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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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第39話:ただいまと言える場所はひとつじゃない――懐かしい笑顔と家族の食卓

星環暦(せいかんれき)1284年・炎冠月(えんかんづき)≪第6月≫29日――その日の夕刻

セレスティア王宮・大后宮へ続く回廊

《国王御前九院会議》を終えたシェリィは、王宮を退出するため静かな回廊を歩いていた。

円卓の間で交わされた報告と決定は、すでに各院へと流れ始めている。

国務院・内務院・財務院・外務院・商務院・農政国土院・法務院・軍務院・爵務院。

王国という巨大な組織が、自分一人の手を離れて動いていく。

それを確認できたことに、シェリィは小さな安堵を覚えていた。

その時、前方から濃紺の女官服を纏った女性が歩いてきた。

銀の混じった濃い栗色の髪は隙なくまとめられ、胸元には大后宮筆頭女官であることを示す銀章が輝いている。

その姿を認めた瞬間、シェリィの表情が自然と和らいだ。

「エルフリーデ」

女性もまた、普段の厳格な表情をわずかに緩めた。

「シェリィ様。お久しゅうございます」

エルフリーデ・フォン・ローゼンベルク。

アストリッドがまだ王太后と呼ばれていた時代から仕え続ける大后宮筆頭女官であり、シェリィが幼い頃から幾度となく顔を合わせてきた女性だった。

幼いシェリィが大后の私室で本を読み続けていれば茶を入れ替え、疲れて眠ってしまえば毛布を掛け、それでも決して必要以上に踏み込まない。

シェリィにとって、王宮の記憶にはいつも彼女の姿があった。

「お元気そうで安心しました」

「シェリィ様こそ。お顔を拝見できて嬉しゅうございます」

エルフリーデは一礼した後、いつもの落ち着いた声で続けた。

「大后陛下がお待ちでございます」

シェリィは一瞬だけ目を丸くした。

「お祖母様が?」

「はい」

エルフリーデの口元に、ごく薄い笑みが浮かぶ。

「『今日はそのまま帰してはなりません』との仰せでございます」

シェリィは思わず小さく笑った。

「……お祖母様らしいですね」

「私も、そのように存じます」

それだけで、つい先ほどまで国家の財政と物流を論じていた緊張が、少しだけ遠ざかった。

シェリィはエルフリーデの案内に従い、大后宮へ足を向けた。

◇

セレスティア王宮・大后宮・私的サロン

扉が開くと、柔らかな茶葉の香りがシェリィを迎えた。

王宮の公式謁見室とはまるで違う。

大きすぎない円形の卓。

低めの椅子。

窓際には季節の花。

壁際には長年読み込まれた書物が並んでいる。

そして、そこにはすでにアストリッドとエレノア、マーガレットが座っていた。

「いらっしゃい、シェリィ」

アストリッドが微笑む。

「お祖母様。お招きいただきありがとうございます」

シェリィがいつものように完璧な礼を取ると、アストリッドが目を細めた。

「シェリィ」

「はい」

「今日は御前会議ではありませんよ」

「……はい?」

「その背筋です。まだ円卓の間にいるようですよ」

エレノアが扇で口元を隠しながら笑い、マーガレットも堪えきれず微笑んだ。

シェリィは自分でも気づかないうちに緊張を残していたらしい。

「失礼いたしました」

「謝ることでもありません」

アストリッドは向かいの席を示した。

「座りなさい。今日は頭を働かせるより、お茶を飲む時間です」

「はい、お祖母様」

シェリィが腰を下ろすと、エルフリーデが静かに紅茶を注いだ。

昔から変わらない所作だった。

その香りを嗅いだだけで、幼い頃にこの部屋で本を読んでいた記憶が一瞬だけ蘇る。

ほどなくして扉が再び開いた。

「まだ始まっていなかったか」

入ってきたのはアーサーだった。

その後ろからローランドとジュリアンも続く。

「あなたが遅いのです、アーサー」

アストリッドが即座に返す。

「祖母上、こちらにも仕事というものが――」

「存じています。だから待っていたのでしょう」

「……はい」

国王御前会議で9院長を前に迷いなく決断を下していた男が、祖母の前ではわずかに肩を落とす。

シェリィは思わず口元を緩めた。

アーサーはそれを見逃さなかった。

「シェリィ。今、笑ったな?」

「いいえ、アーサーおじ様」

「今の間は絶対に笑っていただろう」

「気のせいではございませんか?」

ローランドが声を上げて笑った。

「陛下、諦めろ。シェリィにそう返されたらもう勝てん」

「お前まで陛下と呼ぶな。今は仕事の席ではないだろう」

「ではアーサー、お前は昔から祖母上には弱いな」

「ローランド、それを娘の前で言うな」

一気に空気が変わった。

そこにいたのは国王と軍務卿ではなく、長年付き合ってきた2人の男だった。

シェリィはその様子を見ながら、胸の奥が少し温かくなるのを感じた。

◇

焼き菓子と果物が並び、紅茶が2杯目に入った頃。

ローランドがカップを置いた。

「それにしても、今日は驚かされた」

シェリィが父を見る。

「御前会議へ呼ばれたことでしょうか?」

「いや。そこではない」

ローランドは首を振った。

「その後だ」

シェリィがわずかに首を傾げる。

「財務院も商務院も農政国土院も、それぞれ間違った報告をしていたわけではない。それなのに、お前は別々の数字を並べて、その先で何が起こるかを見つけた」

ローランドの目には、軍務卿ではなく父親としての誇らしさがあった。

「娘が優秀なのは知っていたつもりだったが……まだ知らない顔があったらしい」

マーガレットが嬉しそうに微笑む。

シェリィは少し視線を逸らした。

「私は、皆様が持っていた資料を並べただけです」

「それを普通のことのように言うのが、あなたなのよ」

エレノアが穏やかに言った。

アーサーも頷く。

「実を言うとな、シェリィ。私もかなり驚いていたんだぞ」

シェリィがアーサーを見る。

「……そのようには見えませんでした」

「国王が御前会議の最中に『なるほど、そうだったのか!』と叫ぶわけにもいかんだろう」

その言葉に、エレノアが小さく吹き出した。

ジュリアンも口元を緩めている。

アーサーは少しだけ真面目な顔に戻った。

「だが、本当に見事だった。私も9院の報告を同じように聞いていた。それでも、そこまでは見えていなかった」

「アーサーおじ様……」

「だからこそ、お前が見つけたものを私が受け取り、各院に動かせばいい。それが国王の仕事なのだろうな」

その言葉に、シェリィは静かに頷いた。

アストリッドが紅茶を一口飲む。

「まったく」

全員の視線が向いた。

「あなた方が遅いだけでしょう」

「祖母上」

アーサーが苦笑する。

「まさか祖母上は、あの分析まで分かっていたと?」

「そこまでは申しません」

アストリッドはあっさり否定した。

「ただ、この子が目の前にあるものだけを見ていたことなど、幼い頃から一度もありません」

シェリィの眉がわずかに下がる。

「お祖母様まで……」

「ねえ、エルフリーデ?」

突然話を振られたエルフリーデは、少し離れた場所でティーポットを持ったまま静かに答えた。

「はい。幼い頃のシェリィ様は、物語の本よりも、大人が机に置き忘れた帳簿の数字をご覧になっていることの方が多うございました」

「エルフリーデ」

シェリィが思わず呼ぶ。

「事実でございます」

淡々とした返答だった。

ジュリアンが肩を揺らしている。

「殿下まで笑わないでくださいませ」

「いや、すまない。あまりにも想像できるのでな」

今度はエレノアが口を開いた。

「でも私は、今日の分析そのものより、その後にあなたが言ったことの方が嬉しかったのですよ」

「私が?」

「ええ」

エレノアの声が柔らかくなる。

「あなた、自分がいなければ動かない会議になっては困る、と言ったでしょう?」

シェリィは少し考えてから頷いた。

「はい」

「私は、あれを聞いて安心しました」

エレノアはシェリィをまっすぐ見た。

「あなたは、自分が必要とされ続ける仕組みを作りたいのではないのね」

シェリィは答えなかった。

「自分がいなくても、人が困らず、国が動くようにしたい。そのために制度を作る」

「……はい」

「それが、あなたらしいと思いました」

シェリィはカップへ視線を落とした。

称賛を受けることには慣れている。

商談でも、政策でも、結果を出せば評価される。

だが、この人たちからこうして褒められることには、どうにも慣れない。

ジュリアンがその様子を見ながら口を開いた。

「私は少し違うところを見ていた」

「違うところ、ですか?」

「ああ」

ジュリアンはゆっくりカップを置いた。

「君が先を見ること自体は、もう何度か見ている」

「何度か、とは……」

「こちらが1つの問題を考えている間に、その次の問題まで持ってくることだ」

「殿下」

「褒めている」

昼の御前会議でも聞いた言葉をそのまま返され、シェリィは僅かに眉を寄せた。

ジュリアンは笑いながら続ける。

「だが今日、改めて思った。君が先を読めることよりも、その読みを他人が使える形に分解して渡せることの方が重要なのだろう」

シェリィは静かにジュリアンを見る。

「商務院には商務院ができることを。財務院には財務院ができることを。農政国土院には農政国土院ができることを渡した」

ジュリアンの表情から笑みが少し消える。

「だから皆が動けた」

アーサーが頷いた。

「そういうことだな」

ローランドが満足げに腕を組む。

「まあ、私の娘だからな」

間髪を入れずアーサーが返した。

「そこで全部自分の手柄にするな」

「何を言う。父親だぞ」

マーガレットも涼しい顔で口を挟む。

「頭脳についてでしたら、私の方から受け継いだ可能性も高いと思いますけれど?」

ローランドが妻を見る。

「待て。それは聞き捨てならん」

「そうかしら?」

「ねぇエルフリーデ、そう思うでしょう?」

今度はマーガレットから振られたエルフリーデが、ほんの一瞬だけ考えた。

「恐れながら申し上げますと、シェリィ様の優れたところをどちらから受け継がれたかについて私が判断いたしますと、今後のお茶の席で大変困ることになるかと存じます」

アストリッドが声を上げて笑った。

「正解です」

「逃げたな、エルフリーデ」

ローランドが言う。

「34年ほど王宮におりますので」

エルフリーデは平然としていた。

その一言で、また笑いが広がった。

◇

笑いが落ち着いた頃、アストリッドの視線がシェリィに止まった。

先ほどまでとは違う、魔法使いとしての鋭い目だった。

「シェリィ」

「はい?」

「こちらへいらっしゃい」

シェリィが立ち上がり、アストリッドの隣へ移る。

「手を」

言われるまま右手を差し出すと、アストリッドが手首へ軽く指を添えた。

ほんの僅かな魔力が流れ込む。

シェリィはすぐに気づいた。

これは診察だ。

少し離れた場所に立つエルフリーデも、表情を引き締めていた。

アストリッドは目を閉じたまま、しばらく何も言わなかった。

ローランドの顔から笑みが消える。

マーガレットも身を乗り出した。

やがてアストリッドが目を開いた。

「……やはり」

「お祖母様?」

「シェリィ。あなたの魔力、ごく僅かですが以前より戻っています」

室内が静かになった。

シェリィ自身も、自分の手を見た。

「魔力が……?」

「ええ。劇的な変化ではありません」

アストリッドはすぐに続けた。

「ですが、巡りが以前より明らかに良くなっています。身体の中で滞っていた流れが、少しずつ整い始めていますね」

「身体に問題は?」

ローランドがすぐに尋ねた。

その声は軍務卿ではなく完全に父親だった。

「現時点で危険な兆候はありません」

アストリッドが答える。

「だからといって喜んで無理に引き出してはいけませんよ、シェリィ」

「承知しております」

シェリィは即答した。

「回復したかどうか確かめるためだけに魔法を使うつもりはございません」

アストリッドの表情が柔らかくなる。

「それでよろしいのです。使える量より、制御できる量の方が大切ですから」

シェリィは頷く。

アストリッドはその手を離さず、もう一度静かに魔力の巡りを確かめた。

「次に会う頃には、もう少し変化しているかもしれませんね」

「その時は、また診てくださいますか?」

「もちろんです」

アストリッドは微笑んだ。

「あなたが嫌だと言っても診ますよ」

シェリィも思わず笑った。

「では、嫌だとは申しません」

そのやり取りを見ていたマーガレットの表情も、ようやく緩んだ。

ローランドだけはまだ少し心配そうだった。

「お父様」

「何だ」

「本当に大丈夫です」

「分かっている」

そう答えながら、まったく安心していない顔だった。

エレノアが笑う。

「ローランド。あなた、顔に全部出ていますよ」

「娘のことだからな」

「またそれですか」

アーサーが呆れた。

◇

その日の夜――

セレスティア王宮・大后宮・私的食堂

気がつけば、窓の外はすっかり暗くなっていた。

アストリッドが時計を見上げる。

「もうこんな時間なのですね」

アーサーが椅子から立とうとする。

「では私はそろそろ――」

「座っていなさい」

「祖母上」

「このまま夕食にします」

「しかし――」

「何か?」

「……何でもありません」

エルフリーデは、その会話が始まる少し前にはすでに侍女へ小さく合図を送っていた。

シェリィはそれに気づいた。

「エルフリーデ」

「はい」

「最初から夕食になると思っていましたね?」

エルフリーデは少しだけ微笑んだ。

「長くお仕えしておりますので」

ほどなくして7人は大后宮の私的食堂へ移った。

豪華な晩餐会ではない。

温かなスープ・香草を使った肉料理・焼き野菜・柔らかなパン・季節の果物。

料理の質は王宮らしく上等だったが、皿数を競うような正式晩餐ではなかった。

シェリィの両隣には、いつの間にかマーガレットとエレノアが座っている。

ローランドが席を見て眉を寄せた。

「なぜシェリィが私の隣ではない?」

アストリッドが即答する。

「昼間は軍務卿としてずっと近くにいたでしょう」

「それとこれとは別です」

「では明日まで待ちなさい」

「なぜ明日なのですか」

アーサーが笑う。

「ローランド。諦めろ」

「お前は黙っていろ」

「国王に向かってその態度はどうなんだ」

「今は国王の顔をしていないだろう」

一瞬の間。

そして全員が笑った。

アーサー自身も否定しなかった。

しばらくは昔の話が続いた。

シェリィが幼い頃、アストリッドの書棚から難しい本ばかり選んでいたこと。

エレノアが贈った扇を初めて手にした日のこと。

マーガレットが娘の礼法教育に力を入れすぎて、ローランドが「少しくらい外で走らせてもいいだろう」と口を挟んだこと。

ローランドが幼いシェリィへ木剣を渡そうとして、マーガレットに取り上げられたこと。

「私は覚えておりますよ」

エルフリーデが話を振られて淡々と言う。

「ローランド様が『軽いから大丈夫だ』と仰っておりました」

マーガレットが夫を見る。

「ほら」

「昔の話だ」

「その時のシェリィ様は、木剣より本の方をご覧になっておりました」

アーサーが机を叩いて笑った。

「完全に負けているじゃないか」

「笑うな」

シェリィは両手で少し顔を覆いたくなった。

国家財政を論じる方が、よほど簡単だった。

やがて食事が進んだ頃、エレノアが穏やかに尋ねた。

「シェリィ。王都には、あとどれくらいいるつもりなの?」

シェリィの手が止まる。

「必要な確認を終えましたら、アスタリアへ戻るつもりでおります」

ほんの少し、食卓の空気が変わった。

マーガレットの目に寂しさが浮かぶ。

ローランドも何も言わない。

アーサーがシェリィを見た。

「そろそろアスタリアへ戻るつもりなのか?」

「はい」

「そうか……」

アーサーは少しだけ寂しそうに笑った。

「せっかく久しぶりに顔を見られたと思ったら、もう帰ってしまうんだな」

「アーサーおじ様」

「まあ、向こうにもお前を待っている人たちがいるんだろう?」

「はい」

シェリィは頷いた。

アスタリアには、自分を待つ人々がいる。

商会も。

街も。

まだ形になっていない未来も。

アーサーはそれを理解しているからこそ、引き止めなかった。

「なら仕方ないか」

それから、少し照れたように続ける。

「でも、たまには王都にも顔を見せてくれ。仕事じゃなくてもいいんだからな」

シェリィは一瞬だけ言葉を失った。

「……はい、アーサーおじ様」

アーサーの顔がほんの少し緩む。

すぐ隣でエレノアが笑った。

「あなた、ずいぶん嬉しそうですね」

「そうか?」

「ええ」

「気のせいだ」

誰も信じていなかった。

エレノアが今度はシェリィの手にそっと触れる。

「ここへ来るのに、仕事の理由など要りませんよ」

「エレノア様……」

「何か相談がある時だけでなくていいのです。何もなくても来ていいのですよ」

マーガレットも続ける。

「そしてヴァルモントの家にも帰ってきなさい」

「はい、お母様」

アストリッドはしばらくその会話を聞いていた。

そして静かに口を開いた。

「シェリィ」

「はい、お祖母様」

「人は、一つの場所だけを故郷にする必要などありませんよ」

シェリィはアストリッドを見る。

「アスタリアがお前の居場所になってもよいのです」

アストリッドの声は、魔法を教える時とも、国家を語る時とも違っていた。

ただ一人の少女を慈しむ年長者の声だった。

「ヴァルモントがお前の家であってもよい。そして、この王宮にも帰ってきてよいのです」

シェリィは黙った。

胸の奥に、長くしまい込んでいた何かが静かにほどけていく。

かつて王都を離れた時、ここへ再びこうして戻れる日が来るとは思っていなかった。

アスタリアには、自分で作った居場所がある。

ヴァルモントには、生まれ育った家がある。

そして王宮には、自分を幼い頃から知り、変わらず迎えてくれる人たちがいる。

シェリィは少しだけ迷ってから尋ねた。

「……帰る場所が、いくつあってもよいのでしょうか」

アストリッドは微笑んだ。

「多い方が幸せでしょう?」

その言葉に、シェリィもゆっくり微笑んだ。

「はい」

食事が終わった後も、誰もすぐには席を立たなかった。

くだらない昔話。

ちょっとした言い争い。

笑い声。

仕事の話をしないアーサー。

娘の隣を取り損ねてまだ少し不満そうなローランド。

それを楽しそうに眺めるマーガレット。

シェリィへ果物を勧めるエレノア。

静かに笑うジュリアン。

そして少し離れた場所から、必要な時だけ言葉を添えるエルフリーデ。

その夜だけは、国王でも、王太子でも、公爵でも、大后でもなかった。

ただ、シェリィを幼い頃から知る人たちだった。

食卓を離れる少し前、ジュリアンがシェリィへ声をかけた。

「アスタリアへ戻れば、また忙しくなるな」

「殿下ほどではございません」

「それはどうかな」

ジュリアンは小さく笑う。

そして、ごく自然に言った。

「こちらは任せろ」

シェリィもそれ以上は聞かなかった。

「では、お願いいたします」

それだけで十分だった。

王都には王都を支える者がいる。

アスタリアにはシェリィを待つ者がいる。

シェリィは最後に食卓を振り返った。

笑い声がまだ残っている。

この時間が永遠ではないことを、彼女は知っていた。

だからこそ、一つも忘れないように胸へ刻んだ。

帰る場所は、一つでなくていい。

「ただいま」と言える場所が増えることは、失うことではない。

それはきっと――幸せと呼んでいいものなのだ。

お読みいただきありがとうございます。

今回は国を動かす者たちが肩書きを少しだけ置き、シェリィを幼い頃から見守ってきた家族として過ごす時間を描きました。昼の《国王御前九院会議》で見せたシェリィの分析力をそれぞれの立場から認めてもらう一方、大后アストリッドは彼女の魔力がごく僅かながら回復し、巡りも良くなっていることに気づきます。そして、アスタリア・ヴァルモント・王宮――シェリィにとって「ただいま」と言える場所は、もう一つではなくなりました。


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