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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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第6話:名を持つ組織と、託される責任

星環暦(せいかんれき)1284年・芽風月(めかぜづき)≪第3月≫25日――

アスタリア・領主館会議室

昨日まで、紙の一番上にはたった4文字しか書かれていなかった。

事業組織。

その下は空白だった。

だが今朝、会議室の大机を囲んでいる人数は、もはや数人ではない。

ヴァルモント公爵領から派遣された会計担当者。設備技師。金属加工職人。

グラン・アルスターから来た魔導研究者と魔導具技師。

アスタリアの農業担当者。商人。宿屋の主人。熱供給設備の運転担当者。

そして、グラン・アルスター大公レオンハルト。

シェリィは、全員が席に着いたのを確認してから立ち上がった。

「本日の議題は、今まで個別に進めてきた事業を、1つの組織としてまとめることです」

魔導原石(まどうげんせき)。

魔導熱媒液(まどうねつばいえき)。

アスタリア中央魔導熱供給所。

《アスタリア魔導熱供給網》――通称、《熱導網(ねつどうもう)》。

温室。

物流。

研究。

保守。

契約。

会計。

そして、少額ながらも始まった熱供給収入。

つい数週間前まで、「寒く、何もない土地」と呼ばれていたアスタリアで、仕事の方が人間より早く増え始めていた。

「誰が何を担当し、どこまで責任を持つのか。それを明確にしなければ、いずれ必ず事故か混乱が起きます」

レオンハルトが、シェリィの横に置かれた紙束へ目をやった。

「それで?」

「はい?」

「昨日は皆で決めると言っていたが」

彼は紙束を指す。

「それは何だ?」

「……組織案ですわ」

「何枚ある?」

シェリィは少しだけ視線を逸らした。

「38枚です」

「皆で決めるとは何だったんだ?」

「案を作らないとは申し上げておりません」

会議室のあちこちから笑いが漏れた。

シェリィは小さく咳払いをする。

「ですから、今日は私の案を押しつけるのではなく、皆様に壊していただきます」

今度は、会計担当者が眉を上げた。

「壊すのですか?」

「はい。現場で動かない組織図など、紙の上でどれほど美しくても意味がございませんもの」

◇

最初に決めたのは、組織名ではなかった。

金だった。

シェリィは3枚の書類を机へ置いた。

「事業を始める以上、誰のお金で始めたのかを曖昧にはいたしません」

1枚目。

シェリィ自身の資金。

王都から持ってきた資金のうち、生活費や領地行政の支出とは明確に分離した、事業用の資金である。

2枚目。

ヴァルモント公爵家からの資金。

ただし、贈与ではない。

貸付。

「お父様からは、必要な創業資金について、公爵家から貸し付けるとの回答をいただいております」

会計担当者が確認する。

「返済条件は?」

「事業が安定するまで元本返済を猶予。ただし帳簿上は、最初から最後まで債務として記録いたします」

宿屋の主人が不思議そうな顔をした。

「親子なのにですか?」

「親子だからこそです」

シェリィは即答した。

「お父様からいただいた資金を、最初から利益扱いしてしまえば、この事業が本当に自力で成り立っているのか分からなくなります」

家族からの援助で生きているだけなのか。

事業そのものが利益を生んでいるのか。

その2つは、まったく違う。

そして3枚目。

商業ギルドからの信用供与。

現金を直接受け取るのではなく、金属、工具、ガラス、一部の食料や消耗品について、支払期限を一定期間猶予してもらう。

「自己資金、公爵家貸付、商業ギルドとの信用取引。この3つを創業時の資金基盤といたします」

レオンハルトが指先で机を軽く叩いた。

「私が入っていないな」

「入りません」

「随分きっぱり言うな」

「大公殿下は共同研究者です」

シェリィは彼を見る。

「ですが同時に、外国の統治者でもいらっしゃいます」

空気が少し引き締まった。

「大公殿下がこの組織の資本を直接持てば、実際に支配しているかどうかに関係なく、外からはそう見える可能性がございます」

「グラン・アルスターの影響下にある、と?」

「はい」

レオンハルトは数秒黙り、やがて笑った。

「正しい」

「怒りませんの?」

「私なら同じ判断をする」

「でしたら助かります」

「ただし研究費は出すぞ」

「共同研究契約として、用途を明記した上でお願いいたします」

「本当に隙がないな」

「褒め言葉として受け取りますわ」

◇

次に扱ったのは、土地と資源だった。

アスタリアは、現在もヴァルモント公爵領の一部である。

商会を作るからといって、アスタリアの土地や地下資源が自動的に商会の所有物になるわけではない。

「土地、鉱床、地下資源そのものは、領地側で管理します」

シェリィは地図を指す。

「魔導原石の調査、研究、住民生活改善のための採取と事業利用については、お父様から必要な範囲の委任をいただきます」

研究者が尋ねた。

「では中央熱供給所は?」

「商会資金で建設した設備については、商会資産として管理します」

熱源炉。

熱交換器。

熱量計。

研究設備。

熱導管。

事業のために取得・建設したものは、事業側の帳簿へ。

道路。

住民登録。

公共施設。

治安。

福祉。

それらは領地行政側。

「面倒ですね」

若い商人が率直に言った。

シェリィは笑った。

「面倒だから、今決めるのです」

事業が巨大になってから、

これは誰の土地か。

誰の金で作ったのか。

誰の収入なのか。

そう揉める方が、遥かに高くつく。

◇

午後。

机の上に5枚の札が並べられた。

最初。

《総務財務部》

「会計、予算、給与、人事、資金繰り、総務を担当します」

次。

《技術研究部》

「魔導原石、魔導熱媒液、熱源炉、熱交換器、魔導熱量計。既存技術の改良と、新技術の研究です」

グラン・アルスターの研究者が頷いた。

「事業運転から研究を切り離すのですね」

「はい。今日の運転に追われて、明日の研究が止まらないように」

3枚目。

《熱供給事業部》

「中央魔導熱供給所の運転、熱導網、魔導熱量計、料金、修繕、緊急復旧、そして《六曜巡回保守制度》の実施を担当します」

設備管理官の顔が引き締まる。

4枚目。

《生産開発部》

農業担当者が首を傾げた。

「農業部ではないのですか?」

「今は温室が中心です」

シェリィは答えた。

「ですが、熱が安定して使えるようになれば、食品加工、乾燥、織物、木材加工、その他の製造業も考えられます」

「今は畑でも、半年後には工房になっているかもしれませんもの」

最後。

《物流商務部》

「資材調達、倉庫、輸送、商業ギルドとの交渉。それから、将来アスタリアで作ったものを外へ売る仕事です」

5枚。

総務財務。

技術研究。

熱供給。

生産開発。

物流商務。

レオンハルトは、それらをしばらく眺めていた。

やがて口を開く。

「シェリィ」

「はい?」

「君たちが今やっていることは、アスタリアだけで終わる仕事ではないぞ」

シェリィが彼を見る。

「寒さに苦しむ土地は、この世界にアスタリアしかないのか?」

「いいえ」

「燃料を十分に確保できない土地は?」

「……ございますわね」

レオンハルトは熱供給事業部の札を指した。

「熱を作るだけなら、似たことを考える者は出るだろう」

「だが君たちは、作った熱を運び、実際の使用量を測り、料金を決め、保守周期を作り、壊れる前に直そうとしている」

さらに技術研究部、生産開発部、物流商務部へ視線を動かす。

「そこまで1つの仕組みにできれば、この仕事を必要とする土地は、いずれ世界のどこかから現れる」

「世界から、ですか?」

「ああ」

レオンハルトは笑う。

「この仕事は、アスタリアだけのために終わる仕事ではない」

シェリィは少し考えた。

それから、冷静に返した。

「ですが、まだアスタリアでさえ完成しておりませんわ」

「だからまず、ここで証明するんだ」

「それなら同意いたします」

レオンハルトは肩をすくめた。

「少しくらい夢を見てもいいと思うがな」

「夢を実証可能な計画にするのが、私の仕事ですもの」

◇

その時。

設備技師が手を挙げた。

「シェリィ様」

「はい」

「安全担当は、熱供給事業部に置くのですか?」

「当初案ではその予定でした」

男は少し迷ったあと、首を横に振った。

「分けた方がいいと思います」

「理由を聞かせてください」

「設備を動かしている側は、どうしても止めたくない時があります」

供給を止めれば住民が困る。

修理をすれば金が掛かる。

忙しければ、点検を後回しにしたくなる。

「今日くらいなら大丈夫だろう」

「もう少し使えるだろう」

「そう思う時が、絶対にないとは言えません」

シェリィは、しばらく黙っていた。

そして、6枚目の札を書く。

《安全監査室》

5つの部門とは離して置いた。

「会長直属とします」

設備技師が顔を上げる。

「熱供給事業部とは指揮系統を分離。危険だと判断すれば、安全監査室は設備停止を要求できるものとします」

レオンハルトが笑う。

「自分の事業を止める部署を、自分で作るのか」

「止めるべき時に止められない組織の方が怖いですわ」

そして7枚目。

《契約法務室》

土地。

資源。

商取引。

共同研究。

外国との契約。

これらを扱う。

こちらも会長直属。

「ただし、創業時から大人数は置きません。公爵家の法務担当者や外部専門家にも協力を求めます」

こうして、

5部門+2直属室

という組織構造が固まった。

◇

次に出された数字を見て。

シェリィは黙った。

創業時に商会へ直接所属する人間。

約50人。

現地採用。

公爵領からの移籍・派遣。

商業ギルド系人材。

それらを合わせた数字である。

グラン・アルスターから来ている研究者の多くは、あくまで共同研究先の人間。

ヴァルモント公爵領からの専門家にも、まだ派遣扱いの者がいる。

関係者全体では100人近い。

だが、直接所属は約50人。

「少ないな」

レオンハルトが言った。

「ええ」

シェリィも否定しなかった。

人口約1,500人。

農業も。

既存商業も。

日常生活も。

維持しなければならない。

そこから新産業へ大量の人間を移せば、別の場所に穴が空く。

「今いる方々に、ただ仕事を重ね続けるだけでは持ちません」

「どうする?」

「まず、人を育てます」

読み書き。

算術。

設備操作。

会計。

農業技術。

魔導具。

今いる住民が新しい仕事を覚えられる仕組みを作る。

「それだけか?」

シェリィは首を横に振った。

「いいえ。それでも足りません」

壁に掛けられたアスタリアの地図へ視線を向ける。

「外から、人を呼び込む必要があります」

会計担当者が顔を上げる。

「移住者を?」

「はい。技師、職人、商人、会計人材、農業技術者。それから、ここで新しい仕事を覚えたい方々も」

だが。

そこでシェリィは、別の帳簿を引き寄せた。

食料搬入記録。

小麦。

豆。

保存肉。

油。

塩。

根菜。

干し魚。

冬を越すため、アスタリアへ運び込まれている物資だった。

ページをめくる。

さらにめくる。

シェリィの表情が変わる。

「……その前に、もう1つございますわね」

「何がだ?」

「食料です」

会議室が静かになる。

「現在のアスタリアは、食べるものの少なくない部分を外部からの搬入に頼っています」

主な供給元は。

ヴァルモント公爵領。

短い農期。

厳しい冬。

不安定な収穫。

人口1,500人程度だからこそ、今まではどうにか支えられていた。

だが。

人口を増やすなら。

必要な食料も増える。

「人を呼んでも」

シェリィは帳簿を閉じた。

「食べさせるものがなければ、町は大きくできません」

農業担当者が尋ねる。

「アスタリアだけで全部作るんですか?」

「いいえ」

シェリィは即答した。

「それも危険です」

「危険?」

「1つの土地で全てを作ろうとすれば、1度の不作で全てを失うこともあります」

彼女は紙へ3つの項目を書く。

地域生産力の向上。

調達先の分散。

備蓄。

「私たちが目指すのは、完全自給ではございません」

「では?」

「食料安全保障を高めます」

聞き慣れない言葉に、何人かが首を傾げた。

シェリィは説明する。

「交易をなくす必要はございません」

「むしろ交易は必要です」

「ですが、交易できなくなったその日に、住民が飢え始める状態は危険です」

地元で作れるものは作る。

温室を使う。

寒冷地でも育てられる作物を研究する。

食品加工。

乾燥。

保存。

倉庫。

さらに、外から買う食料も、可能なら調達先を複数にする。

「1本の道」

「1つの商人」

「1つの領地」

「どれか1つだけに頼り切ってはいけません」

レオンハルトは、シェリィを見る目を少し変えた。

「国家の話をしているみたいだな」

「人が暮らす以上、規模が違うだけで考えることは似ております」

「温室をもっと増やせば」

農業担当者が言う。

「冬にも作れるものは増えます」

「お願いします。ただし作物を1種類に偏らせないでください」

「分かりました」

「収穫量だけではなく、種子の確保、保存期間、病害、必要な熱量も記録してください」

農業担当者が苦笑した。

「また記録ですか」

「もちろんです」

◇

食料の話が終わったあと。

シェリィはもう1枚。

誰にも見せるつもりのない紙を自分の前へ引き寄せた。

ヴァルモント公爵家へ送る、私信の下書きだった。

アスタリアの食料生産が増えれば。

公爵領から送ってもらう量を減らせる。

その時。

浮いた食料を。

単純に売却へ回すだけではない。

一部を、備蓄へ。

シェリィは筆を止めた。

卒業記念パーティー。

エドワード第二王子。

その背後に存在する。

第二王子擁立派。

ジュリアン王太子が父アーサー国王から王位を奪おうとする人間でないことを、シェリィは知っている。

幼い頃から。

知っている。

ジュリアンが憧れていたのは王冠ではない。

父王だった。

国のために働くアーサー国王の背中だった。

そして。

シェリィの父ローランドは。

そんな幼いジュリアンへ剣と魔法を教えていた。

力は。

王になるためのものではない。

守るためのものだと。

ジュリアンは、それを行動で示し続けてきた。

アーサー国王。

エレノア王妃。

ローランド公爵。

マーガレット。

そして。

アストリッド大后陛下。

シェリィがこの5人から深く愛されて育ったように。

ジュリアンもまた。

同じ5人の愛情の中で育った。

ただし。

愛されていることと。

信頼されていることは違う。

とりわけ。

アストリッド大后陛下からの信頼は。

王族であっても。

決して当然ではない。

ジュリアンは。

日々の行動によって。

それを得た。

だからこそ。

シェリィは知っている。

ジュリアンが、父王の治世を乱す側に回ることはない。

だが。

だからといって。

他の者も同じとは限らない。

王位継承を歪めようとする者がいるなら。

政治的混乱。

街道遮断。

物流停滞。

場合によっては。

武力衝突。

そこまで考える必要がある。

望むことと。

備えることは。

違う。

シェリィは、私信へ書き加えた。

アスタリアへの恒常的な食料融通量を減らせるようになった場合、余剰分の一部を公爵領内で備蓄へ振り分けることをご検討ください。

使わずに済めば。

それが一番いい。

だが。

食料は。

必要になってから育てても。

間に合わない。

王家が必要とした時。

領民が必要とした時。

父ローランドが。

食料を持っている。

そのこと自体が。

剣とは違う形の備えになる。

◇

翌朝。

別の問題が見つかった。

熱導網の点検札を各施設へ配っていた時だった。

若い作業員の1人が、札を受け取ったまま動かなかった。

「どうしました?」

シェリィが声を掛ける。

男は気まずそうに頭をかいた。

「……すみません」

「何がです?」

「これ」

札を見る。

次回重点点検――風曜。

次回詳細点検――第5風曜。

「俺、全部は読めなくて」

シェリィの表情が止まった。

読み書きに不慣れな住民がいることは。

すでに知っていた。

だが。

熱導網が広がるにつれて。

その意味が変わってきた。

警告。

点検日。

弁の操作。

異常時の手順。

契約書。

給与明細。

熱料金。

読み書きができないということは。

教育だけの問題ではない。

安全の問題でもある。

「こちらこそ、ごめんなさい」

シェリィが言った。

男が驚く。

「え?」

「読めない方がいると分かっていたのに」

「読める前提で作ってしまいました」

その日のうちに。

札には文字だけでなく。

曜日ごとの印。

区域ごとの記号。

簡単な図。

それらを加えることになった。

しかし。

それだけで終わらせるつもりはなかった。

◇

再び会議室。

壁の地図へ。

新しい紙が貼られる。

住宅。

教育。

「人を呼ぶなら」

シェリィが言った。

「仕事だけ用意しても来ていただけません」

「家が必要です」

「店も必要です」

「診療を受けられる場所も」

「家族で移住するなら、子供が学べる場所も必要です」

会計担当者が目を丸くした。

「商会設立の会議だったはずですが」

「私もそう思っておりました」

「町の話になっています」

「人を雇うということは」

シェリィは答えた。

「その人の労働時間だけを買うという意味ではございませんもの」

人は。

仕事が終われば。

消えるわけではない。

食べる。

寝る。

病気になる。

結婚する。

子供を育てる。

老いる。

「移住していただくなら」

「生活を受け入れる必要があります」

そこで。

教育については。

明確に線を引いた。

「学校そのものは、商会事業にはいたしません」

「では?」

「領地行政側で考えます」

読み書き。

算術。

歴史。

基礎的な知識。

子供の教育。

そして。

必要なら成人向けの読み書きや算術の講習も。

それは公共の役割。

一方。

商会は。

設備保守。

魔導具操作。

会計実務。

農業技術。

加工技術。

そうした職業訓練を担当する。

「基礎教育と職業教育を分けるのですね」

「はい」

「ですが、つなげます」

学校で文字と数字を覚える。

その先で。

商会の技術を学べる。

さらに。

アスタリアで仕組みが確立すれば。

将来。

ヴァルモント公爵領の他地域でも。

同じ教育方法を使える。

人材が育つ。

技術者が増える。

会計のできる者が増える。

文字を読める領民が増える。

アスタリアだけではない。

公爵領全体へ。

利益が返る。

レオンハルトは。

いつの間にか。

壁一面になった地図を見ていた。

熱導網。

中央熱供給所。

温室予定地。

倉庫。

住宅予定地。

道路の拡張余地。

学校予定地。

シェリィが気づく。

「どうされました?」

「いや」

レオンハルトは。

少し呆れたように笑った。

「シェリィ」

「はい?」

「君はまだ、ここを1,500人の町として考えているのか?」

「現在は約1,500人ですから」

「今はな」

彼は地図を指す。

「仕事ができる」

「熱がある」

「食料を増やそうとしている」

「家を建てる」

「学校を作る」

「技術も学べる」

「そこまで揃えば、人は来るぞ」

シェリィは黙った。

レオンハルトは続ける。

「いずれここは」

地図全体を見る。

「1万人が暮らす都市になるかもしれない」

会議室が静まり返った。

アスタリアの住民。

約1,500人。

それが。

1万人。

農業担当者が。

目を丸くする。

宿屋の主人は。

口を開けたままだ。

シェリィも。

さすがに数秒。

黙っていた。

そして。

地図へ目を戻す。

「……でしたら」

レオンハルトが笑いそうになる。

「でしたら?」

シェリィは。

道路の線を指した。

「今のうちに」

「道路と熱導幹線を拡張できる余地を確保しておかなければなりませんわね」

レオンハルトが。

本当に笑った。

「普通は驚くところだぞ」

「驚いております」

「全くそう見えない」

「1万人になる可能性があると分かった以上」

「今の1,500人だけを前提に造って、後から全部掘り返す方が困りますもの」

「君は夢がないな」

「計画にはございます」

◇

組織構造。

資金。

人材。

食料。

住宅。

教育。

都市計画。

話し合うほど。

必要なものが増えた。

だが。

それは。

悪いことではない。

問題が見える。

ということは。

対処できる。

ということでもある。

そして。

最後に残った議題。

名前。

商人が言う。

「北方総合商会」

シェリィは少し考える。

「将来、北方以外へ出たら困りますわね」

研究者。

「魔導熱開発商会」

農業担当者が首を横に振る。

「それでは畑が入っていません」

別の者。

「極寒開発商会」

「嫌ですわ」

シェリィが即答した。

「なぜです?」

「住んでいる土地を、毎日『極寒』と呼びたい方がどれほどいらっしゃいます?」

笑いが起きる。

いくつか。

候補が出る。

だが。

どれも。

しっくりこない。

その時。

会議の端に座っていた。

年配の職人が。

ぽつりと言った。

「そのままでいいんじゃないですか」

「そのまま?」

「アスタリアです」

全員が。

彼を見る。

男は帽子を膝に置いたまま。

少し緊張して続けた。

「前は」

「アスタリアって言えば」

「寒い」

「何もない」

「行くところじゃない」

「そんなふうに言われてました」

窓の向こう。

まだ雪が残る町を見る。

「だったら」

「いつか」

「アスタリアって聞いたら」

「仕事がある」

「暖かい」

「面白いものを作る」

「そう思われるようにすればいいんじゃないですか」

シェリィは。

何も言わなかった。

アスタリア。

土地の名。

人々の名。

これから。

ここで作るもの。

それなら。

余計な飾りは。

いらない。

宿屋の主人が言った。

「でも」

「ただの商会っていうのも」

「少し小さいですな」

誰かが笑う。

「だったら大商会で」

また。

笑い。

だが。

シェリィは。

笑わなかった。

大商会。

今は。

直属50人ほど。

人口約1,500人。

小さな辺境。

確かに。

名前だけなら。

大きすぎる。

だが。

先ほど。

1万人の話を。

したばかりだ。

「……いいですね」

シェリィが言った。

筆を取る。

昨日から。

空白だった紙の一番上へ。

ゆっくり。

文字を書く。

《アスタリア大商会》

「これで」

シェリィは皆を見る。

「いかがでしょう?」

最初に。

職人が頷く。

農業担当者。

宿屋の主人。

技師。

研究者。

商人。

会計担当者。

次々と。

賛同する。

レオンハルトが。

最後に笑った。

「随分大きな名前を付けたな」

シェリィも。

今度は。

少しだけ笑った。

「名前くらい」

「未来の大きさに合わせてもよろしいのではなくて?」

◇

同じ日。

役職も決められた。

会長。

シェリィ・ヴァルモント。

その下に。

総務財務部。

技術研究部。

熱供給事業部。

生産開発部。

物流商務部。

そして。

会長直属。

安全監査室。

契約法務室。

創業時は。

各部門に大量の人員を置けない。

兼任を認める。

会計担当者が契約事務を補助する。

研究者が現場試験にも入る。

職人が建設と保守を兼ねる。

しかし。

責任まで。

曖昧にはしない。

「組織図を描いたからといって」

シェリィが言う。

「人まで突然増えるわけではございませんもの」

そして。

会長の名前を見た農業担当者が。

恐る恐る聞いた。

「シェリィ様」

「はい?」

「会長って」

「やっぱり」

「シェリィ様ですよね?」

「……」

全員。

シェリィを見る。

数秒。

沈黙。

「……そうなりますわね」

レオンハルトが吹き出した。

「今さら気づいたのか?」

「予想はしておりました」

「嫌そうだな」

「嫌ではございません」

シェリィは。

少しだけ。

困ったように笑う。

「責任が増えるなと」

宿屋の主人が笑った。

「今までも同じでしょう」

「違います」

「何が?」

「これからは」

シェリィは。

5つの部門を見る。

「責任を」

「私だけが持つのではございません」

部門には。

部門の責任者。

現場には。

現場の判断。

研究には。

研究者の責任。

安全には。

安全監査。

「私は」

シェリィは言った。

「皆様の仕事を奪うために会長になるのではありません」

「皆様に仕事を任せられるようにするために」

「会長になります」

その言葉に。

レオンハルトだけが。

僅かに目を細めた。

◇

星環暦(せいかんれき)1284年・芽風月(めかぜづき)≪第3月≫26日――

アスタリア・旧集会所

豪華な創業式は。

行わなかった。

そんな金があるなら。

熱導管を伸ばす。

温室を増やす。

住宅を整える。

そう決めた。

だから。

住民向けの説明会だけを開いた。

壁には。

新しく書かれた組織図。

アスタリア大商会

会長 シェリィ・ヴァルモント

その下。

5部門。

2直属室。

「本日より」

シェリィは。

集まった住民へ話す。

「これまで個別に進めてきた」

「研究」

「熱供給」

「温室」

「物流」

「商取引」

「これらを」

「アスタリア大商会で管理します」

住民の間に。

小さなざわめき。

「ですが」

シェリィは続けた。

「商会が」

「アスタリアそのものになるわけではございません」

「領地行政と」

「商会は」

「別です」

熱供給の収入を。

勝手に他の行政事業へ回さない。

反対に。

行政資金を。

商会の損失補填へ無制限に使わない。

学校を作るとしても。

基礎教育は。

領地行政。

商会は。

職業訓練。

「そして」

シェリィは。

住民たちを見る。

「商会が何かを決めたからといって」

「皆様が何も言えないわけではございません」

宿屋の主人の疑問から。

家庭用と商業用の熱量計を分ける制度が生まれた。

農業担当者の言葉から。

劣化した魔導原石の再利用が始まった。

職人が。

配管の弱点を見つけた。

研究者が。

魔導熱媒液の異常に気づいた。

「私たちが見つけられないことを」

「皆様が見つけることもございます」

「不便なら」

「言ってください」

「危険だと思えば」

「報告してください」

「分からなければ」

「聞いてください」

小さな町だからこそ。

まだ。

できる。

声が。

届く。

◇

説明会が終わったあと。

若い男が1人。

シェリィを呼び止めた。

「シェリィ様」

「はい」

「商会って」

「人を雇うんですよね?」

「もちろんです」

男は。

少し迷ったあと。

言った。

「俺」

「冬になると」

「毎年、南へ働きに行ってたんです」

シェリィが。

表情を変える。

アスタリアでは。

冬になると。

仕事そのものが減る。

農作業。

運搬。

工事。

様々なものが止まる。

収入が減るのに。

燃料代と食料代は増える。

だから。

若い者の中には。

冬だけ南へ出稼ぎに行く者もいた。

「今年も行く予定でした」

男は。

遠く。

熱導管の工事現場を見る。

「でも」

「ここで仕事があるなら」

少し。

照れくさそうに笑う。

「行かなくていいかもしれない」

「家族は?」

「母と妹がいます」

シェリィは。

静かに頷いた。

「でしたら」

「採用面接を受けてくださいませ」

男が目を丸くする。

「え?」

「働きたいと言われただけで」

「即採用はいたしません」

「そこは厳しいんですね」

「もちろんです」

男は。

笑った。

「受けます」

「お待ちしております」

仕事を。

与える。

ではない。

仕事を。

作る。

能力を。

学べるようにする。

働いた対価を。

払う。

そして。

冬でも。

経済を。

止めない。

その積み重ねが。

人口流出を減らす。

その先に。

外から来る人を。

迎え入れる。

◇

星環暦(せいかんれき)1284年・芽風月(めかぜづき)≪第3月≫27日――

アスタリア大商会・仮執務室

本部と呼ぶには。

まだ。

あまりにも小さな部屋だった。

領主館の一角。

机。

椅子。

棚。

扉には。

新しく作った札。

アスタリア大商会

その下。

会長室

シェリィは。

しばらく。

その文字を見ていた。

侍女が後ろから尋ねる。

「お入りにならないのですか?」

「……少し」

「恥ずかしいですわね」

「なぜでしょう?」

「大商会と書いてあるのに」

シェリィが扉を開く。

中は。

昨日までと。

ほぼ同じ。

「完全に名前負けしております」

侍女が笑う。

「そのうち大きくなりますわ」

「それはそれで」

シェリィは。

机の上を見る。

大量の書類。

「……仕事が増えそうですわね」

侍女が。

肩を震わせる。

「今、笑いました?」

「いいえ」

「笑いましたわね?」

「いいえ、お嬢様」

シェリィは。

書類の山を見る。

以前なら。

自分で全部読んだ。

全部確認した。

全部判断しようとした。

だが。

もう。

それではいけない。

「この束は」

シェリィが半分ほどを持ち上げる。

「総務財務部へ」

「こちらは?」

「物流商務部」

「こちらは技術研究部へお願いします」

侍女が。

少し驚く。

「お嬢様がご覧にならなくても?」

「必要なものだけ」

「上げてもらいます」

最初の仕事は。

仕事を。

手放すことだった。

◇

シェリィは。

新しい紙を取り出す。

今後。

毎週。

光曜の朝。

5部門と。

安全監査室。

契約法務室。

各責任者が集まる。

部門長会議。

そして。

一番上に。

最初の会議規則を書く。

成功報告より先に、失敗・事故・苦情・予算超過を報告すること。

いつの間にか。

レオンハルトが。

扉のところに立っていた。

「随分嫌な会議だな」

「そうでしょうか?」

「普通は」

「良い報告から聞きたいものだろう」

「だからです」

シェリィは答える。

「良い報告は」

「黙っていても上がってきます」

「悪い報告ほど」

「人は隠したくなる」

「事故を隠したら?」

「事故そのものより」

「重く扱う場合があります」

レオンハルトの表情が少し真剣になる。

「そこまで?」

「失敗は」

「改善できます」

シェリィは。

静かに言った。

「ですが」

「隠された失敗からは」

「何も学べません」

魔導原石の研究を始めた頃。

成功した結果だけを。

残してはいけない。

期待した結果が出なかった試験も。

失敗した条件も。

想定と違う変化が起きた記録も。

残す。

それが。

次の改善につながる。

その考えは。

研究室でも。

商会でも。

変わらない。

レオンハルトが。

壁の札を見る。

「アスタリア大商会」

「はい」

「本当に1万人になると思うか?」

シェリィは。

窓の外を見る。

雪の残る土地。

熱導管を敷く職人。

温室の中で。

育ち始めた作物。

中央熱供給所の予定地。

まだ。

何も建っていない住宅予定地。

学校予定地として。

地図上に印を付けただけの場所。

現在。

約1,500人。

直属。

約50人。

小さな売上。

小さな商会。

「分かりません」

シェリィは答えた。

レオンハルトが。

少し意外そうな顔をする。

シェリィは。

続ける。

「ですから」

「1万人になっても困らないように」

「今から考えておきます」

レオンハルトは。

しばらく。

彼女を見る。

そして。

笑った。

「やはり君らしい」

シェリィも。

ほんの少し。

笑った。

机の上には。

新しく作られた印章。

そこに刻まれた文字。

アスタリア大商会。

シェリィは。

最初の正式な事業契約書を。

確認する。

内容を読む。

担当者の署名を確認する。

そして。

印章を押した。

小さな音が。

仮執務室に響く。

まだ。

世界は。

その名前を知らない。

けれど。

アスタリアには。

今日。

人が。

技術が。

金が。

責任が。

そして。

未来へ向かう仕組みが。

初めて。

1つの名前の下に集まった。

【第6話改稿について】

後書き

最後までお読みいただき、ありがとうございます。

第6話で、ついに**《アスタリア大商会》**が正式に誕生しました。

ただし、最初から巨大企業ではありません。

人口約1,500人。

商会直属の人員は約50人。

公爵領、商業ギルド、グラン・アルスターからの派遣・共同研究人材を合わせても、まだ小さな組織です。

創業時の組織は、

総務財務部

技術研究部

熱供給事業部

生産開発部

物流商務部

そして会長直属の、

安全監査室

契約法務室

という構成になりました。

今回、もう1つ大きく動き始めたのが、アスタリアの人口と都市計画です。

仕事が増えれば、人が必要になる。

人を呼ぶなら、食料が必要になる。

食料は「完全自給」を目指すのではなく、

地域生産力を高めること。

調達先を分散すること。

備蓄すること。

この3つを組み合わせて、食料安全保障を高める方針になりました。

そして人が暮らすには、仕事だけでは足りません。

住宅。

医療。

商店。

教育。

文字が読めなければ、契約だけでなく、設備の警告や点検表示さえ理解できない。

そこで、領地行政による基礎教育と、商会による職業訓練という2つの教育構想も生まれ始めています。

レオンハルトが口にした、

「いずれここは1万人が暮らす都市になる」

という未来。

シェリィはまだ、それを確定した未来だとは考えていません。

だからこそ。

本当にそうなった時に困らないよう、今から道路、熱導網、食料、住宅、教育を考え始めます。

小さな辺境だったアスタリアは、少しずつ「町を維持する」段階から、「都市を設計する」段階へ進み始めました。

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