第61話:実証区画から、都市(まち)造りが始まる
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫4日・水曜――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》。
早朝、一晩の休息を終えた大后陛下の勅使が王都セレスティアへ戻る支度を整えていた。
十分に休ませた馬にも水と飼葉が与えられ、長い帰路へ耐えられる状態であることが確認されている。
シェリィは自ら書いた返書を持って勅使の前へ進み、公爵令嬢として正式に姿勢を正した。
「恐れ入りますが、こちらを大后陛下へお渡しいただけますでしょうか」
王国兵は両手で封書を受け取った。
「確かにお預かりいたします」
「道中、どうかお気をつけて」
シェリィがカーテシーを行うと、王国兵も深く一礼し、やがて馬を走らせて王都へ続く街道を進んでいった。
その姿が見えなくなるまで見送ってから、シェリィは静かに息を吐いた。
祖母へ送った返書のことを考えていられる時間は、ここまでだった。
今日は、試作熱伝導第1系統へ実際に熱を流す。
研究室の試験台ではなく、街の地下を通り、実際の建物へ熱を届ける最初の日だった。
◇
同日午前――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・熱源設備管理区画。
安全監査室長ヘルマン・ヴェーバーは、運転開始前の最終確認を自ら指揮していた。
確認対象は熱源設備だけではなく、熱源設備側遮断装置・地下途中遮断装置・建物入口遮断装置・供給管・戻り管・接続部・曲部・温度測定設備・魔導通信設備・緊急停止系統・保守動線まで含まれている。
前日に設計変更した、異なる素材同士の熱膨張差を逃がす接続構造についても、固定状態と交換可能性が改めて確認された。
「地下途中遮断」
「作動確認済みです」
「建物入口側」
「作動します」
「熱膨張吸収部は」
「規定範囲内です。交換作業用の空間も確保しています」
ヘルマンは報告だけでは済ませず、自ら現場へ入り、接続部を目視で確認した。
試験を始めた後に何かが起きれば、停止する。
異常箇所だけを切り離す。
人が入って確認する。
必要なら交換する。
その一連の作業が、図面上ではなく実際にできるかを見るためだった。
全項目の確認を終えたヘルマンは、記録板へ最後の確認を書き込んだ。
「安全監査室として、試作熱伝導第1系統の運転試験を許可します」
シェリィは黙って頷いた。
この判断を待たずに自分の命令で熱を流すことはできないし、するつもりもない。
安全監査室が停止と判断すれば、会長である自分にも覆す権限はない。
それは、新しい技術を安全に育てるために最初から決めていた原則だった。
「では、低出力からお願いします」
◇
同日午前――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・試作熱伝導第1系統。
熱源設備から、ごく低い出力で熱が送られ始めた。
いきなり最大出力にはしない。
熱は熱源設備を出て、地下共同設備空間へ入り、中間遮断地点を通過し、複数の接続部と曲部を抜け、試験用建物入口へ向かう。
各地点の測定担当者から、魔導通信で順番に報告が入った。
「熱源側、温度上昇を確認」
「地下第1測定点、上昇しています」
「中間遮断地点、通過を確認」
「接続部、異常なし」
「曲部、温度上昇。変形ありません」
「建物入口、到達を確認しました」
最後の報告だけが、少し遅れた。
室内にいた全員が、魔導通信器へ視線を向ける。
やがて試験用建物側から声が届いた。
「届きました」
その瞬間だけ、管理室の空気が変わった。
研究室の数メートルではない。
熱源設備から街の地下を通り、実際の建物まで熱が届いた。
シェリィは嬉しさを感じながらも、すぐに記録板へ視線を落とした。
「届いたことと、使い続けられることは別です。接続部と戻り側も確認を続けてください」
「承知しました」
熱が届くことは、ようやく最初の条件を満たしたにすぎない。
これを何時間、何日、何か月と使えるのかは、まだ誰にも分からなかった。
◇
同日午前から昼――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・試験用建物。
建物内部の熱交換設備が動き始めると、室内の温度が少しずつ上昇した。
シェリィも試験用建物へ入り、手袋を外して室内の空気を確かめた。
外気の冷たさを感じていた指先に、柔らかな温もりが戻ってくる。
「……暖かいですね」
思わず漏れた言葉に、近くにいた技術者が僅かに笑った。
魔石から熱を作る。
その熱を離れた場所へ送る。
そして、建物の中で人が暖かいと感じる。
それまで別々だった技術が、ようやく一つにつながった瞬間だった。
しかし、測定結果を確認すると、すぐに次の問題が見えてきた。
同じ建物の中でも、熱交換設備に近い部屋と離れた部屋で温度差がある。
窓際と廊下側でも違いが生じていた。
「中央の部屋は上がっていますが、奥側は遅いですね」
エルマー・ザイデル(アスタリア大商会・技術研究部長)が記録を確認する。
ケストラー魔導機器商会側からも、流量調整と各室の温度検出を組み合わせる必要があるとの意見が出た。
シェリィは建物内の温度分布図を見つめた。
これまでは、熱を運ぶことが課題だった。
これからは違う。
「必要な場所へ、必要なだけ熱を配れるようにしなければなりませんね」
エルマーが頷いた。
「建物側で流量を調整する制御が必要になります」
熱が届けば終わりではない。
人が暮らす都市では、同じ建物の中でさえ必要な熱量は違う。
技術は、また一段階先へ進んだ。
◇
同日昼――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・試験用建物設備室。
試作系統には、研究用として開発してきた魔導熱量計も接続されていた。
供給側の温度と戻り側の温度、そして流量を測り、その差から実際に建物で使用された熱量を積算する。
低出力の状態で記録した後、熱源出力を段階的に変化させると、積算値もそれに応じて増加した。
一度系統を停止すると、積算も止まる。
再び起動しても、それまでの記録は失われず、前の積算値から新しい使用量が追加された。
エルマーは複数回記録を確認した。
「少なくとも実証設備として使える段階には入っています」
シェリィは頷いたが、都市全域へ導入する話には進まなかった。
1棟で測れたからといって、数百棟、数千棟で同じ精度を維持できるとは限らない。
量産性や校正方法、長期使用時の誤差も確認する必要がある。
ただ、研究室の試作品から、実際の建物で使用量を測れる設備へ進んだことは確かだった。
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・設備管理室。
魔導熱量計から送られてくる計測情報を見ていたエルマーが、突然記録板から顔を上げた。
「これは……熱だけである必要があるのでしょうか」
シェリィが振り向いた。
「どういう意味ですか?」
エルマーは魔導熱量計と受信装置を示した。
「熱なら、供給温度・戻り温度・流量から使用熱量を測ります。ですが上水なら水量を測ればいい。将来、魔力動力を各施設へ供給するなら、使用した魔力量を測ればいい」
エルマーは続けた。
「測る対象は違いますが、計測し、魔導通信で送り、1か所へ集め、契約者ごとに記録するという仕組みは同じではないでしょうか」
シェリィは一瞬、言葉を止めた。
熱、水、魔力。
別々の設備として考えていたものが、計量という視点では一つにつながる。
「同じ場所で管理できる可能性がありますね」
「はい。計測器自体は用途ごとに必要ですが、受信と記録の仕組みは共通化できるはずです」
シェリィは頷いた。
「実証区画で試しましょう」
その場で新しい構想が決まった。
名称は《アスタリア都市基盤計量管理所》。
将来的には、熱使用量・上水使用量・魔力動力使用量を魔導通信で受信し、契約者ごとに記録・集計して料金算定につなげる施設とする。
ただし、最初から完全自動化はしない。
魔導通信で送られてくる計量値と、現地で人間が直接確認した計量値を照合する二重確認方式から始める。
十分な精度と安定性が確認できてから、人が各家庭を回る検針業務を段階的に減らしていく。
家庭用の熱料金については、既に決めていた銀貨建ての従量制を維持する。
1単位当たりの正式料金は、実証データが揃ってから決める。
安すぎても設備を維持できない。
高すぎれば、住民が使えない。
制度も設備と同じく、数字を見て決めなければならなかった。
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・地下共同設備空間。
一行が地下共同設備空間を歩くと、すでに設置された熱供給管と戻り管、魔導通信設備の横に、まだ何も置かれていない複数の区画が残されていた。
「ここは上水用です」
グローヴァー建設商会の担当者が説明する。
少し離れた区画を指す。
「こちらが下水用、その先が将来の魔力動力供給設備用に確保してあります」
シェリィは足を止めた。
最初に地下共同設備空間を計画した時点で、将来の設備を追加する余地は残していた。
だが、上下水道の本管工事はまだ始まっていない。
水を送る場所は作れても、肝心の水をどこから持ってくるのかが決まっていなかった。
アスタリアには井戸もある。
湧水もある。
山岳部には大量の雪が積もり、春から夏にかけてゆっくり融ける。
その一部が地中へ染み込んでいることも昔から知られていた。
しかし、シェリィはそこで立ち止まった。
「地下水があることと、地下水の流れを理解していることは違います」
周囲の者たちが彼女を見る。
「どこに帯水層があり、どちらへ流れ、どこから補給されているのかが分からなければ、井戸をどこへ掘るべきかも、使った水をどこへ戻せばよいのかも判断できません」
水を取るだけなら、井戸を掘ればいい。
都市を何十年、何百年と維持するなら、それでは足りない。
「アスタリアの地下水系統そのものを調べましょう」
その日の夕刻、地下水調査の正式準備が始まった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫5日・土曜――
アスタリア大商会技術研究部・地下水調査合同会議室。
《アスタリア地下水合同調査隊》が正式に始動した。
総勢64名。
現地調査班8班、各7名で56名。
そして、現場から集められる記録を統合する中央集約班8名。
中央集約班の指揮を執るのは、エルマー・ザイデル(45歳・中央集約班長/アスタリア大商会・技術研究部長)であり、8班の魔法探査・試掘・揚水試験・水質検査を重ね合わせ、《第1次地下水系統図》の技術判断を担う。
レオナルト・ケストラー(38歳・魔導計測統括/ケストラー魔導機器商会アスタリア支部技術責任者)は、魔導士ごとの感覚差を抑えるため、探査補助器具と測定基準を統一する。
フェリクス・ベルナート(36歳・地質・試料分析統括/ベルナート精製素材商会アスタリア支部技術責任者)は、試掘から得られる土砂・岩石・鉱物・地下層試料を分類する。
マリア・ベルク(34歳・水質分析主任/ベルナート精製素材商会・品質管理担当)は、地下水の飲用可能性・濁り・鉱物混入・腐食性を確認する。
アントン・ケラー(33歳・魔導計測機器主任/ケストラー魔導機器商会・魔導機器技術者)は、探査機器の校正と8班間の測定誤差確認を担当する。
ヘルマン・フォーク(39歳・揚水・取水設備主任/グローヴァー建設商会・設備施工担当)は、試掘井戸・揚水試験・仮設配管・将来の取水井戸を施工面から評価する。
ヨハンナ・ハインデル(39歳・記録・地図統合主任/ハインデル商業印刷・紙工商会アスタリア支部責任者)は、各班から届く座標・試掘記録・採水記録・地図を共通書式へ統合する。
そしてヘルマン・ヴェーバー(52歳・安全監査責任者/アスタリア大商会・安全監査室長)は、崩落・急激な湧水・地盤沈下・試掘事故を監視し、危険と判断すればエルマーやシェリィの意向に関係なく調査を停止する権限を持つ。
現地8班も、それぞれの重点区域へ向かう準備を整えていた。
第1班・山岳北部調査班の班長は、トーマス・シュナイダー(29歳・班長/測量・建設技術者/グローヴァー建設商会)であり、急斜面での測量と試掘位置決定を担う。
同班には、ディーター・ファルク(44歳・土属性魔導士/岩盤探査主任)、クララ・シュタインメッツ(36歳・土属性魔導士/地層探査担当)、エリアス・ブルンナー(41歳・水属性魔導士/地下水脈探査主任)、ノーラ・ヴァイデル(33歳・水属性魔導士/湧水探査担当)、ゲルハルト・ノル(47歳・井戸掘削・地質確認担当)、クララ・ノイマン(34歳・記録・地図作成担当)が配置された。
第2班・山岳南部調査班は、エーリヒ・ヴァイス(38歳・班長/土木技術主任)が率い、クルト・ハイデン(42歳・土属性魔導士主任)、アンネリーゼ・ドルン(35歳・土属性魔導士)、レオンハルト・ブレヒト(39歳・水属性魔導士主任)、ミリアム・アウアー(31歳・水属性魔導士)、アグネス・ロイター(40歳・井戸掘削・地質確認担当)、エミール・ハルトマン(36歳・記録・地図担当)が加わった。
第3班・山麓北部調査班は、ハンス・ベルガー(46歳・班長/グローヴァー建設商会・建築技術主任)が率い、オスカー・フェルトマン(40歳・土属性魔導士主任)、マルタ・アイゼン(34歳・土属性魔導士)、トビアス・クヴェル(37歳・水属性魔導士主任)、エリーゼ・ブラント(29歳・水属性魔導士)、ヴィルヘルム・ケルン(45歳・井戸掘削・地質担当)、リーゼロッテ・ベルク(31歳・記録・地図担当)が配置された。
第4班・山麓南部調査班は、フリードリヒ・ケラー(45歳・班長/グローヴァー建設商会・建築技術者)が率い、ハインリヒ・タールベルク(46歳・土属性魔導士主任)、ソフィア・クルーガー(35歳・土属性魔導士)、ユリアン・シュトローマー(38歳・水属性魔導士主任)、フリーダ・アウエン(32歳・水属性魔導士)、パウラ・エッシェン(37歳・井戸掘削・地質担当)、ヨーゼフ・クランツ(38歳・記録・地図担当)が参加した。
第5班・農業区域東部調査班は、ルドルフ・マイヤー(37歳・班長/建築技術者)が率い、アントン・エルドナー(43歳・土属性魔導士主任)、リナ・グルーバー(30歳・土属性魔導士)、マティアス・レーン(40歳・水属性魔導士主任)、アンナ・ヴェラー(34歳・水属性魔導士)、オットー・グリュンヴァルト(43歳・井戸掘削・地質担当)、マルタ・レーヴェ(33歳・記録・地図担当)が配置された。
第6班・農業区域西部調査班は、マティアス・シュルツ(41歳・班長/グローヴァー建設商会・設備技術主任)が率い、ローラント・シュタイナー(41歳・土属性魔導士主任)、クララ・フェルト(37歳・土属性魔導士)、ヴィクトル・ボルン(36歳・水属性魔導士主任)、エミリア・フルス(28歳・水属性魔導士)、マルタ・ディーツ(39歳・井戸掘削・地質担当)、フェリクス・アルノルト(29歳・記録・地図担当)が参加した。
第7班・実証区画周辺調査班は、クラウス・ホフマン(35歳・班長/工程技術主任)が率い、ブルーノ・クラム(39歳・土属性魔導士主任)、イレーネ・シュタインバッハ(35歳・土属性魔導士)、マルクス・タウバー(42歳・水属性魔導士主任)、レア・クヴェレン(30歳・水属性魔導士)、エルンスト・アルブレヒト(41歳・井戸掘削・地質担当)、イレーネ・ショル(41歳・記録・地図担当)が配置された。
第8班・既存市街地周辺調査班は、ブルーノ・シュタイン(48歳・班長/グローヴァー建設商会・設備施工主任)が率い、シュテファン・マウラー(45歳・土属性魔導士主任)、ヨハンナ・グルント(33歳・土属性魔導士)、ゲオルク・ブレーマー(43歳・水属性魔導士主任)、ミーナ・バッハマン(31歳・水属性魔導士)、ニーナ・ファルケン(35歳・井戸掘削・地質担当)、パウル・ヴェルナー(35歳・記録・地図担当)が参加した。
これで64名全員が揃った。
シェリィは出発前の全員を見渡した。
「今回は、魔法で水を探して終わりではありません」
土属性魔導士と水属性魔導士たちが静かに耳を傾ける。
「魔法で探し、測量し、必要なら掘り、実際に水を確認し、取水した時にどう変わるかまで調べてください。1人の感覚だけで決めないでください」
各班では、土属性魔導士2名、水属性魔導士2名が、それぞれ別々に測定した後で結果を照合する。
そして最終判断は、測量・地質・試掘結果も含めて行う。
調査隊は8つの方向へ分かれて出発した。
山岳北部。
山岳南部。
山麓北部。
山麓南部。
農業区域東部。
農業区域西部。
実証区画周辺。
既存市街地周辺。
これはアスタリア全土を永久に8区域へ分割するためではない。
都市と農業、水道整備を進めるために、まず優先して調べる8区域だった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫6日・闇曜――
アスタリア各地・地下水第1次重点調査区域。
土属性魔導士たちは、地表の下にある地層・岩盤・砂礫層・粘土層・岩盤亀裂・地下空洞を探り、水を通しやすい層と通しにくい層を分けて記録していた。
水属性魔導士たちは、地下水が存在するかだけでなく、その深さ・水量・流れる方向・流れの強さ・周辺湧水との関連を別々に測定している。
山岳北部では、ディーターとクララが別方向から岩盤亀裂を確認し、エリアスとノーラも別々に地下水反応を追った。
山麓北部では、オスカーとマルタが山地から平地へ変わる地層境界を探り、トビアスとエリーゼが湧水の源を遡る。
農業区域西部では、ヴィクトルが複数の水脈が近づく地点を示したが、若手のエミリアは自分の感覚だけで確定せず、別方向から再測定して主任確認を求めた。
既存市街地周辺では、ブルーノ班長が建物基礎と既設配管を避けながら位置を決め、シュテファンとヨハンナが地盤を確認し、ゲオルクとミーナが既存井戸同士のつながりを探った。
各班は、既存井戸と湧水も調べた。
古くから住む住民や井戸職人から、夏になっても枯れにくい井戸、雪解けの時期だけ水量が増える井戸、何世代も前から存在する湧水について聞き取りが行われた。
魔法だけでは分からない時間の情報を、人の記憶が補った。
そして、魔導士が重要と判断した地点では試掘が始まった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫7日・光曜――
アスタリア各地・地下水第1次重点調査区域。
試掘で水が確認された地点では、地下水深・水量・地層・水温・水質・鉱物成分が記録された。
一部では揚水試験も行われ、一定量の水を汲み上げた場合に地下水位がどこまで下がるか、揚水を止めた後にどの程度の時間で回復するかを確認した。
魔法探査で水を感じた。
だから井戸にする。
そのような決め方はしない。
魔法探査で候補を出し、試掘し、揚水し、水質を確認して、初めて取水候補として評価する。
中央集約班へ送られてくる8班の記録が増えるにつれ、少しずつ共通した流れが浮かび上がってきた。
山岳部に積もった大量の雪と氷が、春から夏にかけてゆっくり融ける。
融けた水の一部は川へ流れるが、別の一部は山腹や山麓の砂礫層、岩盤の亀裂へ染み込んでいく。
地下へ入った水は、1つの巨大な空洞へ溜まっているわけではない。
複数の帯水層に蓄えられ、地層の隙間を通って極めてゆっくり農業区域や市街地方向へ移動していた。
帯水層の深さも水量も水質も、場所によって違う。
アスタリアの地下には、単純な一枚の水脈があるのではなかった。
◇
同日午後――
アスタリア大商会技術研究部・地下水調査中央集約室。
集められた中間報告を見ていたシェリィは、地下水の矢印が描き込まれ始めた地図へ視線を落とした。
「汲み上げた水は、最終的にどこへ行きますか」
エルマーが顔を上げた。
「都市で使用した後ですか」
「はい」
飲み水になる。
風呂に使う。
洗濯に使う。
病院や店舗や工房でも使う。
その水を浄化して遠くの川へ流し続けた場合、地下から取った水は地下へ戻らない。
取水だけを続ければ、いつか地下水位そのものを変える可能性がある。
「水を使い切る都市にはしたくありません」
シェリィは地図上の山地から市街地へ続く流れを指でなぞった。
「地下水を都市で使い、使った後は処理し、農業に使えるものは農業へ、地下へ戻せるものは涵養へ回し、もう一度自然の流れへ戻す仕組みを考えましょう」
地下水。
都市利用。
下水処理。
農業利用。
地下水涵養。
そして再び地下へ。
シェリィが地球で知っていた水循環の考え方を、この世界の技術で実現できる形へ置き換える。
具体的な施設設計を、自分だけで決めるつもりはない。
そこから先は専門家の仕事だった。
生活排水については、住宅・店舗・浴場・病院などから集める下水と、雨水や融雪水をできるだけ分離する方向で検討することになった。
処理工程についても、沈殿・汚泥分離・生物処理・高度浄化・殺菌・水質確認などを複数段階で組み合わせる案が出された。
浄化用魔石そのものは、新しい発明ではない。
王都セレスティアをはじめ、既にいくつかの都市で利用されている技術だった。
ただし、アスタリアには極めて高品質な魔石がある。
フェリクスが試料記録を見ながら言った。
「アスタリア産の高純度魔石を浄化用途向けに加工した場合、既存の浄化用魔石より性能が高くなる可能性はあります」
シェリィはすぐに実用品扱いはしなかった。
「試作品を作ってください。まず既存品と比較しましょう」
完成していない技術へ名前だけ先に付ける必要もなかった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫8日・火曜――
アスタリア大商会技術研究部・地下水調査中央集約室。
8班から届いた第1次調査結果が、中央集約班の机へ集められていた。
エルマーが全体を統括し、レオナルトとアントンが魔法探査と計測器の数値を重ね、フェリクスが地質試料を照合し、マリアが水質記録を比較する。
ヘルマン・フォークは試掘井戸と揚水試験の結果から取水設備としての実現性を評価し、ヨハンナが地図と座標を共通書式へ統合し、ヘルマン・ヴェーバーが危険区域と今後の試掘制限区域を確認していた。
魔法探査。
地質。
試掘。
揚水試験。
水質。
既存井戸。
湧水。
地形。
それらを一枚の地図へ重ね合わせた結果、最初の成果が形になった。
《第1次地下水系統図》暫定版。
アスタリア全域を完全に解明した地図ではない。
現在の都市開発と農業、水道整備を進めるために必要な重点区域について、地下水の主要な流れを把握した第1段階の地図だった。
その地図を基に、取水井戸群の候補地も絞り込まれた。
都市の水を1本の巨大な井戸だけに依存させない。
主取水井戸。
補助取水井戸。
予備取水井戸。
そして、水位変化を監視する観測井。
複数の井戸を適切に離して配置し、1か所だけから大量に汲み上げて地下水位を急激に下げない方式を採る。
さらに地下水の流れを逆算すると、取水井戸群より山側で、地下水流の上流側に位置する浸透性の高い土地が見つかった。
そこが、涵養貯水池の候補地となった。
冬の間に発生する高度処理済みの水をそこへ送り、一部を地中へゆっくり浸透させる。
残った水は春まで貯め、農業用水へ回す。
取水井戸と涵養地点を単純な距離だけで決めない。
実際の地下水が、どちらからどちらへ流れているのかを基準にする。
その考え方が、候補地選定の基本になった。
◇
同日昼――
アスタリア大商会技術研究部・都市水循環設計会議室。
涵養貯水池から農業区域へは、可能な限り地形の高低差を利用して水を流す人工河川の基本経路が検討された。
春から秋までは、高度処理された再生水に融雪水を組み合わせ、必要に応じて地下水を補助的に使用する。
水門と調整池を設け、季節や農作物の状態によって流量を変える。
冬は農業用人工河川への供給を止め、処理水を涵養貯水池へ回す。
道路や屋根、将来整備される融雪設備から発生する雪解け水についても、生活下水とは分離する方針が決まった。
砂・泥・ごみを取り除いた後、農業用水・涵養貯水池・地下浸透設備へ回す。
都市を造ったために、本来地下へ染み込んでいた雪解け水を全部外へ捨てるような構造にはしない。
雪の多いアスタリアだからこそ、融雪水も都市の水循環の一部として扱う必要があった。
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・都市基盤設計室。
第1次地下水系統図を広げた机の周囲に、複数分野の担当者が集まっていた。
取水井戸。
浄水設備。
貯水設備。
上水本管。
下水本管。
下水処理設備。
農業用人工河川。
涵養貯水池。
魔導水量計。
魔力動力積算計。
魔導通信。
そして《アスタリア都市基盤計量管理所》。
それまで別々に考えられていた設備が、一つの都市基盤システムとして設計され始めた。
シェリィは図面を見渡した。
まだどれも完成していない。
取水井戸は候補地が決まっただけであり、下水処理設備も方式検討の段階にある。
浄化用魔石も試作品すら完成していない。
人工河川も、涵養貯水池も、実施設計はこれからだ。
《アスタリア都市基盤計量管理所》も、建物が存在するわけではない。
それでも、何を作り、どの順番で確かめるべきかが見え始めていた。
都市全域へ一気に広げるのではない。
実証区画で設計し、試作し、動かし、問題を見つけ、直す。
その繰り返しを積み重ねる。
◇
同日夕刻――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・試作熱伝導第1系統。
一度停止し、十分に冷却していた第1系統が、再び起動されることになった。
最初の運転が成功しただけなら、偶然だった可能性を消せない。
一度止め、冷やし、再び動かしても同じように機能するかを確認する。
「低出力で開始します」
熱源設備が動いた。
温度上昇は、熱源側から地下区間へ進んでいく。
中間遮断地点。
接続部。
曲部。
建物入口。
やがて試験用建物から報告が入った。
「熱、到達しています」
接続部に重大な異常はない。
熱膨張を逃がす構造も機能している。
魔導熱量計を確認すると、停止前の積算値は失われておらず、再起動後の新しい使用量がそこへ正しく加算されていた。
シェリィは記録を見て、小さく息を吐いた。
一度だけ熱を届けた実験設備から、止めて、もう一度動かせる設備へ。
小さな違いのようで、その意味は大きい。
それでも、解決していない問題は残っていた。
長期連続運転。
季節変化。
多数の建物へ同時に供給した場合の制御。
管路寿命。
建物ごとの温度差。
大量利用時の出力調整。
まだ、都市設備として完成したとは言えない。
シェリィは試験用建物を出て、実証区画を見渡した。
始まりは、1本の熱供給管だった。
研究室で熱を運べるかを確かめ、その管を地下へ入れ、1棟の建物へつないだだけだった。
けれど、その地下には今、熱を運ぶ場所だけではなく、水を届ける場所、使った水を戻す場所、将来魔力を届ける場所、情報を送る場所が計画され始めている。
使用量を測る仕組みも生まれた。
地下水を探し、使い、処理し、農業へ回し、再び地下へ戻す考え方も形になり始めた。
実験設備を置くための場所だったはずの区画は、いつの間にか、人が暮らす都市をどう造るのかを試す場所へ変わっていた。
そして64名の《アスタリア地下水合同調査隊》も、今回の調査で解散することはない。
中央集約班ではすでに、第1次重点区域の外に残る未調査区域について、次の調査計画が組み始められていた。
今回作られたのは完成した都市ではない。
アスタリアがこれから都市を造っていくための、最初の仕組みだった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、試作熱伝導第1系統へ実際に熱を流し、研究室の技術が初めて街の設備として動き始めました。
そこから魔導熱量計、《アスタリア都市基盤計量管理所》、地下水調査、上下水道、水循環へと検討が広がり、熱だけではなく都市を支える複数の基盤を一つの仕組みとして考え始めています。
《アスタリア地下水合同調査隊》も64名体制で正式始動し、魔法探査だけではなく、測量・試掘・揚水試験・水質確認を重ねることで《第1次地下水系統図》暫定版まで到達しました。
ただし、熱供給も上下水道もまだ実証段階であり、長期運転や多数建物への供給、浄水・下水処理設備など、これから確認すべき課題は多く残っています。
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