第32話:王族にも、貴族にも、越えてはならない線がある
星環暦1284年・炎冠月≪第6月≫20日――
セレスティア王都・大審院。
炎冠月15日に国王アーサーが発した全貴族招集命令を受け、王都にはこの5日間で公爵家・侯爵家・伯爵家・子爵家・男爵家だけでなく、宮廷貴族・官僚系貴族・領地を持たない貴族家の当主や正式代理人までが次々と到着し、普段は静かな大審院周辺には早朝から多数の馬車と護衛が集まっていた。
王国に正式登録されている160家を超える貴族家を一堂に集めるなど、王位継承式や国家規模の式典でもなければ滅多にないことであり、大審院の正門をくぐる者たちの顔には、この招集が単なる第2王子派の処分報告ではないことを理解した緊張が浮かんでいた。
そこにはジュリアン王太子を支持してきた者もいれば、エドワードを政治的に支持しながら違法な王位変更工作には関与しなかった者もおり、どちらの王子にも明確な支持を示さず領政に専念してきた者、42家の中に親族や取引相手を持つ者まで、立場の異なる貴族たちが同じ命令によって集められていた。
今日問われるのは、派閥の勝敗ではない。
王国で権力を持つ者が、どこまでその力を使うことを許されるのか。
その境界だった。
◇
同日・午前――
大審院・王国審理大法廷。
通常の傍聴席だけでは人数を収容できないため、王国審理大法廷には隣接する貴族会議区画まで開放され、家格によって審理結果が左右されたと受け取られないよう席次も儀礼上の序列と審理上の立場を分離して配置されていた。
正面には大審院長・審理官・司法官・記録官が並び、その一段上に設けられた王家席には、アストリッド・セレスティア大后陛下、国王アーサー、エレノア・セレスティア王妃陛下、王太子ジュリアンが着席していた。
それとは離れた法廷中央には、被審理者であるエドワードの席が設けられている。
王子としての最低限の格式は守られ、手枷も鎖も付けられていなかったが、王族席ではなく審理を受ける者の席に座っているという事実だけで、今の彼の立場は十分に示されていた。
エドワードは法廷へ入った直後、一度だけ王家席を見た。
エレノア王妃と目が合った。
母は逃げなかった。
だが、息子へ微笑みかけることも、声を掛けることもしなかった。
その隣ではアストリッド大后が静かに法廷全体を見渡し、ジュリアンは弟を見つめながらも、今回も自ら質問する意思を示さなかった。
やがて大審院長が開廷を宣言し、全員の視線が正面へ集まった。
「本日の特別公開審理は、第2王子エドワード殿下および関係者を辱めること、あるいは特定の貴族家を見せしめとすることを目的として開かれるものではありません」
大審院長がそう告げた後、アーサーが立ち上がった。
160家を超える貴族家の代表者たちが、一斉に国王を見る。
「今日ここへ諸卿を集めた理由を、最初に明確にしておく」
アーサーの声は大きくなかったが、大法廷の隅々まで届いた。
「王太子ジュリアンを支持しているか、エドワードを支持しているか、その政治的立場を確認するためではない」
何人かの貴族の表情が僅かに動いた。
「王太子を諫めることは忠義である。王太子に不正があると考えるなら証拠を集め、定められた手続によって国王へ上奏することも、臣下として正当な責務だ」
アーサーは一度、集まった貴族たちを見渡した。
「だが、貴族には王位継承者を自ら選定し、変更する権利は与えられていない」
空気が張り詰める。
「同時に、王族だからといって、他家に属する者の身分・財産・領地・家内秩序まで自由に動かせるわけでもない」
今度は、エドワードの表情が僅かに強張った。
「今日確認するのは、王族の権限と貴族の権限、その双方の限界だ」
アーサーはゆっくりと着席した。
「王族にも、貴族にも、越えてはならない線がある」
その言葉を受け、大審院長が審理を開始した。
◇
最初に行われたのは、炎冠月15日の正式審理で得られたエドワード本人の供述について、全貴族の前で重要部分だけを再確認することだった。
大審院長は同じ尋問を最初から繰り返すのではなく、すでに記録された供述について本人の認否だけを求めた。
「エドワード殿下、あなたはジュリアン王太子殿下に代わり、自らが王太子になることを望んでいたと供述しましたね」
「……はい」
「複数の貴族家が、ジュリアン王太子殿下を王位継承順位第1位から外し、あなたを王太子とするために動いていることを認識していた?」
「はい」
「その過程で資金が必要とされていること、軍の態度を確認する動きが存在したこと、王宮内部の協力者が求められていたことについて、大枠として認識していた?」
エドワードは一瞬だけ目を閉じた。
「……認識していました」
法廷の一部から小さなざわめきが起きた。
しかし大審院長は続ける。
「一方で、42家それぞれが行った資金移動・連絡・軍への接触・官僚への働きかけその他の具体的な行為全てについて、あなたが詳細まで把握していたことは、現時点では確認されていませんね」
エドワードが顔を上げた。
「はい、それは知りませんでした」
「記録します」
この一言には大きな意味があった。
不利な事実だけでなく、まだ証明されていない範囲も同じ法廷で明確にする。
集められた貴族たちは、それを見ていた。
アーサーが補足するように口を開いた。
「諸卿にも誤解のないように言っておく」
視線が国王へ向く。
「エドワードを支持したという理由だけで裁かれる者はいない」
その言葉に、明らかに表情を変えた者が何人かいた。
「ジュリアンの政策を嫌ったことも、エドワードの方が王にふさわしいと思ったことも、それだけでは罪ではない」
アーサーは42家の関係者が座る区画にも視線を向けた。
「裁くのは思想ではない。行為だ」
法廷は静かだった。
「誰が何を知り、何を約束し、何を動かし、どこまで実行したのか。それを一人ずつ確認する」
それこそが、ここまでアーサーが守ってきた原則だった。
◇
大審院による確認が一段落すると、アストリッド大后が静かに手を上げた。
大審院長が一礼する。
「大后陛下、確認のご質問をお願いいたします」
アストリッドはエドワードを見た。
その表情に怒りはなかった。
だからこそ、エドワードは視線を逸らすことができなかった。
「エドワード、炎冠月15日の審理では、シェリィ・ヴァルモントを公衆の面前で追放すると宣言した際、自分は王子であり婚約者だったため、その程度の権限はあると思っていたと答えましたね」
「……はい」
「では、今でもそう思っていますか」
エドワードの返答が止まる。
160家を超える貴族家の代表者がいる。
この場で「ある」と言えば、王子が公爵家内部の身分を独断で決められると主張することになる。
かといって「ない」と答えれば、自分があの日何をしたのかを認めることになる。
「……今は」
エドワードは唇を湿らせた。
「今は、あの時ほど確信していません」
アストリッドは僅かに眉を上げた。
「確信していない?」
「婚約を解消することと、公爵家から追放することは……同じではなかったのだと思います」
法廷のどこかで、息を呑む音がした。
アストリッドは追い打ちをかけなかった。
「そう」
ただ、それだけだった。
「だからこそ、今日はその境界を確認するのです」
大后の質問は終わった。
続いて、エレノア王妃が大審院長へ視線を送った。
「私からも一つ、よろしいでしょうか」
許可を得ると、エレノアは息子へ向き直った。
「エドワード、あの日のシェリィについて尋ねます」
エドワードの肩が僅かに動く。
「あなたが追放を宣言した時、シェリィはその場であなたへ反論しなかったのですね?」
「……はい」
「あなたは、それをどのように受け取りましたか」
エドワードは答えに迷った。
「シェリィが私の命令を受け入れたのだと思いました」
「命令が正しいと認めた、と?」
「……そう思っていました」
エレノアの瞳が僅かに揺れる。
「今も?」
エドワードは答えられなかった。
その沈黙を、エレノアは無理に破らなかった。
「分かりました」
王妃は静かに座り直した。
その問いの答えを持っている人物は、まだ法廷にはいなかった。
◇
同日・正午前――
大審院・王国審理大法廷。
「次の証人をお呼びします」
大審院長の宣言とともに、側面の証人入口が開いた。
入廷したのは、ローランド・ヴァルモント公爵だった。
王国最大級の領地と人口を抱える公爵家の当主であり、国王アーサーとも長い付き合いを持つ人物が証人席へ立つと、貴族席の空気が再び引き締まった。
ローランドはアーサーへ一礼し、大審院に対して証言することを宣誓してから着席した。
大審院長が最初の問いを発する。
「ローランド・ヴァルモント公爵、シェリィ・ヴァルモント嬢はあなたの実子で間違いありませんか」
「間違いありません」
「卒業記念舞踏会当時、シェリィ嬢はヴァルモント公爵家の正式な令嬢でしたか」
「当然です」
「舞踏会の後、シェリィ嬢をヴァルモント公爵家から除籍する手続を行いましたか」
「一切行っておりません」
大法廷に僅かなざわめきが起きた。
大審院長は続ける。
「第2王子エドワード殿下から、シェリィ嬢をヴァルモント公爵家から除籍または追放せよとの正式な命令書が届きましたか」
「届いておりません」
「口頭の正式命令は?」
「ございません」
「国王陛下から、同様の王命を受けたことは?」
ローランドはアーサーを一度見た後、はっきり答えた。
「一度もありません」
「では、卒業記念舞踏会でエドワード殿下が『追放』を宣言した後も、シェリィ・ヴァルモント嬢はヴァルモント公爵家の令嬢であり続けた?」
ローランドは迷わなかった。
「当然です」
そして、ほんの少しだけ父親の顔になった。
「あの子は、今も私の娘です」
その言葉は、法廷の隅まで届いた。
エドワードはローランドを見たまま動かなかった。
大審院長は次の問いへ移る。
「それでは、なぜシェリィ嬢は王都を離れ、アスタリアへ向かったのでしょうか」
「ヴァルモント公爵家の娘として、領内北部に位置するアスタリアの実情を調査し、現地の管理・改善にあたるためです」
「公爵家から支援は?」
「長距離移動用の馬車・防寒具・食料・医薬品・資金・調査資料を用意し、必要な従者も付けました」
「つまり、ヴァルモント公爵家から身分も支援も失った状態で放逐されたわけではない?」
「違います」
ローランドは淡々と答えた。
「私は娘を捨てておりません」
これまで世間で語られていた「追放された公爵令嬢」という言葉と、実際に起きていたこととの違いが、全貴族の前で明確になっていく。
シェリィは王子の命令によって家を失ったのではない。
ヴァルモント公爵令嬢という立場を保ったまま、領内のアスタリアへ向かったのだ。
◇
アーサーが大審院長へ視線を送り、確認質問の許可を得た。
「ローランド、私からも聞く」
「はい、陛下」
「私がお前に、シェリィをヴァルモント公爵家から追放せよと命じたことはあるか」
「ございません」
「エドワードに、ヴァルモント公爵家の家族構成や爵位上の身分を独断で変更する権限を与えたことは?」
「私が承知する限り、ございません」
アーサーは法廷全体へ向けて言った。
「与えていない」
短い言葉だった。
しかし、国王本人の確認としては十分だった。
「王子は王族である。だからこそ王族として認められた権限を持つ」
アーサーはエドワードだけではなく、全貴族へ語る。
「だが、王子であることは国王であることではない。まして、他家の当主でもない」
貴族席の多くが静かに聞いていた。
「これはエドワードを辱めるために確認しているのではない」
アーサーはそこで言葉を切った。
「将来、別の王子が同じことをしないためだ」
その言葉に、一部の貴族が表情を変えた。
今回だけの裁きではない。
次の世代にも適用される原則を確認している。
それこそが、全貴族を集めた理由だった。
◇
今度はアストリッド大后がローランドへ問いかけた。
「ローランド、シェリィがあの日、エドワードの命令へ公然と反論しなかったことについて尋ねます」
「はい」
「あなたは娘がエドワードの命令を正当なものと認めたから従った、と考えていますか」
ローランドはすぐには答えず、僅かに視線を伏せた。
「いいえ」
貴族席がざわつく。
アストリッドが続ける。
「では、なぜ反論しなかったのです」
ローランドは一度だけ、法廷の大扉へ視線を向けた。
「それについて、私が娘の考えを代わりに語るべきではないと考えております」
アストリッドの瞳が僅かに細くなる。
「分からないから?」
「いいえ」
ローランドは首を横に振った。
「父親として、娘が何を恐れ、何を考えていたのか想像することはできますが、それは私の推測です」
その答えに、大審院の審理官たちも僅かに反応した。
「本人が説明できる以上、私の推測を事実として申し上げるべきではございません」
アストリッドは数秒ローランドを見つめ、それから小さく頷いた。
「その通りね」
彼女はそれ以上尋ねなかった。
「その答えは、本人から聞きましょう」
エドワードの顔が僅かに強張った。
◇
エレノア王妃も、ローランドへ確認質問を行った。
「ローランド公爵、シェリィとエドワードの婚約について確認させてください」
「何なりと」
「二人の婚約は、エドワード一人の意思だけによって成立したものではありませんね」
「はい、王家とヴァルモント公爵家が正式に合意した婚約でございます」
「ならば、その関係を解消するにしても、少なくとも一方が公衆の面前で宣言するだけで、相手方の家における身分まで消えるものではない?」
「その通りです」
エレノアは一瞬、エドワードへ視線を向けた。
「ありがとうございます」
声は王妃として保たれていた。
それでも、自分の息子が起こした出来事について、自分がその事実を確認しなければならない苦しさまでは隠しきれていなかった。
ローランドは余計な言葉を足さなかった。
ここは娘の名誉を叫ぶ場所でも、父親としてエドワードを責める場所でもない。
事実を積み上げる場所だった。
◇
ローランドへの主要な証人尋問が終わろうとした時、それまで黙っていたエドワードが突然口を開いた。
「では、なぜ止めなかったのですか」
法廷が静まり返る。
大審院長が制止しようとしたが、ローランドが視線で問題ないと示した。
エドワードは証人席のローランドを見ていた。
「あの日、私にその権限がなかったのなら、なぜ公爵はあの場で私を止めなかったのですか」
ローランドはすぐには答えなかった。
「シェリィも、何も言わなかった」
エドワードの声には怒りより混乱があった。
「あいつは私に従った。だから私は……」
その先が続かなかった。
ローランドは娘の元婚約者をしばらく見つめた。
「止めなかったのではありません」
エドワードの目が上がる。
「あの場で、お前とヴァルモント公爵家が正面から衝突すれば、その一言がどこまで広がるのかを、少なくとも私は考えた」
「なら――」
「だが」
ローランドの声が、エドワードを止めた。
「シェリィが何を考えたのかを、私が代わりに語るつもりはない」
ローランドは大法廷の扉を見た。
「本人に聞け」
エドワードは何も言えなくなった。
◇
同日・午後――
大審院・王国審理大法廷。
ローランドの証人尋問が終了した後、大審院長は午前から積み上げられた証言と確認事項を整理した。
第2王子エドワードが自ら王太子となることを望んでいたこと、複数の貴族家が王位継承順位の変更を目的として動いていることを認識していたこと、資金・軍・王宮内協力者に関する動きを大枠として認識していたこと。
一方で、42家それぞれの具体的工作全てをエドワードが把握していたとはまだ認定されていないこと。
そして、卒業記念舞踏会におけるシェリィへの「追放」については、アーサーから正式な王命が出された事実も、ローランドが公爵家から除籍した事実もなく、エドワードにヴァルモント公爵家内部の身分を変更する権限が与えられていた事実も存在しないこと。
そこまで確認した大審院長が、法廷を見渡した。
「以上をもって、ローランド・ヴァルモント公爵に対する証人尋問を終了いたします」
ローランドが証人席を離れる。
しかし、審理は終わらない。
大審院長は手元に残った最後の証人書類へ視線を落とした。
法廷の空気が変わったことを、誰もが感じた。
アーサーが静かに前を見る。
エレノア王妃の指先が、膝の上で僅かに動く。
アストリッド大后は表情を変えず、大法廷の正面扉へ視線を向けた。
ジュリアンも同じ方向を見る。
エドワードは、その意味に気づいた。
顔から、僅かに血の気が引いていく。
大審院長が立ち上がった。
「本件に関する最後の重要証人をお呼びします」
160家を超える貴族家の代表者たちが、一斉に正面を向いた。
その名を知らない者はいなかった。
「シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢、ご入廷ください」
大法廷の重い扉が、ゆっくりと開いた。
全貴族家が見届ける特別公開審理で、ローランド・ヴァルモント公爵の証言により、シェリィがヴァルモント公爵家から法的に追放された事実は存在しなかったことが明確になりました。
一方、なぜシェリィ本人があの日、エドワードへ公然と反論しなかったのかについて、ローランドは推測で代弁することを拒みました。
その答えを語る最後の重要証人が、ついに法廷へ呼ばれます。




