第31話:私は、王太子になりたかった
星環暦1284年・炎冠月≪第6月≫15日――
大審院・王国審理大法廷。
朝の鐘が鳴り終わる頃、王国審理大法廷では第2王子エドワードに対する正式審理の準備が整い、正面には大審院の審理官と記録官、その左右には司法官が並び、王家の席には国王アーサー・大后陛下・王妃陛下・王太子ジュリアンが静かに着席していた。
王族がこれほど揃って一つの審理を見届けること自体が異例だったが、その中でも最も異質なのは、本来なら王族席に座っているはずのエドワードが、今日は法廷中央に設けられた被審理者席へ座っているという光景だった。
拘束中とはいえ罪人として扱われているわけではないため、手枷も鎖もなく、服装も王子としての最低限の格式が保たれていたが、王家の印章を扱う権限も、公務上の権限も停止された今、その席だけが彼の現在の立場を明確に示していた。
エドワードが王族席へ視線を向けると、最初に目が合ったのは王妃だった。
母は息子を見ていた。
しかし、呼びかけなかった。
王妃の両手は膝の上で重ねられ、その指先だけが僅かに強く組まれていた。
ジュリアンも弟を見ていたが、その表情から感情を読み取ることは難しく、今日は王太子として出席するだけで、自ら尋問へ加わる意思がないことを事前に大審院へ伝えていた。
やがて大審院長が立ち上がり、法廷全体へ向けて開廷を宣言した。
「本日の審理は、第2王子エドワード殿下が《王位継承秩序侵害罪法》に抵触する行為へ、どの程度の認識と意思をもって関与していたのかを確認するために行います」
大審院長は記録官へ一度視線を送り、それからエドワードへ向き直った。
「本日ここで問われるのは、42家すべての責任でも、あなたを支持した者すべての思想でもありません」
「問われるのは、あなた自身が何を知り、何を望み、何をしたのかです」
法廷に沈黙が落ちた。
アーサーは何も言わず、息子を見ていた。
大審院長が最初の問いを発した。
「エドワード殿下、あなたはジュリアン王太子殿下に代わり、自らが王太子になることを望んでいましたか」
エドワードの喉が小さく動いた。
「……その問いは、罪を認めろという意味ですか」
「いいえ、望んだことそのものが罪であるとは申し上げておりませんので、事実をお答えください」
エドワードは王族席へ目を向けたが、アーサーもジュリアンも助け舟を出さなかった。
長い沈黙のあと、エドワードは正面へ向き直った。
「……望んでいました」
記録官の筆が動く。
「ジュリアン王太子殿下よりも、自分の方が王になるべきだと考えたことがありますか」
エドワードは一度目を閉じた。
「あります」
アーサーがそこで初めて口を開いた。
「それだけなら罪ではない」
エドワードが父を見る。
「兄より自分の方が王にふさわしいと思うことも、兄の政策を嫌うことも、私に王太子を替えてほしいと願うことも、それだけで処罰されることはない」
エドワードの表情に一瞬だけ安堵が浮かんだが、アーサーの次の言葉で消えた。
「問題は、その願いを実現するために何をしたかだ」
大審院長が審理を続けた。
「なぜ、自分が王太子になるべきだと考えたのですか」
エドワードは答えようとして、言葉を止めた。
これは証拠の有無ではなく、自分自身について答えなければならない問いだった。
「兄上は、何でもできました」
法廷の空気が僅かに変わった。
「学問でも、政治でも、剣でも、礼儀でも、何をしても兄上の方が先に評価され、私が何かをすれば『ジュリアン殿下ならこうした』『王太子殿下を見習え』と言われました」
エドワードの声には怒鳴り声ではなく、長年積み重なってきた苛立ちが滲んでいた。
「それでも最初は、兄上が王太子なのだから当然だと思っていましたが、やがて貴族たちから、兄上の政策では王国が息苦しくなる、監査も入札も透明化も進めすぎれば古くから王国を支えてきた貴族の役割が失われると言われるようになりました」
「誰から言われましたか」
「オルデンフェルト公爵だけではありません、複数の貴族からです」
「その言葉を信じましたか」
「……はい」
エドワードはそこで一度言葉を切り、自分の拳を見た。
「私なら話を聞く王になれる、兄上とは違う形で王国をまとめられる、そう言われて……私は、兄上より劣っているのではなく、兄上とは違う王になれるのだと思いました」
王妃の指先が僅かに震えた。
しかし口は挟まなかった。
大審院長は机上の証拠書類を一枚取り上げた。
「ミレーヌ・クロードの供述について確認します」
エドワードの表情が硬くなる。
「彼女は、あなた本人から『皆が動いてくれている』『いずれ私が王太子になる』『父上も最後には認めるしかない』という言葉を直接聞いたと証言していますが、発言した事実はありますか」
エドワードはしばらく黙った。
「……あります」
「“皆”とは誰を指していましたか」
「私を支持していた貴族たちです」
「何のために動いていると理解していましたか」
エドワードの呼吸が僅かに浅くなる。
「兄上の政策へ反対するためです」
大審院長は表情を変えなかった。
「それだけですか」
「……」
「ジュリアン王太子殿下を王位継承順位第1位から外し、あなたを王太子とするために動いていることを認識していましたか」
エドワードは俯いた。
すぐに否定すればいい。
だが、ミレーヌの証言だけではない。
ルーカスの証言も、自筆の覚書も残っている。
ここで虚偽を述べれば、それ自体が自分の言葉の信用を失わせる。
「……認識していました」
法廷の各所で、小さく息を呑む音がした。
大審院長は次の証拠へ移った。
机上へ置かれたのは、ルーカス・フェルデンの私物箱から押収された一枚の覚書だった。
『兄上を退けるには、先に諸家の意思を固める必要がある。父上への上奏は、その後でよい。オルデンフェルト公爵らの準備を止めるな。』
「この文書があなたの筆跡であることは、すでに認めていますね」
「はい」
「では、“兄上を退ける”とは何を意味しますか」
「父上へ、兄上の廃嫡を求めるという意味です」
「“諸家の意思を固める”とは?」
「多くの貴族から賛同を得ることです」
「“準備を止めるな”とは?」
エドワードの返答が遅れた。
「……父上へ上奏するための準備です」
大審院長は覚書を見下ろした。
「では、なぜ『父上への上奏は、その後でよい』なのですか」
エドワードは答えなかった。
「王太子に重大な問題があると考えたのであれば、証拠を集め、国王陛下へ上奏し、判断を仰ぐことができますが、あなた方はその前に複数の貴族家の意思を統一し、資金を集め、軍の態度を確認し、王宮内の協力者を探し、王太子交代後の人事についてまで検討していました」
「私は全部を命じていない!」
エドワードの声が初めて大きくなった。
法廷が静まり返る。
「私は父上を廃そうとはしていませんし、軍に王宮を攻めろとも、兄上を殺せとも言っていません!」
アーサーが静かに口を開いた。
「誰も今、お前を国王打倒の罪で審理してはいない」
エドワードが父を見る。
「では、何が違うのですか、最終的には父上が決めることだった、私は父上が認めなければ王太子にはなれないことくらい分かっていました!」
アーサーはしばらく息子を見つめた。
「ならば聞こう」
国王の声に、怒鳴り声はなかった。
「お前は私に判断してほしかったのか」
エドワードの目が揺れる。
「それとも、私が認めるしかない状況を先に作りたかったのか」
誰も動かなかった。
エドワードは口を開いたが、言葉が出てこなかった。
「複数の大貴族が合意し、資金が動き、軍が中立を約し、王宮内部にも協力者ができ、王太子交代後の役職まで固められた後で私へ上奏すれば、それは私に自由な判断を求める行為なのか」
「……」
「お前の覚書には、『父上への上奏は、その後でよい』とある」
アーサーは机上の紙へ視線を落とした。
「その“後”までに、お前たちは何を完成させようとしていた」
エドワードは唇を噛んだ。
「……父上に、真剣に考えていただくためです」
「私が普通に上奏された程度では真剣に考えない国王だと、お前は思っていたのか」
その問いには、エドワードもすぐには答えられなかった。
大審院長はさらに記録をめくった。
「ルーカス・フェルデンは、あなたが『軍は動かなければよい』という趣旨の発言をしたと証言していますが、事実ですか」
「軍に反乱を命じたわけではありません!」
「それは質問しておりません」
大審院長の声は淡々としていた。
「王太子交代を進める際、王国軍がジュリアン王太子殿下を支持して介入しないよう、軍の中立を確保する必要があると考えていましたか」
エドワードの目が泳ぐ。
「……混乱を避けるためです」
「つまり、必要性は認識していた?」
「兄上を支持する軍と、私を支持する貴族が衝突すれば内乱になるかもしれない、それを避けるためです」
「王太子交代を前提として、軍がどう動くかを考えていたことは認めますか」
エドワードは拳を握った。
「……はい」
大審院長は記録官へ目を向け、回答を正確に記録させた。
「オルデンフェルト公爵らが、王宮内の協力者を確保しようとしていたことは知っていましたか」
「詳細までは知りませんでした」
「質問は詳細ではありません」
「……協力者が必要だという話は聞いていました」
「資金が必要であることは?」
「知っていました」
「王太子交代後の役職配分について話し合いが行われていたことは?」
「一部は聞いていました」
大審院長はそこで問いを止めた。
「つまり、各家が担当した細かな工作の全てを把握していたわけではないが、複数家が王太子交代のために資金・軍・王宮内部・交代後の体制について準備していたことは、大枠として理解していたということですか」
長い沈黙の後、エドワードは小さく答えた。
「……はい」
王妃がそこで初めて審理官へ視線を向けた。
大審院長が頷く。
「王妃陛下、確認のご質問がございましたら」
王妃は息子を見た。
母としてではなく王妃として質問しなければならないと分かっているはずなのに、その声が出るまでには僅かな時間が必要だった。
「エドワード」
エドワードが顔を上げる。
「あなたは一度でも、ジュリアン本人と、この件について話しましたか」
「……いいえ」
「兄の政策が間違っていると思ったのなら、なぜ本人にそう言わなかったのです」
エドワードは視線を逸らした。
「言っても、兄上は変えないと思いました」
「では、陛下へ相談しましたか」
「……していません」
「私には?」
答えはなかった。
王妃の指が膝の上で一度だけ強く握られた。
「あなたには、兄へ反対する道も、父である国王へ訴える道も、母である私へ相談する道もあったのです」
王妃はそこで言葉を切った。
「それでも、なぜ私たちではなく、あなたを王太子にしたいと言う者たちの言葉を先に信じたのですか」
エドワードの顔が歪んだ。
「……あの人たちは、私を必要だと言ったからです」
王妃の瞳が僅かに揺れた。
「そう」
それ以上、王妃は尋ねなかった。
大后陛下が静かに口を開いた。
「私からも一つだけよろしいかしら」
大審院長が深く頭を下げる。
大后はエドワードを真っ直ぐ見た。
「エドワード、あなたは王族であることと、何を命じてもよいことを同じだと思っていましたか」
エドワードの眉が動いた。
「……いいえ」
「では、卒業記念舞踏会でシェリィ・ヴァルモントに追放を命じた時、どの権限を使ったつもりだったのです」
法廷の空気が変わった。
エドワードは答えに詰まった。
「私は……王子で、シェリィの婚約者でした」
「それで?」
「婚約を解消し、あの場から退かせるくらいの権限はあると思っていました」
大后は表情を変えない。
「婚約を解消することと、ヴァルモント公爵家の娘をヴァルモント公爵家から追放することは、同じですか」
「……」
「あなたは王子でした」
大后は短く言った。
「けれど、国王ではありません」
エドワードの肩が僅かに下がった。
「誰の権限で、公爵家の娘の身分まで奪えると思ったのか、その点については後の証人から確認しましょう」
その言葉を聞いたエドワードが顔を上げた。
大審院長が次の記録へ移る。
「この件については、ローランド・ヴァルモント公爵から正式な証言を得る予定です」
エドワードの表情が固まる。
さらに大審院長は続けた。
「シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢についても、国王命令によって重要証人として招集され、すでに王都へ帰還しています」
エドワードの目が大きく開いた。
「……シェリィが?」
その反応だけは、それまでのどの質問に対するものより明確だった。
「はい」
「なぜ、あいつまで……」
大審院長は余計な説明をしなかった。
「必要な事実を確認するためです」
エドワードはそれ以上何も言わなかったが、視線を落とした後も落ち着きを取り戻すことができず、指先だけが何度も膝の上で動いていた。
◇
同日・午後――
大審院・王国審理大法廷。
追加の証拠確認を終えたあと、アーサーが再びエドワードへ問いかけた。
「エドワード、もう一度だけ聞く」
エドワードは父を見る。
「お前は、王太子になりたかったのか」
今度は迷わなかった。
「なりたかったです」
「ジュリアンを退けてでも?」
長い沈黙があった。
王妃は息子から目を逸らさなかった。
大后も、ジュリアンも、何も言わなかった。
「……はい」
その回答が記録された。
アーサーはゆっくり頷いた。
「分かった」
エドワードの顔に緊張が走る。
しかし、アーサーが続けた言葉は断罪ではなかった。
「お前が王太子になりたいと思ったことを裁くのではない」
国王は息子を真正面から見た。
「その望みのために、お前が何を知り、何を選び、何をしたのかを裁く」
それが、この審理の原則だった。
誰を好きだったか。
誰を嫌っていたか。
誰を王にしたいと思ったか。
それだけでは罪にはならない。
だが、自らの望みを実現するために、人・金・軍・官僚・王宮内部の影響力を動かし、法で定められた王位継承順位を変更しようとしたのであれば、それは別の問題になる。
大審院長は、本日の証言だけでは最終認定を行わず、エドワード本人が把握していた計画の範囲・オルデンフェルト公爵らとの意思連絡・シェリィに対する命令の法的性質について、追加証人を含めた審理が必要であると報告した。
「次回はローランド・ヴァルモント公爵を含む関係者への証人尋問を行うことを提案いたします」
アーサーは暫く考えていた。
そして大審院長が閉廷を宣言しようとした時、国王が右手を僅かに上げた。
「待て」
法廷の全員が動きを止めた。
アーサーはゆっくり立ち上がった。
「次の審理は、通常審理にはしない」
大審院長が国王を見る。
「王国全土の貴族家へ招集命令を出せ」
法廷がざわめいた。
「陛下、第2王子擁立に関与した42家ではなく、でございますか」
「全てだ」
一言で、ざわめきが止まった。
「領地を持つ家だけではない、宮廷貴族・官僚系貴族・無領地の家を含め、王国に正式登録されている全貴族家を対象とする」
その数は160家を超える。
王国の政治・軍事・行政・経済を支えている貴族社会そのものを、大審院へ集める命令だった。
「原則として当主本人を出席させよ、病気・遠征・国務その他の正当な事情がある場合に限り、家を代表する正式代理人を認める」
大審院長が慎重に尋ねた。
「その目的を、招集命令にはどのように記載いたしましょう」
アーサーは王族席、エドワード、大審院、そして法廷に残る者たちを順番に見た。
「今日まで審理してきたのは、エドワードと42家が何をしたかだ」
国王の声が大法廷に響いた。
「だが、この事件で確認しなければならないことは、それだけではない」
「王族は、どこまで命令できるのか」
「貴族は、どこまで王族を諫めることができるのか」
「どこまでが正当な上奏で、どこからが王位継承秩序への違法な介入となるのか」
アーサーは一度言葉を止めた。
「王太子を諫めることは忠義だ」
「王太子に不正があるなら証拠を集め、国王へ上奏することも臣下として正当な責務だ」
「だが、自ら人・金・軍・官僚を動かし、王太子を選び直すことは違う」
その言葉は、エドワードだけへ向けられたものではなかった。
これから王国全体へ向けて示される基準だった。
「この違いを、王国の全貴族に聞かせる」
アーサーは大審院長へ命じた。
「次回審理を炎冠月20日、《特別公開審理》として開廷せよ」
「御意」
アーサーはさらに続けた。
「大后陛下と王妃にも、正式に出席をお願いする」
王妃が僅かに顔を上げ、大后は静かにアーサーを見た。
「これは貴族だけに聞かせる話ではない」
アーサーは自らの胸へ手を置いた。
「王家自身も、見届けなければならない」
大后がゆっくり頷く。
「当然でしょう」
王妃も息子を見たあと、静かに答えた。
「出席いたします」
ジュリアンだけは何も言わなかった。
兄として言いたいことがないわけではない。
だが、それを口にする時は、今ではなかった。
◇
同日・夕刻――
大審院・国王臨時執務室。
記録官が新しい羊皮紙を広げ、大審院の法務官が条文と招集範囲を確認する中、アーサーは全貴族家へ向けた国王招集命令の最終文面を確認していた。
命令には、炎冠月20日に大審院で開かれる特別公開審理へ、王国に正式登録された全貴族家が当主または認められた正式代理人を出席させること、この招集が第2王子エドワードを辱めるためでも、特定派閥を公開処刑のごとく見物させるためでもないことが明記された。
目的は、《王位継承法》および《王位継承秩序侵害罪法》に基づき、王族の権限・貴族の権限・正当な諫言と上奏・違法な王位継承変更工作の境界を、王国全体で確認すること。
アーサーは最後まで読み終えると署名した。
続いて国王印が熱した封蝋へ押し込まれる。
赤い蝋の上に、セレスティア王国の紋章が刻まれた。
「発送せよ」
「御意」
その日の夕刻、王都の各門から王家の紋章を掲げた早馬が次々と走り出し、王都の各貴族邸・公爵領・侯爵領・伯爵領・子爵領・男爵領・宮廷貴族家・無領地貴族家へ向けて、同じ国王命令が運ばれていった。
目的地は、一つではない。
王国に存在する、すべての貴族家。
次の審理は、もはや一人の王子だけのための審理ではなかった。
王族にも、貴族にも、越えてはならない線がある。
その境界を、セレスティア王国そのものが確認する日が来ようとしていた。
エドワード本人への正式審理が始まり、彼自身の口から、王太子になりたいと望んでいたこと、複数の貴族家がジュリアンを王太子から外すために動いていることを認識していたことが語られました。
一方で、エドワードが42家による全ての工作内容を把握していたとまではまだ認定されておらず、罪の範囲を確定するための審理は続きます。
そしてアーサー国王は、今回の事件を42家だけの問題として終わらせず、王族と貴族の権限の境界を王国全体で確認するため、160家を超える全貴族家へ招集命令を発しました。
炎冠月20日、大后陛下・国王・王妃・王太子、そして王国中の貴族が見届ける特別公開審理が開かれます。




