、問題を見つけ、安全に処理できたという事実の方が、シェリィにはずっと心強く感じられた。
◇
同日夕刻――
本線10施工部隊は1.89 Miを追加し、総施工距離は253.79 Miとなった。
明日は闇曜。
9部隊は休日になる。
ただし、C04だけは27日の天候休工分を振り替え、施工を行う予定だった。
◇
星環暦1285年・芽風月≪第3月≫30日・闇曜――
第26工区(第3期・第6工区)。
朝。
普段の闇曜なら静かな施工現場に、施工第4部隊(C04)の15名だけが集まっていた。
普通施工要員11名、土系魔導士3名、同行料理人1名。
27日の風雪で安全に岩盤施工を行えず、休日へ振り替えたためである。
この日は天候も安定し、施工可能と判断された。
「27日に止めた場所から再開します」
部隊長の言葉に、施工員たちが頷く。
休んだ分を無理に取り戻す必要はない。
この日の計画施工距離は0.11 Mi。
安全に施工できる範囲だけ進める。
ほかの9施工部隊は休日。
メンテナンス部隊と治癒魔法士も、緊急出動がない限り休日だった。
数時間後、第26工区から施工完了報告が届く。
「C04、本日の施工0.11 Mi。異常なし」
中央管理室の担当者が全工区の数値を集計する。
芽風月24日の休日から始まった7日間。
施工増加は合計9.90 Mi。
総施工距離は253.90 Mi。
全300.00 Miの84.63%。
残施工距離は46.10 Miとなった。
◇
同日午前――
王都セレスティア。
シェリィは月末報告として、熱路、農業、牧畜、下水処理場、公爵領施設建設の資料を一つずつ確認していた。
小麦栽培ハウスでは試験播種が始まり、温度・水量条件ごとの比較記録を続けている。
牧畜実証区域では、家畜舎、牧草地、給排水、地下加温、糞尿処理設備の運転確認を続けている。
下水高度浄化処理場では、一部の処理水が基準を満たさなかったものの、再循環、再処理、再検査を経て合格した水だけを放流できた。
そして公爵領では、熱路本体がまだ到達していないにもかかわらず、最初の3工区で保守基地と備蓄倉庫の造成が始まっている。
シェリィはしばらく報告書を見つめていた。
「少し前までは、熱路を造ることだけで精いっぱいだったのに……」
マーガレットが向かい側から娘を見る。
「今は違うの?」
「はい」
シェリィは頷いた。
「熱を運ぶ道を造れば、それを守る人が必要になります。守る人がいれば、その人たちが食べて、休める仕組みも必要になります」
第8工区の緊急出動が頭に浮かぶ。
休日でも、設備は止まらない。
だから誰かが出なければならない時がある。
けれど、その誰かの休みまでなくしてはいけない。
農業では、種をまいて終わりではない。
牧畜では、畜舎を暖めて終わりでもない。
下水処理では、一度合格した施設だからといって、これから出る水が永遠に合格するわけでもない。
都市を造るということは、建物や設備を完成させることではない。
使い続けられる仕組みを作ることなのだ。
「お母様」
「なあに?」
「私、前は『完成』という言葉を、もっと簡単なものだと思っていた気がします」
マーガレットは穏やかに微笑んだ。
「今は?」
「造り終わることは、始まりなのだと思います」
シェリィは施工報告へ視線を戻した。
253.90 Mi。
残り46.10 Mi。
まだアスタリア側300 Miすら完成していない。
その先には、公爵領側の長大な工事も待っている。
だが、不思議と数字の大きさだけを怖いとは思わなかった。
施工する者。
保守する者。
治療する者。
食事を作る者。
資材を運ぶ者。
品質を確認する者。
休む者。
緊急時に代わって出る者。
そして、出動した人が後で休めるよう記録する者。
長い道を造るのは、施工員だけではない。
その道に関わるすべての人が、少しずつ支えている。
◇
同日午後――
第3期だけで見れば53.90 Mi。
残る46.10 Miを施工すれば、アスタリア側300 Miの敷設がつながる。
今回の9.90 Miに対応するHT-C001本体の標準必要数量は990本。
ただし、それは施工距離から算出した必要数量であり、990本すべてをこの期間に新規製造・新規購入したという意味ではない。
既存在庫、現場未使用在庫、引当、配送、実際の払出、据付、検収は、それぞれ専門台帳で照合する。
公爵領側では保守基地3施設と備蓄倉庫3施設の造成に着手したが、完成施設はまだ0。
公爵領側熱路本体の施工距離も0.00 Miのままである。
シェリィは最後の数字まで確認すると、静かに帳票を閉じた。
「253.90 Mi……」
マーガレットが微笑む。
「あと少しね」
「はい。でも、あと少しだからこそ、急ぎすぎないようにしなくてはいけません」
シェリィはそう言ってから、自分で少し笑った。
以前なら「あと少し」と聞けば、一日でも早く進めたいと思ったかもしれない。
今は、休日を守ることも、天候で止めることも、検査で水を戻すことも、完成へ向かうための正しい一歩だと分かる。
アスタリアの雪原には、253.90 Miの熱路が延びている。
その沿線には保守基地があり、人がいる。
別の土地では小麦の種が土の中で試験を始め、家畜を受け入れる施設が動き、浄化された水が人工河川へ流れている。
さらに遠い公爵領では、まだ熱が届いていない土地で、熱路を守るための建物の基礎が掘られ始めていた。
熱を運ぶ道は、ただ長くなっているのではない。
その道の周りに、人を守る仕組みが生まれ始めていた。
お読みいただきありがとうございます。
新しい休日制度が始まり、施工部隊、メンテナンス部隊、治癒魔法士は原則として闇曜を休日とする運用へ移りました。
その初日には第8工区で温度差警報が発生しましたが、熱路本体に損傷はなく、点検設備周辺の雪氷が原因と確認されました。
緊急出動したメンテナンス要員3名と治癒魔法士H02には、翌日に振替休日を付与しています。
本線施工では、天候によるC04の休工と振替施工を含めて7日間で9.90 Mi進み、芽風月30日時点の総施工距離は253.90 Mi、全300.00 Miの84.63%となりました。
公爵領では、第1期・第2期の最初の200 Miを見据え、各10 Mi工区へ保守基地と備蓄倉庫を整備する計画が動き始めています。
施設建設は外部建設会社への請負方式とし、初動60名が3工区・6施設の造成へ着手しましたが、完成・検収済み施設はまだ0です。
建設料金は10 Miの1工区を単位として、保守基地と備蓄倉庫の両施設が建築検査・設備検査・総合検収へ合格した後に支払います。
農業では小麦ハウス4棟で試験播種が始まり、牧畜では家畜舎・牧草地・給排水・地下加温・糞尿処理設備の運転確認を続けています。
下水高度浄化処理場では、一部の処理水が検査基準を満たさなかったため再循環させ、再処理・再検査に合格した水だけを限定放流しました。
工事を止める判断、働いた人へ休みを返す制度、不合格の水を外へ出さない設備、完成していない建物へ代金を支払わない契約。
長大な熱路を完成させるために必要なのは、施工速度だけではありません。
人と設備を長く守り続けられる仕組みもまた、アスタリアが築き始めた重要なインフラです。
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