第60話:研究室を出て、実験は街へ広がる
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫1日・光曜――
アスタリア大商会本部・会長執務室。
月が替わった朝も、シェリィの仕事は特別な研究からではなく、積み上がった通常業務の確認から始まった。
最初に報告へ来た総務財務部の担当者は、手にした書類を開きながら一礼した。
「商業ギルド組合への月次報告書は提出済みです。受理確認まで完了しております」
「差し戻しはありませんでしたか」
「ありません。小切手制度についても、現時点では追加確認を求められておりません」
シェリィは小さく頷いた。
《アスタリア企業群内決済小切手》は、導入されたばかりの特別な制度として毎日のように注目する段階から、月次報告と定期監査によって管理される通常業務へ少しずつ移り始めている。
それは制度が重要でなくなったという意味ではない。
むしろ、シェリィが毎回直接判断しなくても決められた仕組みの中で動くようになったことこそ、制度として一段落した証拠だった。
「引き続き、異常がない限り通常の報告経路で進めてください」
「承知しました」
担当者が退出すると、シェリィは《アスタリア企業群》各社から届いた定例報告へ目を移した。
企業群各社の受注・資金繰り・人員・設備に重大な異常はなく、王国銀行アスタリア支店も開業後の業務を継続している。
続いて、《アスタリア熱供給都市実験実証区画》の工事進捗、支部や住宅の建設状況、地下共同設備空間の施工報告へ目を通した。
前月末に決まった、熱源設備から試験用建物1棟までをつなぐ試作熱伝導系統1系統についても、実施設計へ進める準備が整っている。
シェリィは最後の資料を閉じた。
研究室の数メートルで熱を運べたからといって、そのまま街で使えるわけではない。
今日から確認するのは、その間にある距離だった。
◇
同日午前――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部設計室。
設計卓には、熱源設備から地下共同設備空間を通り、試験用建物1棟の内部へ至る経路図が広げられていた。
アスタリア大商会技術研究部、ベルナート精製素材商会、ケストラー魔導機器商会、グローヴァー建設商会、安全監査室の担当者に加え、施工資材と交換部材の輸送条件を確認するため、ラインフェルト運輸商会も参加している。
エルマー・ザイデル(45歳・アスタリア大商会技術研究部長)は、研究施設で使った短距離試験装置の図面と、今回の実施設計図を並べた。
「先日の試験で確認したのは、数メートルの装置内で熱を安定して受け渡せる可能性です。しかし、都市設備として使う場合は条件が全く違います」
エルマーは実施設計図の経路を指で追った。
熱源設備から出た系統は地下へ入り、共同設備空間を進み、複数の固定部と曲部を経て、試験用建物の入口で既存設備と接続し、その先にある熱交換設備まで到達しなければならない。
「真っすぐな部材そのものより、異なる素材同士を接続する部分や、方向を変える曲部の方が弱点になる可能性があります」
ベルナート精製素材商会側の技術担当者も頷いた。
使用済み魔石精製素材そのものが高温に耐えても、接続金具や固定方法が耐えられなければ設備全体としては使えない。
ケストラー魔導機器商会側からは、接続部に魔力が集中した場合の挙動についても確認する必要があるとの意見が出た。
シェリィは設計図を見ながら、研究室で得られた成功と、実証区画でこれから確認するものを頭の中で明確に切り分けた。
「研究室で熱を運べたことと、街の設備として使えることは別に考えましょう。今回は、街に置いた時に何が問題になるかを見つけるための試験です」
誰も異論を挟まなかった。
成功を再現することだけが目的ではない。
研究室では見えなかった問題を、実際の設備へ入れる前に見つけることもまた、実証の役割だった。
◇
同日午前――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部設計室。
安全設計の検討に移ると、それまで図面を黙って確認していたヘルマン・ヴェーバー(52歳・安全監査室長)が口を開いた。
「確認します。試験系統だけで異常が発生した場合、この設備だけを切り離せますか」
設計室が静かになった。
グローヴァー建設商会側の担当者が図面を確認する。
現案でも熱源設備側には遮断設備がある。
しかし、その1か所だけを閉じた場合、地下途中や建物側に残った熱をどう処理するかという問題が残る。
ケストラー魔導機器商会側から、地下共同設備空間の途中にも遮断部を設ける案が出され、さらに試験用建物へ入る直前にも独立した遮断設備を置くことが提案された。
結果として、熱源設備側・地下途中・建物入口の3か所で個別に遮断できる構造へ設計を変更することになった。
「これなら、地下区間だけを隔離することもできます」
説明を聞いたシェリィは、図面上の3か所を確認した。
「試験設備1系統のために、実証区画全体を停止する構造にはしないでください」
「承知しました」
ヘルマンはさらに、温度異常や接続部異常を検知した場合には、安全監査室が試験停止を要求できることを改めて確認した。
その判断に、シェリィは迷わず頷いた。
「停止が必要と判断された場合は止めてください。私の許可を待つ必要はありません」
会長が続けたいと思っていても、安全監査室が止めるべきだと判断したなら止める。
その原則を変える理由はなかった。
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部設計室。
午後は、完成後の比較運転条件について検討が続いた。
従来方式と、使用済み魔石精製素材を使う新しい試作系統について、到達温度・熱損失・立ち上がり時間・冷却速度・設備状態・保守作業時間を同じ基準で比較し、単に熱が届いたかどうかだけではなく、実際の設備として使う場合の差を記録する方針が決められた。
そこへ、シェリィが魔力を通した熱源魔石と通常条件の熱源魔石を比較する計画も加えられた。
しかし、エルマーはすぐに条件表を分けた。
「伝熱素材と熱源魔石を同時に変更すれば、結果が良くても何が影響したのか分からなくなります」
シェリィも頷く。
「最初は熱源条件を同じにして伝熱素材だけを比較し、その後、伝熱系統を固定した状態で熱源魔石を比較してください」
一度に変える条件は1つ。
研究としては地味でも、その積み重ねが必要だった。
比較用の熱源魔石について記録を取るため、シェリィは準備された魔石へ手を伸ばした。
「では、処理します」
彼女はごく僅かな魔力を指先へ集め、魔石内部へ流した。
以前なら、まず内部の力の流れを探り、どこへ魔力を合わせればよいのか慎重に確かめる必要があった。
だが今回は、触れた直後から内部の流れが以前より明瞭に感じられた。
細い水流を指先で探すようだった感覚が、今では目を閉じても流れの方向が分かるほど鮮明になっている。
シェリィは力を押し込まず、その流れへ僅かな魔力を重ねた。
魔石が穏やかに応える。
揺らぎは小さい。
必要以上に魔力を送り込む必要もない。
やがて処理を終えると、シェリィは手を離した。
以前なら感じていた手先の重さも、ほとんどない。
計測記録を見ていたエルマーが、過去の記録板と今回の値を並べた。
「同期までの時間が短くなっています」
別の技術者も数値を確認する。
「使用魔力量も以前より少ないです。同期後の揺らぎも小さい」
シェリィは自分の手を見た。
「魔力そのものが増えた感覚はありません」
「私も、量が急激に増えたとは考えていません」
エルマーは記録を指した。
「変わっているのは、魔力の質、感知精度、同期精度、微調整、それから同じ結果を出すために必要な魔力の利用効率だと思われます」
実験の積み重ねが、シェリィ自身の魔力操作を少しずつ鍛えている。
だが、それを聞いてもシェリィは試験回数を増やそうとはしなかった。
「成長できるから実験するのではありません。必要な実験を行った結果として成長しているのであれば、それで十分です」
研究の目的を、自分自身の訓練へ置き換えるつもりはなかった。
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部設計室。
記録整理が続く中、1人の技術者が少し迷った様子でシェリィへ視線を向けた。
「シェリィ様、1つよろしいでしょうか」
「はい」
「ところで、シェリィ様の基礎属性は何なのですか」
シェリィはすぐには答えなかった。
火・水・風・土・光・闇。
一般に知られている魔力の基礎六系統。
誰かが魔力を持っていれば、通常はいずれかの系統との適性を調べる。
だが、シェリィにはそれを確認した記憶がなかった。
幼い頃から魔力を正常に扱うことができず、その力は彼女自身を守るために封じられていた。
「……分かりません」
技術者が目を瞬いた。
「調べたことがないのですか」
「正確には、調べられる状態ではありませんでした。幼い頃から魔力を封じられていましたから」
今になって少しずつ扱えるようになったが、火を出したわけでも、水を操ったわけでもない。
風も土も、光も闇も、自分の中で明確に感じたことはなかった。
シェリィは少し考え、やがて顔を上げた。
「分からないのであれば、調べましょう」
◇
同日午後――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部魔力測定室。
用意された基礎属性検査器の中央には大きな検査用魔石が置かれ、その外周を囲むように、火・水・風・土・光・闇の基礎六属性に対応する6つの属性判定魔石が埋め込まれていた。
通常は中央の検査用魔石へ魔力を流すと、その性質が外周へ伝わり、対応する属性判定魔石が発光する。
シェリィは装置の前へ座った。
「量は必要ありません」
担当技術者が説明する。
「中央の魔石へ、無理のない範囲で魔力を流してください」
「分かりました」
シェリィは中央の検査用魔石へ指先を触れた。
先ほどの試験用魔石と同じように、内部の流れを感じ取る。
そして、ごく僅かな魔力を静かに流した。
全員の視線が外周へ集まった。
火に対応する属性判定魔石は光らない。
水も反応しない。
風も、土も、光も、闇も、一つとして変化を示さなかった。
技術者が眉を寄せる。
「反応が……ない?」
その次の瞬間だった。
中央に置かれた大きな検査用魔石そのものが、内側から淡く光を放った。
誰も声を出さなかった。
本来、その魔石は魔力を受け取り、外周の属性判定魔石へ判定情報を伝えるためのものだ。
結果を表示するために発光するようには作られていない。
シェリィは驚きながらも、すぐに魔力を止めた。
中央の光も消えた。
担当技術者は装置を確認し、別の技術者も記録を見直した。
「故障でしょうか」
「今朝の点検では異常ありませんでした。ですが、再確認します」
シェリィは急かさなかった。
しばらくして、少なくとも装置そのものに明確な故障は確認できないとの報告が出た。
「では、結果はどう記録しますか」
シェリィが尋ねると、エルマーは慎重に答えた。
「基礎6属性すべてに明確な反応なし。検査用魔石本体に通常想定されていない発光反応。魔力そのものの存在と、本人による高度な操作を確認。属性未確定、継続観察、とします」
「それ以上は?」
「現時点では書けません」
第7の属性。
特殊属性。
無属性。
そのような名前を付ける根拠は、どこにもない。
分からないものへ、分かったような名前を与えるべきではなかった。
シェリィはもう一度、静かになった中央の検査用魔石を見た。
「では、分かったのは、まだ分からないということですね」
困ったように笑う技術者たちの中で、エルマーだけは真剣に頷いた。
「はい。それも立派な結果です」
◇
同時刻――
王都セレスティア・セレスティア王宮。
大后陛下は、手にしていた書簡からふと顔を上げた。
王宮の外で何か物音がしたわけではない。
誰かが報告へ来たわけでもない。
それでも彼女には分かった。
遠く離れたアスタリアで、よく知る魔力が動いた。
かつて、自らの手で封じた力。
幼い少女の身体と心を守るため、暴れ出さないよう静かに眠らせた魔力だった。
大后陛下の魔力探知は、距離という概念をほとんど問題にしないほど広い。
だが、今感じたものがシェリィの魔力であると分かったのは、範囲が広いからだけではない。
その魔力を、彼女自身が誰よりもよく知っていたからだった。
大后陛下は目を閉じた。
封印が壊れた感覚ではない。
幼い頃のように、行き場を失った力が暴れているのでもない。
動いた量は僅かだった。
それにもかかわらず、その僅かな魔力は極めて穏やかに、精密に、一つの方向へ整えられていた。
以前より明らかに扱い方が変わっている。
「シェリィ……」
大后陛下は小さく名を呼んだ。
自然に力が戻っただけでは、この精密さまでは説明しにくい。
だが、その理由を今ここで断定することもできない。
分かったのは、あの子が自分の力と向き合い、少しずつ扱えるようになっているということだけだった。
大后陛下は机へ向き直り、便箋を引き寄せた。
◇
豊土月1日・夕刻――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・技術研究部記録室。
属性検査の記録を整理していた技術研究部から、別の問題が提示された。
「シェリィ様自身の魔力操作力が変化している以上、過去の試験結果と今後の結果を単純に比較するのは危険です」
シェリィはすぐに意味を理解した。
同じ種類の魔石へ同じ量の魔力を流したつもりでも、シェリィ自身の制御精度が変われば処理後の状態も変わる可能性がある。
熱伝導素材の性能が上がったのか。
シェリィの処理技術が上がったのか。
あるいは両方なのか。
そこを分けなければ、研究結果を正しく評価できない。
「私自身も試験条件として記録してください」
それまでより詳細な記録項目が追加された。
魔石識別番号、処理日時、処理前状態、使用魔力量、同期に要した時間、処理後の安定状態を残し、将来的には同じ条件の魔石を複数比較できるようにする。
「私が変われば、同じ試験ではなくなる可能性があるということですね」
「はい」
「では、なおさら記録しましょう」
主人公が成長したから、技術まで自動的に進歩したことにしてはいけない。
技術の性能と、人間の技量を分けて測る。
それもまた、研究を実用品へ変えるために必要だった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫2日・火曜――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・地下共同設備空間。
翌朝、試作熱伝導系統の施工が始まった。
地下共同設備空間には、熱供給管・戻り管・通信設備・制御設備を配置する区画と、人が歩いて点検や交換を行うための保守通路がすでに確保されている。
さらに将来を見越し、魔力供給線、水道、下水設備などを追加するための空間も予約されていた。
新しい試作系統を入れるからといって、その余地を潰してしまえば、後になって全体を作り直すことになる。
グローヴァー建設商会の施工担当者は現場へ仮配置した部材を見ながら、図面を修正した。
「このままですと、将来の供給線予定区画へ寄りすぎます」
「保守側から人が入る幅も狭くなりますね」
別の担当者が続ける。
結果として試作系統の位置をずらし、将来設備のための空間と、人が部材を取り外して交換できる作業幅を残す配置へ変更された。
シェリィは少し離れた場所から、その作業を見ていた。
地下共同設備空間を最初から広めに設けた理由が、こうして少しずつ形になっている。
今使う設備だけを詰め込むのではなく、まだ存在しない将来の設備のために空間を残す。
街は完成した瞬間で終わるものではない。
変わり続けることを前提に作らなければならない。
◇
同日――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・地下共同設備空間。
施工確認が接続部へ進んだところで、ベルナート精製素材商会の担当者が作業を止めた。
「少し待ってください」
使用済み魔石精製素材で作った部材と、既存の金属製接続金具を組み合わせた試験体を確認していた技術者が、加熱時の膨張予測値をもう一度計算する。
「想定より差があります」
金属と使用済み魔石精製素材では、温度が上がった際の膨張量が異なる。
完全に固定してしまえば、加熱と冷却を繰り返すたびに、その差が接続部へ負荷として集中する可能性があった。
熱を流す前だった。
誰かが落胆するより先に、シェリィは接続部を見た。
「今見つかったのであれば、それが実証区画を作った意味です」
失敗してから問題を探すより、運転前に危険を見つけられた方がいい。
ベルナート精製素材商会、ケストラー魔導機器商会、グローヴァー建設商会の担当者がその場で協議を始めた。
完全固定ではなく、膨張差を逃がせる構造を設け、異常や劣化が確認された場合には接続部分だけを交換できる方式へ変更する。
設計図には修正履歴が残された。
問題が見つかったこと自体を消す必要はない。
なぜ変更したのか分かることの方が重要だった。
◇
同日――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・資材確認区画。
午後になると、ベルナート精製素材商会側から別の報告が出た。
都市規模まで熱伝導系統を広げるのであれば、将来的には相当量の使用済み魔石が必要になる。
しかし、使用済みであれば何でもそのまま材料にできるわけではない。
回収した後に分類し、内部状態を検査し、不純物を除去したうえで精製・再成形する必要があり、亀裂や内部崩壊が激しいものなどは除外される。
現時点では、回収した使用済み魔石のうち何割を再利用できるのかという歩留まり率さえ固定できていない。
「需要が増えれば、今までほとんど価値がなかった使用済み魔石の価格も変わる可能性があります」
その報告を聞いたシェリィは、すぐに市場を思い浮かべた。
今なら安く集められる。
そう考えて大量に買えば、将来必要になる資源を先に確保できるかもしれない。
だが、技術が確立する前にアスタリア側が大量に買い始めれば、それだけで市場価格が上がる。
まだ使えるかどうかも分からない物を投機対象に変えてしまう危険さえある。
「買い占めはしません」
シェリィは即答した。
「実証に必要な量だけを、適正価格で調達してください。技術が確立していない段階で、期待だけを理由に市場を動かすべきではありません」
将来価値が生まれる可能性を見抜くことと、その可能性を利用して価格を先に吊り上げることは違う。
今必要なのは市場支配ではなく、実証だった。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫3日・風曜――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》。
試作熱伝導系統1系統が完成した。
熱源設備から地下共同設備空間を通り、試験用建物1棟の入口まで続く新しい系統が、研究室ではなく実際の街の地下へ初めて組み込まれている。
だが、熱源設備はまだ停止したままだった。
完成したからといって、すぐに熱を流すことはしない。
安全監査室による施工後検査が始まった。
配置、固定状態、接続部、熱源設備側・地下途中・建物入口の複数遮断設備、温度監視、通信設備、緊急停止系統、交換性、保守動線が順番に確認される。
ヘルマンは狭い部分へ自ら入り、人が工具を持って接続部へ近づけるかまで確かめた。
「ここは交換できますか」
「固定具を2点外せば、接続部だけを抜けます」
「周囲の設備を撤去せずに?」
「はい」
検査は長く続いた。
誰も急かさなかった。
そして夕刻前、ヘルマンは最終確認書へ目を落とした。
「安全監査室として、運転試験実施可と判断します」
技術者たちの表情が僅かに緩んだ。
それでも、その日は熱を流さない。
次に行うのは、完成させることではなく、実際に動かすことだった。
◇
同日夕刻――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》。
遠くから馬蹄の音が近づいた。
街の工事車両とは違う速さだった。
やがて実証区画入口へ、王国軍の装備を身につけた王国兵が早馬で駆け込んできた。
「王都から?」
「何かあったのか?」
周囲の技術者たちがざわめいた。
馬は長距離を走ってきたことが一目で分かるほど汗をかき、騎乗していた王国兵にも疲労が見えている。
それでも王国兵は馬を降りると服装を整え、シェリィの前まで進んだ。
その装備と、胸元に示された急使としての証を見た瞬間、シェリィは意味を理解した。
王族本人からの急ぎの書簡を直接運ぶ王国兵は、任務中、その送り主の権威を帯びた勅使として扱われる。
王国兵は姿勢を正した。
「シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢殿下」
シェリィも同時に、公爵令嬢として姿勢を改める。
「大后陛下からの急ぎの書簡です」
シェリィは正式なカーテシーを行った。
目の前にいるのは王国兵個人であっても、この場では大后陛下の意思を届ける勅使である。
その礼は兵士の階級に対するものではなく、大后陛下の権威に対するものだった。
王国兵が差し出したのは、王家の紋章が入った封筒だった。
封には、大后陛下個人の封蝋が施されている。
シェリィは両手で正式に受け取った。
「確かに拝受いたしました」
その後、彼女はすぐに王国兵の顔色と馬の様子を見た。
「遠路、ご苦労でした。すぐに休める部屋をご用意いたします。馬にも水と飼葉を」
「恐れ入ります」
「食事と飲み物もお願いします。今日は無理に王都へ戻らず、必要であればこちらへお泊まりください」
大后陛下の勅使だからといって、その兵士自身が大后陛下と同じ身分になるわけではない。
だが、その任務を果たす者には、送り主の代理として最大限の礼を尽くす。
シェリィにとって、それは当然のことだった。
◇
同日夕刻――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・臨時執務室。
1人になったシェリィは、大后陛下の封蝋を慎重に確認してから封を開いた。
便箋には、見慣れた筆跡が並んでいた。
大后陛下は、属性検査について何も知らない。
誰からも報告を受けていないからだ。
書かれていたのは、今日、遠く離れた場所からシェリィの魔力が動いたことを感じたという内容だった。
以前より流れが穏やかで、極めて精密に扱われていたこと。
かつて大后陛下自身が施した封印に異常が生じたようには感じていないこと。
シェリィが以前より自分の力を扱えるようになったのであれば、それを喜ばしく思っていること。
最後には、短い一文が添えられていた。
「十分に気を付けながら、魔力を取り扱うのですよ」
シェリィは、その一文をもう一度読んだ。
胸の奥が、ゆっくりと温かくなる。
王都とアスタリアは遠く離れている。
それでも大后陛下は、今日、自分がごく僅かな魔力を動かしたことそのものを感じ取っていた。
しかも、力が動いたことだけではなく、以前より穏やかに扱えていることまで分かっていた。
幼い頃の自分を救うため、あの力を封じてくれた人だからこそ分かったのだろう。
シェリィは手紙を胸元へ寄せることはしなかった。
ただ、しばらく便箋から目を離せなかった。
◇
同日夜――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》・臨時執務室。
夜になり、周囲が静かになってから、シェリィは新しい便箋を机へ置いた。
最初の一行を書く前に、姿勢を正す。
大后陛下への返書である。
まずはヴァルモント公爵令嬢として書かなければならない。
急ぎの書簡を送っていただいたことへの御礼。
現在、身体に異常はなく、魔力についても無理に引き出すことなく慎重に扱っていること。
そして、この日に行った基礎属性検査について記した。
火・水・風・土・光・闇の6属性判定魔石には一つも反応がなかったこと。
代わりに、本来は判定結果を示すためのものではない中央の検査用魔石そのものが発光したこと。
技術研究部でも理由は判断できず、属性未確定として継続観察することになったこと。
そこまでは、整った文面だった。
だが、次の文章を書こうとして、シェリィの筆が止まった。
大后陛下は、結果を求めて手紙を送ったのではない。
自分の身を心配したから、王都から勅使まで出してくれたのだ。
シェリィは少しだけ肩の力を抜いた。
幼い頃、自分では扱えないほどの力から守るために封印してくれたこと。
あの時に守ってもらえたからこそ、今こうして自分の意思で、自分自身の力と向き合うことができていること。
遠く離れていても自分の小さな変化を感じ取り、すぐに言葉を届けてくれたことが、思っていた以上に嬉しかったこと。
文字を重ねるうち、文章は少しずつ公爵令嬢の正式な報告から、祖母へ近況を伝える孫娘の言葉へ変わっていった。
やがてシェリィは、一度だけ筆を止めた。
そして書いた。
お祖母様。
たった4文字だった。
けれど、口に出す時よりも、その言葉を書く方が難しかった。
大后陛下として尊敬している。
それだけではない。
幼い自分を守ってくれた、大切な祖母なのだ。
シェリィはその言葉を消さなかった。
その後、大后陛下が変わらず健やかに過ごしていることを願い、アーサー国王陛下と王妃陛下がお変わりなく、ご無理をなさっていないかと尋ねた。
さらにジュリアン王太子についても、公務が忙しいからと無理を重ねていないかを気遣う言葉を記した。
形式上は王家への近況伺いである。
けれど、書いているシェリィにとってはそれだけではなかった。
大后陛下は祖母のようにではなく、祖母そのものだった。
アーサー国王陛下と王妃陛下には、両親へ向けるものに近い安心と敬愛があり、ジュリアン王太子には兄を気遣うような親しさがある。
その思いを直接書き並べることはしなかったが、文面から消すこともしなかった。
最後にシェリィは再び姿勢を正し、ヴァルモント公爵令嬢として正式な結びの言葉を記した。
封を閉じる前、もう一度最初から読み返す。
途中だけ、少し柔らかすぎる。
けれど、書き直さなかった。
手紙だからこそ伝えられる言葉もある。
シェリィはそう思った。
◇
星環暦1284年・豊土月≪第9月≫4日・水曜――
《アスタリア熱供給都市実験実証区画》。
一晩十分に休息した王国兵は、朝には王都へ戻る準備を整えていた。
馬も水と飼葉を与えられ、夜のうちに十分休ませている。
シェリィは自ら封書を持ち、出発前の王国兵のもとへ向かった。
王国兵が姿勢を正す。
シェリィも公爵令嬢として正式な礼を取った。
「恐れ入りますが、こちらを大后陛下へお渡しいただけますでしょうか」
王国兵は両手で封書を受け取った。
「確かにお預かりいたします」
「お願いいたします」
シェリィは再びカーテシーを行った。
王国兵は一礼すると馬へ乗り、やがて王都へ続く道を駆けていった。
その姿が見えなくなるまで、シェリィは静かに見送った。
やがて彼女は地下共同設備空間へ向かった。
そこには、研究室の試験台の上にしか存在しなかった新しい熱伝導部材が、すでに街の設備の一部として組み込まれている。
まだ熱は流れていない。
安全監査によって運転試験は許可されたが、実際に試験用建物へ熱を届けられるかどうかは、これから確認しなければならない。
そしてシェリィ自身にも、答えの出ていないものが増えた。
火でも、水でも、風でも、土でも、光でも、闇でもないと断定できたわけではない。
ただ、基礎6属性のどれにも明確な反応がなく、代わりに本来光るはずのない中央の検査用魔石が光った。
それだけが、今ある事実だった。
技術についても、魔力についても、答えを急ぐ必要はない。
分からなければ確かめる。
違いがあれば記録する。
危険があれば止める。
そして、安全を確認してから次へ進む。
研究室を出た実験は、いよいよ街へ広がった。
お読みいただきありがとうございます。
今回は、使用済み魔石精製素材を使った試作熱伝導系統が、研究室を離れて《アスタリア熱供給都市実験実証区画》へ実際に組み込まれるところまで進みました。
研究室で成功した技術をそのまま街へ持ち込むのではなく、接続部・曲部・遮断設備・保守動線・将来拡張まで確認し、施工中に見つかった問題も設計変更へ反映しています。
一方で、シェリィ自身の魔力操作力も少しずつ変化し、基礎6属性検査では通常想定されていない反応が確認されましたが、現時点では属性を決めつけず、記録と観察を続けます。
大后陛下から届いた書簡と、それに返事を書くシェリィの場面では、公爵令嬢としての礼節と、祖母を慕う孫娘としての気持ちの両方を描きました。
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