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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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第45話:魔石が答えた、彼女だけの魔力

星環暦(せいかんれき)1284年・蒼潮月(そうちょうづき)≪第7月≫25日・光曜(こうよう)――

アスタリア・アスタリア大商会本部前。

王都を発ってから3日が経ち、シェリィを乗せた馬車がアスタリア大商会の前へ入った頃には、空の青さにも北方特有の硬質な冷たさが戻っていた。

馬車の扉が開いてシェリィが地面へ足を下ろすと、王都へ向かった時にはまだ雪に沈んでいた道の端に、今は何本もの荷車の轍が重なっているのが見えた。

倉庫へ向かう荷車・市場へ食料を運ぶ小型車・修理を待つ車両・熱供給設備の保守へ向かう作業員が行き交い、ほんの数か月前まで寒さに耐えながら静かに暮らすしかなかった土地とは思えないほど、人と物の動きが増えている。

シェリィは馬車の脇に立ったまま、その光景をしばらく見つめた。

王都では9つの商会を新たに迎え、《アスタリア企業群》という総称も定めたが、契約書へ署名しただけで何かが完成するわけではなく、物流・建設・倉庫・車両・魔導機器・印刷・素材精製といった機能を、これから実際に北方へ結び付けていかなければならない。

「お帰りなさいませ」

正面玄関から出てきたアルノルト(総務財務部長)が、いつものように深く頭を下げた。

「ただいま戻りました、アルノルト」

「王都での成果については、先行して届いた報告書を拝見しております」

アルノルトは抱えていた帳簿へ視線を落とし、一拍置いてから顔を上げた。

「会長。王都へ行かれたと思えば、商会を9つ増やしてお戻りですか」

シェリィは、ほんの少しだけ目を逸らした。

「必要だったのですから仕方ありませんわ」

「そのお言葉を聞くたび、私の資金繰り表が厚くなります」

「申し訳ありません」

「謝罪ではなく、利益でお返しいただければ結構です」

淡々とした返答にシェリィの口元が僅かに緩み、「努力いたします」と答えると、アルノルトもそれ以上は追及しなかった。

ただ、玄関へ入ろうとしたところで、アルノルトが一つ付け加えた。

「エルマーが、会長のお戻りを待っております」

シェリィが振り返った。

「技術研究部で?」

「はい。熱源用魔石について、確認していただきたいものがあるとのことです」

「急ぎですか?」

「本日中でなければ困るという話ではございませんし、3日の馬車旅の直後ですから、今日はお休みください」

反論しようとして、シェリィは口を閉じた。

王都でも会議が続き、帰路でも企業群の資料を確認していた以上、自分では疲労を強く感じていなくても、それを理由に安全上の配慮まで無視するべきではない。

「分かりました。明日の朝、技術研究部へ参ります」

そこでシェリィは何かを思い出したように足を止めた。

「それと、アルノルト。もう一つお願いいたします」

「何でしょうか」

「《アスタリア企業群》へ加わった9商会へ、アスタリア支部の設置準備を正式に始めるよう連絡してください」

アルノルトは手元の帳簿を閉じた。

「9商会すべてですな」

「はい。必要な人員と役割は各商会自身に判断していただき、こちらから一律の人数を指定する必要はありません」

「支部用の場所については、アスタリア側で用意するという王都での方針をそのまま適用しますか」

「お願いします。支部の運営費と人件費は各商会が負担し、こちらは活動に必要な場所を提供します」

シェリィは少し考えたあと、言葉を続けた。

「北方勤務についても、本人の同意を原則とし、北方手当・住居・防寒具・家族帯同の支援・定期帰郷を各商会へ改めて確認してください。それから、北方へ赴任したことが昇進や今後の配置で不利益にならないことも条件に含めます」

「承知しました。各商会へ正式文書を送ります」

「お願いいたします」

王都で交わされた契約は、これで初めてアスタリアという現場へ根を下ろし始めることになる。

アルノルトは一礼すると、「それでは今日は本当にお休みください」と念を押し、シェリィを本部内へ促した。

◇

星環暦(せいかんれき)1284年・蒼潮月(そうちょうづき)≪第7月≫26日・火曜(かよう)――

アスタリア大商会・技術研究部・魔石実験室。

厚い防熱壁で囲まれた実験室の中央には、掌ほどの黒い魔石が固定され、その周囲には魔力流量計・温度計・熱量測定器と安全遮断装置が配置されていた。

シェリィが防護線の前で足を止めると、エルマー(技術研究部長)が一礼し、その隣ではディートリヒ(熱供給事業部長)が記録板を持ち、少し離れた場所にはヘルマン(安全監査室長)が立っていた。

さらに測定器の前には、数名の研究員と技術員が控えている。

「こちらですか?」

「はい」

エルマーは中央に固定された黒い魔石を示した。

「採掘済みの魔石を改めて分類したところ、現在の基準では最高級に置くべき品質だと判断しました」

「最高級……」

「純度・蓄積量・内部構造のいずれも、一般に流通している魔石とは明確な差がありますので、鉱区ごとの埋蔵量も改めて確認いたします」

シェリィは静かに魔石を見つめた。

最高級魔石は、それ自体が極めて希少な資源であり、品質を損なわずに確保して適切に加工できれば、伝説として語られるほどの武具の中核素材にさえなり得る。

だが、今シェリィが気にしているのは武具としての価値ではなかった。

「昨日、熱源について確認したいと伺いました」

「はい」

エルマーの表情が、研究者のものへ変わった。

「会長が以前、魔石へごく僅かな魔力を触れさせた際、通常とは異なる熱反応が起きた記録があります」

シェリィは自分の右手へ視線を落とした。

まだ魔力を自由に扱うことなど到底できなかった頃でも、身体の奥から僅かに戻り始めていた力が魔石へ触れた時、確かに熱が生じたことを覚えている。

「当時は設備も資料も十分ではありませんでしたので、今日は原因を一つだけ確認したいのです」

「原因?」

ディートリヒが記録板から顔を上げた。

「魔力を持つ者が魔石へ触れること自体は、珍しい話ではありません」

その言葉に、シェリィの視線が上がった。

確かに魔石は何百年も魔導具・照明・工房設備・武具などに使われてきたのだから、魔力持ちが直接触れたり、魔力を流したりした例など数え切れないはずだった。

「それなのに、同じ現象が広く知られていない」

シェリィがそう言うと、エルマーが頷いた。

「そこです。魔石だけが原因なら、過去にも同じ現象がもっと多く記録されていなければおかしい」

実験台の横にいた技術員が一歩前へ出た。

「まず、通常の場合をご覧いただきます」

技術員は防護具を確認してから魔石へ手を添え、ほんの僅かな魔力を流した。

測定器の針が動き、魔石内部の力が装置を通して熱へ変換されると、研究員が数値を書き留めた。

エルマーが説明する。

「基礎六系統のうち、火系統を扱える技術員です。熱への変換との相性は比較的良い方ですが、これが通常の範囲です」

「これが基準になるのですね」

「はい」

装置が停止され、技術員が手を離す。

エルマーはシェリィを見た。

「次に会長へお願いいたします。ただし、本当に僅かで結構です」

その瞬間、ヘルマンが口を挟んだ。

「中止の指示を出した場合は即座に手を離し、身体や魔力に少しでも違和感があった場合は、ご自身の判断で続けないようお願いいたします」

「承知しました」

シェリィは素直に頷いた。

自分が会長であることと、安全監査室長の判断を覆してよいことはまったく別の話だった。

防護線の内側へ入ったシェリィは、黒い魔石の前に立ってゆっくり右手を伸ばした。

触れた瞬間に感じたのは、以前と変わらない冷たさだった。

しかし、その奥には石の硬さとは違う何かがあり、さらに深い場所には、厚い岩盤の向こう側を流れる地下水脈のような膨大な力が存在しているように感じられた。

シェリィは目を閉じた。

自分の身体の中にも、まだ細く、使える量などごく僅かな魔力の流れがある。

だが王都を発つ前より、その存在ははっきり分かるようになっていた。

その時、大后陛下の声が蘇った。

『だからといって喜んで無理に引き出してはいけませんよ、シェリィ』

そして、もう一つ。

『それでよろしいのです。使える量より、制御できる量の方が大切ですから』

「……ほんの少しだけ」

シェリィは誰に言うでもなく呟き、身体の奥にある魔力を無理に押し出したり引きずり出したりせず、細い糸を一本だけ伸ばすように指先まで通した。

魔力が掌へ届き、その先にある魔石へ触れる。

次の瞬間、測定器の針が大きく動いた。

「……え?」

記録を取っていた研究員の手が止まり、別の技術員が計器を覗き込む中、エルマーとディートリヒも同時に測定値へ視線を向けた。

シェリィはすぐに魔力を止めた。

「何か問題が?」

「いえ。まず、機器を確認します」

研究員たちは接続・温度計・魔力流量計・固定具を順番に確認したが、どこにも異常は見つからなかった。

しばらくして、エルマーが顔を上げた。

「通常の場合とは、比較にならないほど高い値です」

「私が多く魔力を流してしまったのでしょうか?」

別の研究員が首を横に振った。

「いいえ。流入した魔力量そのものは少量です」

室内が静かになった。

シェリィは魔石を見つめる。

エルマーがヘルマンへ確認するように視線を向けた。

「測定誤差ではないことを確認するため、もう一度だけ同じ程度でお願いしたいのですが」

ヘルマンはシェリィの顔色を確認してから頷いた。

「一度だけです」

「承知しました」

シェリィは再び魔石へ手を添え、先ほどと同じように、身体の奥から指先へ細い魔力を通した。

今度は、最初に通った場所へ一本の細い道が残っているような感覚があり、ほんの僅かに魔力を届かせやすくなっている。

測定器の針が動いた。

研究員が数値を確認する。

「ほぼ同じです……いえ、僅かですが高くなっています」

シェリィが目を開いた。

「同じ程度しか流していないつもりですけれど」

「流入量にも大きな差はありません」

エルマーは測定値を見つめたまま答えた。

「もう一度だけ確認したいところですが」

ヘルマンはすぐには認めず、シェリィの呼吸・手の震え・顔色と測定器の状態を順番に確認した。

「これで最後です」

「分かりました」

3度目に魔石へ触れたシェリィは、先ほどまでより少しだけ早く、自分の魔力の位置を捉えることができた。

魔力を石の中へ押し込むのではなく、すでに魔石の内部に存在する膨大な力の流れへ、ほんの僅かに自分の魔力を重ねるような感覚で触れてみる。

すると、身体の奥から指先まで魔力が以前より滑らかに流れ、魔石へ届く瞬間の抵抗も少しだけ弱くなった。

「……通る」

シェリィが小さく呟いた。

測定器の針が動く。

研究員が記録を見比べた。

「僅かですが、先ほどより上がっています」

エルマーがシェリィを見る。

「会長、今何か変えられましたか?」

「力を増やしたつもりはありません。ただ、先ほどより魔力の通る場所が分かるようになった気がいたします」

その返答を聞いた瞬間、ヘルマンが口を開いた。

「本日はここまでです」

シェリィはすぐに手を離した。

「まだ危険な数値ではありませんが?」

「数値だけの問題ではありません」

ヘルマンは落ち着いた声で答えた。

「今の試行だけでも、会長ご自身が魔力の扱い方を学び始めています。このまま繰り返せば、測定するたびに条件そのものが変わる可能性があります」

エルマーも頷いた。

「私も同意します。会長の場合、実験がそのまま魔力を扱う訓練になっているのかもしれません」

シェリィは自分の右手を見た。

指をゆっくり開いて閉じても、痛みも眩暈もなく、身体に異常を感じることもない。

それでも、確かに以前とは違っていた。

「使える魔力が増えたというより、身体の中にある細い流れが少しだけ通りやすくなったように感じます」

エルマーの表情が変わった。

「実験の前と後で、会長ご自身の魔力の状態が僅かに変化した可能性があります」

「魔石が私の魔力を変えたのでしょうか?」

「そこまでは断定できませんが、少なくとも魔石へ魔力を通す過程で、会長がご自身の魔力を以前より正確に扱えるようになっている可能性はあります」

ディートリヒが記録を見比べた。

「流した魔力量が大きく増えたわけでもないのに、熱変換の値は通常より明らかに高く、しかも僅かずつ変化している」

シェリィは魔石へ視線を戻した。

「火系統の反応ではないのですか?」

エルマーは首を横に振った。

「少なくとも、既知の火系統の反応とは一致しません」

「では、水・風・土・光・闇のどれかという可能性は?」

「現時点では、それを示す反応も確認できません」

一般に知られている魔力の分類は、火・水・風・土・光・闇の基礎六系統であり、シェリィはそのいずれにも覚醒していない。

エルマーは記録紙を机へ置いた。

「ですから、今ここで無理に名前を付けるべきではありません」

シェリィは静かに頷いた。

分からないものを、分かったふりをして既存の分類へ押し込む必要はない。

「確認できた事実だけにしましょう」

「はい。会長が流した魔力は少量だったこと、それにもかかわらず通常よりはるかに高い熱変換が起きたこと、試行を重ねるうちに会長ご自身が魔力を通しやすくなったと感じていること、その変化に伴って測定値も僅かに上昇したことです」

ディートリヒが魔石を見た。

「魔石の品質だけでは説明しにくいですね」

「そう思います」

エルマーはシェリィへ視線を戻した。

「魔力持ちが魔石に触れた例など、過去にいくらでもありますし、最高級魔石が珍しいことは事実でも、それだけでこの現象が起きるなら、似た記録がもっと残っていてよいはずです」

シェリィは自分の掌を見た。

「違うのは……私の魔力?」

「その可能性が高いと考えています」

しばらく誰も話さなかった。

シェリィの脳裏に、王都で大后陛下に言われた言葉がもう一度蘇る。

『シェリィ。あなたの魔力、ごく僅かですが以前より戻っています』

『ですが、巡りが以前より明らかに良くなっています。身体の中で滞っていた流れが、少しずつ整い始めていますね』

魔力が戻り始めたと聞いた時、シェリィはそれだけで十分だと思っていた。

無理に魔法を使えるようになろうとも思わなかった。

今も、その考えは変わっていない。

けれど、「使える量より、制御できる量」という言葉の意味だけは、以前より少し深く理解できる気がした。

「もう一度だけ、試してみたい気もいたしますが」

シェリィがそう言うと、ヘルマンは即答した。

「認めません」

シェリィは一瞬だけ目を瞬いた。

「理由は、先ほどと同じですか?」

「はい。この実験そのものが会長の訓練になっているのであれば、繰り返すほど会長の魔力の状態が変わり、同じ装置・同じ条件で測定しているつもりでも、実際には別の条件になります」

エルマーも続けた。

「現在の測定値だけを前提に設備を設計するのも避けるべきでしょう。会長の魔力の扱い方が変われば、今の設備条件そのものが適切でなくなる可能性があります」

シェリィは少し考えたあと、頷いた。

「分かりました。では、今日はここまでにします」

ディートリヒが熱変換装置へ視線を向けた。

「熱供給へ応用できる可能性については?」

「まだ試算だけに留めてください」

シェリィは即答した。

「私自身、どこまで変わるのか分かっておりませんし、魔石の埋蔵量も改めて確認する必要があります。現時点の数値だけで、大きな計画を決めるべきではありません」

「承知しました」

「エルマーは魔石の品質と埋蔵量の確認を進め、次に試す場合は今日の装置をそのまま使う前提では考えないでください」

「はい」

「ヘルマン。次の実験条件については、安全監査室の承認を必須にしてください」

「もちろんです」

シェリィはもう一度、中央の黒い魔石を見た。

適切に扱えば伝説級の武具を生み出す中核素材にもなり得る石が目の前にある。

だが、シェリィがそこに見ていたのは剣でも鎧でもなかった。

凍える家・雪に閉ざされる道路・冬になるたび操業時間を減らす工房・寒さのために作物を育てられない土地へ届けられる熱だった。

もし、この魔石の中に眠る膨大な力を安全に熱へ変えることができるのなら、その価値は一人の英雄が持つ武具よりも、はるかに多くの人間の暮らしへ届く。

けれど、まだ答えを急ぐ必要はない。

シェリィは自分の右手を静かに握った。

魔力はまだ僅かしか使えず、火・水・風・土・光・闇のいずれにも覚醒していないが、それでも昨日までより少しだけ、自分の中にある魔力の流れを感じ取れるようになっていた。

そして、その僅かな魔力に対して、最高級魔石は確かに通常とは違う答えを返した。

大后陛下が次にシェリィの魔力を診れば、その僅かな変化にもきっと気づくだろう。

シェリィは静かに息を吐いた。

使える量より、制御できる量。

今はまだ、その言葉の意味を一歩だけ理解し始めたところだった。

お読みいただきありがとうございます。

アスタリアの最高級魔石と、少しずつ戻り始めたシェリィの魔力が、初めて測定できる形で結びつきました。

シェリィはまだ基礎六系統のどれにも覚醒しておらず、使える魔力もごく僅かですが、その魔力には通常とは異なる性質がある可能性が見え始めています。

同時に、魔石へ魔力を通すこと自体が、シェリィにとって魔力を扱う練習になり始めていることも分かりました。

王都で結ばれた9つの商会との関係も、アスタリア支部の設置準備によって、いよいよ現場へ移っていきます。


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