第29話:父ではなく、国王として
星環暦1284年・炎冠月≪第6月≫11日――
セレスティア王宮・国王執務室。
夜が明け切る前から、国王執務室には大審院・王室文書管理局・王宮監察部から提出された報告書が積み上げられていた。
アーサーは机の中央に置かれた一枚の覚書を直接手に取らず、保護板越しに見つめていた。
『兄上を退けるには、先に諸家の意思を固める必要がある。父上への上奏は、その後でよい。オルデンフェルト公爵らの準備を止めるな。』
前夜まで、それはエドワード本人が書いた可能性が極めて高い文書にすぎなかった。
今朝、その可能性を正式な証拠として扱えるかどうかの最終報告が届いている。
「筆跡照合の結果を」
アーサーが言うと、王室文書管理官が一歩前へ出た。
「エドワード殿下が過去に作成された公文書17点・私信11点・署名付き覚書8点と比較いたしましたが、文字の傾斜・筆圧・連結癖・特定文字の終筆に一致が確認されております」
「結論は」
「当該覚書は、エドワード殿下本人の筆跡であると認定するに足るものと判断いたします」
アーサーは表情を変えなかった。
「紙は」
別の担当官が答える。
「王宮内で王族・上級侍従が私用書簡に使用する紙と一致しております。ただし紙そのものは複数部署へ供給されているため、これ単独では本人性を示しません」
「改竄」
「切断・貼付・追記・薬品による消去などは確認されておりません」
「押収から今までの保管経路は」
王宮監察官が帳簿を開いた。
「ルーカス・フェルデンの私物保管箱を開封した時点から、すべて記録しております。発見時には大審院職員2名・王宮監察官1名が立ち会い、その場で封印し、大審院証拠保管庫へ移送しています」
「途中で封印が破られた記録は」
「ありません」
アーサーは次の資料へ目を向けた。
「ルーカスの供述は」
首席審理官が答える。
「覚書作成時期について本人が述べた内容と、エドワード殿下との面会記録が一致しています。また、その直後にオルデンフェルト公爵家関係者と接触した記録も確認されました」
「ミレーヌ・クロードの供述との関係は」
「時期が近接しています。ミレーヌ嬢は、エドワード殿下本人から『皆が動いてくれている』『いずれ私が王太子になる』『父上も最後には認めるしかない』との発言を直接聞いたと供述しています」
「42家側の供述は」
「複数の人物が『殿下も了承している』『側近から殿下の意向として伝えられた』と証言しており、これまで伝聞に留まっていた内容の一部が、ルーカスの供述と覚書によって補強されました」
アーサーは椅子へ深く座った。
一つの証拠だけではない。
覚書。
筆跡。
側近の供述。
面会記録。
連絡記録。
ミレーヌの直接証言。
そして42家の審理から得られた複数の供述。
それぞれ別々に存在していた情報が、一つの方向を示し始めている。
「大審院としての判断を聞こう」
首席審理官は書面を開いた。
「エドワード王子殿下について、《王位継承秩序侵害罪法》に定める王位継承秩序変更の共同謀議・準備・幇助その他の関与について、正式審理へ付すに足る嫌疑が存在すると判断します」
「有罪と認定したのではないな」
「もちろんです」
首席審理官は明確に答えた。
「現段階で認定するのは、身柄を確保した上で正式な被疑者として審理する必要性です」
「身柄を拘束する理由は」
「関係者との接触による供述への影響・残存証拠の処分・王族としての権限や人脈を通じた働きかけを防ぐためです」
アーサーはしばらく何も言わなかった。
机の右側には、すでに逮捕状が用意されている。
そこに記されている名は、自分の息子だった。
エドワード・セレスティア。
アーサーは逮捕状へ手を伸ばす前に、もう一度だけ首席審理官へ尋ねた。
「本人を任意で呼び、事情を聞くだけでは足りぬか」
「国王陛下」
首席審理官は慎重に言葉を選んだ。
「一般の被疑者であれば、すでにこの証拠量で身柄拘束を請求しております。王子殿下であることを理由に異なる扱いをすることは、大審院として適切ではないと考えます」
その言葉を聞いたアーサーは、ほんの僅かに目を閉じた。
「分かった」
羽根筆を取る。
署名する。
国王印が押された。
それだけだった。
怒声もなければ、机を叩く音もない。
だが、その一枚で王国の第2王子は、国王の息子から正式審理を受ける被疑者へ変わった。
「ジュリアンには、この判断へ関与させるな」
アーサーが言った。
「王太子殿下には、まだお知らせしておりません」
「それでよい」
首席審理官が僅かに首を傾げる。
「理由を伺っても」
「弟を捕らえるべきかどうかを、兄に決めさせる必要はない」
アーサーは署名済みの逮捕状から手を離した。
「これは国王の責任だ」
◇
同日・午前――
セレスティア王宮・第2王子私室前。
エドワードは、いつもより多い近衛兵の数に気づいていた。
廊下の両端。
階段。
中庭へ通じる扉。
普段なら王子を守るために立っているはずの兵が、今日は明らかに外から人を近づけないためだけではなく、内側にいる者を出さないよう配置されている。
「父上がお呼びだと?」
「はい。小謁見室へお越しください」
侍従の声はいつもと変わらない。
しかし、その後ろに近衛責任者が立っている。
エドワードは眉を寄せた。
「何かあったのか」
「私から申し上げることはございません」
エドワードは数秒その顔を見た後、何も言わず歩き始めた。
剣の携帯を求めることもなかった。
自分は王宮にいる。
父である国王に呼ばれただけだ。
そう考えようとしていた。
だが、小謁見室の扉が開いた瞬間、その考えは崩れた。
◇
同日――
セレスティア王宮・小謁見室。
アーサーは国王としての正装で座っていた。
その前には首席審理官。
王宮近衛責任者。
記録官2名。
ジュリアンはいない。
エドワードの足が一瞬止まった。
「父上?」
アーサーは息子を見た。
「入れ」
エドワードが中央まで進む。
扉が閉じられた。
「これは、どういうことでしょうか」
アーサーは答えず、首席審理官へ視線を送った。
首席審理官が一枚の文書を開く。
「エドワード・セレスティア王子殿下」
その呼び方だけで、エドワードの表情が変わった。
「何だ」
「《王位継承秩序侵害罪法》に基づき、王位継承順位変更の共同謀議・準備・幇助その他の関与の嫌疑により、正式審理のため身柄を拘束いたします」
エドワードは動かなかった。
言葉を理解するまでに時間が必要だったように見えた。
「……身柄を?」
「はい」
「私を?」
「はい」
エドワードの視線が首席審理官からアーサーへ移る。
「父上」
「聞いている」
「これは、どういう意味ですか」
アーサーの声は低く、静かだった。
「読まれた通りだ」
「私が兄上を殺そうとでもしたと?」
「そのような嫌疑を告げた者はいない」
エドワードの声が僅かに大きくなる。
「では、なぜ私が拘束される!」
首席審理官が証拠袋を机へ置いた。
その中の紙を見た瞬間、エドワードの表情が止まった。
アーサーは、その変化を見逃さなかった。
「見覚えがあるか」
エドワードは答えなかった。
「エドワード」
「……あります」
「自分で書いたか」
沈黙の後、エドワードは頷いた。
「私が書きました」
記録官の筆が動く。
首席審理官が確認する。
「この文章ですね」
『兄上を退けるには、先に諸家の意思を固める必要がある。父上への上奏は、その後でよい。オルデンフェルト公爵らの準備を止めるな。』
「そうだ」
「ここでいう“兄上”とは、ジュリアン王太子殿下?」
「そうです」
「“オルデンフェルト公爵らの準備”とは何ですか」
「待て」
エドワードが遮った。
「私は、この文章が王位を奪う命令だったとは認めていない」
首席審理官は何も言わない。
エドワードはアーサーを見る。
「兄上を退けるとは、父上へ廃嫡を求めるという意味です」
「ならば、審理でそう説明せよ」
「私は軍に反乱しろとは言っていない」
「それも審理で聞く」
「誰かを殺せとも言っていない!」
「それも今、誰も言っていない」
エドワードは口を閉じた。
アーサーは息子から目を逸らさない。
「今日ここで、お前を有罪と決めるつもりはない」
「ならばなぜ拘束するのです」
「証拠が揃ったからだ」
「証拠?」
エドワードの顔に苛立ちが浮かぶ。
「あの貴族たちが、自分の罪を軽くするために私の名前を出したのでしょう」
「その可能性も調べた」
「ミレーヌも?」
「調べた」
「ルーカスも?」
その名が出た瞬間、首席審理官の視線が僅かに動いた。
アーサーは静かに答える。
「調べた」
エドワードはそこで初めて、自分の知らないところまで捜査が進んでいたことを理解したようだった。
「父上は……」
声が少し低くなる。
「父上は、あの者たちの言葉を私より信じるのですか」
アーサーは首を横へ振った。
「違う」
「ならば」
「私は、お前も彼らも信じて裁かぬ」
エドワードが黙る。
「証明されたものを見る」
小謁見室に重い沈黙が落ちた。
アーサーは続けた。
「お前の筆跡がある」
「……」
「お前の側近の供述がある」
「……」
「面会記録と連絡記録がある」
「……」
「そして、お前本人から直接言葉を聞いたという証人もいる」
エドワードの目が僅かに揺れた。
「誰です」
「審理で確認する」
「父上!」
「今ここは審理の場ではない」
アーサーの一言で、エドワードは口を閉じた。
首席審理官が拘束条件を読み上げる。
公務の停止。
王族印章および公的文書へのアクセス停止。
私的な通信の制限。
許可なき面会の禁止。
大審院管理下の王宮内特別居室への移動。
正式審理における弁明機会の保障。
有罪判決が出るまでは、被疑者として扱うこと。
読み終わると、エドワードはゆっくり父を見た。
「手枷まで付けるのですか」
アーサーは近衛責任者を見る。
「逃走・暴力の兆候がなければ不要だ」
「承知しました」
エドワードは乾いた笑いを漏らした。
「随分とお優しいことで」
アーサーは反応しなかった。
「父上が、私を捕らえるのですか」
その問いだけは、先ほどまでとは少し違った。
王子ではなく、息子の声に近かった。
アーサーは数秒黙った。
そして答えた。
「父として命じているのではない」
エドワードが父を見る。
「国王として命じている」
近衛責任者が一歩前へ出た。
その瞬間、逮捕は正式に執行された。
◇
同日・昼――
セレスティア王宮・王妃私室。
王妃は、アーサーの顔を見るだけで何かが起きたことを理解した。
部屋には大后も同席している。
アーサーは誰にも席を外すよう求めなかった。
「エドワードを拘束した」
王妃の指が止まった。
手にしていた茶器が、受け皿へ小さな音を立てて戻される。
「……そうですか」
それだけだった。
大后も口を挟まない。
しばらくして、王妃が尋ねた。
「証拠は?」
母親として最初に出た言葉は、助けてほしいという懇願ではなかった。
アーサーは妻を見る。
「正式審理へ送るには十分だと大審院が判断した。私も確認した」
「本人のものなのですか」
「自筆と認定できる覚書がある」
王妃の目が伏せられる。
「側近の証言も?」
「ある」
「エドワード自身の言葉を聞いた者も?」
「いる」
王妃は何度か呼吸を整えた。
幼い頃の息子。
初めて歩いた日。
初めて馬に乗った日。
兄を追いかけて宮殿の廊下を走っていた頃。
母親の記憶が何を映しているのか、アーサーには分からなかった。
やがて王妃が言った。
「ならば……母だからと、私が口を挟むべきではありませんね」
声は震えていなかった。
それがかえって痛々しかった。
「まだ有罪と決まったわけではない」
アーサーが言う。
「分かっています」
王妃は顔を上げた。
「だからこそ、最後まで公平にしてください」
「そのつもりだ」
大后がそこで初めて口を開いた。
「アーサー」
「はい」
「ここまで来たなら、最後まで手順を崩してはなりません」
「承知しています」
「エドワードが王子だから軽くしてもならぬ」
「はい」
「王子だから見せしめに重くしてもならぬ」
アーサーは頷いた。
「そのつもりです」
大后は目を閉じた。
「ならば、それでよい」
それ以上、誰もエドワードの未来について語らなかった。
まだ裁きの時ではない。
◇
同日・午後――
セレスティア王宮・王太子執務室。
ジュリアンは、アーサーから直接呼ばれた。
執務室へ入った父の顔を見て、ジュリアンは書類から手を離した。
「父上」
「エドワードを拘束した」
数秒、何の音もしなかった。
ジュリアンは視線を机へ落とした。
「……分かりました」
アーサーは息子を見る。
「何も聞かぬのか」
ジュリアンは少し考えた。
「聞きたいことはあります」
「ならば聞け」
「いいえ」
ジュリアンは首を横へ振る。
「それは、審理で本人に聞くべきことです」
アーサーは何も言わなかった。
ジュリアンの表情は落ち着いている。
だが、机の下に置かれた手だけが、僅かに強く握られていた。
アーサーはそれに気づいた。
それでも何も言わない。
兄弟として語る時は、まだ来ていなかった。
◇
同日・夕刻――
セレスティア王都。
王宮から正式な公示が出された。
《王位継承秩序侵害罪法》に関する正式審理のため、第2王子エドワードの身柄を拘束したこと。
現時点で有罪判決は存在しないこと。
政治的にエドワードを支持したという理由のみで、処罰や拘束を行うものではないこと。
王都に衝撃が走った。
「第2王子が?」
「本当に?」
「国王陛下が命じたのか?」
市場でも商会でも役所でも、その話でもちきりになった。
それでも、軍は動かなかった。
王宮前へ兵が集まることもなかった。
市場の小麦は売られ続けた。
薪を積んだ荷車は街を走った。
王国銀行は通常業務を続けた。
数日前まで国家そのものを揺らしかねなかった危機は、少しずつ制度の中へ戻されつつあった。
◇
同日・夜――
セレスティア王宮・西回廊。
エドワードは、近衛に前後を守られながら特別居室へ向かっていた。
手枷はない。
王子としての称号も、まだ剥奪されてはいない。
だが、自由はない。
曲がり角へ差しかかった時、向こうから人が歩いてきた。
ジュリアンだった。
近衛たちが一瞬だけ足を止める。
兄と弟の視線が合った。
エドワードは何かを言おうとしたように見えた。
ジュリアンも、一歩だけ動きかけた。
だが、どちらも口を開かなかった。
幼い頃、同じ廊下を走った兄弟だった。
今は一人が王太子。
もう一人は、その王太子を退ける計画への関与を疑われる被疑者。
数歩の距離。
それが、ひどく遠かった。
やがて近衛が再び歩き始める。
エドワードはジュリアンの横を通り過ぎた。
ジュリアンは振り返らなかった。
◇
同日・深夜――
セレスティア王宮・国王執務室。
アーサーの机には、署名した逮捕状の写しと、これから始まる正式審理の準備書類が置かれていた。
逮捕は終わった。
だが、それは結論ではない。
ようやく、本人へ問いを向ける準備が整っただけだ。
アーサーは審理予定書を閉じた。
「次は、エドワード本人の言葉を聞く」
エドワードの自筆覚書・側近の供述・面会記録・ミレーヌの証言などが照合され、正式審理へ進めるだけの証拠が揃いました。
ただし、逮捕は有罪判決ではありません。
王族であっても特別扱いせず、同時に王族だからと見せしめにもせず、エドワード本人の弁明を含む正式審理へ進みます。




