第33話:最後の証人、シェリィ・ヴァルモント
星環暦1284年・炎冠月≪第6月≫20日――
大審院・王国審理大法廷。
大法廷の重い扉がゆっくりと開き、その向こうから現れた一人の令嬢へ、160家を超える貴族家の代表者たちの視線が一斉に集まった。
シェリィ・ヴァルモントは、ヴァルモント公爵家の令嬢として正式な審理の場にふさわしい上品なドレスを身につけていたが、それは華美さによって周囲を圧倒するものではなく、濃淡を抑えた生地と精緻な仕立てによって家格と品位を示す装いだった。
その手には、エレノア・セレスティア王妃陛下から贈られた金細工の扇が静かに握られ、耳元にはアストリッド・セレスティア大后陛下から贈られたイヤリングが、法廷へ差し込む光を受けて小さく輝いている。
王家席に座るエレノア王妃の視線が、まず扇へ落ちた。
同じ瞬間、アストリッド大后はシェリィの耳元へ目を向けた。
二人とも何も言わなかったが、エレノアの指先が僅かに動き、アストリッドの瞳がほんの一瞬だけ柔らかく細められた。
王国の古い家柄に属する高位貴族たちの中にも、その二つの品が単なる高価な装飾品ではなく、王家から直接贈られたものであることを知る者がおり、法廷の各所で息を呑むような小さな気配が生まれた。
エドワードもまた、その扇とイヤリングを見ていた。
幼い頃からシェリィを知る彼が、その由来を忘れているはずはなかった。
自分が公衆の面前で「追放」を宣言した女性が、母である王妃から贈られた扇を手にし、曾祖母である大后から贈られたイヤリングを身につけ、ヴァルモント公爵令嬢として王国の最高審理機関へ入廷してくる。
エドワードの喉が僅かに動いた。
シェリィは誰の反応にも足を止めず、静かな足取りで大法廷中央を進んだ。
証言台の前まで来ると、すぐに宣誓へ移ることはせず、シェリィは王家席へ身体を向けた。
左手でドレスの裾を僅かに取り、片足を後ろへ引き、背筋を真っ直ぐに保ったまま膝を滑らかに折って身体を沈める。
深すぎず、浅すぎず、王家への敬意と公爵令嬢としての品格が寸分の乱れもなく形となった、美しいカーテシーだった。
「アストリッド大后陛下、アーサー国王陛下、エレノア王妃陛下、ジュリアン王太子殿下、本日はお召しにより参上いたしました」
ゆっくりと身体を起こしたシェリィの姿勢には、かつて王都を離れた令嬢の面影と、アスタリア大商会を率いる者として身につけた揺るぎない落ち着きが同居していた。
アーサーが静かに頷く。
「よく来てくれた、シェリィ」
「恐れ入ります」
シェリィは王家席への礼を終えると証言台へ立ち、大審院長の前で、自らが知る事実について偽りなく答えることを宣誓した。
◇
大審院長は最初に、証言の前提となるシェリィと王家との関係を確認した。
「シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢、あなたは幼少期から王家の方々と面識があったのですね」
「はい」
シェリィは一度王家席へ視線を向け、それから静かに答えた。
「父と王家とのご縁もあり、私は幼い頃から、大后陛下・国王陛下・王妃陛下・ジュリアン王太子殿下、そしてエドワード殿下にお目通りする機会を、他の貴族令嬢より多くいただいていたと感じております」
「エドワード殿下との婚約についても、単に書面上の婚約者として相手を知っていたわけではない?」
「はい、幼い頃から存じ上げておりました」
大審院長が次の問いへ進もうとした時、エレノア王妃が静かに手を上げた。
「大審院長、私から一つ確認してもよろしいでしょうか」
「もちろんでございます、王妃陛下」
エレノアは証言台に立つシェリィを見つめた。
王妃としての表情は崩していなかったが、その瞳には、息子の元婚約者へ問いかける母親としての迷いが僅かに滲んでいた。
「シェリィ、あなたはエドワードとの婚約を、どのように受け止めていたのですか」
大法廷が静まり返った。
シェリィはすぐには答えなかった。
手にしていた扇へ一度だけ視線を落とし、それから被審理者席にいるエドワードを見た。
「ですから、エドワード殿下と私の婚約が定まってからは……政略によって結ばれた婚約であったとしても、私は私なりに、エドワード殿下を愛しておりました」
エドワードの目が見開かれた。
「……愛していた?」
その言葉は、問いかけというより、本人の意思とは無関係に漏れた声だった。
シェリィはエドワードから視線を逸らさなかった。
「はい、先ほど申し上げた通りでございます」
声に責める響きも、未練を訴える響きもなかった。
ただ、事実を述べる声だった。
エドワードは何かを言おうとして唇を動かしたが、言葉は続かなかった。
シェリィは再び大審院長へ身体を向けた。
「ですから私は、今日ここへ、殿下への復讐を求めるために参ったのではございません」
法廷にいる者たちが静かに聞いている。
「かつて愛した方だから罪を軽くしてほしいとも申しませんし、傷つけられたから罪を重くしてほしいとも申しません」
シェリィは言葉を区切った。
「本日、私が申し上げるのは、私自身が見たこと・聞いたこと・知っていたことだけでございます」
「推測を事実として申し上げるつもりはございません」
その姿を見つめるアーサーの表情が僅かに引き締まった。
ジュリアンは何も言わなかったが、膝の上で組んでいた手に僅かな力が入っていた。
◇
大審院長が本題へ入った。
「卒業記念舞踏会当日、エドワード殿下があなたとの婚約を一方的に解消し、その場であなたへ『追放』を宣言したことは事実ですか」
「はい、事実でございます」
「その時、あなたはエドワード殿下に対して、自分をヴァルモント公爵家から追放する権限はないと反論しませんでしたね」
「はい」
「なぜですか」
シェリィは一度息を整えた。
この問いに答えるため、自分は王都へ戻ってきたのだとでもいうように、視線を真っ直ぐ大審院長へ向けた。
「王族が多くの者の前で命令を発したその場で、公爵家の娘である私が『あなたにその権限はありません』と公然と退ければ、問題はエドワード殿下とヴァルモント公爵家だけでは終わらないと考えました」
全貴族の視線がシェリィへ集中した。
「一度でも、高位貴族が自らの判断で王族の命令を公衆の面前で退けたという前例を作れば、次は別の貴族が、自分に不都合な王命まで『権限がない』と主張し始めるかもしれません」
先ほどまで微かな衣擦れの音さえあった大法廷が、完全な静寂に包まれる。
「そうなれば、王族と貴族の対立では済みません。どの命令に従い、どの命令には従わなくてよいのかを、それぞれの貴族が勝手に判断する国になります」
42家に関する審理を見続けてきた者たちにとって、それは過度な想像ではなかった。
誰が王太子にふさわしいかを、それぞれの貴族が自分の判断で決め始めた結果が、今まさに大審院で裁かれようとしている。
「その先にあるのは、王権の失墜だけではありません。貴族同士が別々の王族を支持し、軍や領地まで巻き込んだ対立へ発展する可能性もあると判断しました」
エドワードがゆっくりと顔を上げた。
あの日、自分はシェリィが反論しなかったことを、自分の命令が受け入れられたからだと思っていた。
実際には、彼女は自分自身の名誉や身分よりも、その場で生まれる政治的な前例を見ていた。
シェリィは静かに続けた。
「ですから私は、あの場でエドワード殿下の命令が正しいと認めたのではございません」
一度言葉を切る。
「誤った命令に、その場で正面から逆らうことよりも、その一言が生む前例の方が危険だと判断したのです」
誰もすぐには口を開かなかった。
アーサーがゆっくりと身体を起こした。
「シェリィ、確認する」
「はい、陛下」
「お前は、エドワードにヴァルモント公爵家からお前を追放する権限がないことを、当時から理解していたのだな」
「はい、理解しておりました」
「それでも、その場では命令へ正面から異議を唱えなかった」
「はい」
「自分の身分を守ることより、王族の命令を公衆の面前で高位貴族が独自判断によって拒否したという前例が残る危険の方が大きいと判断した?」
「その通りでございます」
アーサーはそこで目を閉じた。
ほんの僅かな時間だった。
国王として、息子の誤った命令が一人の18歳の令嬢に何を考えさせたのかを受け止めるための時間だった。
「分かった」
再び目を開いたアーサーの声は静かだった。
シェリィは続けた。
「一つの誤った命令であれば、後から正式な手続によって訂正することができます」
「ですが、誰もが自分に不都合な命令を、自分自身の判断だけで『権限がない』として退ける慣行が広がれば、それを後から元へ戻すことは容易ではございません」
貴族席の一部で、ゆっくりと頷く者がいた。
「私は王家の権威を守るために、自分の身分を捨てたつもりもございません」
シェリィの声には迷いがなかった。
「私の身分は、最初から失われておりませんでしたから」
ローランドが証人席で語った事実と、シェリィ本人の判断が、ここで一つにつながった。
◇
大審院長は、続いてエドワードと42家の計画について質問した。
「シェリィ嬢、あなたは卒業記念舞踏会の時点で、エドワード殿下が42家による王太子交代工作の詳細を把握していたと知っていましたか」
「いいえ、存じません」
即答だった。
大審院長が僅かに目を上げる。
「全く?」
「少なくとも、各家がどのように資金を動かし、誰が軍へ接触し、誰が王宮内部の協力者を探していたのか、その具体的な内容を私は直接見聞きしておりません」
「エドワード殿下本人が計画全体を指揮していたと証言できますか」
「できません」
法廷の一部がざわめいた。
シェリィにとって有利に見える推測を積み上げれば、エドワードの責任をより重く見せることもできる。
だが、彼女はそれをしなかった。
「私が直接確認していないことまで、知っていたかのように申し上げることはできません」
大審院長が頷いた。
「では、あなたが直接知っている範囲だけを答えてください」
「はい」
シェリィは、エドワードがジュリアンの立場や政策に強い不満を抱いていたこと、自分自身がより高い王位継承上の立場へ進むことを望んでいると受け取れる言動があったことは認めたが、資金・軍・官僚・王宮工作の具体的な計画については、直接確認していない以上証言できないと明確に線を引いた。
アーサーはそのやり取りを聞きながら、一度だけ大審院長へ小さく頷いた。
証言とは、相手を有罪にするための材料ではない。
事実を確定するためのものだった。
◇
エレノア王妃が再び口を開いた。
「シェリィ、もう一つだけ聞いてもいいかしら」
「はい、王妃陛下」
エレノアは僅かに迷ってから尋ねた。
「あなたは、自分がエドワードを愛していたことを、本人に十分伝えられていたと思いますか」
今度は、シェリィが答えるまで少し時間がかかった。
自分の過去を分析することは、他人の政策や市場を分析するほど簡単ではない。
「……いいえ」
エドワードが顔を上げた。
「十分に伝えられていたとは思いません」
エレノアの瞳に、一瞬だけ母親としての痛みが浮かんだ。
「そう」
それだけ言うと、王妃は質問を終えた。
エドワードは何も言わなかった。
だが、シェリィが「愛していた」と語った時よりも、その後に「伝えられていなかった」と認めた時の方が、その表情には深い混乱が浮かんでいた。
もし自分が知らなかったのなら。
自分は何を見て、何を決めつけていたのか。
その問いだけが、彼の顔に残っていた。
◇
証言が終盤へ入ったところで、アストリッド大后が静かにシェリィを見た。
「シェリィ、最後に私から一つだけ聞きます」
「はい、大后陛下」
「あなたは今日、この場でエドワードへの処罰を望みますか」
誰も物音を立てなかった。
シェリィは一度、被審理者席に座るエドワードを見た。
かつて婚約者だった人。
幼い頃から知っていた人。
自分なりに愛していた人。
そして、自分に公衆の面前で追放を宣言した人。
そのすべてを知った上で、シェリィは首を横に振った。
「いいえ」
アストリッドは黙って続きを待った。
「私が望むのは、殿下を重く罰することでも、軽く罰することでもございません」
シェリィはまっすぐ前を向いた。
「なされたことが正しく認定され、それに見合う判断が下されることだけです」
アストリッドの表情が僅かに柔らかくなる。
「かつて愛したからといって、罪が存在するなら消すべきだとは思いません」
「傷つけられたからといって、存在しない罪まで加えるべきだとも思いません」
全貴族が、その言葉を聞いていた。
「私は、殿下を罰するためにここへ参ったのではございません」
シェリィは静かに頭を下げた。
「私に求められた事実を申し上げました」
「後の判断は、国王陛下と大審院に委ねます」
アストリッドはゆっくりと頷いた。
「分かりました」
それ以上の質問はなかった。
◇
大審院長が、提出された証言記録を最後に確認した。
「シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢、証言は以上となります」
「承知いたしました」
シェリィが証言台を離れようとした時、被審理者席から小さな声がした。
「シェリィ」
大審院長が一瞬エドワードを見る。
エドワードは立ち上がらず、ただシェリィを見ていた。
「……本当に」
言葉が途切れる。
「本当に、私を愛していたのか」
シェリィは歩みを止めた。
法廷の誰もが、二人を見ていた。
シェリィは少しだけエドワードへ身体を向けた。
「はい」
一言だけ答える。
「先ほど証言した通りでございます」
それ以上は言わなかった。
それ以上言えば、ここは審理の場ではなく、二人だけの過去を清算する場所になってしまう。
シェリィは再び前を向いた。
大審院長が立ち上がる。
机の上には、ここまで積み上げられた膨大な文書・供述・証拠記録が並んでいた。
42家に関する個別審理。
資金記録。
軍への接触。
王宮内部への働きかけ。
ミレーヌ・クロードの証言。
ルーカス・フェルデンの供述。
エドワード自身の覚書。
エドワード本人の供述。
ローランド・ヴァルモント公爵の証言。
そして、最後の証人となったシェリィ・ヴァルモントの証言。
大審院長は法廷全体を見渡した。
「以上をもちまして、本件に関する証拠審理を終了いたします」
大法廷に、その宣言が響いた。
アーサーが続けて命じる。
「次は、集められた証拠から、誰が何をしたのかを整理せよ」
大審院長が一礼する。
アーサーは42家の関係者たちへ視線を向けた。
「家名ではなく、人が何をしたかを示せ」
それは、これまで何度も繰り返してきた原則だった。
シェリィは証言台を離れる前に、もう一度だけ王家席へ静かに一礼した。
勝ち誇った笑みはなかった。
エドワードを見下ろすこともなかった。
追放された令嬢が、復讐を求めて王都へ戻ってきたのではない。
彼女が王都へ持ち帰ったのは、怒りでも、判決でもなかった。
ただ、事実だった。
最後の重要証人として、シェリィが大審院の証言台に立ちました。
シェリィはエドワードを「私なりに愛していた」と認める一方で、その愛情によって罪を軽くすることも、傷つけられた感情によって罪を重くすることも求めず、自分が直接知る事実だけを証言しました。
また、卒業記念舞踏会でエドワードの「追放」に公然と反論しなかった理由も、命令を正当と認めたからではなく、高位貴族が公衆の面前で王族の命令を独自判断によって拒否する危険な前例を残さないためだったことが明らかになりました。
これをもって証拠審理は終了し、次はエドワードと42家について、誰にどの罪が成立するのかを個別に整理する段階へ進みます。




