第10話:広がる責任と、王都の影
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫17日――
アスタリア大商会・仮本部
王都の商業ギルド組合へ申請書を送り出した翌朝も、アスタリアは普段と変わらず動き始めていた。
《アスタリア中央魔導熱供給所》では夜間勤務者から朝の勤務者へ運転記録が引き継がれ、温室では作物の生育状況が確認される。
倉庫には食料を積んだ荷車が入り、新しい住宅区画では朝から槌の音が響いていた。
商業ギルド組合への登録を申請した。
それは確かに大きな一歩だった。
だが、申請書を送り出した瞬間に商会の信用が増えたわけではない。
全国で通用する小切手を振り出せるようになったわけでもない。
ましてや、アスタリアの問題が一つ減ったわけでもなかった。
シェリィは執務机に座り、朝一番に届けられた報告書をめくっていた。
熱供給。
物流。
食料。
住宅。
人員。
温室。
一枚終われば、次の一枚が待っている。
「……当然ですわね」
小さな独り言が漏れた。
昨日、王都宛ての申請書を封じた時。
ほんの一瞬だけ、肩の荷が一つ下りたような気がした。
けれど、それは錯覚だったのだろう。
申請したという事実は、これまでの実績を帳簿にまとめて提出しただけに過ぎない。
信用とは、認可証を受け取った瞬間に生まれるものではない。
昨日支払うと約束したものを、今日支払う。
今日引き受けた仕事を、明日も続ける。
そうした積み重ねがあって、初めて「あの商会なら信用できる」と思ってもらえる。
シェリィは次の書類へ手を伸ばした。
その時、扉が叩かれた。
「会長、よろしいでしょうか」
総務財務部の担当者だった。
「どうぞ」
入ってきた彼が抱えている紙束を見て、シェリィの眉がわずかに動く。
「……ずいぶんな量ですわね」
「昨日決定した人員計画を、実際の勤務表へ落とし込んでおります」
「ああ……」
昨日。
学校で六曜と休日の授業を聞きながら、シェリィは自分たちの人員計画に一つ大きな穴があることに気づいた。
必要な仕事の数を数えることと、必要な人間の数を数えることは違う。
人は休む。
病気にもなる。
研修にも参加する。
その当たり前の事実を組み込んだ結果、約50人だった直接雇用計画は、およそ60人規模へ改められた。
「座ってくださいませ」
担当者が向かいの席へ腰を下ろす。
「まず通常部門です。総務財務部や技術研究部の一部などは、原則5勤1休。基本的には闇曜を休日とします」
「物流商務部は?」
「事務担当は同様にできます。ただし、倉庫と輸送担当は別です」
「荷物はこちらの休日を待ってはくれませんものね」
「その通りです」
次の紙が置かれた。
「熱供給事業部については、常時運転に関わる勤務者を4勤2休の交代制とします。保守、検針など一部の職務については5勤1休で休日をずらす方が効率的です」
「すべて同じ勤務制度にするわけではないのですね」
「現場の仕事内容が違いますので」
シェリィは小さく頷いた。
その答えが、妙に嬉しかった。
規則を作ったのだから、人間を規則へ押し込む。
それでは意味がない。
設備の保守制度を作った時もそうだった。
まず設備を見る。
実際の劣化を見る。
その結果に合わせて規則を変える。
人間も同じでいい。
「夜間班は?」
「確保します」
「病欠者が出た場合は?」
「代替要員を設定しました」
「研修中の者を、現場の勤務人数へ数えてはいませんね?」
「除外しております」
「事故が起きて1人、2人が対応へ回った場合も?」
「平常運転を維持できるよう余裕を取っています」
シェリィは次々と尋ねた。
だが、担当者はあるところで資料を閉じた。
「会長」
「はい?」
「この先の個別配置は、私どもで決めてもよろしいでしょうか」
シェリィの指が止まった。
「……個別配置?」
「誰をどの班へ置くか。誰と誰を組ませるか。本人の希望や技能、夜間勤務への適性などです」
「なるほど」
そう答えたものの。
胸の奥で、ごく小さな抵抗が生まれた。
――私が確認しなくて大丈夫なのかしら。
その考えが反射的に浮かぶ。
自分が全部見れば、安心できる。
経験を確認し。
適性を確認し。
班の組み合わせを確認し。
間違いがないか、自分の目で最後まで見ればいい。
前世でも、そうしてきた。
重要な資料ほど自分で確認した。
大きな交渉ほど、自分で最後まで追った。
誰かが困っているなら、自分がもう少し働けばいい。
そう思っていた。
だが。
その結果、自分がいないと判断が進まない状況を作ってしまったこともあった。
自分が仕事を抱えることと。
自分が責任を取ることは。
本当は同じではない。
頭では、分かっている。
分かっているのに。
「……」
すぐには「お願いします」と言えなかった。
担当者は急かさなかった。
ただ、待っている。
シェリィは紙を握っていた指を、ゆっくりと緩めた。
「判断基準は共有されていますか?」
「はい。安全性、技能の偏り、休日の公平性、必要人数。それから可能な限り本人の希望も確認します」
「勤務表が完成したら――」
全部見せてください。
そう続けそうになった。
そこで一度、息を止める。
「……部門責任者の確認までで進めてくださいませ」
担当者が少しだけ目を見開いた。
「会長の最終確認は?」
「重大な問題があれば上げてください」
シェリィは、わずかに苦笑した。
「皆様を雇ったのに、私が皆様の仕事まで奪ってしまっては意味がございませんもの」
「承知しました」
担当者が頭を下げる。
資料を持って立ち上がったその背中を見ながら、シェリィは不思議な気分になった。
不安は残っている。
だが同時に、肩がほんの少し軽い。
任せる。
それだけのことが。
自分にとっては、思っていた以上に難しいらしい。
2時間後――
同じ仮本部の会議机には、今度は生活費に関する聞き取り資料が並んでいた。
「一般職の標準月給は、現状では銀貨10枚前後を想定しています」
総務財務部の担当者が説明する。
「はい」
銅貨100枚で銀貨1枚。
そして質素なパン1個が、銅貨1枚。
銀貨10枚なら、銅貨に直せば1,000枚。
5勤1休の職員なら、30日のうち25日前後が勤務日になる。
単純計算すれば、1勤務日あたり銅貨40枚相当。
数字だけなら決して小さくない。
だが、それで本当に生活できるかどうかは別だった。
「現在、住民と移住希望者から生活費を聞き取っています。独身者、夫婦、子供がいる家庭で分けて集計中です」
「食費だけではございませんね?」
「はい。住宅、衣服、日用品、熱料金を含めています」
「医療費も」
担当者が書き加える。
「冬季に増える支出もお願いします」
「承知しました」
「学校へ通う子供がいる家庭も分けてください」
「学校そのものは領地側ですが……」
「筆記具や衣類など、子供を通わせることで必要になるものがあるはずです」
担当者は頷いた。
シェリィは資料を見ながら、さらに考える。
「それから職種による違いも」
「職種ですか?」
「仕事着を商会が支給する仕事と、自分で準備する仕事では負担が違うでしょう?」
「ああ……」
担当者がまた書き留める。
そこで、少し困ったような顔をした。
「会長」
「何でしょう?」
「こちらの調査は、私どもで行います」
シェリィは瞬きをした。
「そのつもりですわ」
担当者の視線が、なぜか疑わしそうだった。
「本当でしょうか」
「どういう意味でしょう」
「会長ご自身で住民宅を一軒ずつ回り始めないかと思いまして」
隣で帳簿を整理していた職員が、そっと顔を伏せた。
肩が震えている。
笑っているらしい。
「……私、そこまで信用がございません?」
「職員を信用していないという意味ではございません」
担当者も、とうとう笑った。
「会長が、ご自分を休ませられるかという点を信用しておりません」
「……」
言い返そうとして。
適切な反論が浮かばなかった。
「善処いたします」
「信用してよろしいでしょうか」
「努力いたします」
「信用度が下がりました」
今度こそ、周囲から笑いが漏れた。
シェリィ自身も、思わず笑ってしまった。
少し前なら。
こうして職員から冗談を言われること自体、想像しなかったかもしれない。
けれど今は。
それが、少し嬉しかった。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫17日――
アスタリア中央魔導熱供給所・正面通路
昼を少し過ぎた頃。
シェリィは熱供給事業部から上がってきた運転報告を確認するため、中央魔導熱供給所を訪れていた。
入口近くで、仕事を終えた若い運転員とすれ違う。
目の下には、わずかに疲れが見える。
だが、表情は明るかった。
「お疲れ様です」
シェリィが声をかけると、男は慌てて姿勢を正した。
「か、会長! お疲れ様です!」
「夜間勤務でしたの?」
「はい。でも次の火曜が休みなんです」
ずいぶん嬉しそうだ。
シェリィは微笑んだ。
「闇曜ではなくても、ご家族は大丈夫ですか?」
「嫁には笑われました」
男も笑う。
「『皆が仕事している火曜に、亭主だけ家にいるのは変な感じだ』って」
「それは確かに、慣れるまでは不思議かもしれませんわね」
「でも、今まで冬に南へ出稼ぎしていた頃は、家にいる日そのものが少なかったですから」
男の声が、少し変わった。
明るさの奥に、何か柔らかなものが混じる。
「休みの日に、子供と昼飯を食えるだけでも十分ですよ」
シェリィは、一瞬言葉を失った。
自分たちが作っている勤務表。
そこに書かれている「休日」という一文字。
それは会計上なら、稼働しない一日だ。
人員配置上なら、代替要員を必要とする一日だ。
だが。
この男にとっては、子供と昼食を食べる一日なのだ。
「……どうぞ、ゆっくりお休みくださいませ」
「はい!」
男が一礼して去っていく。
その背中を見ながら、シェリィは昨日の授業を思い出した。
闇曜に休む者。
火曜に休む者。
誰かが働いている間に。
別の誰かが休む。
そして交代する。
町を止めないというのは、一人の人間を止まらせないことではない。
――そういうことだったのね。
シェリィは、熱供給所の中へ視線を戻した。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫17日――
アスタリア・新住宅区画
夕刻。
新しい住宅区画へ、三台の荷車が入ってきた。
そのうち一台から、幼い少女が顔を出した。
見慣れない街並みを、不安そうに見回している。
荷台を降りた母親は、少女の手を握った。
その後ろから、荷物を抱えた男が続く。
南寄りの町から移住してきた家族だった。
男は金属加工の経験がある。
アスタリア大商会の求人を見て応募した。
妻も、温室や食品加工の仕事を希望している。
子供は2人。
シェリィは住宅担当者と一緒に、入居予定の家まで案内した。
まだ仮設住宅に近い。
華美なものは何もない。
だが断熱を施し、《アスタリア魔導熱供給網》へ接続されている。
母親が家の中へ一歩入った瞬間。
足を止めた。
「……暖かい」
たった一言だった。
だが、その声の中には色々なものが混ざっていた。
驚き。
安堵。
そして。
本当にここで暮らしていけるのだろうかという、まだ消えていない不安。
母親は壁際の放熱器を見た。
「冬も……これが?」
「重大な事故がなければ、基本的に供給を続けます」
シェリィは、絶対という言葉を使わなかった。
「そのために運転員や保守要員を増やしています」
今度は夫が尋ねた。
「仕事は……本当にありますか?」
「あります」
そこまで答えて。
シェリィは一度、言葉を止めた。
男の顔を見る。
この一家は。
仕事があると言われたから、生活そのものを移してきた。
だからこそ。
都合のよいことだけを言うべきではない。
「ただし、ずっと同じ仕事があるとはお約束できません」
男の顔に僅かな緊張が走った。
妻もシェリィを見る。
「町も商会も変わります。今必要な仕事が、5年後も10年後も同じ形で存在する保証はございません」
それでも、とシェリィは続ける。
「そのために職業訓練を用意します」
「職業訓練……?」
「はい。今できる仕事だけでなく、必要になった時に次の仕事を覚えられるように」
男はしばらく黙っていた。
そして。
ゆっくり頷いた。
「……その方が、信用できます」
シェリィは少し驚いた。
「もっと良いことだけ言うのかと思ってました」
男は苦笑した。
「移住者を集めるなら、その方が簡単でしょうね」
「ええ」
「でも、後で話が違ったと言われる方が困りますもの」
その言葉を聞いた男の表情が、ほんの少し柔らかくなった。
その時、幼い少女が母親の服を引っ張った。
「お母さん」
「なあに?」
「学校は?」
母親の顔が変わる。
ここへ来る前から気にしていたのだろう。
「明日、見に行こうね」
シェリィは二人のやり取りを聞きながら、改めて住宅区画を見回した。
働く場所だけでは、人は暮らせない。
家がいる。
食料がいる。
学校がいる。
医療がいる。
道路がいる。
熱がいる。
一つ整えるたび、次に必要なものが見えてくる。
終わりがない。
一瞬。
胸の奥に、あの感覚が戻ってきた。
――全部、私が。
そこで。
朝の総務財務部の担当者の顔が浮かんだ。
シェリィは小さく息を吐く。
違う。
全部を自分でやるのではない。
必要な人を見つけ。
任せ。
同じ方向へ進めるようにする。
それも仕事なのだ。
以前より、そのことを少しだけ理解できた気がした。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫18日――
セレスティア王国・王城
分厚い扉が閉じる音が、静かな執務室に響いた。
アーサー国王は机の上に置かれた報告書へ手を置いたまま、すぐには開こうとしなかった。
表紙に書かれている名を、読む必要はない。
分かっている。
自分の息子。
エドワード。
国王として。
父親として。
その二つの立場が、今ほど互いを邪魔したことはない。
王であるなら。
証拠を確認し。
責任を判断し。
必要な措置を取らなければならない。
だが。
父親である自分は。
そこに書かれた事実が、間違いであってほしいと願っている。
「……続けよ」
アーサーが低く言った。
側近が報告を再開する。
「卒業記念の宴に出席した主要な者への聞き取りは、ほぼ完了しております」
アーサーは黙って聞く。
「ミレーヌ嬢への魔法攻撃について、シェリィ嬢が実行したと裏付ける証拠は、現在まで確認されておりません」
アーサーの指に力が入った。
予想していた。
それでも。
実際に報告として聞くと重かった。
「エドワードは、それを確認せずに公の場で断じた」
誰に問いかけるでもなく、アーサーが呟く。
「はい」
側近は余計な言葉を足さない。
「周囲の動きは?」
「第二王子殿下と接触した貴族、商人、関係者について引き続き確認しております」
「何人だ」
「直接接触だけであれば複数名。ただし――」
「続けよ」
「接触した事実だけをもって、第二王子擁立を目的としていたとは断定できません」
アーサーの表情が、僅かに緩んだ。
「それでいい」
疑わしい。
それだけで処分する。
その一線を越えれば。
王国そのものが壊れる。
部屋の端に控えていたジュリアン王太子が、静かに口を開いた。
「父上」
アーサーが視線を向ける。
「エドワード本人について確認できている事実と、その周囲の動きは分けて考えるべきです」
「分かっている」
少し強い言葉になった。
直後。
アーサー自身が気づいたように目を伏せる。
「……すまぬ」
「いえ」
ジュリアンは、それ以上何も言わなかった。
父が苦しんでいる。
そんなことは分かっている。
だが。
自分が代わりに苦しめるわけではない。
王位を引き受けてやれば解決する。
そんなことでもない。
今、この国の王は父だ。
自分は王太子。
父の統治を支える。
それが今の自分の務めだった。
アーサーが報告書を開く。
宴での証言。
発言記録。
ミレーヌとの関係。
周辺の人物。
商人との接触。
資金の動き。
一つひとつは、小さな点に見える。
だが。
その点が、徐々につながり始めていた。
「必要な確認は、あとどれほどだ」
アーサーが尋ねる。
側近は慎重に答えた。
「エドワード殿下ご本人の行為については、かなり進んでおります」
「だが?」
「殿下の周囲については、予想より広い動きがございます」
ジュリアンの胸の奥へ、冷たいものが沈んだ。
――やはり。
弟だけを処分して終わる問題ではない可能性が高い。
シェリィが、処分を急ぎ過ぎるべきではないと考えた理由もそこにある。
エドワードを切り離した瞬間。
周囲にいる者たちが一斉に地下へ潜れば。
真相へ届かなくなる。
アーサーがジュリアンを見る。
「急いだ方がよいと思うか」
ジュリアンは、すぐには答えなかった。
父を見る。
国王ではなく。
一人の父親として。
苦しんでいる男を見る。
だからこそ。
感情で答えてはいけない。
「処分を急ぐべきかと」
ジュリアンは静かに言った。
「全容を急いで知るべきかは、別の問題だと思います」
アーサーは黙って続きを待った。
「本人について確認できた事実は、本人の責任として扱うべきです」
「うむ」
「ですが、周囲の者まで一括して同じものとして扱えば、無関係な者を巻き込む可能性があります」
ジュリアンは一度言葉を切る。
「逆に、何もせず放置すれば、証拠を失う可能性もある」
「では?」
「エドワード本人への正式な聞き取りを進めながら、周囲の調査は止めない」
アーサーは長く息を吐いた。
やがて。
報告書を閉じる。
「……エドワードを呼べ」
側近が一礼する。
「承知いたしました」
それは処分の宣告ではない。
だが。
王である父親が。
王子である息子へ。
正式に事実を問う時が来たということだった。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫18日――
王都・某貴族邸
窓には厚いカーテンが引かれていた。
扉の外には、主人が私的な会合をしているとだけ伝えられている。
室内には数名の貴族がいた。
エドワード本人の姿はない。
彼らは。
第二王子エドワードを、いずれ王位へ押し上げたいと考えてきた者たちだった。
だが今。
その場に以前のような余裕はなかった。
「王城から殿下へ召喚が出る」
一人が言った。
別の男が顔を上げる。
「確かなのか」
「王城にいる者から聞いた。正式な聞き取りになるらしい」
部屋に重い沈黙が落ちた。
年嵩の貴族が、指を組む。
「まだ処分ではない」
「だが、その前段階だ」
「早計だ」
別の男が強く言った。
「国王陛下が何を掴んでおられるのか、我々には分からん」
「だから待てと?」
「動けば、こちらから存在を知らせることになる」
「待っていて殿下が切られればどうする!」
声が大きくなった。
すぐに誰かが、
「声を落とせ」
と制する。
発言した男は唇を噛んだ。
誰も。
余裕などなかった。
エドワードが失脚すれば。
彼らが描いていた未来も失われる。
それだけではない。
これまでエドワードへ近づいてきた自分たちの行動そのものが、どう評価されるか分からない。
「私は距離を置くべきだと思う」
その言葉に、何人かが顔を上げた。
「今ならまだ間に合う。殿下個人の判断で起きたことであれば、我々まで巻き込まれる理由はない」
「今まで殿下を担いでおいて、それか」
「家を守るのも当主の責任だ」
「臆病者め」
「何とでも言え」
空気が荒れる。
年嵩の貴族が低い声で割って入った。
「やめろ」
静かになった。
「我々自身が割れれば、それこそ終わりだ」
だが。
その言葉とは裏腹に。
すでに彼らの間には亀裂が生まれている。
エドワードを守る者。
自分の家を守る者。
まだ様子を見る者。
国王がどこまで知っているのか確認しようとする者。
思惑は、一つではなかった。
その時だった。
部屋の隅に座っていた一人が。
ぽつりと呟いた。
「……王太子殿下さえ、おられなければ」
誰も動かなかった。
時間そのものが止まったようだった。
発言した本人でさえ。
自分が何を言ったのか理解したのか、顔色を変えた。
年嵩の貴族がゆっくりと立ち上がった。
「その先を」
低い声。
「口にするな」
「私は、ただ――」
「口にするなと言った」
その声音には、明確な恐怖があった。
怒りではない。
恐怖だった。
「我々は王位継承について意見を持つ者だ」
一語一語、噛み締めるように言う。
「そこを越えれば、違う」
誰も答えない。
「そこを越えた瞬間、我々は逆賊になる」
沈黙。
「今の言葉は忘れろ」
誰かが小さく頷いた。
別の誰かも。
だが。
本当に忘れた者は、一人もいなかった。
王太子ジュリアンがいなければ。
口にしてはいけないその考えは。
一度言葉になったことで。
全員の頭の中に、はっきりとした形を持って残ってしまった。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫19日――
アスタリア大商会・仮本部
王都でそんな言葉が生まれていることを。
シェリィはまだ知らない。
朝から彼女が見ていたのは、物流商務部から提出された仕入れ表だった。
「この金属部品、数量が増えておりますわね」
「住宅区画の追加分です」
「では、納期だけ確認してください。価格交渉は担当へ任せます」
口にしてから。
シェリィ自身が少しだけ驚いた。
昨日までなら、自分で取引条件まで見ようとしていたかもしれない。
「承知しました」
担当者が去る。
その直後。
今度は別の職員が、慌ただしく部屋へ入ってきた。
「会長」
「どうしました?」
手には、一通の封書。
「王都からです」
シェリィの手が止まった。
「商業ギルド組合?」
「はい」
部屋の空気が変わる。
総務財務部の者たちまで、思わず顔を上げた。
申請を出して、まだ数日。
結果にしては早い。
シェリィは封を確認し。
慎重に開いた。
紙を広げる。
目を走らせる。
最初に見えた文字は――
登録申請受理。
小さく息を吐く。
不受理ではない。
だが。
その次を読んだ時。
シェリィの目が僅かに細くなった。
「会長?」
「……現地審査です」
「現地?」
「王都の商業ギルド組合から、審査担当者をアスタリアへ派遣するそうです」
部屋が一瞬ざわついた。
「帳簿確認」
「設備と事業実態の確認」
「雇用状況」
「保証内容」
「実際の取引記録」
シェリィが通知を読み上げていく。
総務財務部の一人が立ち上がった。
「では、帳簿を整え直します」
シェリィが顔を上げる。
「何のために?」
職員が少し戸惑う。
「審査に備えて……」
「記入漏れでもありますの?」
「いいえ」
「数字が合っていない?」
「それもございません」
「ならば」
シェリィは通知書を机へ置いた。
「何も直す必要はございません」
「ですが、見栄えを――」
「見せるための帳簿を作ってどうするのです?」
声は穏やかだった。
だが、その言葉に迷いはなかった。
「審査する方々が知りたいのは、私たちが審査の日だけどれほど綺麗に見えるかではございません」
部屋を見回す。
「普段、どのように仕事をしているかでしょう?」
誰も反論しない。
「いつも使っている帳簿を」
シェリィは言った。
「そのままお見せしましょう」
「失敗の記録も?」
「もちろんです」
「故障記録も?」
「出してください」
「予算を超えた工事も?」
「隠す理由がございません」
シェリィは微笑んだ。
「失敗していない商会が信用されるのではありません」
そして。
これまで自分たちが何度も繰り返してきた言葉を、もう一度口にする。
「失敗を隠さず、どう直したか説明できる商会でありたいのです」
総務財務部の者たちは、一人、また一人と頷いた。
シェリィは窓の外へ視線を向けた。
熱導管から白い蒸気が上がっている。
人が歩いている。
荷車が通る。
新しく建てられた家から、子供が飛び出してくる。
商業ギルド組合の審査官が何を見るのか。
まだ分からない。
自分たちが合格するのかも分からない。
だからこそ。
作り物を見せるつもりはなかった。
「日程は?」
「先方から追って通知するとあります」
「では、待ちましょう」
シェリィは次の書類へ手を伸ばした。
「それまでも、いつも通り仕事をいたします」
王都から審査官が来る。
アスタリア大商会が。
公爵令嬢シェリィ・ヴァルモントではなく。
一つの商会として評価される日が近づいていた。
そして同じ頃。
遠く離れた王都では。
別の一枚の紙によって。
第二王子エドワードが、父である国王の前へ呼ばれようとしていた。
アスタリアでは、信用を得るための審査が始まる。
王都では、これまでの行いを問うための聞き取りが始まる。
同じ翔風月≪第4月≫の下で。
二つの流れが。
静かに動き始めていた。
今回は、アスタリア大商会が「人数を集める組織」から、「人が働き続けられる組織」へ変わっていく過程を描きました。
休日は帳簿の上では非稼働日ですが、その人にとっては家族と過ごす一日でもあります。
そしてシェリィ自身も、すべてを自分で確認するのではなく、人に任せるという新しい課題と向き合い始めました。
一方の王都では、エドワードへの調査が止まっていたわけではありません。
さらに、その周囲にいる第二王子擁立派の中にも動揺と亀裂が生まれ始めています。
まだ誰も越えてはいない一線。
けれど、一度口にされた危険な考えは、簡単には消えません。
そしてアスタリアには、王都の商業ギルド組合から現地審査の通知が届きました。
次に問われるのは、書類の上ではなく――実際のアスタリア大商会そのものです。




