↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
9/101

第9話:神々の暦と、商人の信用

星環暦(せいかんれき)1284年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫14日――

アスタリア・仮設学校

新しく削られた木材の匂いが、まだ教室のあちこちに残っていた。

窓の外には雪が残っている。だが、以前のアスタリアとは違い、室内には穏やかな暖かさが満ちていた。

壁際を通る熱導管。

床近くに設けられた放熱器。

《アスタリア魔導熱供給網》から送られてきた熱が、子供たちの学ぶ場所を暖めている。

長机に並ぶ子供たちの年齢は、揃っていなかった。

まだ足が床に届かない幼い子供もいれば、家業を手伝うため学校へ通う機会がなく、今になって初めて本格的に文字を習い始めた少し年上の子供もいる。

アスタリアでは、これまで教育を受けられる環境そのものが十分ではなかった。

冬になれば仕事が減る。

若者は南へ働きに出る。

家に残る子供たちは、家畜の世話や薪集め、家業の手伝いをする。

読み書きができなくても、生きていくことはできた。

けれど、町が変わり始めた今、それでは困る。

熱供給設備には注意書きがある。

仕事には契約書がある。

商売には帳簿がある。

薬にも使用方法がある。

文字を読めないということが、単なる不便では済まない社会へ、アスタリアは変わりつつあった。

教室の後ろでは、シェリィとレオンハルトが授業を見守っている。

昨夜、この同じ建物では大人向けの読み書き講習が行われていた。

昼は子供。

夜は希望する大人。

領地の学校として始まった小さな試みだったが、すでに町の生活へ根を張り始めている。

黒板の前に立った教師が、子供たちを見渡した。

「今日は、皆さんが毎日使っている暦のお話をしましょう」

何人かの子供が首を傾げた。

暦と言われても、普段は「今日は何日だ」「次の闇曜まで何日だ」と使っているだけだ。

教師は笑った。

「ですが、その前に少し昔のお話をします。ずっと、ずっと昔。世界が生まれた時のお話です」

その言葉だけで、教室の空気が変わった。

教師は黒板の中央へ、大きな円を描いた。

「聖環教(せいかんきょう)では、こう伝えられています」

子供たちが姿勢を正す。

この世界に生きる者にとって、聖環教の教えは特別なものだった。

熱心に神殿へ通う者もいれば、祭礼の時だけ祈りを捧げる者もいる。それでも、神々の存在を敬うという文化そのものは、人々の暮らしの中へ深く根を張っている。

教師は、ゆっくりと語り始めた。

「世界が生まれるよりも前。まだ人も国もなく、山も川も、海も空もなかった頃――ただお一人、創造神オルディア様がおられました」

黒板の円の上へ文字を書く。

創造神 オルディア

「創造神オルディア様は、何も存在しなかったところへ世界をお創りになったと伝えられています」

幼い子供たちが、黒板をじっと見つめていた。

「ですが、世界を創っただけでは、世界は巡りません。そこで創造神オルディア様は、ご自身の御力から6柱の神々をお生みになりました」

教師が最初の名前を書く。

光神 アシェルナ

「最初にお生まれになったのが、光を司る光神アシェルナ様です」

次の名前。

火神 ラグゼア

「続いて、火を司る火神ラグゼア様」

風神 フィレナ

「風を司る風神フィレナ様」

水神 ミュレア

「水を司る水神ミュレア様」

土神 ガルダス

「土を司る土神ガルダス様」

そして最後の名前が記される。

闇神 ネシェラ

「最後にお生まれになったのが、闇を司る闇神ネシェラ様です」

教師は筆記具を置いた。

黒板には7柱の神々の名が並んでいる。

「創造神オルディア様と6柱の神々。合わせて7柱。それが、聖環教に伝わる世界の始まりです」

最前列の少年が、勢いよく手を挙げた。

「先生!」

「はい」

「火の魔法があるのって、ラグゼア様が火の神様だから?」

「そうですね。聖環教では、光、火、風、水、土、闇という6つの基本属性は、6柱の神々の御力に由来すると考えられてきました」

少年は得意げに隣の子を見た。

すると、今度は別の少女が手を挙げる。

「先生。じゃあ、曜日も神様からできたの?」

教師の顔に笑みが浮かんだ。

「よく気づきましたね」

教師は神々の名前の下へ、新しい文字を書き始めた。

光曜(こうよう)

火曜(かよう)

風曜(ふうよう)

水曜(すいよう)

土曜(どよう)

闇曜(あんよう)

「昔の人々は、6柱の神々にちなみ、6日で一巡りする日々へ、それぞれ神々の御力を表す名をつけました」

教師の指が、一つずつ文字をなぞる。

「光神アシェルナ様にちなむ、光曜(こうよう)」

「火神ラグゼア様にちなむ、火曜(かよう)」

「風神フィレナ様にちなむ、風曜(ふうよう)」

「水神ミュレア様にちなむ、水曜(すいよう)」

「土神ガルダス様にちなむ、土曜(どよう)」

「そして、闇神ネシェラ様にちなむ、闇曜(あんよう)です」

子供たちも声を合わせた。

「光曜(こうよう)、火曜(かよう)、風曜(ふうよう)、水曜(すいよう)、土曜(どよう)、闇曜(あんよう)!」

「はい。この6日で一週間です」

先ほどの少年が、また手を挙げた。

「先生」

「今日はよく質問しますね」

教室に小さな笑いが起きる。

少年は構わず、黒板の一番上を指差した。

「ひとつ足りないよ」

「何が足りませんか?」

「創造神様」

少年は当然という顔で言った。

「神様は7柱いらっしゃるんでしょう? なのに曜日は6つしかないよ」

今度は教室のあちこちから「あっ」と声が上がった。

教師は満足そうに頷いた。

「とても良いところに気づきました」

教師は黒板に書かれた創造神の名へ目を向ける。

「古い時代の人々も、同じことを考えたと伝えられています」

「じゃあ、オルディア曜もあったの?」

「いいえ」

教師は静かに首を振った。

「世界そのものをお創りになった創造神オルディア様のお名前を、日常の中で何度も何度も曜日として口にすることを、人々は畏れ多いと考えたのです」

幼い少女が小首を傾げる。

「畏れ多いって?」

「とても尊く、大切なお方だからこそ、そのお名前を気軽に使ってはいけない、と考えたということです」

少女は少し考えてから尋ねた。

「だから、創造神様の曜日は作らなかったの?」

「そう伝えられています」

教師は黒板へ一本の線を引いた。

その下へ、もう一度六曜を書き並べる。

光曜(こうよう) → 火曜(かよう) → 風曜(ふうよう) → 水曜(すいよう) → 土曜(どよう) → 闇曜(あんよう)

「こうして、私たちが今でも使っている六曜が生まれました」

教師はそこで一度、筆記具を置いた。

「ただし――」

声の調子が少し変わる。

「ここから先は、神話のお話ではありません」

子供たちの顔に、少し不思議そうな表情が浮かぶ。

「1年が360日であることは、神話から決められたものではないのです」

「じゃあ、誰が決めたの?」

「昔の人々です。ただし、好きに決めたのではありません」

教師は窓の外を指した。

青空の向こうには、昼間でまだ見えない星々がある。

「何世代もの人々が太陽や星を観察し、季節の移り変わりを記録しました。その長い観測によって、星と季節の巡りが360日で一巡することが分かったのです」

黒板に大きく書く。

360日

「では問題です。1週間は何日でしたか?」

「6日!」

すぐに声が返ってくる。

「では、360日を6日で分けると?」

少し年上の子供たちが考え始めた。

やがて一人の少女が手を挙げる。

「60!」

「正解です」

教師が黒板へ書く。

360 ÷ 6 = 60週

「1年には60週間あります。そして、現在使われている暦では、1年を12か月に分けています。60週間を12で分けると?」

「5週間!」

「はい。では、1か月は何日でしょう」

今度は多くの子供たちがすぐに答えた。

「30日!」

60 ÷ 12 = 5週

5 × 6 = 30日

「その通り。1か月30日。それが12か月で360日になります」

教師は黒板の空いている場所へ、12の月を書いていった。

創光月(そうこうげつ)≪第1月≫

白耀月(はくようげつ)≪第2月≫

芽風月(めかぜづき)≪第3月≫

翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫

熾火月(おきびづき)≪第5月≫

炎冠月(えんかんげつ)≪第6月≫

蒼潮月(そうちょうげつ)≪第7月≫

恵雨月(けいうげつ)≪第8月≫

豊土月(ほうどづき)≪第9月≫

実成月(みのりづき)≪第10月≫

宵闇月(よいやみづき)≪第11月≫

帰魂月(きこんげつ)≪第12月≫

「では、今は何月でしょう?」

一斉に手が上がった。

「翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫!」

「正解です」

シェリィは教室の後ろで、静かにその光景を眺めていた。

神話から始まり、曜日へ。

曜日から天文学へ。

天文学から算術へ。

そして算術から暦へ。

知識が一つずつつながっていく。

ただ文字や数字を暗記するのではない。

自分たちが暮らしている世界が、なぜこうなっているのかを知る。

前世でも、制度だけを覚えている者より、その制度が作られた理由まで理解している者の方が、変化に強かった。

――教育とは、こういう形がいい。

そう思った時だった。

一人の少女が手を挙げた。

「先生」

「はい?」

「じゃあ、闇曜(あんよう)は学校がお休みなのも、ネシェラ様の日だから?」

教師が少しだけ目を丸くした。

そして笑った。

「とても良い質問ですね。ただ、それは少し違います」

教師は黒板の隅へ新しい文字を書いた。

光曜(こうよう) 勤務・授業

火曜(かよう) 勤務・授業

風曜(ふうよう) 勤務・授業

水曜(すいよう) 勤務・授業

土曜(どよう) 勤務・授業

闇曜(あんよう) 休日

「役所や学校などでは、基本的に5日働いて、闇曜(あんよう)をお休みにすることが多いのです」

「ネシェラ様がお休みしなさいって?」

「いいえ」

教師は微笑んだ。

「聖環教の教えに『闇曜(あんよう)は働いてはいけません』という決まりがあるわけではありません。長い時間をかけて、人々が暮らしやすいように作ってきた習慣なのです」

すると、教室の右端から声が飛んだ。

「でも、僕のお父さん、闇曜(あんよう)も仕事に行くよ」

「どこで働いていますか?」

「熱供給所!」

教師が頷いた。

「そうですね。そこが大事なところです」

黒板に、

止めることのできない仕事

と書く。

「熱供給所、診療所、衛兵、それから緊急時に人を助ける仕事などは、皆が同じ日に休んでしまうわけにはいきません」

「じゃあ、お休みないの?」

「いいえ。きちんと休みます」

教師は首を振った。

「そういう職場では、交代で働きます。4日働いて2日休む人もいますし、5日働いて1日休むけれど、休む曜日を別の人とずらす働き方もあります」

少年が考える。

「じゃあ、お父さんが闇曜(あんよう)に仕事でも、火曜(かよう)がお休みになることもある?」

「ありますよ」

「そっか」

少年は納得したように頷いた。

その時。

シェリィの顔から、先ほどまでの穏やかな笑みが消えた。

レオンハルトが気づく。

「どうした?」

「……レオンハルト様」

「なんだ」

「このあと、総務財務部へ参ります」

「急だな」

「ええ」

シェリィは黒板に書かれた「交代で休む」という文字を見つめた。

「思いついたのではありません」

小さく息を吐く。

「考え忘れていたことに、今気づきましたの」

◇

2時間後――

アスタリア大商会・仮本部

机いっぱいに、人員配置表が広げられていた。

「会長。現在の直接雇用予定者は、およそ50人です」

総務財務部の担当者が説明する。

「承知しております」

「ですが――」

担当者は、一枚の勤務表を横へ置いた。

「この50人という数字は、必要な職務を積み上げた人数です」

シェリィが紙を見る。

「勤務表ではない?」

「はい」

一瞬の沈黙。

担当者は続けた。

「言い方を変えます。全員が、必要な日に必ず勤務している前提です」

シェリィの指が止まった。

隣にいたレオンハルトが腕を組む。

「つまり、休ませると足りない」

「その通りです」

シェリィはゆっくり椅子へ座った。

学校。

領地行政。

通常の商会事務。

それらなら、5勤1休を基本にできる。

だが、《アスタリア中央魔導熱供給所》は違う。

光曜(こうよう)だから動かす。

闇曜(あんよう)だから止める。

そんな運用はできない。

家庭の暖房。

診療所。

宿屋。

温室。

工房。

町の各所が、その熱に依存し始めている。

「熱供給事業部は交代勤務ですわね」

「はい。常時運転に関わる職務は、4勤2休を基本に班を組む案を考えています。一部は5勤1休でも休日をずらします」

「夜間勤務は?」

「必要です」

「病気で欠勤する者もいます」

「おります」

「職業訓練中は現場人数から外れますわね」

「はい」

「事故対応で1人抜けただけで通常業務が止まるような人員配置は?」

「避けるべきです」

シェリィは目を閉じた。

しばらく何も言わなかった。

やがて額へ指を当てる。

「……設備の予備部品は用意したのに」

担当者が黙って待つ。

「人の予備を、計算しておりませんでしたわ」

「はい」

短い返答だった。

だが、その言葉に責める響きはない。

シェリィも言い訳をしなかった。

「ありがとうございます」

担当者が少し驚いた。

「会長?」

「悪い数字を先に出す。それが、この商会の決まりでしょう?」

失敗。

事故。

苦情。

予算超過。

不足。

良い報告より、悪い報告を先に出す。

自分自身が決めた原則だった。

自分の計画の穴を指摘された時だけ例外にしては、何の意味もない。

「では、やり直しましょう」

シェリィは紙を引き寄せた。

「学校の教師は領地行政側です。商会人数へ入れない」

「はい」

「住宅建設などの一時的な仕事は、常用職と契約職人を分ける」

「はい」

「季節雇用も別枠に」

「承知しました」

「その一方、熱供給事業部は増員。物流商務部にも休日代替要員が必要です」

「安全監査室も最低人数では、監査対象部門との兼務が増え過ぎます」

「増やしてください」

「人件費が上がります」

「人が壊れるより安いですわ」

レオンハルトが、その言葉に小さく笑った。

「即答だな」

シェリィは真顔のままだった。

「機械なら、壊れた部品を交換できます」

そして、人員表を見る。

「人を同じように扱う商会にはいたしません」

再計算が始まった。

各部署の役割を整理する。

直接雇用。

契約職人。

季節労働。

外部研究者。

領地行政。

それらを分ける。

そして、休日と交代要員まで含めた結果。

創業時に約50人としていた直接雇用計画は――

約60人規模。

そこへ修正された。

「10人増えるだけでも、毎月の給与は相当に違うぞ」

レオンハルトが言う。

「ええ。ですから、給与そのものも生活費から再確認いたします」

総務財務部の担当者が別の資料を出した。

現在検討している給与水準。

見習い・補助作業員は、月に銀貨6枚から8枚。

一般作業員は、銀貨8枚から10枚。

一般事務や検針員は、銀貨10枚から12枚。

熱供給所運転員は、銀貨12枚から15枚。

熟練職人は、銀貨15枚から20枚。

専門技術者なら銀貨20枚から30枚。

上級技術者や主任級になれば、それ以上。

一般職の標準は、月給銀貨10枚前後。

この世界では、銅貨100枚で銀貨1枚になる。

そして――

質素なパン1個が、銅貨1枚。

銀貨10枚なら、銅貨1,000枚。

5勤1休なら、1か月30日のうち勤務日は25日。

単純に勤務日で割れば、1日あたり銅貨40枚分に相当する。

だが、シェリィはその数字だけを見なかった。

「食費を出してください」

「はい」

「住宅費。衣服。冬季の熱料金。生活雑貨」

「計算します」

「独身者だけではなく、夫婦。子供が1人いる家庭。2人いる家庭も」

担当者が顔を上げる。

「そこまでですか?」

「必要です」

「現在の条件なら、もっと低い給与でも働き手は集まると思われます」

「集まる金額と、生活できる金額は同じではございません」

その声は静かだった。

「働いているのに食事を削る。冬の熱を我慢する。子供を学校へ出せない。それでは、人を呼べても定住はしません」

レオンハルトがシェリィを見る。

「お前は人件費を下げることより、町に残らせる方を見るのだな」

「人を安く雇えば、一時的な帳簿は良くなります」

シェリィは資料を閉じた。

「ですが、その人が数年後に出ていけば、また募集し、また教え、また仕事を覚えていただくことになります」

少しだけ微笑む。

「長く働いていただく方が、最終的には安いかもしれませんわ」

「いかにもお前らしい」

「褒め言葉として受け取っておきます」

◇

星環暦(せいかんれき)1284年・翔風月(しょうふうげつ)≪第4月≫16日――

アスタリア大商会・総務財務部

人が増える。

当然、給与が増える。

給与が増えれば、毎月必要な運転資金も増える。

さらに住宅。

温室。

食料。

金属。

魔導具。

熱導管。

倉庫。

輸送契約。

町が成長するほど、動く金額も大きくなっていった。

総務財務部の机には、新しい資金繰り表が広げられていた。

「会長。もう一つ、改善した方がよい点があります」

「何でしょう?」

「決済です」

シェリィが顔を上げる。

担当者が帳簿を示した。

この世界で使われる通貨は5段階。

銅貨100枚=銀貨1枚。

銀貨100枚=金貨1枚。

金貨100枚=大金貨1枚。

大金貨100枚=星金貨1枚。

日常生活なら銅貨と銀貨。

一般的な給与も銀貨。

まとまった商取引になれば金貨。

大型設備や大規模取引では大金貨。

そして、その遥か上に星金貨がある。

星環暦という名を持つこの世界で、「星」の名を冠する特別な最高位貨幣。

一般の住民なら、現物を一度も見ずに生涯を終えることさえある。

だが問題は、高額貨幣の存在そのものではなかった。

「金貨を実際に運ぶ回数が増えております」

担当者が言った。

「先日の金属購入も?」

「はい。ギルド経由で処理した分もありますが、直接決済が必要な取引も増えています」

現金を運べば護衛がいる。

箱がいる。

数える者がいる。

輸送途中の盗難も考えなければならない。

何より、取引が大きくなるほど貨幣そのものを運び続けることは非効率だった。

シェリィはすぐに答えた。

「商業ギルドの信用決済を使うべきですわね」

「私もそう考えます」

担当者が一枚の資料を差し出した。

「ただし、現在のアスタリア大商会には、全国で通用する小切手を自ら振り出す資格がありません」

「王都の商業ギルド組合への登録」

「はい」

商業ギルドは、商人の集まりであるだけではない。

金を預かる。

信用を調べる。

小切手を現金化する。

商人同士の決済を仲介する。

そして王都には、全国の商業ギルドを束ねる《商業ギルド組合》が置かれている。

貨幣そのものを作る権限は、商業ギルドにはない。

王国通貨の製造と発行、その最終決定権を持つのは国王だ。

一方で、商業ギルド組合は通貨が商取引の中を安全に巡るための信用制度を支える。

さらに商業ギルド組合長は、国王によって任命される。

各地の穀物価格。

商品の値動き。

物流量。

小切手の決済額。

不渡り件数。

貨幣不足。

商会の倒産。

そうした情報を王都へ集めることで、国王は王国全体の経済動向を把握することができる。

「登録条件を確認しましょう」

シェリィが言った。

担当者が資料を読み上げる。

「申請費用――銀貨20枚」

「はい」

「審査通過後の登録料――銀貨50枚」

「毎月の組合費は?」

「銀貨10枚です」

レオンハルトが資料を覗く。

「登録したあとも毎月取られるのか」

「全国の決済網と信用情報を維持するのですもの」

シェリィは当然のことのように答える。

「むしろ、それで済むのであれば安いくらいですわ」

「商人の顔になってきたな」

「褒め言葉でしょうか」

「今度は間違いなくな」

担当者はさらに続ける。

「小切手帳の初回発行料は銀貨5枚」

「それだけではございませんでしょう?」

シェリィが先回りした。

担当者が頷いた。

「保証金が必要です」

「でしょうね」

小切手は、紙に数字を書けば金が生まれる仕組みではない。

振り出された小切手を商業ギルドへ持ち込めば、現金へ換えられる。

小切手をそのまま別の支払いに使うこともできる。

額面だけでは足りなければ、不足分を現金で足してもよい。

別の小切手を合わせてもいい。

だからこそ、小切手そのものに信用がなければならない。

「通常、新規登録商会の保証金は、小切手振出限度額の20%です」

「アスタリア大商会が希望する初期限度額は?」

「金貨50枚」

「ならば保証金は金貨10枚」

「通常なら、そうなります」

その言葉に、シェリィが目を上げた。

「通常なら?」

担当者はもう一枚の書類を取り出した。

「有力な加盟商業ギルドが保証人となる場合、保証金を10%まで軽減できます」

「保証人……」

その時、扉が叩かれた。

「失礼いたします」

入ってきた職員が、一通の封書を差し出した。

「ヴァルモント公爵領商業ギルドから、会長宛てに書状が到着しております」

シェリィが受け取る。

封蝋には、見慣れた公爵家の紋章ではない。

ヴァルモント公爵領商業ギルドの印が押されている。

それを確認したシェリィの表情が、わずかに引き締まった。

封を切る。

読み進める。

そして最後まで読み終えたところで、しばらく言葉を発しなかった。

「どうした?」

レオンハルトが尋ねる。

シェリィは書状を机へ置いた。

「……ヴァルモント公爵領商業ギルドが、保証人になってくださるそうです」

担当者が目を見開いた。

「それは……」

「ええ」

公爵領商業ギルドが保証する。

それは、単に金を貸すという意味ではない。

アスタリア大商会が不渡りを起こせば、保証した商業ギルド自身の信用まで傷つく。

商人にとって信用は財産だ。

時には金貨そのものより重い。

書状には、その理由も記されていた。

公爵令嬢だからではない。

これまでの取引記録。

帳簿。

支払い。

契約履行。

事業計画。

それらを確認した結果、保証に値すると判断した。

シェリィは、その一文をもう一度読んだ。

「……重いですわね」

レオンハルトが片眉を上げた。

「金貨5枚よりも?」

「比較になりません」

即答だった。

この保証が認められれば、

小切手振出限度額――金貨50枚。

通常20%必要な保証金は半分となり――金貨5枚。

そして6か月後に再審査。

小切手の利用状況。

残高。

取引実績。

帳簿。

不渡りの有無。

それらによって振出限度額が改めて決められる。

もし不渡りを起こせば、振出枠は凍結される。

重大な管理不足なら保証金率を引き上げられる。

繰り返せば資格停止。

故意の不渡りや詐欺なら、商業ギルド組合から除名され、司法手続きに進むことさえある。

信用とは、便利な道具ではない。

責任を引き受けることで初めて与えられるものだ。

「申請なさいますか?」

担当者が尋ねた。

シェリィは書状を丁寧に折った。

「まず、保証を申し出てくださったギルドへ返書を」

「お礼を?」

「もちろんです」

シェリィは頷く。

「ですが、それだけではありません」

「では?」

「保証を使わなくて済む経営をすると、お伝えください」

担当者の表情がわずかに緩んだ。

「承知しました」

「それから、王都の商業ギルド組合への申請書を用意してくださいませ」

「すぐに」

「資産、負債、ヴァルモント公爵家からの融資、熱供給事業の収支、雇用計画、契約、保有設備。必要なものはすべて出します」

担当者が少し驚いた。

「かなり詳細な審査資料になります」

「当然ですわ」

シェリィは答えた。

「信用を求める側が、自分に都合の良い数字だけを見せてどうするのです?」

そして、机の上に置かれた申請用紙へ視線を落とした。

「私は、公爵令嬢として登録していただくつもりはございません」

静かな声だった。

だが、迷いはない。

「アスタリア大商会会長として、審査を受けます」

◇

夕方。

仮設学校から、子供たちが家へ帰っていく。

黒板には、昼間の授業で書かれた文字がまだ残っていた。

光曜(こうよう)

火曜(かよう)

風曜(ふうよう)

水曜(すいよう)

土曜(どよう)

闇曜(あんよう)

6日が巡れば、一週間。

5週間が巡れば、一か月。

12か月が巡れば、一年。

その暦の中で、人は働き、休み、学び、生きていく。

夜になると、同じ教室へ今度は大人たちが集まり始めた。

昼間、子供が座っていた席に。

仕事を終えた職人が座る。

母親が座る。

若い作業員が座る。

読み書きを覚えたいと、自分の意思でここへ来た人々だ。

一方、少し離れたアスタリア大商会では。

別の紙へ、人々の信用が記されていた。

金額。

契約。

資産。

負債。

そして保証。

暦も、貨幣も、小切手も。

それ自体はただの仕組みにすぎない。

だが、皆が同じ一日を一日だと認めるから、暦は成り立つ。

皆が同じ貨幣に同じ価値があると信じるから、商売は成り立つ。

そして――

振り出された一枚の紙が、そこに書かれた金額と同じ価値を持つと信じられるから、小切手は金貨を運ばずとも人と人を結ぶことができる。

社会とは、制度だけで動くものではない。

その制度を守る者たちへの信用によって動く。

夜。

アスタリア大商会の執務室で、一通の書類が封筒へ収められた。

表には、宛先が記されている。

王都・商業ギルド組合。

かつて冬になるたび、人々が仕事を求めて去っていった極寒の土地。

その土地で生まれたばかりの商会が今――

王国全土を結ぶ信用の輪へ、自らの名を載せようとしていた。

今回は、アスタリアの学校から始まり、この世界の創世神話、六曜、星環暦、そして人々の「働く日」と「休む日」へつながるお話でした。

アスタリア大商会も、実際に勤務表を作ってみれば「必要な仕事の数」と「人間が無理なく働ける人数」は同じではありません。

そこで創業時の約50人という計画を、休日や交代勤務、欠勤・研修への備えまで含めて約60人規模へ見直すことになります。

そして、人が増えれば給与も増え、仕入れも設備投資も大きくなる。

そこで必要になるのが、王国全土を結ぶ商業ギルドの信用決済です。

公爵令嬢だから信用されるのではなく、帳簿と実績で信用を積み上げていく。

アスタリア大商会にとって、また一つ新しい挑戦が始まりました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。