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アスタリア大商会起業編 ~無知な母国を置き去りに、極寒の死地を熱で満たします~  作者: IORI


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第30話:王都へ帰る、公爵令嬢

星環暦(せいかんれき)1284年・炎冠月(えんかんづき)≪第6月≫12日――

アスタリア大商会・本館執務室。

朝の業務が始まって間もなく、王家の紋章を掲げた馬車がアスタリア大商会の正門前へ到着し、国王直属の使者が国王印によって封じられた正式文書を携えて本館へ入った。

シェリィは応接室で使者を迎えると、差し出された文書の封蝋・国王印・文書番号に不備がないことを一つずつ確認してから封を切り、そこに記された内容を最後まで静かに読み進めた。

《王位継承秩序侵害罪法》に関する正式審理において、シェリィ・ヴァルモントを重要証人および事件関係者として招集し、王都への出頭を命ずる。

末尾には、セレスティア国王アーサーの署名があった。

シェリィは全文を読み終えると、もう一度冒頭から確認してから顔を上げた。

「念のため確認させていただきますが、これは私を被疑者として召喚するものではなく、正式審理における重要証人としての出頭命令で相違ございませんね」

「はい、大審院からも、シェリィ・ヴァルモント公爵令嬢は重要証人として扱われるとの正式通知を受けております」

「承知いたしました」

シェリィが文書を丁寧に畳むと、使者は一度姿勢を正し、もう一件伝えるべきことがあると告げた。

「昨日、第2王子エドワード殿下の身柄が、国王陛下の命により拘束されました」

その言葉を聞いた瞬間、シェリィの表情はほとんど変わらなかったが、文書を支えていた指先だけが僅かに強く紙を押さえた。

「……そうですか」

何の証拠が出たのか、誰が証言したのか、どこまでエドワード本人の関与が確認されたのか、知ろうと思えば今この場で尋ねることはできたが、これから自分が正式な証人として法廷へ立つ以上、手続を通さずに余計な情報を得ることは避けるべきだとシェリィは判断した。

「審理内容については、王都へ到着してから大審院より正式な説明を受けることにいたします」

「そのように手配されております」

「では、出発の準備を始めます」

国王に召されたからといって、すぐ馬車へ乗ればよいわけではない。

王都へ向かう前に、自分がいなくてもアスタリア大商会が正常に動き続けることを確認する必要があった。

◇

同日――

アスタリア大商会・会議室。

主要担当者が集められ、机の上には王都向け救援物資・通常取引・倉庫在庫・輸送予定・王国銀行を介した決済状況・各支店からの報告書が広げられていた。

「私が王都へ向かった後も、救援物資の販売価格は変更しません」

物流担当者が王都の市場報告を確認しながら尋ねた。

「王都の市場価格はすでに下落傾向にありますが、このまま通常価格を維持するということでよろしいでしょうか」

「はい、ただし市場価格が下がったから維持するのではありません」

シェリィは報告書の一部を指で示した。

「供給不足が解消され始めた直後に大量供給を急激に減らせば、商人は再び『品薄になるかもしれない』と考えますし、その不安が買い急ぎへつながれば価格は再び上昇しますので、王都側の在庫量・販売量・平均価格を毎日確認し、通常の商流が自力で回復したことを数字で確認してから、段階的に救援供給を通常取引へ戻してください」

「小規模商店と診療所への優先卸は継続しますか」

「継続してください、大口商会による一括購入制限・一般家庭への購入上限も市場が安定するまでは維持しますが、必要以上に長く残せば今度は通常商取引を阻害しますので、解除条件も数字で決めてください」

シェリィはその後も、小麦・塩・食用油・乾燥豆・薪・木炭・薬草の在庫量、後続輸送の予定、王国銀行での決済残高、取引先への支払期限、輸送事故が発生した場合の代替経路、各支店から本部への報告手順まで一つずつ確認し、誰が判断し、誰が代行し、どの条件で次の段階へ移るのかを明確にしていった。

国王から呼ばれたから商会が止まる。

そのような組織を、シェリィは作ったつもりはなかった。

一通りの確認が終わったところで、担当者の一人が安堵したように息を吐いた。

「会長がお戻りになるまで、何とかなりそうです」

シェリィが僅かに眉を上げる。

「“何とか”では困ります」

担当者の背筋が伸びたが、シェリィはすぐに表情を和らげた。

「私一人が離れただけで止まる商会なら、それは組織ではありませんし、皆さんに任せられるようにするため、ここまで仕組みを作ってきたのです」

「はい」

「では、お願いいたします」

その日の午後、王都へ向かう準備は整った。

◇

同日・午後――

アスタリア大商会・正門前。

王家の使者と護衛が先導し、その後ろへヴァルモント公爵家の紋章を掲げた馬車が続いた。

シェリィは乗車する直前、アスタリア大商会の本館を一度だけ振り返った。

この地へ到着した時には、信用も顧客も物流網も決済網もなく、自分の知識と、公爵家の娘として預かった責任を頼りに一つずつ積み上げるしかなかったが、今では自分が数日離れても動く商会があり、100万人を超える王都市民へ生活物資を送り込める供給網があり、その商流を支える信用と契約がある。

「出発いたします」

御者の声とともに馬車がゆっくり動き始める。

かつて北へ向かった街道を、今度は反対方向へ進む。

だが、戻る自分は、あの時と同じではなかった。

◇

星環暦1284年・炎冠月13日――

王都へ続く街道・中継宿場。

宿場にも、すでにエドワード拘束の噂は届いており、休憩のため馬車を止めたシェリィの耳にも、店先で話す商人たちの声が入った。

「第2王子殿下も、もう終わりだろう」

「王太子殿下から王位を奪おうとしたって話じゃないか」

「国王陛下に捕らえられたなら、もう罪人なんだろ?」

シェリィは足を止め、商人たちへ静かに視線を向けた。

「まだ、判決は出ておりません」

突然声を掛けられた商人たちが振り返り、その相手が誰なのかに気づいて目を見開いた。

「エドワード殿下は正式審理のため身柄を拘束されたのであって、有罪が確定したわけではございません」

一人の商人が戸惑いながら尋ねた。

「ですが、証拠が出たから捕まったのでしょう?」

「審理するだけの証拠が揃ったことと、罪が確定したことは別です」

シェリィはそれだけ告げると、再び宿へ向かって歩き出した。

同行していた護衛の一人が、周囲に聞こえない程度の声で尋ねた。

「エドワード殿下に有利になるようなことを、あえて仰る必要がございましたか」

「殿下に有利だから申し上げたのではありません」

「では?」

シェリィは前を向いたまま答えた。

「事実だからです」

その言葉に迷いはなかった。

◇

星環暦1284年・炎冠月14日――

セレスティア王都・西門。

午後の陽光の中、アスタリア・ヴァルモント方面から続く主要街道を通って、王家の護衛を伴った一団が王都へ近づいていた。

数日前、この西門からはアスタリア大商会とヴァルモント公爵領が用意した大量の小麦・塩・食用油・乾燥豆・薪・木炭・薬草が王都へ入り、それまで空き始めていた市場の棚を再び満たした。

今度は、その物資を送り出した本人が、同じ門から王都へ入ろうとしていた。

先頭を走る騎馬と王家の旗に続き、ヴァルモント公爵家の紋章を付けた馬車とアスタリア大商会の標章が見えると、門の周囲にいた人々の間からざわめきが広がった。

「ヴァルモント公爵家だ」

「アスタリア大商会の馬車もいるぞ」

「……まさか、シェリィ様じゃないか?」

その名が人から人へ伝わっていく。

「北へ行った公爵令嬢?」

「王都へ小麦を送った人だろう?」

「アスタリア大商会の会長だ」

馬車が西門を通過する頃には、沿道へ視線を向ける者が増えていたが、歓声に包まれた凱旋ではなく、驚き・好奇心・感謝、そして以前とは明らかに異なる敬意が混ざった静かな迎え方だった。

シェリィは窓越しに王都の街並みを見つめた。

北へ向かった時、自分を見ながら囁く者の多くは「魔法の使えない公爵令嬢」「第2王子に捨てられた令嬢」といった噂を口にしていたが、今聞こえてくる言葉は違っていた。

「うちの店にもアスタリアの小麦が入ったぞ」

「薪が買えたのも、あの商会のおかげだ」

「高くて買えなかった油も戻ったんだよ」

市場近くを通った時、一人の店主が馬車へ向かって頭を下げた。

「シェリィ様、アスタリアの小麦、本当に助かりました!」

別の女性も続けて声を上げた。

「薪もです、ありがとうございました!」

シェリィは窓を僅かに開き、言葉で大きく応えるのではなく、静かに頭を下げた。

馬車が再び進み始めると、シェリィは小さく息を吐いた。

「……間に合って、よかった」

自分の名が知られたことより、必要な時に必要な物が届いたことの方が、彼女にはずっと重要だった。

◇

同時刻――

セレスティア王宮・星詠みの間。

王都の喧騒から隔てられた王宮最深部で、大后は静かに目を閉じていた。

星詠みの間を包む魔力は、王都を流れる膨大な魔力の揺らぎと穏やかに結びついており、長くこの場所に身を置く大后にとって、それは目で見る景色とは異なるもう一つの王都の姿でもあった。

その流れが、ほんの僅かに変わる。

西門の方角から、一つの懐かしい気配が王都の内側へ入ってきた。

大后の瞼がゆっくり開いた。

その気配を間違えるはずがない。

幼い頃から何度も感じ、長く遠く離れていても決して忘れることのなかった魔力だった。

厳格だった大后の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「……戻ったのね」

誰に聞かせるでもない、小さな声だった。

立ち上がることはしなかった。

今すぐ会おうと思えば、王都に入ったシェリィを王宮へ呼ぶこともできるが、彼女はこれから王国の重大事件における重要証人として法廷へ立つ。

今は、会わないこともまた守ることだった。

大后は静かに目を閉じ、再び星詠みの間を流れる魔力へ意識を戻した。

◇

同日・夕刻――

ヴァルモント公爵家・王都邸。

大きな門が開き、馬車が玄関前へ到着すると、ヴァルモント公爵家に仕える使用人たちはすでに整列して待っていた。

シェリィが馬車から降りると、先頭に立つ家令が深く頭を下げた。

「お帰りなさいませ、シェリィお嬢様」

その一言で、シェリィの足が僅かに止まった。

ようこそ、ではない。

お久しぶりです、でもない。

お帰りなさいませ。

あの日、エドワードがどのような言葉を口にしようと、この屋敷にとってシェリィは一度も「追放された者」ではなく、ずっと帰ってくるべき娘だった。

「ただいま戻りました」

玄関ホールへ入ると、父であるローランド・ヴァルモント公爵が待っていた。

王国でも有数の大貴族としての威厳は変わらなかったが、娘を見る目だけは、公爵ではなく父親のものだった。

「おかえり、シェリィ」

シェリィの表情が僅かに柔らかくなる。

「ただいま戻りました、お父様」

その横から歩み出たのは、シェリィの母、マーガレット・ヴァルモント公爵夫人だった。

マーガレットは何も言わず娘の前まで歩き、北へ向かった時より少し大人びた顔と、自分の判断に責任を負う者の強さが以前より濃く宿った瞳をしばらく見つめていたが、やがて母親としての感情がその表情を柔らかくした。

「……本当に帰ってきたのね」

マーガレットはそう言うと、シェリィを抱きしめた。

シェリィの身体は一瞬だけ固まったが、すぐに肩から力が抜け、自分からも母の背へ腕を回した。

「はい、お母様、ただいま戻りました」

公爵令嬢として、アスタリア大商会の会長として、王国の重大事件に関わる重要証人として、いくつもの立場を背負って王都へ戻ってきたシェリィだったが、この瞬間だけは、ただ家へ帰ってきた娘だった。

マーガレットが身体を離すと、改めて娘の全身を確かめるように見た。

「少し痩せたのではなくて?」

「むしろ北へ行ってから、以前よりよく食べております」

「あなたは昔から、そうやって心配させないように平気な顔をするのよ」

「そのようなつもりは……」

「自覚がないのも昔からね」

返事に困ったシェリィを見て、ローランドが小さく咳払いした。

「玄関で話し続けるのも何だ、まず中へ入ろう」

マーガレットは夫へ視線を向けた。

「一番長く娘の顔を見ていた方が仰ることではありませんわ」

「……それは否定できんな」

久しぶりに聞く両親のやり取りに、シェリィは小さく笑った。

◇

同日――

ヴァルモント公爵家王都邸・家族用応接室。

使用人が茶を置いて退出すると、部屋にはローランド・マーガレット・シェリィの3人だけが残った。

ローランドは娘の表情を静かに見ながら尋ねた。

「エドワード殿下のことは聞いたか」

「はい、アスタリアへ来られた王家の使者から伺いました」

「そうか」

ローランドは一度言葉を止め、父親として聞くべきか、公爵として黙るべきか迷った末に、静かに尋ねた。

「つらいか」

マーガレットも口を挟まず、ただ娘を見ていた。

シェリィはすぐには答えず、自分の胸の内にある感情を確かめるように少しだけ時間を置いた。

「何も感じないと申し上げれば、嘘になります」

それ以上は言わなかった。

マーガレットも聞かなかった。

ローランドも追及しなかった。

その続きを語る時は、まだここではない。

シェリィはやがて机上の文書へ視線を移した。

「お父様にも、大審院から出廷のご連絡がございましたか」

「ああ、婚約の成立経緯・卒業記念舞踏会でのエドワード殿下の発言・その後のお前の法的な立場について証言を求められている」

「やはり、そうですか」

「おそらく、お前が本当にヴァルモント公爵家から追放されたのかも聞かれるだろう」

シェリィは静かに頷いた。

「お父様、私のために事実を良く見せようとはなさらないでください、ご存じのことだけを、ご存じの通りにお話しください」

ローランドは数秒娘を見つめた後、僅かに苦笑した。

「それは私が、お前に言おうと思っていた言葉だ」

マーガレットが2人を交互に見た。

「本当に似た親子ですこと」

「そうでしょうか」

「その自覚がないところまで似ております」

シェリィは母へ向き直った。

「お母様も、もし何か尋ねられることがございましたら、同じようにお願いいたします」

「もちろんよ、でも私からも一つだけ約束してちょうだい」

「何でしょう」

マーガレットは娘の目を真っ直ぐ見た。

「あなたも、自分を強く見せるために何かを隠さないこと、尋ねられたことが事実であるなら、恥ずかしいことでも、つらいことでも、あなたが実際にどう思っていたのかまで必要ならきちんと話しなさい」

シェリィの表情が僅かに止まった。

「事実を話せと言ったのは、あなたでしょう?」

シェリィは少しだけ視線を伏せた。

「……はい」

その返答を聞いたマーガレットは、それ以上何も言わなかった。

◇

同日・夜――

ヴァルモント公爵家王都邸・シェリィ私室。

王宮から正式な使者が到着し、大審院からの証人出廷準備文書と、王太子ジュリアンからの正式な伝言が届けられた。

文面には、事件の重要証人となるシェリィ・ヴァルモントとの私的接触を証言終了まで控えること、審理内容について事前の相談・情報共有を行わないこと、必要な連絡は大審院または王宮の正式窓口を介することが記されていた。

「ジュリアン王太子殿下へのご挨拶はいかがいたしましょう」

家令の問いに、シェリィは文書を畳んだ。

「いたしません」

「よろしいのでしょうか」

「今は、その方がよろしいでしょう」

秘密の協定を結んだ相手だからこそ、今は会うべきではなく、事件について何らかの相談を行ったと疑われれば、自分の証言だけでなくジュリアンの立場まで傷つくことを、シェリィは理解していた。

王妃と大后からも、シェリィの帰還を承知しているという正式な伝言だけが届き、面会の申し出はなく、シェリィもそれを求めなかった。

大審院からの文書には、自らが直接見聞きした事実を答えること・推測と事実を区別すること・不明なものは不明と答えること・他の証人と供述内容を調整しないことという、証人として守るべき原則が記されていた。

シェリィは最後まで読み終えると、文書を机へ置いた。

「当然ですね」

窓の外には、夜の王都が広がっていた。

ここで育ち、ここで大后・国王・王妃・ジュリアン・エドワードと多くの時間を過ごし、やがてエドワードの婚約者となり、そして卒業記念舞踏会の後にこの街を離れた。

あの時、世間の多くは彼女を「追放された公爵令嬢」と思っていた。

今は違う。

国王の正式な召集を受け、王国の重大事件について証言するために戻ってきた。

シェリィは机上の召集状へ視線を落とした。

「今度は、逃げるために来たのではありません」

王都の灯りが窓ガラスへ静かに映る。

「事実を、お話しするために戻ってきました」

シェリィは重要証人として正式に王都へ帰還し、数日前にアスタリアとヴァルモントからの救援物資が入ったのと同じ西門から王都へ入りました。

ヴァルモント公爵家王都邸では、父ローランド・母マーガレット・家の者たちが、彼女を「追放された者」ではなく、帰ってきた娘として迎えています。

一方、大后陛下も星詠みの間からシェリィの魔力を感じ取り、その帰還を知りましたが、重要証人であるシェリィの立場を守るため、あえて面会は求めていません。

ここから、エドワード本人への正式審理へ進みます。

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