第7話:王太子の密約と、静かな備え
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫1日――
アスタリア大商会・仮執務室
光曜の朝。
《アスタリア大商会》が誕生してから、初めての部門長会議が始まった。
会議室と呼ぶには狭い部屋だった。長机を囲めば、椅子を引くだけで後ろの棚にぶつかる。
それでも、壁には正式な組織図が掲げられている。
総務財務部。
技術研究部。
熱供給事業部。
生産開発部。
物流商務部。
そして、会長直属の安全監査室と契約法務室。
最上段には。
会長 シェリィ・ヴァルモント。
シェリィは自分の名前を一度見上げたあと、議事録担当者へ頷いた。
「始めましょう」
早速、総務財務部の責任者が手を挙げる。
「では、まず創業後の順調な――」
「その前に」
シェリィが止めた。
男が口を閉じる。
「最初の報告は?」
壁にも貼られている。
成功報告より先に、失敗・事故・苦情・予算超過を報告すること。
総務財務部の責任者は苦笑した。
「……承知しました」
最初に出たのは、熱量計の誤差だった。
次に、ある住居で還流側の温度が想定より高く、十分に熱を取り出せていないという報告。
さらに、温室の一角で湿度が上がりすぎ、一部の苗に病変の疑い。
物流商務部からは、金属管の納入が予定より2日遅れるとの連絡。
最後に。
「苦情が1件ございます」
シェリィが顔を上げる。
「内容を」
「北側の居住区からです。熱供給はありがたいが、工事のために道が狭くなり、荷車が通りにくい、と」
「正しい苦情ですわね」
「怒られませんのですか?」
「なぜです?」
シェリィは不思議そうに返した。
「不便になったから不便だと言っているだけでしょう?」
会議室に、僅かな笑いが起きた。
「工事工程を物流商務部と熱供給事業部で再調整してください。道路を完全に塞ぐ工事は避けること。それが無理なら、事前に迂回路を決めて住民へ知らせます」
「承知しました」
良い情報だけなら。
何もしなくても集まる。
問題こそ。
早く知る必要がある。
その考えは、研究でも、経営でも変わらなかった。
◇
一通りの報告が終わった後。
物流商務部から、新しい資料が出された。
食料搬入量。
前月。
公爵領からアスタリアへ送られた小麦、豆、保存肉、油、塩、根菜。
それに、他地域の商人から購入した干し魚や乾燥果実。
シェリィは数字を追う。
「温室の試験生産分を差し引いても、まだ外部依存は大きいですね」
「はい」
生産開発部の担当者が答えた。
「冬季よりは改善しますが、現状の農地だけでは住民約1,500人分を安定して賄えません」
「それでよろしいのです」
農業担当者が驚く。
「よろしいのですか?」
「完全自給を目標にはしておりませんもの」
シェリィは紙に3本の線を引いた。
「地域生産力を上げること」
「調達先を分散すること」
「備蓄を持つこと」
その3つ。
「どれか1つに依存しない。それが目標です」
温室だけに頼れば、設備事故が起きた時に弱い。
公爵領だけに頼れば、街道が止まった時に弱い。
商人だけに頼れば、市場価格が跳ねた時に弱い。
備蓄だけでは、いずれ尽きる。
「食料安全保障とは、食料を全部自分で作るという意味ではございません」
シェリィは続けた。
「何か1つが壊れても、すぐには飢えない仕組みを作ることです」
生産開発部の担当者が頷きながら、温室拡張案を広げる。
「寒冷地向けの穀物と豆類。それから根菜。温室では葉物だけでなく、苗の育成も試してみます」
「保存性も記録してください」
「収穫量だけでは駄目ですか?」
「駄目です」
即答だった。
「大量に採れても3日で腐るなら、食料安全保障には使いにくいでしょう?」
「なるほど……」
「乾燥、塩蔵、低温保存も含めます。生産だけでなく保存までが食料です」
また1つ。
仕事が増えた。
そして。
人手が足りなくなった。
総務財務部の責任者が、半ば諦めた顔で言う。
「会長」
「はい」
「求人を増やしますか?」
「増やします」
「また即答ですな」
「必要なのですから仕方ありませんわ」
◇
その日の午後。
シェリィの机には、公爵領から届いた封書が置かれていた。
父ローランドからの返書である。
封を切る。
内容は簡潔だった。
アスタリアへの食料融通量を、今すぐ減らす必要はない。
現地生産が安定するまで、従来どおり支援する。
ただし。
アスタリア側からの必要量が減少した分については、公爵領内の備蓄へ順次振り向けることに同意する。
シェリィは、その一文をもう一度読んだ。
備蓄。
食料は。
剣ではない。
兵ではない。
だが。
争いが起きた時。
最初に不足するものの1つだ。
街道が塞がる。
商人が動かなくなる。
荷馬車が徴用される。
市場価格が上がる。
兵だけではなく。
老人も。
子供も。
食べなければならない。
卒業記念パーティーで起きたこと。
エドワード第二王子の行動。
そして。
その背後に存在している可能性が高い。
第二王子擁立派。
シェリィは。
エドワード自身を。
擁立派そのものと同一視してはいなかった。
愚かな行動をした。
許されない虚偽を口にした。
法的権限を越えた命令を出した。
それは事実だ。
だが。
彼が裏で動く者たちの計画をどこまで知っていたのか。
それは。
別の問題。
証拠なく。
同じものとして扱うべきではない。
シェリィは返書を畳んだ。
父は。
意味を理解している。
「使わずに済む備蓄が、一番良い備蓄ですわね」
小さく呟いた。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫3日――
アスタリア・領主館
夕刻。
予定にない馬車が1台。
領主館の裏手へ入った。
紋章はない。
護衛も。
最低限。
馬車から降りた男も。
豪華な王族服を着てはいなかった。
濃紺の外套。
腰には剣。
だが。
姿勢だけで。
平民には見えない。
シェリィは玄関で待っていた。
男が近づく。
「久しぶりだな、シェリィ」
「お久しゅうございます」
シェリィは正式に礼を取った。
「ジュリアン王太子殿下」
「今日は、それを大声で呼ばないでくれ」
「では、殿下だけにしておきますわ」
「十分目立つ」
ジュリアンは苦笑した。
セレスティア王太子ジュリアン。
アーサー国王の長男。
次代の王位継承者。
そして。
シェリィにとっては。
幼い頃から何度も顔を合わせてきた人物でもある。
ジュリアンの視線が。
領主館の向こうへ伸びる。
熱導管を運ぶ人々。
資材置き場。
遠くの温室。
「随分変わったな」
「まだ始まったばかりです」
「それでもだ」
歩きながら。
ジュリアンは地面へ敷かれた管を見る。
「父上へ上がってくる報告書より、実物の方が分かりやすい」
シェリィが一瞬だけ彼を見る。
「国王陛下へ報告が?」
「当然だろう」
ジュリアンは答えた。
「父上はセレスティア国王だ。国内でこれだけ新しい事業が始まっているのに、知らない方がおかしい」
その言葉に。
シェリィは少しだけ。
安心した。
変わらない。
この人は。
やはり。
変わらない。
◇
会談場所は。
領主館の小さな書斎だった。
人払いをする。
扉の外には。
シェリィ側の侍女が1人。
ジュリアン側の近衛が1人。
それだけ。
ジュリアンが懐から、1通の封書を出した。
見覚えのある封蝋。
王太子の私印。
「これは」
「ローランド公爵へ送った密書の控えだ」
シェリィが受け取る。
すでに父から。
存在だけは聞いていた。
内容を読む。
王太子として。
ヴァルモント公爵家へ求めていること。
第二王子周辺の動きに、公爵家側から反応しないこと。
王都から正式要請がない限り、武力を動かさないこと。
不審な資金・人員・物流の動きを確認した場合、独自処理せず情報のみ共有すること。
そして。
最後に。
国王陛下の治世を乱すことにつながる行動を、王家・公爵家いずれの側からも起こさないこと。
シェリィは。
紙から顔を上げた。
「殿下らしい内容ですわね」
「褒めているのか?」
「もちろんです」
ジュリアンは。
椅子へ深く腰掛けた。
「ローランド公爵にも、同じことを言われた」
「何と?」
「お前ならそう書くと思っていた、と」
シェリィは少し笑った。
「お父様ですもの」
ジュリアンの表情も。
柔らかくなる。
ローランド。
ジュリアンにとって。
単なる有力公爵ではない。
幼い頃。
剣を教えた人。
魔法を教えた人。
そして。
王族としての力を。
何のために使うべきか。
教えた人。
◇
ずっと昔。
まだジュリアンが。
少年だった頃。
王宮の訓練場。
木剣を握った少年は。
地面へ転がっていた。
「立て」
ローランドの声。
「もう10回目です!」
「数えられるなら、まだ元気だ」
「父上なら、もっと優しく教えてくれます!」
「陛下は剣術指南役ではない」
「大后陛下も、もっと優しいです!」
「それは嘘だろう」
幼いジュリアンが黙る。
ローランドは。
木剣を肩へ乗せた。
「もう一度だ」
少年が。
渋々立ち上がる。
木剣を構える。
突進。
弾かれる。
今度は。
倒れなかった。
ローランドが。
僅かに口元を上げる。
「殿下」
「はい」
「剣は何のために持つ?」
少年は。
少し考えた。
「敵を倒すため」
「違う」
「じゃあ、勝つため」
「違う」
「……何ですか」
ローランドは。
少年の木剣を。
指先で押し下げた。
「守るためだ」
少年が。
顔を上げる。
「守る?」
「陛下を」
「国を」
「民を」
「お前自身が」
「守るべきだと決めたものを」
ローランドは言った。
「剣が強いから偉いのではない」
「魔法が使えるから偉いのでもない」
「力を持った時に」
「何のために使うかを間違えない者が」
「強いんだ」
幼いジュリアンは。
それを。
何度も。
聞いて育った。
その夜。
父アーサーが。
遅くまで政務机に向かっていた姿も。
覚えている。
ジュリアンが憧れたものは。
父の王冠ではなかった。
その背中だった。
◇
現在。
ジュリアンは。
シェリィの向かいで。
静かに言った。
「今回、私が来た理由は分かっているな?」
「おそらく」
シェリィは。
机の引き出しから。
1冊の薄い記録帳を取り出した。
卒業記念パーティー。
あの日。
誰が。
どこにいたか。
誰が。
どの言葉で。
どのような反応をしたか。
エドワード第二王子の発言。
ミレーヌの様子。
周囲の学生。
貴族令息。
令嬢。
使用人。
会場の出入口。
シェリィが。
事件直後に。
可能な限り記録していたもの。
「これが」
ジュリアンが手を伸ばす。
「例の記録か」
「はい」
「君はあの状況で、よくここまで見ていたな」
「自分が何を言われたかより」
シェリィは答えた。
「それを聞いた周囲が、どう反応したかの方が重要でしたので」
「普通は逆だ」
「そうでしょうか?」
ジュリアンは。
記録をめくりながら。
小さく息を吐いた。
「やはり君は昔から変わらないな」
「殿下もですわ」
「私が?」
「はい」
ジュリアンが顔を上げる。
シェリィは。
少しだけ。
表情を柔らかくした。
「殿下が王位を欲して動いているとは」
「最初から1度も思っておりません」
ジュリアンの目が細くなる。
「……当然だ」
声に。
迷いがない。
「今、この国の王は父上だ」
「はい」
「私は王太子だ」
「はい」
「それだけだ」
ジュリアンは。
記録帳を閉じた。
「父上が国を治めやすいようにする」
「民が穏やかに暮らせるようにする」
「王家に生まれた人間として、それが私の役目だ」
「王位は?」
「その役目を果たした先で、父上から託されるなら受ける」
即答だった。
「第二王子だったとしても?」
シェリィが尋ねる。
ジュリアンは。
一瞬たりとも考えなかった。
「同じだ」
「第三王子でも?」
「同じだ」
「王太子でなくても?」
「何も変わらない」
ジュリアンは。
少しだけ。
不思議そうに続けた。
「王子の務めは、王になることだけではないだろう?」
シェリィは。
静かに笑った。
「お父様の教えが、残っていますのね」
「父上からも学んだ」
ジュリアンは答える。
「ローランド公爵からもな」
そして。
少し間を置く。
「大后陛下からも」
その名前が出ると。
シェリィの表情も。
僅かに変わった。
アストリッド大后陛下。
王家において。
最も長く。
人を見続けてきた存在。
愛情深い。
だが。
甘くはない。
ジュリアンが。
アーサー国王とエレノア王妃から愛されていることは。
当然だった。
父と母なのだから。
ローランドとマーガレットも。
幼い頃から。
彼を家族同然に見てきた。
そして。
アストリッドも。
曾孫として。
深く愛してきた。
けれど。
信頼は別だった。
大后陛下から愛されている王族はいる。
しかし。
政治的判断まで。
信じてもらえる人間は。
多くない。
ジュリアンは。
それを。
血筋ではなく。
日々の行動で得てきた。
シェリィは。
それを知っている。
そして。
ジュリアンも知っている。
シェリィが。
ローランドとマーガレットだけでなく。
アーサー国王。
エレノア王妃。
そして。
アストリッド大后陛下から。
どれほど深く愛されているか。
だから。
卒業記念パーティーで。
シェリィが突然。
王家と公爵家から。
捨てられたなどとは。
最初から考えなかった。
何かがおかしい。
そう思った。
◇
「シェリィ」
ジュリアンが。
声を落とした。
「ここからは」
「はい」
「記録には残さない」
シェリィも。
姿勢を正した。
「承知しました」
「第二王子擁立派についてだ」
部屋の空気が。
変わる。
「存在は確認している」
「やはり」
「ただし」
ジュリアンが続ける。
「エドワード自身が、どこまで知っているかは別問題だ」
シェリィは。
迷わず頷いた。
「私も同じ考えです」
ジュリアンの眉が。
僅かに上がる。
「庇うのか?」
「いいえ」
シェリィは。
首を横に振る。
「卒業記念パーティーで殿下が行ったことは、殿下自身の責任です」
「ですが」
「誰かがエドワード殿下を王に担ごうとしているからといって」
「その企てを殿下本人も全て知っていたと」
「証拠なく決めるべきではございません」
ジュリアンが。
ほんの少し。
笑った。
「安心した」
「何がです?」
「君が復讐で動いていないことだ」
シェリィは。
一瞬。
黙った。
そして。
静かに言う。
「私は」
「エドワード殿下への復讐を望んでいるのではございません」
それは。
本心だった。
怒りがないわけではない。
傷つかなかったわけでもない。
だが。
国家の制度は。
個人的な怒りを処理するために存在するものではない。
「求めているのは」
シェリィは続けた。
「責任が」
「責任を負うべき人のところへ」
「正しく届くことです」
ジュリアンが頷いた。
「なら」
彼は。
机の中央へ手を置いた。
「協力してほしい」
◇
ジュリアンが提示した条件は。
4つだった。
「第一」
「君が持つ、卒業記念パーティー前後の記録を、私に共有してほしい」
「承知しました」
「第二」
「アスタリアと公爵領へ流れる商人、物流、資金の中で、明らかに不自然な動きがあれば知らせてほしい」
「調査権限のない範囲へは踏み込みません」
「それでいい」
「第三」
ジュリアンの表情が。
さらに真剣になる。
「ローランド公爵へ」
「王家から正式な要請がない限り」
「兵を動かさないよう、改めて伝えてほしい」
シェリィは。
すぐには答えなかった。
父なら。
密書だけで。
十分に理解している。
それでも。
念を押す意味はある。
「承知しました」
「そして第四」
ジュリアンが言う。
「アスタリアを」
「この争いの資金源にも」
「私兵の拠点にも」
「しないでほしい」
シェリィの返答は。
早かった。
「そのつもりはございません」
「分かっている」
「ですが」
シェリィは。
逆に問う。
「私からも」
「条件がございます」
ジュリアンが。
微笑む。
「言ってみろ」
「第一」
シェリィは言った。
「エドワード殿下を、早々に切り捨てないでください」
ジュリアンの表情が止まる。
「理由は?」
「簡単です」
「今、殿下を処分すれば」
「周囲の者が隠れます」
ジュリアンが。
目を細める。
「泳がせろと?」
「監視下に置いた上で」
「はい」
利用できる。
そういう意味ではない。
第二王子の周囲で。
誰が。
誰へ接触するのか。
誰が。
彼の名を使うのか。
それを見なければ。
根は残る。
「第二」
シェリィが続ける。
「処分は」
「証拠が揃ってから」
「それぞれの行為に対して行ってください」
「当然だ」
「でしたら結構です」
「第三は?」
シェリィは。
ほんの少し。
視線を落とした。
「もし」
「武力衝突の可能性が」
「現実的になった場合」
ジュリアンの顔から。
僅かな笑みが消える。
「その時は?」
「公爵領へ」
「準備を認めてください」
「兵を先に出すという意味ではございません」
食料。
医薬品。
荷車。
避難先。
道路。
通信。
「戦う準備だけではなく」
「領民を守る準備を」
ジュリアンは。
しばらく。
シェリィを見ていた。
「もう始めているだろう?」
シェリィが。
一瞬。
目を瞬く。
「食料備蓄」
ジュリアンは言った。
「父上への報告で知った」
「……」
「アスタリアへの融通量を減らせたら、公爵領で備蓄へ回すそうだな」
シェリィは。
小さく息を吐いた。
「国王陛下は」
「何でもご存じなのですね」
「国王だからな」
ジュリアンの声に。
僅かな誇らしさがあった。
「父上は」
「君の考えを止めていない」
シェリィが。
顔を上げる。
「ということは」
「現時点では、適切な危機管理と判断しているということだ」
ジュリアンは。
少しだけ。
表情を柔らかくした。
「私も同じだ」
◇
最後に。
2人は。
最も大切な原則を確認した。
ジュリアンが。
言う。
「これは」
「私を王にするための協力ではない」
「はい」
シェリィが頷く。
「今の国王は」
「アーサー国王陛下です」
「そうだ」
「陛下の治世を守る」
「国民を守る」
「王位継承を」
「誰かの都合で歪めさせない」
ジュリアンが。
ゆっくり頷いた。
「それでいい」
シェリィは。
右手を差し出した。
ジュリアンが。
それを見る。
「握手か?」
「書面には残せませんので」
「随分商人らしくなったな」
「会長ですもの」
ジュリアンも。
手を差し出す。
2人の手が。
静かに重なった。
王太子と。
公爵令嬢。
次代の王と。
その婚約者。
そんな立場のためではない。
1人は。
父王の治世を守るため。
1人は。
国と領民が。
政治の犠牲になることを防ぐため。
そのための。
密約。
だった。
◇
会談を終えたジュリアンは。
そのまま帰らなかった。
「せっかく来たんだ」
そう言って。
熱供給施設を見た。
温室を見た。
仮執務室も見た。
そして。
壁に貼られた。
都市計画の下書きの前で。
立ち止まった。
住宅予定地。
学校予定地。
道路拡張予定線。
熱導幹線。
物流倉庫。
「1万人?」
ジュリアンが。
地図の横に書かれた数字を見る。
シェリィが。
少し嫌そうな顔をした。
「レオンハルト大公殿下が」
「言い出しました」
「可能性はあるな」
「殿下まで?」
「父上へ出す報告書を読めば分かる」
ジュリアンは。
地図を見たまま言う。
「仕事がある」
「食料を増やす」
「熱がある」
「教育を考えている」
「それなら、人は来る」
「……」
「ローランド公爵も喜ぶだろう」
「お父様が?」
「公爵領全体に利益が返る」
ジュリアンは。
指で学校予定地を示す。
「ここで読み書きと算術を教え」
「商会で技術を教える」
「それが成功すれば」
「他の町でも使える」
次に。
食料備蓄の記号。
「アスタリアが自立すれば」
「公爵領が余力を持つ」
「その余力は」
「父上の治世にも役立つ」
シェリィが。
彼を見る。
ジュリアンは。
地図から目を離さない。
「領地が豊かになることと」
「王国が安定することは」
「別々の話ではない」
シェリィは。
小さく微笑んだ。
「本当に」
「お父様によく似たことを仰いますのね」
「師だからな」
「国王陛下ではなく?」
ジュリアンは。
今度こそ笑った。
「父上にも似ていると言え」
◇
ジュリアンが出立する直前。
シェリィは。
1つだけ尋ねた。
「殿下」
「何だ?」
「怖くはございませんか?」
ジュリアンが。
振り返る。
「何が?」
「王家の中で」
「王位をめぐる動きが」
「本当に存在していることが」
ジュリアンは。
少しだけ。
考えた。
そして。
正直に答えた。
「怖くないと言えば嘘になる」
シェリィは。
黙って聞く。
「だが」
「私が怖がっているからといって」
「父上の仕事が減るわけではない」
「民の暮らしが楽になるわけでもない」
「なら」
ジュリアンは。
馬車へ向かう。
「やるべきことをやるだけだ」
その背中を。
シェリィは。
長い間。
見送った。
父アーサー国王へ憧れ。
父ローランドから剣と魔法を学び。
5人の大人たちから愛され。
そして。
自分の行動によって。
その信頼を得た人。
この人なら。
情報を渡せる。
そう思った。
王太子だからではない。
ジュリアンだから。
だった。
◇
星環暦1284年・翔風月≪第4月≫5日――
セレスティア王宮・王太子執務室
王都へ戻ったジュリアンの机には。
3種類の記録が置かれていた。
貴族家の資金移動。
王都周辺の商会による大口取引。
そして。
軍用にも転用可能な物資の購入記録。
まだ。
何かを断定できるほどではない。
だからこそ。
ジュリアンは。
結論を急がない。
「殿下」
側近が。
声を落とした。
「エドワード殿下の周辺で」
「また1人」
「接触した貴族が確認されました」
「名前は?」
側近が。
小さな紙を差し出す。
ジュリアンは。
それを読んだ。
表情は。
変わらない。
「監視だけ続けろ」
「拘束は?」
「まだだ」
「ですが」
「今捕まえれば」
ジュリアンは。
紙を机へ置いた。
「その男しか捕まらない」
側近が黙る。
「父上の国に」
ジュリアンは静かに言った。
「どれだけ根を張っているのか」
「全部見る」
窓の外。
セレスティア王都。
今は。
平穏だった。
市場には。
人がいる。
子供が走る。
パン屋から。
焼きたての香りが漂う。
この景色を。
守るために。
ジュリアンは。
再び。
記録を開いた。
まだ。
剣を抜く時ではない。
だからこそ。
剣を抜かずに済むよう。
今。
見つける。
調べる。
備える。
アスタリアでは。
シェリィが。
熱と食料と人を。
つないでいる。
王都では。
ジュリアンが。
断片的な情報を。
つなぎ始めていた。
まだ。
互いの仕事は。
遠く離れているように見える。
けれど。
向いている先は。
同じだった。
国を壊させない。
その一点だけは。
最初から。
少しも。
違っていなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
第7話では、アスタリアの開発と王都の政治が、初めて明確につながりました。
ジュリアン王太子が守ろうとしているのは、自分の王位ではありません。
今の国王は父アーサー。
その父が国を治めやすくすること。
国民が安心して暮らせるようにすること。
それが、王家に生まれた自分の務めだと考えています。
もしジュリアンが第二王子でも、第三王子でも、その考えは変わりません。
そしてシェリィもまた、エドワード第二王子への復讐のために動いているわけではありません。
本人が行ったことは本人へ。
擁立派が行ったことは擁立派へ。
責任を正しい場所へ届けるため、証拠を集めます。
そのために成立したのが、今回の2人の密約です。
一方アスタリアでは、食料安全保障、人材育成、移住、住宅、教育、都市計画が少しずつ1本につながり始めています。
アスタリアが強くなることは、アスタリアだけの利益ではありません。
公爵領の食料余力を増やし、人材を育て、将来的には王国全体の安定にもつながっていきます。
まだ剣は抜かれていません。
だからこそ。
抜かずに済むように。
シェリィとジュリアンは、それぞれの場所で静かに備え始めました。




